今夜もまた楓の平凡な一日が終わろうとしていた。  
(今日ももう終わりね……)   
 夕食と入浴を済ませて2階の自室に戻り、学校のちょっとした宿題を手短に片付けて明日の  
学校の準備をし終えたとき、楓はベッドの上にごろんと横になってそれを実感するのだった。  
 夜も9時を過ぎようとするこの時間から眠りにつくまでが、楓の最もゆっくり過ごせる、  
今日と明日のはざまの自分だけのひと時だ。  
(今夜も忍ちゃん、遊びに来ないのかな……?)  
 かつて、とある日の今くらいの時間に突如どこからともなくこの部屋にやってきた忍者の  
女の子、忍。今では楓の大親友だ。学校のある平日は、忍が帰り道で待っていることもあるが、  
大体は夜、ベランダから楓の部屋に入ってくる場合がほとんどだ。  
 忍が楓の部屋を訪れる頻度は週に1回か2回だが、ここ数日、忍は遊びに来なかった。  
それは、数日に1度の忍の来訪がすでに生活サイクルの一部になってしまっている楓にとっては  
なんとも言えぬ寂しさをもたらせていた。  
(忍ちゃんだって毎日そうそうヒマじゃないんだろうし、仕方ないか……。ま、もうすぐ  
週末だし、それまで待つとしますか)  
 まだ眠くなる時間でもなく、寝っ転がったままボーッと天井を見つめ続ける楓の瞳は憂いの  
色を浮かべている。  
 その時、部屋のガラス戸を小さくコンコンとノックする音が聞こえた。  
 条件反射のごとく楓は起き上がった。目を向けたベランダにはいつものニコニコ顔の忍が  
立っていた。  
「楓さん、こんばんは!」  
 楓と目が合ったのを確認して、忍はカラカラと戸を開けた。   
 
「忍ちゃん!さ、入って入って!」  
 雲が晴れた空のように楓の表情がぱぁっと明るくなった。  
 しかし、舞い上がるような素振りは見せなかった。楓には無意識に自分を大人びて見せようと  
する癖があり、そういった物腰が年下の同性を惹きつける要因のひとつになっていた。  
「お茶いれてくるから、座ってちょっと待っててね」  
「あ、おかまいなく?」  
 楓は忍おすわり専用のピンクのクッションをいつものように用意すると、やや急ぎ足で  
階下に下りていった。  
 楓がお茶を用意しに部屋からいなくなる数分間、忍はいつもおとなしく待てないでいた。  
(楓さん……。わたし、いけない子です……)  
 こっそりと、楓のベッドに頬をうずめては、楓の残り香やぬくもりを味わっていたのだ。  
楓の目を盗んでこんなことなどしてはいけないと後ろめたさはもちろん感じてはいたが……。  
「おまたせ、忍ちゃん」  
 階段を上ってくる楓の足音を聞き逃さない忍は、楓が部屋に戻って来たときには何事も  
なかったかのような顔をしてちょこんと座っていた。  
 温かいココアを飲みながら、ふたりはおしゃべりに興じた。学校や忍者修行でのできごと  
など、別にどうということはないような話題でいつもふたりは楽しいひと時を過ごすのだ。  
「あ、あのっ、楓さんっ……」  
 急に、忍が何か思い詰めたような顔をした。  
「ん?なぁに?」  
 
