「お、おはようございます、ご主人様」  
 目覚めた直後、石蕗正晴にかけられた第一声はなんとも奇妙なものだった。  
夢うつつの中、正晴は声のした方に首を傾ける。霞んだ視界の向こうに見慣れた蒼い長髪が揺れていた。  
シーツから上半身を出し、鈍い動作で枕元に置いた眼鏡を手で探る。  
ようやく掴んだ眼鏡をかけ、改めて正晴は最愛の者に朝の挨拶をするために顔を向けた。  
「……え?」  
 思わず間の抜けた声を出したが、無理もない。現実とは考えにくい光景がそこに広がっていたのだから。  
フリルのついたカチューシャとエプロンドレス。まるで西洋の貴族に仕える使用人の服装を身に纏い、深々とお辞儀する少女。  
呆気に取られている正晴を尻目に、頭を上げた彼女の頬は赤く染まっていた。  
「ち、朝食の準備ができております……ご、ご主人…さ…ま……」  
 数秒間、正晴は瞬きを繰り返す。その間、彼の脳内は混乱の極みに達していた。  
眼前にはメイドの格好をした結城ノナが居心地が悪そうに身を捩じらせている。  
これは夢なのか。それにしてはあまりにリアリティがありすぎる。だが夢としか――  
正晴の自問自答は終わる気配をみせない。やがて沈黙を続ける正晴に痺れを切らしたのか、ノナが口を開いた。  
「なにか言ったらどうなのよ……」  
 その声色はとても弱々しい。  
促されるままに正晴は言葉を紡ぐが、それは彼女の逆鱗に触れることになる。  
「えっと、その……コスプレ?」  
先ほどまで羞恥心に小さく震えていたノナの肩が、ぴたりと止まった。  
周囲の空気が凍りついていくのが肌で感じ取れる。  
正晴はようやく地雷を踏んでしまったことに気が付いた。  
同時に、取り繕おうにもすでに手遅れだということも。  
「お、おはよう、ノナ」  
「おはよう、正晴」  
 互いの視線が交差し、気まずい静寂が流れる。  
やがてノナは可愛らしく微笑んでから、一言告げた。  
「朝食抜きだから」  
   
 
 
朝の訪れを伝える小鳥の囀りだけが、いつまでも余韻を残していた。  
 
 
時刻は十時。  
石蕗家の広くはない居間で、正晴は紅茶を啜っていた。  
その傍らにはノナの執事である松田がティーポットを片手に控えていた。  
一般的な住宅である石蕗家には不釣り合いな光景だが、今や正晴にとっては日常の一部である。  
「大丈夫ですか、石蕗くん?」  
「ええ、なんとか……」  
 心配そうに聞いてくる松田に、正晴は小さく頷いた。  
鼻腔に満ちる華やかな香りに、少しだが空腹が和らぐ。  
正晴は再び紅茶を口に含むと、味わうことなくそのまま一気に飲み干した。  
胸に宿った温もりが心地よい余韻を生み出す。正晴は自然と安堵の溜息をもらしていた。  
「ありがとう。 本当に助かりました」  
「いえいえ、とんでもない!」  
 松田は慌てて首を振る。  
「お嬢様はともかく、私は居候の身ですから。  
少しでもお世話になっている石蕗くんやご両親の助けになりたいのです」  
 恩を仇で返すわけにはまいりません、と彼は照れくさそうに笑った。  
数ヶ月前の再会のあと、正晴は家を失ったノナと松田を実家へと招き入れることにした。  
フィグラーレ関係のことは伏せて事情を説明すると、正晴の両親も快くそれを認めてくれた。  
説明の過程での、ノナの『私と正晴くんは将来を誓い合った仲です』発言やら、  
『お嬢様に石蕗くんをくださいぃぃ!』と土下座で松田に頼まれては、どのみち認めざるを得なかっただろうが。  
そうして両親公認の仲となった正晴とノナ、石蕗家の執事として務めることになった松田の三人は、実に平穏な日々を送っていた。  
そう、つい昨日までは。  
「ところで、今のこの状況を詳しく教えてくれませんか?」  
「この状況、と申しますと?」  
 松田が首を傾げると、苦笑しながら正晴は居間を見渡す。  
あちらこちらに家具やゴミが散乱し、まるで空き巣にも入られたような有様だ。  
「この惨状のことですよ」  
「ああ、これはですね――」  
 嬉しそうに正晴の疑問に答える松田。その間にも家中から時折、何かが落ちる音が響いてくる。  
両親が不在の今、この家にいるのは正晴と松田、そして先程から姿の見えないノナだけである。  
なんとなく察しはついてたが、松田の話を最後まで聞いたところで、それは確信へと変わった。  
 
