艦の中をうねうねと巡る通路には酒の臭いが漂っていた。  
ぼんやりと燈るランプの下、久々の酒に酔い痴れた兵達は持ち場で眠りに落ちていた。  
「まったく、どいつもこいつも居眠りこきやがって。」  
通路に点々と蹲った人影を面倒臭そうに避けながらナムリスは足を進めていた。  
目指す部屋に到着した時もその光景に変わりはなく、それどころか先の方まで延々続いている。  
だらしなく床に崩れ軽い鼾をかいている兵を靴の先で小突くと、  
まだあどけなさの残る寝顔をした若い兵士は口の中で何事かぐにゃぐにゃと呟きながら体を丸めた。  
いかにも呆れたといったように溜息を吐いた薄い唇が、いやな笑いで歪む。  
「お前は明日から鬼食いだな。」  
そう言い捨て、男は扉の把手に手を掛けた。  
慎重とも乱暴ともつかぬその手付きに対し、室内に這入る足取りは落ち着きを払っていた。  
酒臭さに慣れた鼻には、この部屋の清浄な空気が少し苦しかった。  
 
縁に金糸の刺繍を施された深紅の絨毯。それを取り囲むようにずらりと並んだ人、人、人。  
絡み合う蛇の紋章の入った旗が、まるでそこに描かれた毒蛇の如く奇妙にうねり翻っている。  
十三歳のクシャナは国の式典に出席しているが、それが祝いの儀なのか、或いはその逆なのかは、何故かわからなかった。  
彼女の目にはただ、暗く翳った群集の顔が無気味に見えていた。  
その中に一つだけ明瞭に浮かぶ顔を見つけ、クシャナは目を止めた。  
いや、人間の顔ではない。不可思議な模様の付いた面のようなもので覆われた男の顔であった。  
外見から判断するに自分よりも十以上上であろうか。五、六歳しか違わないようにも見える。  
まだ若い事は確かなようだったが、顔を隠している所為か正確な年齢は見当がつかなかった。  
やがて彼は他国の王族の一人として貴賓達の中に居る事がわかった。  
歓迎の花束を抱え異姉妹達と共に貴賓席に向かったクシャナはその男に花束を渡した。  
男は他の賓客がそれぞれの姫達にするのと同様に、か細く白い彼女の手を取り、面を少し上げて軽く口付けした。  
その手と唇の、かつて触れた事の無いような異様な冷たさを最後に、夢は唐突に終わりを告げた。  
 
夢が敗れると同時に、クシャナは右の手に夢の中で触れた冷たさと同じものを感じた。  
驚いて目を見開き、咄嗟にそれから逃れようと寝台から身を起こすが、  
冷たい手は彼女の手を掴んだまま離さない。  
薄闇の中に、無気味な一ツ目の付いたヘルメットを被った男の姿が見えた。  
「離せ、ナムリス!何をする!!」  
「随分と逞しくなったもんだなあ。昔はあんなに可愛い手ェしてたのに。」  
そう呟きながらナムリスは片方の手で女の右手を押え付け、  
もう一方の手で逃れようともがくその手を、子供が玩具でもいじるように弄び始めた。  
「でも、女の手には違いないな。」  
絡み、縺れ、様々な形に交わり合う男女の指はクシャナに淫猥な予感を感じさせた。  
「……こんな時間に何用かな、神聖皇帝殿。」  
 
窓から差し込む唯一の明りが薄い寝衣の下の女の形を露わにしている。  
鋭く、知性的な光を宿した瞳は、その滑らかな体の線とは不釣合いなようでいて不思議と均衡を保っている。  
「そりゃあ夜中に男が女の部屋に出向いて来るとなれば、何の用があるのかは姫君とておわかりだろう?」  
男はその目を避けるというわけでもなく、絡まったままの手元に視線を落としている。  
「臥所を共に、か?」  
「わかってるじゃないか。」  
「正式な婚約も式も無しにか。」  
こちらを見据える眼差しを受けて、ナムリスは吊り上がり気味の口角を更に引き上げた。  
「形式だけの儀式はお前の最も嫌いとするところだと思ったがな。  
 第一そんなもの、俺達の間で交わしたので充分だろ。」  
歪な微笑を湛える男の口元を見て、クシャナは自分の内を容易く見破られた事に気付いた。  
同時に、自分がそれに対して怖れを抱いている事も思い知らされた。  
「せっかちな婿殿だ。そのような事は落ち着いてからいくらでも出来るではないか。  
 私がお前の妻になる事に変わりはないのだから。」  
 