「か…楓さん、夜ももう遅くなってきましたし、そっ、そろそろおいとまします。ごちそうさま  
でした?それじゃっ……」  
 40〜50分くらいだろうか、忍は夜に遊びに来たときはいつもこのくらいの時間で切り  
上げるようにしていた。もちろんもっと一緒にいたいとは思っていたが、楓も次の日も学校が  
あるということくらいわからぬはずもなかった。   
「もう帰っちゃうの?あ、ゴメン、忍ちゃんも明日も学校っていうか、修行しなきゃいけないん  
だもんね……。そ、そうだ、忍ちゃん! あさってはわたし学校休みだし、忍ちゃんさえ  
よければ、明日の夜はウチに泊まりに来ない?」  
 出入り口になってしまっているベランダに向かおうとした忍を引き止めるように楓は言った。  
「えっ!? は、はいっ! も、もちろんいきますぅ!」  
 大きな黒い瞳を輝かせて忍は大喜びだ。  
「うん、それじゃ、また明日ね!おやすみなさい、忍ちゃん」  
「おやすみなさい! 楓さんっ!」  
 気持ちが弾む忍はまるで白土三平の忍者マンガのように本格的な動きで屋根から屋根へ  
ピョンピョンと飛び跳ねて去っていった。  
「キャハハッ、ぃやったーーっ! あしたは楓さんちにお泊まり?………でも、今夜も言え  
なかったな……。明日、明日はぜったいに……」  
 ……瞬く間に見えなくなった忍をベランダから見送り終えた楓は、しばらくそのままボーッと  
立ちつくした。  
(わたし、どうしちゃったんだろ? 忍ちゃんがいなくなるとすっごく寂しい気持ちになっちゃう  
……。もっと一緒にいたいって思ってる……。さっきだって、とっさに「泊まりに来ない?  
だなんて……)  
 
 仲の良い友達は忍だけではない。学校にも何人もいる。むしろ、学校の友達の方が付き合いは  
長いのだ。しかし、楓の心の中では忍は彼女たちとは違うもっと深い位置に存在していることに  
楓自身がまだ気づかないでいた。  
「今夜はもう寝よう……」  
 忍が来ていたさっきまでとは打って変わった気だるそうな動きでベッドに寝っ転がった楓  
だったが、胸の中にモヤモヤしたものがあるような気がしてなかなか寝付けなかった。  
   
 翌日、楓は学校の授業が終わるのがいつもより遅く感じた。確かに、休日前の金曜日は  
いつもより長めに感じることがあったが、今日はとりわけ時間の経つのがもどかしく感じ  
られた。  
 それが、早く忍に会いたいと思う気持ちが原因だとはわかっていたが、なぜいつもより  
その気持ちが強いのかまではわからなかった。  
(早く帰りたいな……。早く忍ちゃんに会いたいな……)  
 
 今日の楓にとってあまりにもゆるやかな学校での時間がようやく流れきった。  
「ゴメン、今日は用事があるから……先、帰るね。んじゃ、バイバイ!」  
 帰りは友達と一緒に道草を食うときが多かったが、今日はそそくさと足早にひとり家路に  
ついた。  
「ただいま!お母さん、わたしも晩ゴハンの支度手伝うね!」  
「あらあら、忍ちゃんが遊びに来る日はゴキゲンねえ。ゴハンの準備はお母さんひとりで  
やっておくから、楓はおフロそうじと、洗濯物たたむの、お願いね」  
 楓は、忍が泊まりに来る日は事前に両親に知らせておくようにしていた(今回は今朝)。  
ママの香は、そんな日はいつもより夕食を作るのに手間をかけて楓の親友をもてなすのだった。  
 
「こんばんは〜!」  
 夕食の支度が整ったころ、忍がやってきた。忍は楓の家にお泊りするときは、ママが  
夕食やおフロの用意をして待っていることを楓から聞いているので、2階の楓の部屋の  
ベランダからではなくてちゃんと玄関から入ってくるのだ。  
「いらっしゃい!忍ちゃん!」  
「こんばんは、忍ちゃん。さ、上がって上がって?」  
「はいっ、ママ上様、お世話になります!」  
 出迎えに来たママにペコリと一礼して、忍はさっそく夕食の席に通された。楓のパパは  
まだ帰宅しておらず、夕食にはやや早い時間ではあったが、3人は賑々しくテーブルを  
囲むのだった。  
 
「ごちそうさま〜」  
「ごちそうさまでした〜!ママ上様、とってもおいしかったです!」  
「うふふ、おそまつさまでした。楓、後片づけはお母さんがやっておくから、忍ちゃんと  
おフロ入ってらっしゃい」  
 ゆっくりとお茶を飲みながらママは楓の方を見やる。いつもは楓は夕食の後片づけを  
手伝っているのだが、忍が遊びに来ている夜は特別なのだ。  
「うん、じゃ、忍ちゃん、いこ!」  
「はいっ!(はぁうぅ〜…ママ上様、ファインプレイですぅ?)」  
 忍にとっては、楓におフロに誘うのを切り出すのは相当な難事だったのだ。楓は気づいて  
いないが……。  
 