「お嬢様が自ら家事をなさる日が来ようとは……」  
 途中で言葉を区切り、松田は涙ぐむ。  
「この松田、感激のあまり……もう……!」  
 ハンカチを片手に感慨に浸る彼に、正晴は力なく肩を落とした。  
なぜノナが破壊活動ならぬ家事をするに至ったのか、なぜメイド服を着用しているのか。そもそも、メイド服はどこから持ってきたのか。  
結局、肝心なことは何一つ聞けず、当の松田は自分の世界へと入り込んでしまった。  
彼がこうなってしまった以上、どうやら詳しい事はノナ本人に尋ねるしかないようだ。  
しかし、あまり気は進まない。なにせ朝食を抜かれるほど怒らせてしまった後である。  
(どうするべきかな……)  
 正晴が渋るのも仕方がなかった。  
機嫌の悪いときのノナはとにかく恐ろしいからだ。  
普段が(正晴限定で)従順で可愛らしい分、不機嫌の時の落差は凄まじいものがある。  
だからといって、このまま放っておけば家の中は阿鼻叫喚の巷と化すだろう。  
苦悩する正晴。相変わらず遠くを見つめたまま心底幸せそうな松田。  
その時、唐突に居間の扉が開け放たれた。  
「松田ぁぁぁああああああ!!」  
 と同時に木霊する怒声。  
正晴が驚く間もなく、声の主は白い煙をあげる掃除機を片手にズカズカと居間に入ってきた。  
派手さを排し機能性を追及した制服。シンプルさ故に発現する美しさ。  
そんなメイド服の魅力を損なうことなく、完璧に着こなす美少女。  
「ど、どうかなされましたか、お嬢様?」  
 彼女、ノナは怒りを篭めた双眸で、慌てふためく松田を睨みつける。  
「松田、あなた言ったわよね?  
 掃除機は何でも吸い取ってくれる便利な機械だって」  
「えっ……えぇ、その……」  
「ちゃんと答えなさい!」  
「は、はァいッ! 確かに申しましたぁぁ!」  
彼女の剣幕に圧され、松田は背筋を真っ直ぐに伸ばして叫ぶ。  
「ならどうして掃除機が壊れてしまうのよ!」  
「もももうッしわけありませぇぇぇぇん!!」  
 反射的に土下座を繰り出し、主の許しを乞う。  
壊れてしまった理由も聞かず、即座に謝罪に走るのはなんとも松田らしい。  
「いや、ちょっと待てよ。 松田さんが悪いとはまだ決まってないだろ?」  
 床にこれでもかと頭を擦り付ける彼を見て、正晴はすかさず擁護に入った。  
いくら主従関係を結んでいるからとはいえ、一方的に怒鳴りつけるのは理不尽だし、あまりに松田が可哀想すぎる。  
正晴が松田を庇いに入ったことに、ノナは若干戸惑う表情を見せたものの、すぐに細い眉を顰めた。  
 
「……なによ?」  
 どうやら今朝のことをまだ根に持っているらしい。  
彼女は刺々しい雰囲気を纏いながら、正面から正晴を見据えた。  
その迫力に一瞬たじろぐが、負けじと正晴も見つめ返す。  
「勝手に決めつけるのはよくないって言ってるんだ。  
 もしかしたら、ノナの使い方が悪かったのかもしれないじゃないか」  
 散乱する家具やらゴミがその証拠である。  
掃除機をここまでメチャクチャに使えば壊れるのは当然だ。  
「私は丁重に扱っていたわ。 だって義母様の掃除機だもの」  
「そ、そうです、石蕗くん! 悪いのは全て、この松田です!  
 お嬢様はただ頑張りすぎただけで……」  
「黙りなさいっ!」  
 墓穴を掘った松田が小さな悲鳴をあげた。  
そこからはいつも通りの光景である。  
ノナの説教が延々と続き、松田はどんどん畏縮していく。  
唯一の違いは、二人の傍らに白煙を吐き出す掃除機が転がっていることだ。  
「今は松田さんを叱りつけることより、壊れた原因を調べるべきじゃないのか?」  
「わ、分かってるわよ、そんなこと」  
 呆れ果てた正晴がたまらず指摘すると、ノナはようやく説教を終えた。  
途端、解放された松田は空気の抜けた風船のようにヘニャリと床に倒れこむ。  
よほど彼女の怒りを一身に受けたのが堪えたらしい。自らの失言のせいとはいえ、つくづく苦労人である。  
「とにかく……さっきも言った通り、私は乱暴には扱っていないわ」  
 そう断言したノナが豊満な胸を張る。  
「あ、あぁ、えーと、うん」  
 正晴は視線を逸らしながら頷く。  
彼女が嘘をつくような人間ではないことは正晴も充分承知している。  
もちろん彼女の胸が平均以上なサイズだということも。  
そしてメイド服がそれをさらに強調させているという事実も。  
無意識によからぬ妄想が正晴の脳内で展開されていく中、ノナは怪訝そうな表情を浮かべる。  
それに気づいた彼は、顔を赤くしながらも平静を装うように咳払いをした。  
「ノナは優秀なスピニアだし、魔法で調べれたりは……」  
「そんな都合の良いものがあるわけないじゃない。  
 あくまでスピニアはしずくを採るための職業なんだから」  
 最もだ。そんな魔法があるならば、とっくに使っているだろう。  
 
正晴は改めて問題の争点である掃除機に目をやった。  
「ん?」  
 よくよく見て見ると、その表面には微かだが光沢がある。  
さらに凝視すると、それは吸い込み口から滴る水滴だということが分かった。  
(いや、ありえないだろ)  
 ふと頭に浮かんだ事を否定する正晴。  
確かに眼前の少女は米の研ぎ方さえ知らなった生粋のお嬢様である。  
だからといって、掃除機をそんな用途に使うはずがない。  
しかし、ノナが居間に入ってきた直後に松田に言い放った台詞を思い返してみる。  
彼女は掃除機をどんなものでも吸い取る機械と認識していた。  
と、いうことは――  
「なぁ、ノナ。 一つ聞いていいか」  
「なにかしら」  
 まさかとは思いつつも、一度抱いてしまった疑惑は肥大し続ける。  
それを解消すべく、正晴は意を決して口を開いた。  
「掃除機で風呂場の水を吸い取ったりは……してないよな?」  
 
 
 
 
ようやく全ての洗濯物をベランダに干し終えたノナは、手で額の汗を拭う。  
「家事って意外と大変なのね」  
雲一つない青天の空に、その呟きは消えていく。  
心地よい風を受けて揺れ続ける洗濯物。その横で、水浸しの掃除機が日光に照らされていた。  
理由は言わずもがなである。  
 

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