「まあ、それもそうだけどな。」  
そう言うとナムリスは腕に力を込め、硬直した女の手を思い切り引き寄せた。  
不意にバランスを崩し倒れ掛かってきた体を抱き止めた拍子に、  
男の顔を隠していたものが重く鈍い音を立てて床に転げ落ちた。  
わざと身振りを大きくして自分から振り落としたようにも見えた。  
身を縮込めていた女はその音を聞いて再び男の腕から抜け出そうと試みた。  
が、冷やかな手は更に強い力で彼女を押え込むと、その柔らかな髪を掻き上げ形の良い耳を晒し出した。  
「それまで俺が大人しく待ってるとでも思った?」  
言葉と共に吐息が耳に触れる。  
「待ってる間にむざむざ逃げられでもしたら困るからな。」  
クシャナは伏せていた顔を上げ、先程から自分をからかっている男の顔を見つめた。  
「そら、約束通り顔も見せてやったろう。」  
体に回された手の片方が、背を這い、頬に上ってくる。  
氷のように冷たい指が僅かに頬の肉に食い込んだ時、体に戦慄が走るのをクシャナは抑える事が出来なかった。  
 
針のような、棘のような、牙のような、鋭い三日月が薄雲の中に浮かんでいた。  
ゆるやかに流れる雲が紗の如く月を翳らせるかと思うと、また鋭利な光が部屋の中に差し込んだ。  
互いの息が混じり合うほど近くに男の顔があった。  
その顔は快活で残虐な少年のように見えれば、目的も無く頽廃に耽る青年にも見え、  
また全てに破れ疲れ果てた老人のようにも見えた。  
一国の皇女であり軍を率いる指揮官でもあるクシャナは、彼の年齢については知るともなく知っていた。  
気紛れに隠れる月の所為だろうか。時折深い陰鬱が口元や目の中をよぎる。  
整った顔立ちをしていたが、どこかつくりものめいた端正さだった。  
「じろじろ見るなよ。」  
乾いた笑い声に少し照れが見て取れた。  
「構わぬだろう。お前は私の顔を知っているが、私はお前の顔を知らないのだから。」  
「そうさな……。」  
答えにならぬ呟きを発して、ナムリスは心持ち痩せた頬を包んでいた手を美しく尖った頤へとすべらせた。  
接吻の予感に、クシャナは男の顔に置いていた視線を曖昧に散らした。  
暫く親指がその感触を味わうように動いた後、軽く触れ合った。  
それは少女の時に彼女の手に触れたものと同じだった。  
女は目を瞑らず、ぼやけた焦点を元に戻した。男もまた目を開いてその青さを眺めていた。  
 
 
「おいおいクシャナ、そんなに睨むなって。接吻の時は目ェ瞑るもんだぞ。」  
唇を離した直後、部屋の中に例のふざけたような声が響んだ。  
こういう時でもこの男の物言いは変わらないらしい。  
クシャナは少々呆気に取られたが、それは不思議と彼女の身を和らげた。  
「別に睨んでなどいない。」  
纏わりついた腕を解こうと、縮まっていた体がその中で窮屈そうに動く。  
冷ややかに女の動きを制していた男の腕は意外にもあっさりそれに応じた。  
「それよりナムリス。」と女は寝台に戻り腰を掛けながら男に呼び掛けた。  
「ん?」  
「お前、少し酒臭いぞ。」  
手持ち無沙汰になった男はぐるぐると部屋の中を彷徨い、  
彼の花嫁が身を落ち着けるのを見届けてから土鬼式の装飾が施された壁に背を凭せ掛けた。  
何かのまじないが掛けられているかのようなその壁は、深更の中で一層無気味さを増している。  
「ああ、夜に俺のとこの兵が騒いでただろ。それが酷い有様でな、見張りが全員酔い潰れてるんだよ。  
 俺は一滴も飲んじゃいないよ。来る途中で臭いが付いたんだろう。あ。」  
「何だ?」  
「お前んとこの奴等も寝てたぞ。残念だったなあ。」  
暗がりの壁際から悪戯っぽい笑みを含んだ声が届く。  
「何が?」  
「叫んでも助けに来てくれないじゃないか。」  
 