「忍ちゃん、着替えはもう用意してあるからね」  
「はい!」  
 ふたりは連れ立っておフロ場へ足を運んだ。忍のお泊りは楓にとって、というより不知火家に  
とってもうすでに珍しいことではなくなっており、忍専用の下着やパジャマ、果てはくノ一  
装束のスペアまでも楓の部屋に常備されるところとなっていたのだ。  
 脱衣場に入ると、ひょいひょいと楓は自分のブラウス(今日は帰宅しても制服のままだった)の  
ボタンに手をかけていく。  
 何度経験しても、忍は楓と一緒におフロに入るのに胸の高鳴りを抑えることができなかった。  
楓が一枚一枚、衣服を体から取り去っていく様を気にしないフリをしながらチラ、チラと  
横目でこっそり追うのだった。  
(はぁ〜? 何ひとつ不自然なことのなく楓さんのハダカを見ることができるなんて……。  
おフロってなんてスバラシイ幸せ空間……はっ!いけない!ダメよ忍!楓さんをそんな  
いやらしい目で見ちゃ……)  
「どうしたの?忍ちゃん?」  
「あっ!?はっ?い、いや、なんでもないんですぅ、あははは……は…」  
 ニヤニヤしたかと思えば急に眉をしかめてかぶりを振ったりしながら服を脱いでいる忍を  
楓は怪訝そうに見つめる。すでに服をすべて脱ぎ終えて、タオル一枚で体の前を隠しただけの  
楓は先に浴室に入っていった。  
「うん、湯加減はちょうどいいみたいね。さ、忍ちゃん、先に背中流したげるね。座って」  
「あ、はいっ」  
 楓に背を向けちょこんと座る忍。顔はすでに嬉しさと恥ずかしさで真っ赤になっているのが  
自分でもわかっていたが、おフロの中では赤らめた頬など容易にごまかせることも知っていた。  
 
 ザーと忍の背中にお湯がかけられた後、ボディソープを含んだスポンジが潤った背中に  
こしこしとこすりつけられていく。  
「……はぁぁ…きもちい……」  
 ぽつりと小声で漏らす忍。しかしうつむき加減の忍の表情は前髪にも隠され、忍の真ん前に  
ある壁の鏡にも映されない。  
「ん?そぉ?」   
 忍の発した言葉の意味を深く考えず、楓は短く生返事しただけで、忍の背中をていねいに  
洗い続ける。  
(あ……。きもちい……きもちいいです、楓さぁん……)  
 好きな人に体を洗ってもらうことすら忍には、性的な愛撫にも似通った快感をもたらせて  
いた。無論まだ忍は自分自身を除いて、誰からもその肉体に性的な刺激を受けたことのない  
ウブな女の子ではあったが、それゆえ、想いを寄せている他者との肉体的な接触はそれが  
どんなものであれ得がたい悦びなのだった。  
 しかし、その束の間の小さな悦びも背中を洗い終えたら泡と一緒にお湯に流されてしまう  
のだ。  
「はい、お湯かけるねー」  
(あぁん、終わっちゃった……)  
 楓は忍の背中の泡を洗い落とした。ところが、見慣れているはずの、きれいに洗われて  
珠のような輝きを放つ瑞々しい忍の背中を見た楓の視線が、ほんの一瞬ではあるが静止した。  
(き…きれい……。忍ちゃんの背中や…肩やうなじが、こんなにきれいだったなんて……)  
 初めて同性の肉体の美しさに心を奪われた楓。その刹那、急に忍が振り向いた。   
「ありがとうございます、楓さん!次はわたしが楓さんのお背中を流しますねっ!」  
「あっ!う、うんっ」  
 
