未成年者の喫煙は禁じられている。  
それでも不良生徒ならば煙草を嗜む事ぐらいはあるだろう。  
高校一年生ともなれば尚更で、この年頃から、  
喫煙者は一気に増える事になる。  
 
だが一条楽からしてみれば、紫煙の匂いなど、まだ可愛げのある方だ。  
日常的に実家で嗅がされる、泥臭い任侠達の醸し出す、  
硝煙の匂いに比べれば。  
「俺にとって学校と言えば、その硝煙の匂いを嗅がずに済む、  
 ユートピアのような場所だったってのによぉ……」  
「何よ? 私のせいだっての?  
 言っとくけどねぇ、私だってアンタと同じ立場なんだから。  
 何が悲しくて、学校でまで火薬の香りに晒されなきゃいけないんだか」  
桐崎千棘とのコンタクトに端を発する、一連の偽恋騒動。  
家人達の前で超絶ラブラブカップルの振りをしなければならない事は、  
楽にとっては勿論、千棘にとっても頭痛の種になっていた。  
何しろその家人達が、良かれと思って少年達をフォローする為に、  
こっそりと学校にまで尾行してくるのだから。  
楽からしてみれば、校内で硝煙の匂いを漂わせる人物など、  
自分と千棘の二人だけでも多過ぎるくらいだ。  
なのに教室の外、草叢の陰、非常階段の片隅から、  
いつ何時でもきな臭い――文字通り臭い――ものが感じられるのだから、  
心休まる瞬間が殆ど無いと言って差し支えなかった。  
その上クロードの放った刺客、鶫誠志郎まで日夜傍に居る。  
彼女は楽にとっても大事な友人の一人には違いないが、同時に、  
飽きる程嗅ぎ慣れた硝煙の匂いの元凶の一人でもあり、  
好むと好まざるとに関わらず、嫌でも彼に現実を突きつける存在だった。  
小野寺小咲や舞子集、宮本るりといった、  
ヤクザともギャングとも関わりの無い潔白な友人達が居なければ、  
楽はとうに心を折られていたかも知れなかった。  
 
「……ねぇ楽。あれ何?」  
生徒指導室からゾロゾロと這い出てきた上級生達を見て、  
日本文化や漢字に不慣れな千棘は、楽に事情の説明を求めた。  
彼女も「生徒指導室」という字ぐらいは何とか読めたが、  
生徒に対して何を指導するのかは、よく分かっていなかった。  
「不用意に目ぇ合わすなって。大方、煙草が見つかって絞られてたんだろ」  
生徒指導室から現れた生徒達は、いずれも強面連中だった。  
煙草ではないかも知れないが、喧嘩か何か、  
どうせ後ろ暗い行為が原因で教師に叱責されていたのは確実だ。  
そうした気が立っている連中とうっかり目を合わせようものなら、  
因縁をふっかけられて喧嘩を売られても、文句は言えない。  
「煙草と言えば、楽って全然煙草吸わねぇよなぁ?  
 家が家なんだから、吸っててもおかしくなさそうなモンなのに」  
「あのなぁ、集。そりゃ偏見ってもんだ」  
つーか俺からすりゃ、煙草なんて銃に比べりゃ可愛い方だよ。  
楽はそう言いかけて躊躇い、その言葉を喉の奥に飲み込んだ。  
小咲の前で、あまりそういう話はしたくなかった。  
「環境に影響されずに、煙草に手を出そうとしないのも、  
 一条君の良いトコロだよね」  
「べっ、別に煙草吸わないのなんか、当たり前の事だし!」  
確かに当たり前なのだが、そんな当たり前の事すら  
小咲にとっては楽の美点の一つになる理由を、楽自身が自覚していない。  
横で集やるりが含みのある笑いをしている理由すら、彼には分からなかった。  
昼休みはもうそろそろ終わりだ。  
五限目の授業に遅れないよう、一同は早足で教室に向かった。  
「おい舞子達ぃ。一条と桐崎さんの仲を邪魔してやるなよなー」  
「そうよそうよ。昼休みくらい二人きりにさせてあげなきゃ」  
教室に入るや否や、級友達が集を軽くバッシングする。  
「何で俺一人だけ攻撃すんだよ!? 小野寺や宮本にも言えよな!」  
冗談ではない。  
二人きりで居ると尚更家人達の介入が面倒臭いからこそ、  
楽や千棘の方から頼んで、集、小咲、るり、鶫に  
昼休みに一緒に居てもらっているのだ。  
今更千棘と二人きりになるなど、楽にとっては喜ばしい事ではなかった。  
偽の恋を演じるのも、容易な話ではなかった。  
 