「助け、ね。」  
クシャナは夜の冷たい空気を深く吸い込み、一旦息を止めそれを胸に留めた後、ゆっくりと吐き出した。  
「必要ないだろう。」  
「必要ないって、それ、どういう意味?」  
光の届かぬ一角から男は姿を現すと、女の方へ歩みを進めた。  
「どうもこうもない。そのままだ。」  
俯き加減に寝床に腰掛けた女の前まで来ると、ナムリスは彼女の頭にそっと手を置いた。  
ふんわりした髪を指で遊ばせながら後頭部へと撫で下ろし、そのまま項に手を回す。  
僅かに肌が上気し始めているのが感ぜられた。  
クシャナはふっと顔を上げると、男の顔に目を据え、言った。  
「それとも何だ。泣き喚いたりした方が良いか?」  
男の情欲を逆撫でるような物言いと表情だった。  
けれどその目の奥に、来ないで、と哀願する光が点じていた。  
本心はそのどちらにあるのか。  
わかりきった事を改めて確かめるように、ナムリスは女の頭を持ち上げ、彼を見つめる瞳を注視した。  
危うい緊張を鎧った双眸は、それを気丈に撥ね返そうとする。  
「……何にせよ、抱かせてもらうがね。」  
わざと淫靡な口調で呟き、凛と張り詰めた眉の片方がぴくりと動くのを見留めてから、  
男は頑なに引き結ばれた女の唇を毀すかのように唇を重ねた。  
 
一度目の、ただ触れるだけのものとはまるで違う、荒い口付けが女を襲った。  
静かに閉ざされていた唇を無理矢理こじ開け挿し込まれた舌が、歯列をなぞり、口中をまさぐる。  
やがて小さく引込んでいる舌を見つけ出すと、それに自らのものを絡め、更に深く口を押し付け、貪った。  
その間にナムリスは女の体を再び腕に収めた。  
呼吸をさせてくれる暇なぞ与えてくれぬその乱暴さに、クシャナは狼狽える事しか出来なかった。  
いよいよ苦しくなってきて男の体を突き飛ばそうかと思った時、  
その事を察したかのように、冷えた唇が透明な糸を引きながらゆっくりと離れた。  
「舌、噛み切られるかと思って冷や冷やしたよ。」  
荒い息を肩で整えているクシャナには答える余裕は無かった。男もそれをわかって言ったふうだった。  
ふと、薔薇色に染められた唇から、最早どちらのものかわからなくなった唾液が零れた。  
首筋を伝い、胸元に流れ落ちて行くそれを追うように、ナムリスは唇を這わせた。  
服の裾からは手を差し入れ、その白い肌に直に触れる。  
柔らかな皮膚に起こった一瞬の顫えが、唇と手に伝わってきた。  
 
静かに這入ってきた男の手が薄布の下で女の線を辿り始めた。  
白磁のような滑らかな肌は、はにかみながらも柔らかく吸い付き、男の掌を愉しませる。  
腹部や背中を押えるようにしながら撫ぜ、肋の窪みを指でなぞり、その上にある膨らみに両手を置く。  
掌で包むようにして軽く力を込めながら撫で回すと、漸く整った呼吸に戸惑いの息が多くなる。  
左の手をそのままあてがいながら、右の手は少し捲れ上がった裾へと伸ばし、脱ぐように促す。  
白い腕が躊躇いがちにそれに応じ上に伸びると、すぐさま剥ぎ取らた。  
夜気に晒された乳房に両の掌を戻し、その重みを確かめるかのよう弄びながら首筋に接吻を繰り返す。  
そのまま胸元まで下りて行き、右の房の、薄紅い小さな果実の如きそれを啄んだ。  
しかし女は相変わらず眉根を軽く寄せ、後ろについた手で体を支えながら彼の動作を眺めているだけだった。  
堪えているのだろうか。  
ナムリスは女の顔を覗き込むように見上げながら唇を左へと移し、先端を舌先で舐め上げた。  
「…………っ…。」  
呼吸の中に、聞き取れるか聞き取れぬかといった程の微かな声音が混じった。  
「何だ、こっちがの方が良かったのか?」  
少しばかり悪心が篭った声で囁き掛け、その可憐な乳首を口に含む。  
唇で吸われ舌で転がされると、たちまちそれは口中で硬さを示す。  
面白がって甘く歯を立てると更に隆起し、蹂躙し易くなる。  
左のそれを口の全てを使って執拗に攻めながら、右の膨らみに左手を伸ばし、  
その頂きを指の間で挟むようにして全体に揉みしだく。  
声音は喉元に留まっているが、諦念と羞恥とが滲んだ顔に、  
それらとは全く異質のものが生じ始めているのを男は見逃さなかった。  
 