 忍の背中に見とれていた顔を見られたかもしれないとあせった楓はあわてて忍と場所を  
入れ替わった。  
「それじゃ、失礼しますねー」  
 忍が楓の背中を洗い始めた。  
(やだ……さっきの顔、見られてないわよね?……それにしても、どうしちゃったんだろ?  
わたし……)  
 そんな楓の心の揺れに気づかないまま、忍はいつものことだが、必死に誘惑と戦っていた。  
(か、楓さんのせなか……。こんなに近くに……)  
 できるならば、スポンジではなくてこの両の手のひらで楓の背中……いや、全身をも  
洗ってあげることができたらどんなにか……・。そんな許されるはずもない妄想を頭の中から  
消し去るのに追われながら楓の背中を流すのだった。  
 ふたりとも体も髪も洗い終えると、一息ついてようやく湯船に浸かった。  
「はぁーっ、いい湯だな〜……。それにしても、忍ちゃんは毎日シャンプー大変ね〜」  
「いいえぇ、昔っからこうだから慣れちゃってますヨ」  
 浴槽はふたりいっぺんに入ると、少し窮屈に感じるくらいの大きさだ。向かい合う楓と  
忍の脚が湯船の中で触れ合う。これがまた忍には極上の幸せだった。何せ、浴槽と言う狭い  
スペースの中で愛しい楓と至近距離でふたりっきりなのだ。しかも一糸まとわぬ姿で。  
(忍、シアワセです〜……?)  
 揺れる湯船の水面を透かして楓の胸のふくらみを目の当たりにすることができる位置にいて、  
忍の頬はさらにも増して赤らんでいくが、はた目には湯船に浸かって上気しているようにしか  
見えない。  
 身も心も芯まであたたまる気持ちだ。忍としてはのぼせあがるまでこのままでいたかった  
が、もちろんそうもいくはずはない。  
 
「ふぅ〜……。のぼせてきちゃった。忍ちゃん、わたし、そろそろ上がるね」  
 楓が先に湯船から立ち上がった。  
「あ、わたしも上がりますぅ(う〜ん、もう少し一緒につかっていたかったなぁ……)」  
 
 ほかほかと桜色に染まったほっぺも可愛らしく、パジャマを着た楓と忍がおフロ場から  
出てきた。  
「お母さーん、おフロあいたよー。忍ちゃん、先にわたしの部屋にいってて。冷たいもの  
とか持ってくから」  
「はーい!あ、ママ上様、おやすみなさいませです!」  
「はい、おやすみなさい、忍ちゃん?」  
 香ママにおやすみのあいさつをすると、忍は階段を上がっていった。  
 楓の部屋にひと足先に入った忍は、すでにカーペットの上に置いてある自分用の  
クッションに腰を下ろすと、ひとたび大きく深呼吸して、きゅっと唇を噛んだ。  
(今夜こそはちゃんと言わなきゃ……。わたしの気持ちをちゃんと言葉に出して楓さんに  
伝えなきゃ……。真っ正面から……)  
 忍の胸中には長い間つっかえていたもの…強い想いがあった。その想いのたけを吐き出せ  
ればどんなに楽かしれなかったが、それは忍にはあまりにも大きな恐怖を伴っていた。  
楓との友愛をも失ってしまうのではないか……?と。  
「お待たせー、忍ちゃん」  
 少し遅れて、グラスとペットボトルのジュースとスナック菓子の乗ったトレイを携えた  
楓が部屋に入ってきた。  
「あ、どうもですっ」  
 
 楓は忍の向かいに座り、忍とお互いにグラスに冷えたジュースを注ぎあった。  
「それじゃあ、かんぱーい!」  
 チンとグラスを鳴らし、ふたりはおフロ上がりのジュースを飲み干した。  
「ふぅ〜〜っ、おいしいです〜っ」  
「今日も一日おつかれさまでした〜〜っ!あははっ!」  
 ゴハンも食べて、おフロにも入って、ようやく一息ついた格好だ。  
「金曜日の夜って、明日から休みだと思うとホント、気分いいよねー!」  
「………」  
 忍は黙ったままもじもじとした様子で空になったグラスを手のひらの上でもてあそんで  
いる。視線は楓と目を合わせたかと思うとあちこちにそむけたりと落ち着かない。  
「ん?どうしたの?忍ちゃん」  
「あっ、あのっ……。か、楓さんっ……!」  
 忍の表情が突然険しくなった。グラスを置くと、足を崩して座っていたクッションから  
身をどかせ、カーペットの上できちっと正座をして、三つ指をついた。  
「えっ?ちょ…ちょっと!?」  
 思ってもみない忍の挙動にとまどう楓。  
「楓さん!わたし、これまでハッキリと口に出せませんでしたが……ずっと楓さんをお慕い  
しておりました!女の子どうしということは…ふつうじゃないってことは重々承知の上です  
……でも…でも、どうしても楓さんのことが好きで好きでたまらないんです!………どうか  
…どうか、お返事をお聞かせ下さい!それがどのような答えでも、忍は本望ですっ!!」  
 いきなりの忍の告白に、楓の表情も体全体も硬直した。そしてふたりを取り巻く部屋の  
空気がこれまでにないくらい張りつめた。   
 