千棘を疎ましく思っているわけではないが、  
もしも相手が千棘でなく、小咲だったなら……と、何度考えた事か。  
そしてもしも十年前の約束の女の子もまた、小咲であったなら。  
そうであれば、この偽(NISE)の恋は、ナイス(NICE)な恋に化けるものを。  
「お前、それギャグで言ってんの? サムいんだけど」  
「うるせぇなぁ……寒い洒落でも、口にしてないと気が紛れねぇんだよ……」  
ノートの片隅に書いた「NICE 恋」という落書きを  
ぐしゃぐしゃに掻き混ぜるようにシャーペンで掻き消して、  
楽は筆記用具とノートを鞄に仕舞い込んだ。  
気の休まらない実家に帰宅する時間を少しでも先延ばしにしたくて、  
放課後も教室に残って集と二人だけで半時間程雑談に興じていたのだ。  
帰ったら帰ったで、また家の者達から  
「何で桐崎の御嬢さんとせめて校門前までぐらいご一緒しなかったんで?」  
などと野暮な指摘を受けるのだろうか、と危惧しないではなかったが。  
 
繰り返すが、決して、千棘の事が嫌いなわけではない。  
要所要所では正直可愛い、と思う瞬間もそれなりにある。  
もし小咲と出会っていなかったら、千棘に心を揺り動かされていた事は、  
今より遥かに多かったかも知れない、とも楽は自覚していた。  
しかし、小咲への想いを捨ててまで、千棘との本物の恋に落ちられる程、  
楽は不純な性格をしていなかった。  
いっそ本当に千棘と恋に落ちられたなら、まだ話は簡単だったものを。  
「とりあえず三年間我慢するしかない、かぁ……やっぱ……。  
 その三年の間に、小野寺との交友関係が消滅しないように、  
 千棘と小野寺の両方と、仲良くしとかなきゃいけねぇなぁ……」  
照明を消し、床につき、楽は現状を打破する有効な手段も見出せないまま、  
いつものように苦悩と葛藤を孕みながら眠りの世界に溶け込んでいった。  
 
――いつか私達が大きくなって再会したら――  
――この「鍵」でその中の物を取り出すから――  
――そしたら、結婚しよう……――  
 
またこの夢か、と夢の中で自覚してしまうのが悲しい。  
何度同じ夢を見ても、当時の事はおぼろげにしか思い出せない。  
五歳の時の事なのだから当たり前だ。  
約束の女の子の顔も、名前も、いつまで経っても思い出せない。  
夢は記憶の再構成だと言うが、一体いつになったら、  
夢は「あの子」の正体を思い出させてくれるのだろうか。  
 
――ほら!――  
――これなら二人とも幸せになってハッピーエンドだろ?――  
 
あの時俺は、一体何をしたんだ?  
あの絵本に何を書き加えて、登場人物二人を幸せにしたんだ?  
それさえも、楽には思い出せなかった。  
 
 
日常の疲れから早めに就寝した楽と違い、  
小咲は時計の針が日付を跨いでも、まだ眠れずに居た。  
いつもは夜更かしなどしないのだが、たまには彼女にも、  
寝付けなくなる程気になる事柄はあった。  
「十年前の約束、か……あの時私、誰と話してたんだろう……」  
夢がその答えを教えてくれる事を期待しつつ、  
彼女がようやく寝入ったのは、それから一時間も後だった。  
まさか本当にその晩、当時の夢を見る事になるとは思いもせず。  
そしてその夢が、彼女や楽、千棘の運命を変えるとも知らず。  
正確に言えば、運命は「変わる」のではなく  
「あるべき形に結実する」のだったが。  
 