「穴蔵で暮らしていたにしては随分女の扱いに慣れているようだな。」  
下のものを脱がしにかかろうと腰に手を掛けた時、男の手元を見るともなく見ていた女が言った。  
「ま、伊達に長生きはしてないからな。逆に不慣れな方が可笑しいだろ。  
 もっとも、弟の方はどうか知らんけどな…。ちょっと腰上げて。」  
「兄弟仲が御悪いようだ。」  
微笑いを混じえながら呟き、男の言葉に応じようと体の重みを支える腕に力を込めようとする。  
抗う気持ちは既に失くしかけていた。が、未だとけぬ怖れが震えとなってそれを阻み、思うように動かない。  
「それはお前のところも同じだろ。」  
ナムリスはやにわに女の背に腕を回すと、怯えに揺らぐその体をひょいと持ち上げた。  
下肢に微かな緊張が走るのを感じながら、腰の部分に掛けた手を半ば強引に下ろしていく。  
「最初からそうしろ。」  
「だって、腕疲れるんだよ、これ。」  
肌と布とが擦れ合う音が消え、薄闇の中、一糸纏わぬ女の姿形が浮かび上がった。  
少し尖り気味の肩、締め上げたらことりと音を立てて落ちてしまいそうな頸、胸元は呼吸の都度静かに上下し、  
すらりと伸びた手足はどうして良いかわからないといったふうに軽く竦んでいる。  
長い睫毛に縁取られた瞳が困惑げに光り、伏目に視線が彷徨う。  
戦場で男達の先に立ち声を上げ、血の雨の中を駆け抜けてきた女とは到底思えない、  
誰しもが見惚れてしまうであろう彼女のしなやかな体躯にナムリスもまた例外無く眺め入った。  
仄かに色付いた乳白色の肌の所々に彼の唇の跡が朱く消え残っている。  
 
露骨に纏わりつく視線にいたたまれなくなり、クシャナは身を捩った。  
脚を縮め、腕で前を覆い隠そうとすると、冷やりとした指が絡みそれを遮る。  
「隠す事ないだろ。」  
「そう無遠慮に見られたら隠したくもなる。」  
細い手首が男の手を振り払うとぱたりと落ちた。  
「さっきのお返しだよ。」  
ナムリスは女の膝に手を掛けしゃがみ込むと、俯いたままの顔を覗き込むように見上げ、顔を近付けた。  
こつんと小さな音を立てて額同士がぶつかり、見上げた目と見下げた目とがかち合う。  
「だから目は閉じるんだって、そう言ったろう。」  
重なり合う寸でのところで意地悪く微笑む。  
「わかっている。」  
小さく呟くのを無視して立ち上がると、両の手で顔を挟み、上を向かせた。  
頬を撫ぜるようにしながら片方の瞼を指で瞑らせ、もう片方は唇を押し当て瞑らせる。  
「それでいいんだよ。」  
閉じた瞼とは対照的に無防備に開いたままの唇に舌を挿し入れる。  
執拗な求めに女がぎこちなく応えるのを感じ取ると、その舌を味わうかのように縺れさせた。  
そのまま下になった体に上体を合わせ、自身の重みに任せて倒そうとする。  
しかし女は急に唇を離すと、軽く突き飛ばすようにして男を押し戻した。  
かと思うと、僅かに後ろにのめった男の腕の片一方を掴み、再び自分の方へと引き寄せた。  
反動で引き戻された体が肩口に重く圧し掛かる。  
目の前にある薄茶色の髪が掛かった耳に口を寄せ、吐息が勝った声で囁いた。  
「お前も脱げ。」  
強がった言葉が微かに震えを帯びていた。  
 
きょとんとした表情を浮かべた端正な顔が、眉間に気難しげな皺を寄せた女の顔をまじまじと見た。  
一瞬後にその言葉の意図を理解すると、身を屈め、肩を細かく揺すらせ、声を立てずに笑い出した。  
「何だ。可笑しいか。」  
鋭い、けれどどこか弱々しさを含んだ声が飛んだ。  
「別に可笑しかないが……、面白いな。」  
「同じ事ではないか。」  
呆れ気味の女の声に男の笑い声が重なる。  
「いや、これはとんだ御無礼をしたな。お姫様一人引ん剥いちまって。」  
笑いが残る声で言いながら、道化じみた所作で投げ出されたまま女の手を取り、その甲に顔を寄せる。  
それに気付いた腕が鬱陶しげに動かされ、口付けされる前に男の動きを妨げた。  
「言われなくてもそうするよ。」  
少しむくれた顔をした女を宥めるように言い、  
白い手を掴んでいた手を、腕から肩、肩から頸へとすべらせ、髪に触れた。  
むずかる子供でもあやすような手付きで頭を撫でながら、ナムリスはふと浮かんだ疑問を口にした。  
「髪、どうしたんだ。長かったじゃないか。」  
「切った。」  
「それは見りゃわかるさ。何で切ったんだ?」  
「長いと、何かと面倒でな。」  
男の問いに少し考え込んでからクシャナは嘘の答えを呟いた。  
本当の事を言えばまたからかわれるだろうと思った。  
「そうか。何だか勿体無いな。」  
 