「…し、忍ちゃんっ……?」  
 それ以上、すぐには言葉が出てこなかった。  
「な、なにかの冗談じゃ……」  
 こわばった薄笑いを浮かべて楓は言い出したが、はっと口をつぐんでしまった。忍の  
表情があまりにも真剣だったからだ。その眼差しはいささかも揺らぐことなく、楓の顔に  
突きつけられ、きりっと結んだ口元は忍のいつにない強い気持ちを表していた。今の忍の  
告白も、恥じらいやためらいは感じられず、口ごもったりするようなたどたどしさもなく、  
忍らしからぬ凛とした気配が発散されていた。  
(本気なんだ……。忍ちゃん……)  
 楓は忍の決意の重さを感じ取り、思わず固唾を飲んだ。忍の姿勢と表情はぴくりとも  
動かない。  
 緊張のあまり、楓は時間の経つ感覚も麻痺していた。わずか数秒の間に、これまでの  
楓の忍との思い出が凝縮されて楓の脳裏に高速で再生されていく。目の前の忍に見つめられ  
ながら……。  
(……あぁ、やっとわかった……。そうだったんだわ……。わたしの気持ち……)  
 楓も忍と同じように、カーペットの上に正座して姿勢を正し、じっと忍の目を見た。  
「ありがとう、忍ちゃん。わたしでよかったら……。いいよ」  
「えっ…?」  
 微動だにしなかった忍の頭がぴくっと動いた。  
「だって、わたしも……わたしも、忍ちゃんが好きだから。女の子どうしだけど、それでも  
わたしも、忍ちゃんのことが……好きだから……」  
 せっぱ詰まった緊張感を漂わせて告白した忍とは対照的に、返答する楓の表情は穏やかで、  
切ないほどに優しい微笑みをたたえていた。    
 
「バカね、わたしって……。たった今、気づいたの。ほんとにバカだわ。忍ちゃんがわたしの  
ことをこんなに好きでいてくれるってのに……」  
 そうつぶやくとやや自嘲気味に楓は目を伏せた。  
 楓は忍が自分に恋慕の情を寄せていることに気づかないではなかった。しかし、同性で  
あるということを気にして、あえて忍のそういう気持ちを無視してきた。そういったいわゆる  
常識的な固定観念に捕われ、自分も心の底では忍を愛しているということに気づかないでいた。  
最近になってようやく、忍がいないときに感じる寂しさ、一緒におフロに入ったりなどの  
忍がそばにいるときに感じるときめきを自覚し始めてはいたが、まだ胸の中に霧がかかって  
いるような状態だった。その霧が今、忍の告白によって晴れていったのだった。  
「か……かか……か、かえでさん……。い、いいんですか……?今、おっしゃったお返事……。  
ほんとに……。そっ、その……わ、わたしとそういう関係というか……アレでというか……」  
 忍の口調はいつもの浮き足立ったものに戻っていた。  
「うん…『そういう関係』でいいよ。あ、でも、ふたりっきりでいるときだけね…と言っても  
あんまりこれまでと変わんないかな、あははっ」  
「…う、うれしいです……。わたし、こんなにまで幸せな気持ちになったことは初めてです……」  
 忍の黒い瞳がみるみる潤んでいき、ぽろりと涙の粒が膝の上に落ちた。  
「あぁん、忍ちゃんったら、せっかく泊りがけで遊びに来たのにもう、ほらほら、泣かないの」  
 楓はあわててハンカチを取り出して忍のそばに寄り添い、そっと目元をぬぐってやった。  
「すみません……」  
「さ、気を取り直して……。ねっ。足も崩して。うん、テレビでもつけるね」  
 楓はパンと忍の両肩を軽く叩いて立ち上がり、リモコンを取ってテレビをつけると、ドッと  
ベッドに無造作に腰を下ろした。  
 部屋の張りつめた空気がようやく元のほんわかしたゆるやかさを取り戻した。  
 