木々から漏れ聞こえる小鳥達の歌声に、まどろみから引き起こされる。  
ゆっくりを瞳を開け、アラームが鳴る前に朝の光を窓外に拝んだ小咲は、  
その後しばらくの間、夢の内容に呆然としていた。  
「そっか……そうなんだ……十年前のアレって……」  
数分経ってから、目覚まし時計がけたたましい音を立てる。  
それを消す事すら、小咲はしばらくの間忘れて、  
ベッドの縁に腰掛け続けていた。  
「やっぱり、話すべきだよね……一条君にも、桐崎さんにも……」  
夢は、真実を小咲に告げてくれた。  
荒唐無稽とも思えるような内容だったが、考えてみれば、  
当時自分達はまだ五歳かそこらの年齢だったのだ。  
あんな非常識な約束事を交わし合ったとしても、何ら不思議は無い。  
五歳と言えば、将来は親と結婚しようなどと、本気で考える年頃なのだから。  
「でも、こんな事を伝えて、一条君や桐崎さんは迷惑がらないかしら」  
不安はあまりに強過ぎた。  
当時は幼児だったから良いとしても、今は違う。  
法律の事も少しは分かっている。  
しかし楽の錠と、千棘の鍵の存在がある以上、  
嘘をつき通すような事は出来なかった。  
 
「話ってなぁに?」  
「集や鶫達にも聞かせられないような内容って、何なんだ?」  
その日の放課後、小咲は誰にも聞かれない場所で、  
三人だけで話し合いたいと、楽と千棘に申し出た。  
こればかりは部外者には絶対に聞かせられない内容だった。  
何より、楽の家の者達や、千棘の家の者達にも聞かせられなかった。  
二人には水泳部の活動が終わるまで校舎内で待ってもらい、  
生徒達があらかた出払ったのを見届けてから、小咲は楽達二人を  
水泳部の女子更衣室に呼びつけた。  
この中でなら、そして小声でなら、ヤクザ達にも聞き取れまい。  
余人の耳に入れるには、あまりに厄介な話だった。  
「あ、あのね? 私、思い出したの……十年前の約束の事……」  
その言葉に、楽も千棘も心臓が跳ね上がった。  
殊に、楽の方は千棘よりもショックが大きい。  
小咲が「十年前の事を思い出した」と楽に告げるのだから、  
即ち、楽が十年前に約束したのは小咲だったのか、と焦り始める。  
しかしそれなら、何故千棘まで呼ぶ必要があったのだろうか?  
形式上とは言え楽と付き合っている事になっている千棘に、  
小咲が宣戦布告じみた事をするような女だとも思えない。  
「お、小野寺! 十年前の約束の事って……一体……?」  
焦燥する楽に目を合わせた後、小咲は次に、千棘に目線を向けた。  
「桐崎さん、本当に思い出せない? 十年前、一条君と……  
 ううん、楽君と、私達の間に、何があったか……」  
「へ!? わ、私……達……?」  
千棘は虚を突かれた。  
まるで話が見えてこない。  
楽が十年前に「あの子」と約束をしたらしい事は聞いている。  
そして楽の額の傷に覚えがあるのも確かだ。  
ひょっとすると十年前の「あの子」とは、自分の事かも知れないと、  
千棘が考えたのは一度や二度ではなかった。  
だから焦点としては、「あの子」の正体が自分なのか、小咲なのか、  
それともそれ以外の誰かなのか、というのが、千棘にとっては重要だった。  
しかし小咲は、今、何と言った?  
「私達」と言ったか?  
「私」でもなく「あなた」でもなく、「私達」?  
だがそう言われてみれば、記憶が急速に形を成していく実感がある。  
何故記憶が曖昧だったのかも、少しずつ理解出来ていく。  
「ねぇ、桐崎さん、分かる?  
 あの時あの場所に居たのは、二人だけじゃなかったんだよ」  
そうなのだ。  
約束の相手が一人だと思い込んでいたから、楽も、そして千棘も、  
記憶が混濁してしまっていたのだ。  
小咲は真相を語り始めた。  
 