少し節くれ立った指が離れ、男が背中を向けたのを合図に、クシャナは身を横たえると手足を縮込め蹲った。  
適当に投げ遣った目の、その視界の隅に、億劫そうな手付きで衣服を脱ぐ男の姿が映った。  
顔はそのままに、目だけちらりと動かして様子を窺う。  
自分の部下達とそう変わらない、まだ若い青年の背が露わになっている。  
「またそうやって見る。」  
見られているのに気付いたのか、それともただの戯れにか。不意に男が頸を捻り女の方を見た。  
視線が交わる前に目を元に戻し、空に泳がせる。  
「顔もそうだが、歳の割に若作り過ぎると思ってな。」  
「気になるか?」  
衣が床にすべり落ちる音が止む。その一瞬の静寂が耳に痛かった。  
「自分の嫁の容姿を気にせぬ男など居ないだろう。」  
「まあ、まず居ないだろうな。」  
新たに加わった重みで寝台の脚がきしりと音を立てる。  
「女もそれと同じだ。」  
視野の内に男の裸体が入り込んだ。その口元には相変わらず緩い笑みを湛えている。  
「何なら灯り、点けてやろうか。」  
「そこまでして見る顔でもなさそうだな。」  
 
「酷えなあ。そりゃ、お前みたいに綺麗な顔してるわけじゃないが。」  
ナムリスは横臥に蹲った体の脇に手をつくと、やや傾いだ顔に頸を伸ばし、きらきらしい女の顔に目を落とした。  
その目を避けるように、それまでじっとしていた瞳が軽く瞬いた後、斜に逸れた。  
「世辞を言っても無駄だぞ。」  
「こんな時に世辞が言えるほど気の利いた性格はしちゃいないさ。」  
言い終わるや否や、倒れ込んでいる女の、少し骨張った肩の辺りに腕を回しそっと抱き起こした。  
拍子に、猫のように丸まっていた手足が力無く伸びる。  
このまま重なり合うものだと思っていたクシャナは戸惑いを感じたが、  
自分の方から男を引き寄せる事など出来るわけもなく、肩を掴む腕に自らのそれを絡ませゆっくりと起き上がった。  
肩から胴へと移った腕に抱き寄せられ、丁度男の胸に背中を預け、膝の内に抱え込まれる形になった。  
背と胸が合わさり、腰と腹とが合わさり掛けた途端、既に強張り始めている男の下腹を感じて俄かに女の腰が浮いた。  
「今更逃げるなよ。」  
言って、男は逃れようとする体を強く押え込んだ。  
右の肩に頤を乗せ、蒼ざめた耳元に口を寄せ、  
「怖いのか。」といやに生真面目な声で囁いた。  
女は何も言わずに少し俯くと、小さく溜息を吐き、体の力を緩め、男の胸にゆっくりと身を凭せていった。  
異国の男の肌は、その指や唇と同じように冷えた感触を彼女に与えた。  
重みを預け切った瞬間、きつく体を押え付けていた腕がふっと解かれたかと思うと、  
脇の下を通って胸の下に巻き直り、また抱き竦められた。  
乳房をまさぐるかに思えた手はその下の肌をなぞった。  
 