 先程の緊迫したムードがウソのように、ふたりはいつものようにとりとめのないおしゃべりに  
興じるのだった。  
「……そこで音速丸が『忍法・壁ぬけ男!』とか言って……」  
「……あはは、忍ちゃんそれホントーっ!?……」  
 だいたいの話題は忍の修行などの忍者屋敷でのことで、楓は主に聞き手の方にまわって  
いた。楓は忍者屋敷にしょっちゅう遊びにいっていても、忍の方は楓の学校の友達とは2〜3度  
ほど会っただけでほとんど面識がない。楓は自分が学校でのことを話してもあまり盛り上がら  
ないだろうからと慮っているのだ。また、楓も忍が嬉しそうに矢継ぎ早にしゃべりまくるのを  
見るのが楽しかった。  
 
 おしゃべりしたり、一緒にテレビを見たり、ゲームをしたり……楽しい時間はあっという間に  
過ぎていった。  
 楓は携帯電話の画面を見た。  
「あ、もうこんな時間……」  
 そのあとの言葉が続かなかった。   
 いつもなら、このあと、「そろそろ寝る!?」「はいっ!!」というやりとりが続くのだが、  
今回は普通に出るはずのどうということのないその言葉がなかなか出なかった。  
「…………」  
 忍もテレビの方を向いたまま黙っている。気まずそうな沈黙がたちこめ始めた。  
 その沈黙を打ち消さねばと、ようやく楓は勇気を持って次の言葉を口にすることができた。  
「……おふとん……敷こっか………」  
 
 楓は少し照れながら忍の方を見る。忍は真っ赤になってうつむいたままぽつりと答える。  
「はい……」  
 部屋には楓のベッドがあったが、ふたりが一緒に「普通に並んで」寝るには狭いので、忍が  
泊まりに来た日はふたり一緒に寝ても落っこちる心配がないよう、ベッドを使わずに布団を  
用意し、この布団をカーペットの上に敷いてふたりはいつも仲良く一緒に寝るのだった。  
 これまで何度もそうしてきたように、忍が散らかった部屋を片付け、楓が押入れから布団を  
取り出し始めた。しかし、まるで初めてのことのようにふたりの動きはぎこちない……。  
 カーペットの上にふたりが寝る布団が敷かれ、楓と忍はその上にちょこんとかしこまって  
座った。楓はライトグリーンの、忍はピンクのパジャマ姿で、特に忍は長い黒髪を束ねる  
リボンと飾りの珠を外したままになっており、そのすらりと下ろされたつややかな黒髪は  
それだけでえもいわれぬなまめかしさを醸し出していた。  
「ほ、ほら、どうしたの忍ちゃん、そんなにかしこまっちゃって……」  
「あは…は…、か、楓さんこそ……」  
「ね、忍ちゃん、今夜はわたしに髪を編ませてくれる?」  
「あ、はいっ」  
 楓に真っ赤になっているであろう自分の顔を見られずにすむと思った忍はそそくさと楓に  
背を向けた。  
 忍は寝るときは長い髪が邪魔にならないよう三つ編みにしているが、楓がその作業をさせて  
ほしいと言ったのはこれが初めてだった。  
「ほんと、キレイね、忍ちゃんの髪……。ため息が出ちゃうくらい……。わたしはクセっ毛  
だし、色もうすいから真似したくてもできないな……」  
 