幼い頃に読んだ、悲しい結末の絵本。  
子供向けとは思えない、バッドエンドへと突き進むストーリー。  
それは、同じ少年を好きになった二人の少女達の、  
報われ得ぬ悲恋の物語だった。  
結末は、こうなっていた。  
「ひとりの しょうねん と ふたりの しょうじょは、  
 やがて はなればなれ に なっていきました」  
その結末を目にして涙ぐむ少女から絵本をひったくり、  
末尾の空白に、楽はこう書き加えたのだ。  
多重婚が違法であるなどという知識も備わらないまま、  
いつかこうなると良いねと、純粋な幼心一つに突き動かされて。  
「じゅうねんご しょうねんは けつい しました。  
 やっぱり はなればなれ なんて ダメだ。  
 さんにんで なかよく くらすのが いちばんいい!」と……。  
 
――ほら!――  
――これなら二人とも幸せになってハッピーエンドだろ?――  
 
この「二人」とは、一人の少年と一人の少女、という意味ではなかった。  
同じ少年を好きになった、「二人」の少女の事を意味していた。  
だからその数日後、彼等はあの約束を交わしたのだ。  
幼少の頃、仲良く遊んだ三人組で、いつかこの絵本と同じように、  
また三人で仲良く暮らそうね、と誓い合ったのだ。  
 
――いつか私達が大きくなって再会したら――  
――この「鍵」でその中の物を取り出すから――  
――そしたら、結婚しよう……――  
――私達、三人で――  
 
全てを打ち明けられ、楽は愕然とした。  
いくら当時は子供だったとは言え、自分がそんな約束を交わしたなどと、  
とても信じる事が出来ない。  
第一、じゃあ千棘と小咲と、何故二人ともが鍵を持っているのか。  
まだ彼の中で、話は繋がらなかった。  
「お、おいおい……三人で仲良く暮らすって、いくら何でも……」  
そんな馬鹿な話は無い。  
子供の頃は、恋愛感情と友情の区別もろくにつけられず、  
結婚という概念にしても、今ほど重く捉えていなかった。  
だからと言って、まさか三人で結婚するなどという無茶な約束を、  
当時の自分達が交わしていたとは、荒唐無稽過ぎる。  
だが楽の方とは違い、千棘は今や全てを思い出していた。  
「ねぇ楽……ホントに、まだ思い出せない……?」  
「千棘……」  
「だったら、証拠を見せてあげるわよ。この鍵で、ね」  
千棘が胸元から一本の鍵を引き出す。  
小咲もそれに倣い、別の形状の鍵を制服の中から手繰り寄せた。  
「ちょっと待てって! 矛盾してるだろうが!  
 錠はこの一個しか無いのに、別々の鍵が二つもあるワケねぇだろ!?」  
「違うよ、楽君。私の鍵も、桐崎さんの……千棘ちゃんの鍵も、  
 両方ともちゃんと、その錠を開ける為の鍵なんだよ」  
「そうよ、楽。本当にまだなんにも思い出してないのね、アンタ」  
有無を言わせず、千棘が楽の錠を引っ張り出した。  
小咲がそこに、十字型にくり貫かれた自分の鍵を、ゆっくりと差し込む。  
鍵は確かに合っていたらしく、時計回りに軽々と一周してくれた。  
「これで、私が約束の女の子の内の一人だって、分かってくれた?」  
「小野寺……」  
錠はカチリ、と音を立てた。  
中のバネが錆びついていたらしく、蓋は指先でこじ開けねばならなかった。  
だがこの結果だけ見るなら、やはり、千棘の方は約束の子ではない事になる。  
「あっ! お、思い出した……」  
蓋が開いた瞬間、目に飛び込んできた物を見て、楽も全ての記憶を引き出せた。  
十年前のあの日、自分が間違いなく、千棘と小咲の二人と、約束を交わした事を。  
錠は二重蓋になっており、一つ目の蓋の下に、更にもう一つ、小さな蓋があった。  
鍵穴のサイズも、一つ目に比べて小さい。  
「次は私の番ね」  
千棘が二つ目の鍵穴に、月形の穴の開いた鍵を差し込む。  
年月が経過していて埃や錆が付着し、感触はかなり硬かったが、  
楽が十年もの間丁寧に扱っていたお陰で、  
何とか鍵が折れる事も無く、二つ目の蓋が開いた。  
 