「一つ、聞いてもいいか。」  
体のかたちを確かめるかのように肌に沿う手が、再び胸をさぐろうとする前に、  
その手首に蝋細工のような指が纏わり、女の明瞭な声が静かに響いた。  
「一つだけでいいのか?」  
捕えられるままに男は素直に動きを止めると、細い腰の括れをきつく押えた。  
クシャナは指をほどき、窮屈そうに肩を動かしそこに乗った頤をどけ、  
「お前は、私を抱きたいのか?」  
上体だけを後ろに向けるように体を捻った。  
淡く上気した肌が男の掌の下で柔らかく縒れた。  
「それとも女が欲しいだけか?」  
紅を差したように鮮やかな唇の端が、ほんの少し歪んでいる。  
男はそこに自分の唇を押し当てた。化粧の匂いはしなかった。  
頬に接吻しようか、唇に接吻しようか、どちらにしようか迷いかねたような位置に唇を落とされて、  
それが女にはもどかしく感じられ、顔をずらし、自分の方から唇を合わせた。  
「さてね。どっちだと思う?」  
己のそれにたどたどしく触れる感触から離れるのが惜しくて、男は唇を触れ合わせたまま問い返した。  
薄目を開いた女の顔に惑いの表情が浮かび、緩く結んだ唇が微かに顫えて男から離れた。  
それに呼応するように揺れる淡い金色の髪の中に、ふと光るものを見つけ、  
男は女の腰から片手を離し、その美しい髪をそっと掻き上げた。  
端正な輪郭の耳に、翠色の石と金とで出来た飾りが取り残されていた。  
涙形のそれは指の先で軽く触れると、あるかなきかの音を立てながら左右に細かく振れた。  
「じゃあ、どっちだったらいいと思う?」  
無言のままの女に囁き掛け、男は指先で遊ばせていた耳飾りを引っ張るようにして取った。  
女は驚いて一瞬肩を窄めた後、しかつめらしい顔つきをして前に向き直り、再び男の胸に背を凭れ掛けながら、  
「後の方が、少し気が楽だ。」とどこか投げ遣りな調子で言った。  
「なら、そういう事にしておけ。」  
ナムリスはもう片方の耳飾りも同じように取り去ると、下には落とさずに自分の耳に着けた。  
人肌に温まった金属の感触はやけに生々しかった。  
 
裸になった耳に男が唇を近付けると、女はそれがこそばゆいのか、頸を捩り身を捩りして避けようともがいた。  
そんなふうにされるとしなくてもいいような事でも無理に押し通したくなるもので、  
ナムリスは女の頸を引き寄せ、強引にそこへ唇を押し付けた。  
「いいな?」という声が、ゆるやかな呼吸に混じってクシャナの耳に触れた。  
口を寄せていなければ聞き取れぬであろうその声を聞き分けた途端、女の肩が細かに震えだした。  
それは次第に体全体に広がり渡っていき、仕舞いにはくつくつと笑い忍ぶ声が唇からひそやかに漏れた。  
「そういうのは最初に言うべきじゃないのか。」  
そうだな、せめて服を脱がす前に。と付け加えて、女はまた笑いを広げた。  
「言っただけましだろ。」  
鈴を転がすかのような可憐なそれに、男はつられてふっと頬の筋を緩めた。  
「……もうそういうのはいいから、とっとと済ませてくれ。」  
「いやだ。」  
笑いが失せ、何の表情も無くなった、輪郭のぼやけた声を女が放ったのに対し、  
男の声にはまだ悪戯っぽい笑みが残っていた。  
肩越しに男の顔を見遣った女が不平を口にする前に、また唇が重ねられ、  
男の片手が女の肩を撫で二の腕をすべり、肉付きの薄い腰の起伏を辿って下腹に忍んだ。  
「ちょっ、やめ……んっ!」  
顔を離し、抗議の声を上げかけた女の体をきつく抱き寄せ、  
男を再び唇を合わせ舌を交わらせ続けながら、緩く閉じ合わされた脚を割り開き指を差し入れた。  
抱きかかえた女の肩がびくりと竦み、喘ぎとも呻きともつかぬ音が喉元で顫えた。  
 
髪と同じ色の柔らかな茂みに覆われたそこは、湿り気を帯びてはいるものの濡れるというにはまだ遠く、  
指を受け入れる事すら頼りなく思え、男をひと撫でしただけで指を引いて、唇を離した。  
「そんなに緊張するな。」  
「…して…ない……。」  
長く深い口付けの後での息苦しさもあるのか、女はあきらかに上ずった声で否定して男の腕を振りほどくと、  
脚を折り曲げ膝を抱え、その膝頭に顔を埋め、体を小さくこごめてしまった。  
ナムリスは右の人差し指を口に運びながら、  
「してるじゃないか。」とまた言うと、女は顔を伏せたままかぶりを振った。  
「まあいいけどさ、脚、開いてくれない?」  
ほら、と男は極力声を和らげて、膝を抱き締める女の腕に手を掛けた。  
「どうして?」  
「どうしてもこうしてもないだろう。後で困る。」  
女はおずおずと顔を上げ、心持ち頸を後ろに捻り男の方を窺った。  
「別に、困らないと思うけど。」  
男は半ば呆れたような顔をつくってその横顔を見つめ返した。  
「お前が困らなくても俺が困るんだよ。」  
「いやだと、言ったら?」  
「早く終らせてほしいんじゃないのか。」  
クシャナは自分を静めるように細く息を吐きながら、少しずつ体の力を抜いていった。  
 