「そ、そんなことないですぅ……」  
 楓はうっとりと見とれながら忍の長い髪を軽く指ですいてそのサラサラした感触を楽しんだ。  
 楓に背を向けている忍には見えなかった。今の楓がどんなに物欲しそうな顔をして自分の  
髪に触れているのかが。  
(あぁ……。髪の毛をさわられてるだけなのになんだかきもちいい……)  
 こんな感覚は初めてだった。もしかしたら、自分の体の部分で、楓の手に触れられた所は  
すべて性感帯になっているのではないかと思うほどだった。髪でさえこうなのに、これで  
布団の中に入ったらどうなってしまうのか……忍の胸は淫らな期待に高鳴った。  
「はい、できたよ」  
「ありがとうございますっ」  
 きれいに1本の三つ編みにされた髪を忍は手に取って肩の前に垂らし、楓と再び向き合った。  
「普段もその髪型でもとってもかわいいよ、忍ちゃん」  
「えへへ……。そ、そうですかぁ……?」  
「………でも、今…この瞬間ほど忍ちゃんをかわいいと思ったことはないよ……」  
 楓は身を乗り出すようにしてその顔を忍の顔に近づけ始めた。  
「楓さん……」  
 引き寄せられるように忍も顔を近づけていく。磁石が引き合うようにその動きに戸惑いは  
なかった。  
 そして……ふたりの少女の唇がそっと重なった。  
 楓にとっても、忍にとっても、初めての、それも同性を相手にしての口づけだった。  
 
 それは唇と唇がふれあう程度の初々しいものだった。ふたりの唇は互いの柔らかさと  
ぬくもりを感じるとそれを楽しむこともなくすぐに離れてしまった。  
「……しちゃったね。わたし……初めてだったよ。忍ちゃんも?」  
 おでこを忍のおでこにこつんとくっつけて、楓がつぶやく。  
「はい……。でも、楓さんはわたしが…女の子が初めての相手でもよかっ……」  
「よかったに決まってるじゃない。忍ちゃんは……どうなの?」  
 楓は忍の言葉を遮ってもう一度問いかける。  
「わたしも……楓さんと同じ……」  
 忍は幸せそうにはにかんで、おでこをくっつけ合ったまま上目づかいで楓と見つめ合う。  
 そしてそのまま楓は忍の両肩をつかんで忍もろともころんと横たわると、三つ折りに畳んで  
あった掛け布団に手を伸ばし、ぐいと引っ張った。一瞬にしてふたりの体は布団の中に  
収まった。  
「か、楓さん……」  
 思っていたよりも楓がリードしてくれているという予想外の展開に忍は驚きと嬉しさを  
感じずにはいられなかった。  
「明かり、消すね」  
 枕元に置いてあるリモコンを手にして部屋の明かりを消す楓は目いっぱいの平常心を  
装っていた。  
 明かりが消え、ふたりの会話が途切れ、ほんの数分前までのおしゃべりに弾んだ明るい  
雰囲気がウソのようだ。夜の暗闇と静寂に包まれ、同じ部屋の中の同じ布団の中で想いを  
寄せる人とふたりっきりでいることに忍はおのが欲望を押さえきれなくなりつつあった。   
 
 沈黙が続く中、ふたりには互いの息づかいと高鳴る鼓動がはっきりと聞こえてきそう  
だった。  
(ここまできたんだもの……。したい……。楓さんと……)  
 部屋の中は暗いが、忍者ゆえ夜目のきく忍には楓が何もなかったかのように仰向けのまま  
目を閉じているのがわかった。忍も楓のかたわらで同じように仰向けになっていたが、横目で  
さりげなく楓の様子をうかがっていたのだ。  
 さっきまで楓は自ら動いて忍をリードしていたのに、いよいよというところでパタリと  
動かなくなった。それが忍にはなんとももどかしく感じられた。今の忍の心境は獲物を前に  
した飢えた肉食獣さながらだった。  
(もう一度……もう一度勇気を出して前に踏み込むのよ、忍……。大丈夫よ、楓さんはきっと  
受け入れてくれるわ………。わたしが求めてくるかどうか……わたしがそうしたくなっちゃう  
くらいに愛しているかどうかを試しているのよ。きっとそうよ……)  
 湧き上がる肉欲に溺れ、忍は今の状況を自分に都合のいいようにしか解釈できなかった。  
 意を決した忍は布団の中の右手をじわじわと右の方に動かし始めた。  
 ひたと忍の右手の甲が、かたわらに横たわる楓の左手の甲に触れた。その刹那、忍は  
思い切ってその楓の左手をそっとだがきゅっと握った。楓はまだ何の反応も示さない。  
 少なくとも拒絶はされないと踏んだ忍は寝返りを打つかのようにもぞもぞと体を楓の方に  
向けた。楓の肉体は目前だ。  
 これまで、忍はこの瞬間が訪れるのを何度夢見てきたことだろう。ひとり、布団の中で何度  
楓の裸体を想像しながらオナニーにふけったことだろう。念願がついに叶うのを確信した  
忍は、ゆっくりと、しかし自信を持って左手を楓の体に伸ばしていった。  
 