錠は、ロケットペンダントだった。  
中には一枚の小さな写真。  
紛れも無く、幼い頃の楽と、千棘と、小咲が、仲良く一緒に映ったものだった。  
「この写真と同じように、いつかまた三人で、仲良く暮らそうね……って。  
 あの頃の私達、そう約束したんだよ、楽君」  
「ホント、しょーもないったらありゃしない。  
 当時の私、何でアンタなんかとそんな約束したんだか」  
上目遣いで見上げる小咲と、照れ隠しに顔を背ける千棘。  
思い出が脳裏をよぎり、楽は全ての点が一本の線に繋がる実感を得た。  
「マジ、かよ……本当に、こんな事って……」  
今まで彼は、約束の「あの子」が、一人だけだと思い込んでいた。  
小学校に上がってから今までの間に身につけてきた社会常識は、  
二人の女と同時に結婚の約束をする筈が無い、という思い込みを育んだ。  
そのせいで、相手の顔も名前も、うろ覚えになってしまっていた。  
金髪碧眼の少女と、黒髪の日本美人とが頭の中で混ざり合い、  
思い出の中の「あの子」は、地毛が明るいだけの、一人の少女に化けていた。  
名前が思い出せないのも無理は無い。  
「きりさき ちとげ」と「おのでら こさき」という、二人分の名前を、  
いつの間にか一人分として混ぜ合わせてしまっていたのだから。  
混ざり合った名前はいつしか余計に混濁し、実名すらあやふやにした。  
とうとう「あの子」達の名を一文字たりとも思い出せなくするには、  
十年と言う月日は十分過ぎる長さがあった。  
それは千棘にしても、小咲にしても同様だ。  
千棘は鶫に言われるまで十年前の事を完全に忘れていたし、  
小咲の方も、約束の相手は一人の少年だと思い込んでいた。  
「俺……俺、どうすりゃ良いんだよ……」  
楽は困惑した。  
すっかり当時の記憶を思い出せたからと言って、問題は片付かない。  
二人の女と同時に結婚する事が許されないという法律の常識は備わっている。  
もう、無防備に夢だけ語っていられた、あの頃とは違う。  
千棘と小咲の、必ずどちらかを選ばねばならなかった。  
いやそもそも、千棘にも小咲にもフラれたら、どうしようもないのだが。  
 