僅かに力の緩んだ腕を払い除け、それに抱きかかえられていた膝を掌で包むと、  
男が力を込める前にぎこちなく脚が開かれた。  
「そうそう。言う事を聞けとは言わないが、少し大人しくしてくれると助かる。」  
怯えの混じった息を吐く女を宥めすかすように言って、  
男は口に咥えていた指をまだ軽く捩れている脚の間に持っていった。  
臍の下の、金髪の生え揃った丘を撫ぜ、その毛並みを指に絡める。  
指を先へは進ませないまま掌底を腹部に這わせると、緊張からか、ひたと締まった肌がそこにあった。  
「今だって、充分大人しいだろ、う…ん……。」  
不服そうな声でクシャナは言い、膝に掛かったままの男の手を払おうとしたその時、  
不意に入り込んできた男の指に違和を感じて思わず呻きを漏らした。  
「そうだな。お前にしちゃ大分大人しいかもな。」  
柔らかい笑みを含んだ声で囁き掛けながら、ナムリスは唾液で濡れた指を女の中に沈めていった。  
その窮屈な感触に、やっぱりな、と男が指を引き戻しながら独り言でも言うように零したのを、女は耳聡く拾って、  
「“やっぱり”、何?」  
「何って、やっぱり初めてなんだな、と。」  
「そういうのって、わかるものなのか?」  
「そりゃあ、まあ。」  
「……悪いか?」  
「いや、別に。」  
寧ろそうじゃない方が問題だろうと心中で呟いて、男は女の襞の合わせ目にある突起に指を移した。  
 
「──あっ。」  
途端、女の口から小さな悲鳴が上がった。  
平常彼女が発する声からは思いもよらないような、甘たるい、女の声。  
自分自身で発したその声に戸惑ったような女の様子は、男の悪心を軽く擽った。  
「へえ。なかなか可愛い声、出すじゃないか。」  
「何、言っ…て……んっ…。」  
おそらく、男にそんな言葉を掛けられた事はなかったのだろう。ましてやこんな状況では。  
クシャナは既に血の色の差している頬を更に赤らめ、下腹部から広がる感覚に耐えるように体を硬くした。  
けれど男の指は容赦なく敏感な箇所を苛む。  
刺激に慣れない彼女の為に包皮の上からゆっくりと指を動かしながら、  
空いていた手を左の胸の膨らみに移し、その先端を掌で擦るように撫ぜ回すと、  
薔薇色の唇から漏れる吐息の甘さが強くなった。  
「や…だ…っ……やめ、て……。」  
乳房を包む手を除けようと動いた女の腕は、胸元に届く前に、空を切り、男の腿に落ちた。  
弱い部分をいちどきに捕えられ、硬直していた身が次第に弛緩していき、  
力の散漫になった女の体が男の胸にしなだれかかってきた。  
喘ぎを殺そうと顫える喉が仰け反る。そこにナムリスは唇を強く押し付けながら、  
「そういやトルメキアの王家ってさあ、代々好色な人間が多いって聞いた事があるんだけど。」  
「そ…れが、何…なの?」  
「お前の場合どうなのかなと思って。」  
男の腿の上でわなないていた指に、俄かに力が入り、短目に切り揃えられた爪が彼の肌を引掻いた。  
「そん…なの……知らない…!」  
顔を俯け、瞼をきつく閉じ、女は弱々しく叫んだ。  
 
「どうかな。」  
男は指を奥へと伸ばし、割れ目をそっとなぞり上げた。とろりとしたものがその指先を温かく濡らす。  
襞のあわいから零れだした蜜に、誘われるようにして指をすべらせ、女の内に潜り込ませる。  
まだ熟し切らない内部を探るように指を動かすと、粘ついた水音がそこから漏れ聞こえた。  
「その気はあるみたいだけど?」  
「知ら、な…っ……たら…。」  
切れ切れにクシャナは言葉を紡いで、頸筋を擽る男の唇から逃れようとかしらを右に振り左に振った。  
力の感じられないその動作は頑是無い幼子がいやいやをするかのようだった。  
根負けした大人は素直に唇を離すと、今度は金色の産毛が光る耳に口を近付け、  
「意地っ張りだねえ。」と自分でも不思議な程に優しい声を掛けた。  
そうして、乳房にあてがっていた左手を押し開かれた下肢へと移した。  
右の指は中に潜らせたまま、左の指に滴りを絡め取り、それを小さな芽に荒くなすり付ける。  
「う、んんっ!」  
強い刺激に思わず声が上がりそうになるのを、クシャナは寸でのところで唇を噛み締めて堪えた。  
けれど鼻孔から漏れる乱れた吐息と、咽喉の奥にくぐもる甘い呻きはどうにも抑えようがなかった。  
「ん……ふぅ、んっ!……ん…っ、ぅん…。」  
指が内側をなぞり突起を擦るその度に女の体がぴくりと跳ね、細い指が男の腿を甘く刺す。  
地のままの色の爪が月明を受けてつややかに光っている。  
染めてもいない。伸ばしてもいない。指の先よりも短く揃えられている。  
それは彼女の悲劇の証のようにナムリスには思えた。  
 