 忍の左手が楓のおなかの辺りにそっと触れた。楓はまだピクリともしない。忍はパジャマの  
上からではあるがそのまま手のひらをゆっくりと撫でるように動かし始めた。  
「……んんっ………」  
 かすかに楓の鼻が鳴った。体はじっとしたままだったが、初めて楓が忍のアプローチに  
対して反応を示した。その反応に忍は確かな手ごたえを感じて思わずごくりと生唾を飲んだ。  
(……楓さん……いただきます……)  
 じわじわと忍の左手が楓のおなかから胸の方に移動し始めた。パジャマごしにブラジャーに  
覆われた楓の胸のふくらみを感じたその瞬間であった。  
「……ゴメン、忍ちゃん」  
 楓が急に拒絶の言葉を口にして、ころんと忍に背を向けてしまったのである。  
「あっ!?……か、楓さんっ……!?」  
 それは、さっきまでの、忍を受け入れるつもりでいたかのごとき振る舞いから考えれば  
あまりに急な心変わりとも思えた。  
「……………」   
 驚きと気まずさで忍は声が出なかった。ただ、楓の体に伸ばしていた両手をひっこめる  
だけだった。  
「……ほんとにごめんなさい、忍ちゃん。ダメね、わたし。こわいの……。こわいのよ。  
……こわがる自分がどうしようもなくバカだってのはわかっても……体が言うことを聞かない  
の……。忍ちゃんのことがこんなに好きなのに……」  
 忍に背を向けたまま楓が普段の楓からは想像できないようなかよわげな声でつぶやく。  
 しかしそれも無理からぬことではあった。忍の方は常々、楓とこのような状況になることを  
望んでいたが、楓はそれどころか、今夜ついさっきに同性の忍から告白されたばかりなので  
ある。自分も忍を愛していることに気づいてそれを認めたとはいえ、いきなりこの段階まで  
行き着くのはさすがに気丈な楓にしても相当な無理があったようだ。  
 
「あの…楓さん、わたし気にしてませんから……。ううん、それよりわたしの方こそなんだか  
がっついちゃって……。わたしのこと、いやらしい子だってキライにならないでくださいね  
………」  
「キライになるわけないじゃないっ!」  
 大声を押し殺して楓がぐるっと忍の方を振り向いた。忍への申し訳なさと自己嫌悪で楓の  
表情は悲しさに歪んでいて、忍は暗闇の中でも見通せる自分の目が疎ましく思った。  
「わたし、忍ちゃんの好きにしてもいいよって思ってそのつもりでおふとんの中に入ったのに  
………。心のどこかで忍ちゃんのことを怖がっていたのよ……」  
「もう……もういいですから……。楓さん、このままおやすみなさいしましょ……」  
 今にも泣き出しそうなくらいに取り乱す楓をせいいっぱいなだめる忍。  
「……うん。ごめんね。でも、忍ちゃん、約束するわ。今度……今度こういうふうに一緒に  
ふたりっきりでいられるときは……ちゃんと心の準備もして……。わたしをあげるから」  
「……はい……」  
 忍はもう多くの言葉を並べようとはせず、ただ短く返事をするだけだった。  
 楓ももう何も言わず、黙って忍の手を取りその手の甲を自分の頬に引き寄せて頬ずりした。  
 ふたりはこれまで何度も一緒の布団で寝たことがあったが、今夜はこれまでにないくらい  
体を間近に寄せ合い、互いのぬくもりを感じながら眠りに落ちていった。  
(楓さんの胸……あったかい……。楓さん……大好き………)  
 
 
 いつのまにか夜が明けていた。早起きする習慣が身についている忍が先に目が覚めて、楓の  
寝顔を心ゆくまで楽しむのは毎度のことであったが、今回ほど楓の寝顔がかわいく見えたことは  
なかった。  
「………んん……」  
 やがて楓もゆっくりと目を覚まし始めた。  
 
 
 

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