「それで?」  
だしぬけに、千棘が問いかける。  
「アンタはどっちを選ぶの? 私か、小野で……じゃなくて、小咲ちゃんか」  
「……い、いや、選ぶったって、そんなの……」  
だが、問いかけた千棘の方では、もうとっくに答えが決まっていた。  
そして、小咲の方でも。  
「どちらかを選ぶなんて、駄目だよ、そんなの。  
 それじゃ結局あの絵本の元のストーリーのまま、三人は離れ離れになっちゃう。  
 もし楽君が私を選んでくれたとしても、千棘ちゃんを放り出して、  
 二人だけで幸せになるなんて事、私には出来ないもん」  
小咲が言う。  
「同感、ね。私だって、小咲をスルーして楽と二人きりで暮らすなんて無理だわ」  
楽の書き換えた絵本の通りに、三人ともが幸せになる道筋。  
それは、一つしか無かった。  
楽が慌てふためくのを、千棘が抑えつける。  
「まっ、待てってお前ら! そんな簡単な問題じゃ……」  
「簡単な問題よ。子供の頃の約束を果たすだけなんだから」  
「そうだよ、楽君。難しく考えるような事じゃないよ」  
千棘は右頬に、小咲は左頬に、それぞれ楽にキスした。  
少女達の柔らかな唇が、少年の強張った筋肉を解す。  
ゆっくりと唇を離し、千棘は真っ赤に染まった顔を俯けて呟いた。  
「結婚とか、そういうのはまだ先の話だし……そりゃ法律の問題もあるけどさ……」  
うっとりした目で、小咲が言葉を引き取る。  
「付き合うだけなら、何人と愛し合っても、犯罪じゃないよ。楽君……」  
内側からしっかりを鍵のかかった女子更衣室の中で、  
逆に楽達三人の心の鍵は、邪魔する物など何一つ無く、開け放たれていった。  
彼らの恋は、まさしく偽恋ではなく、ナイスな形で結び付けられた。  
 
十年も温め続けた思い出だ、何を憚る事があろうか。  
とは言え、他人に出歯亀されるのは好ましいとは思えない。  
楽は更衣室の出入り口まで、つかつかと歩いて行った。  
同時に、ロッカーの傍らに立てかけてあったデッキブラシを、千棘が掴む。  
「え? え? 二人とも、どうし……」  
狼狽える小咲を尻目に、二人は見事な連携を見せた。  
「うるぁぁっ! 何やってんだテメーらぁっ!!」  
ガラッ、と勢いよく開け放たれたドアの向こうには、一条家のヤクザ達の姿。  
「そこっ!」  
デッキブラシで千棘が天井を突き、落下してきたのはクロードと鶫。  
「きゃあぁっ!? 何、何なのコレェっ!?」  
小咲が悲鳴を上げる。  
楽と千棘は、光速で平伏した家人達を、容赦なく睨みつけた。  
「申し訳ありません、坊ちゃん! 坊ちゃんの身に何かあったらと……」  
「すみませんお嬢! もしや一条楽に良からぬ事をされているのではと……」  
「あのなぁテメーら。こんだけ近けりゃ、匂いでバレバレだっつの」  
「硝煙臭いし、煙草臭いし、葉巻臭いし。私らがその匂いに気付けないとでも?」  
流石はヤクザの息子とギャングの娘だ。  
一般人の小咲だけでは、見張られている事には絶対に気付けなかった。  
「ってなワケで、みんな引き払ってくんない?  
 これから私達三人は、昔話に花を咲かせるんだから」  
「お前らの事は大事な家族のように思ってっけど、野暮な真似はすんなよな」  
「はっ、はいぃぃっ! 退散します、坊ちゃん!」  
「お嬢の仰せのままに……!」  
荒くれ者達は、ただしに撤退してくれた。  
嫌になる程嗅いで来た硝煙や煙草の臭いが、まさか役に立つ日が来るとは。  
「仕切り直し、だな。とんだ邪魔が入っちまった」  
「まったく。クロードの過保護っぷりには呆れるわ」  
「す、すごいね、二人とも……それじゃ私も、負けてらんないや」  
小咲は室内のロッカーを片端から開けていった。  
楽と千棘ですら気付けていない、別の監視者が居る事に気付いていたからだ。  
四つ目のロッカーを開けた時、果たして、目的の人物は見つかった。  
「やばっ……」  
「るぅ〜りぃ〜ちゃ〜ん?」  
ロッカーの中には、宮本るりが隠れ潜んでいた。  
「な、何で分かったの?」  
「本当にもう、るりちゃんはお節介なんだから……はぁ……。  
 るりちゃんの考える事くらい、大体分かるってば」  
小咲が溜息をこぼすと、もしやと思った楽が、  
他のロッカーも開けてみるよう千棘に頼んだ。  
女子更衣室のロッカーは、男子である楽が勝手に開けて良いものではない。  
が、世の中には勝手に女子のロッカーを開ける愚かな男子も居る。  
あまつさえその中に隠れて様子を窺おうとする男が、  
知人の中にに一人存在する事を、楽は心得ていた。  
「……そこで何してんのかなぁ、舞子くぅん?」  
「ハ、ハロー、桐崎さん。ご機嫌いかブフぉエっ!?」  
ロッカーの中に窮屈そうに収まった集の鳩尾に、るりちゃんパンチが刺さる。  
「今更誤魔化す意味なんて無いんだから、さっさと行くわよ、眼鏡」  
「おっ、お前も眼鏡じゃねぇか……」  
集はるりに引きずられる形で、女子更衣室から連れ出されて行った。  
 