男は女の体から指を引き、震えるその手を拾い上げた。  
心持ち内に折り曲がった指を丁寧に伸ばしながら、一つ一つに接吻を施していく。  
親指、人差し指、中指、薬指、そして小指。  
一際繊細で可愛らしいそれを唇の中にめり込ませ舌で愛撫すると、  
男の頬に沿う様に触れていた四本の指が微かに蠢き肌を撫ぜた。  
「今度は、何だ。」  
小さな爪の先を歯が甘く噛んだ時、それまで自分の身に起こっている事から  
目を背けるように俯いていた女の顔が俄かに男の方に向けられた。  
羞恥と快楽とで蕩けきった青い色が男の顔を見るともなく見ている。  
ナムリスは唇をゆっくりと離すと、温かいものに濡れている指を彼女の手の甲に擦り付けた。  
「やっぱり血は争えないみたいだなと思って。」  
「…じゃあ、もういいだろう。」  
早く終わらせてくれ、と消え入るような声で付け足し、クシャナはまた下を向いた。  
けれど、もう体を閉じようとしたりはせず、手足は投げ出したままだった。  
「それってさあ。」と、男は垂れ落ちた髪に隠された女の表情を覗き込むように顔を寄せながら、  
「つまり、早く入れてほしいって事?」  
女がそのような事を男に求めるのはどんな意味合いがあるのか。  
わかっているのか、見掛けよりも薄い女の肩が小さく窄まった。  
輝く髪の合間からは見開いた目と緩く開いた唇とが見えている。  
「……ああ。」  
輪郭のくっきりした声が沈黙を破った。女の弱さなどは微塵も無かった。  
ただ、その声音はほんの少しの躊躇いを孕んでいるようだった。  
「生娘がよく言うよ。」  
眉根と頬とに微苦笑を滲ませ呟くと、ナムリスは女の背の下から体を抜き、  
窄められた形のままでいる肩を両の指で軽く押した。  
女は逆らうでもなく、従うでもなく、ただその場に崩れ落ちた。  
「まだ、嫌だ。」  
向い合い、肌を合わせ、男は細い頸筋にそっと言葉を囁き掛けた。  
 
唇はそのまま上へと這い上がり、頤の尖りを撫で、女のそれに静かに重なった。  
男の唇は柔らかに閉じたまま何も求めず、誓いや祈りのように厳かな口付けだった。  
長い静謐の間に、クシャナは男の唇や指や肌から冷ややかさが消え、  
彼の肌と自身の肌とがいつの間にか馴染んでいる事に気付いた。  
男の体温が自分と同じ所まで上ったのか。  
或いは、互いの温度が混じりあったのか。  
芯の溶けかけた頭でその答えを導き出す事は出来るわけもなかったが、  
他人の体に対する違和感がほんの少し薄れた事にクシャナは僅かな安堵を覚えた。  
「……我儘。」  
接吻の終いに、クシャナはぽつりと呟いた。  
まだどちらも瞼を開けきってはおらず、唇も触れているのかいないのかわからぬ近さにあった。  
「我儘で結構。」  
ナムリスはそう呟くと女の鼻頭に軽い接吻を施し、白くたおやかな彼女の首筋に再び顔を埋めた。  
軽く波の掛かった髪が頬をくすぐる。息を吸い込むと女の甘い匂いが体中に染み渡った。  
その甘さの中に、微かに血の錆の味が混じっているように男は感じた。  
先刻、この類稀な肌を彩るようにこびり付いていた血の色は、綺麗に洗い落とされている。  
そして今は男の指で朱に染められ、所々を接吻の跡で汚されている。  
この錆びた匂いは、彼女が戦を駆け抜けて行くうちに体に染み付いてしまったものなのだろうか。  
だとしたら、それは短く切られた爪と同様に、哀れむべきものなのかもしれないとナムリスは思った。  
 

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