今度こそ本当に仕切り直しだ。  
もう、邪魔者は居ない。  
つい最近まで十年前の約束を完全に忘れていた千棘は兎も角、  
楽と小咲からしてみれば、思い出語りに入る熱は相当なものだ。  
あの頃の楽しかった日々や、交わした言葉の数々。  
それは、ちょっとやそっと語り合ったくらいで、充足するものではなかった。  
「……ぷはっ」  
「お、小野寺……じゃなくて、小咲……息、止めてたのか?」  
「だ、だってぇ……」  
楽とのファーストキスを終えた小咲は、夕映えに劣らぬ程頬を真っ赤にしていた。  
楽としても人生初のキスなので、うまく出来たかは自信が無い。  
傍で瞬き一つせずに見入っていた千棘の、息を飲む音が聞こえた。  
「本当に良かったのかな、千棘ちゃん……私なんかが先で……」  
「当たり前よ、小咲。十年前の楽や小咲の事を忘れてた私が、  
 小咲より先に楽の唇奪うなんて、出来るワケないじゃん」  
そうは言うが、千棘は少し寂しそうな顔をしていた。  
十年前の事とは別に、今の楽にも、ひとかたならぬ情を抱いている彼女だ。  
好きな男子が自分以外の女とキスする場面を目撃して、平静ではいられない。  
けれども、先に楽と口付けるよう小咲に頼んだのは、千棘自身だ。  
そうでもしなければ、彼女は自分に納得出来なかった。  
だが、千棘がそうしなければ納得出来ないと言うのなら、  
小咲もまた、このまま自分だけ楽に愛されたのでは納得いかない。  
物語は、二人で楽に愛してもらう事で紡がれるのだから。  
「ほら楽君! 次は千棘ちゃんの番だよ!」  
小咲が楽の背中を押す。  
「あ、あぁ……えっと……千棘? 良い、か?」  
「いっ、今更そんな事聞くな馬鹿! 恥ずかしいじゃない……」  
いつぞや確かそう話したように、エスコートは男の仕事だ。  
楽は千棘の肩を抱き寄せ、こわごわと唇を重ねた。  
寸前までうっすら目を開けていた千棘が、とうとう吐息まで届く距離に近付き、  
ゆっくりと瞼を伏せて楽に身を委ねていく。  
再会した当初のゴリラという印象とは裏腹に、  
千棘の唇がソフトな感触である事を、楽は認めた。  
「ぷはっ……あ、ヤバイ。これ息止めちゃうわ、実際」  
「でしょでしょ? 千棘ちゃんもやっぱりそうだよね?」  
「言われてみると俺も息止めてたかも……」  
三人は顔を見合わせ、照れ笑いを交わし合った。  
 

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