目を覚ました俺は、昨夜の出来事を思い出してベッドで飛び起きた。今でも体には、結城の柔らかさが残っている。考えたくないが、あれは夢ではなかったのだろう。
「おはようございます」
声をかけられ、全身の血の気がさーっと引くのを感じた。イスに座っていた松田さんがこちらを見て本を畳んだ。俺が寝ている間に変なことをしないように見張っていたのだ。結城の姿は見えない。今頃、部屋で泣いているのだろうか。
俺はどう話を切り出したらいいか、混乱しそうになる頭で考えた。松田さんは結城をとても大切にしていた。その結城に俺は取り返しのつかないことをしてしまったのだ。俺は嫌がる結城をむりやり犯したのだ。
あの時の俺はおかしかった。でも、そんなの言い訳にはならない。おかしくなる前の俺にも、結城をどうにかしたい気持ちは確かにあったのだから。
「ごめんなさい」
どう考えても、とにかく謝ることしか頭に浮かばないので、そのまま言葉にした。松田さんは驚いたみたいで、わたわたと手を振った。
「いえいえ、石蕗君の世話はこちらから申し出たことですし、そんなに気を使わなくて結構でございますよ」
あれ? 松田さんは結城から聞いてないのか? 松田さんは俺の言葉を勘違いして受け取ったようだ。
「そろそろ朝食の準備にとりかかりますので、私はこれで失礼します」
松田さんはニコニコとそう言うとイスから腰を上げ、部屋を出て行った。時計を見たら、まだ朝の五時だった。
五時に起きてから結城の顔を見るまでの間、俺は生きた心地がしなかった。何度逃げ出そうと思ったか分からない。それでも、何も言わずに逃げ出すのだけは最低だと思いとどまり、せめて言い訳だけでも考えた。多分、言えないけど。
自室の窓から朝陽が差し始めた頃、松田さんが朝食の用意ができたことを伝えに来た。結城も呼ばれているはずだ。俺は腹をくくり、食堂へ向かった。
食堂に行くと、すでに結城が席についていた。俺を見ようともしない。まあ、当然か……。でも、俺が無視するわけにはいかない。悪いのは俺なんだから。
「結城、ごめん」
「謝らないで!!」
即座に結城が怒鳴った。その声を聞きつけた松田さんが、キッチンから飛び出してきた。
「な、何かあったんですか?」
「何もないわ。松田は少し席を外してて」
「ですが――」
「いいから!」
松田さんは有無を言わさず追い出された。すごい剣幕だ。松田さんも結城を心配して、食堂を出る時何度も振り向いていた。
これで俺と結城の二人だけになった。結城の言いたいことが言える。俺はどんな非難の言葉でも受ける覚悟をした。結城は俺の顔をじっと睨んでいた。重苦しい沈黙の後、結城が口を開いた。
「昨晩、正気じゃなかったでしょ」
第一声は非難の言葉じゃなかった。それに、思っていたよりも落ち着いた声だった。
「答えなさい」
拍子抜けしたこともあって黙っていたら、ややきつくなった口調で再度問われた。黙ってたら本当に怒りそうだ。
「そうだと思う」
「だったら、もう謝らないで。私も昨日のことで咎めたりしないわ」
「そんなわけには……」
「私がいいって言ってるの」
どういうわけか、結城は俺を許してくれそうな雰囲気だった。でも、俺は結城の言葉に甘えたくなかった。俺がこのままだと、また同じ過ちを繰り返してしまう。
「俺、ここから出て行く」
「どうして」
「また結城にひどいことするから。そんなの、俺が耐えられない」
結城を傷つけることは嫌だった。だから、俺は自分が許せなかった。
結城は俺をじっと見ていた。
「聞いていいかしら」
「ああ」
「私を好きだって言ったの、あれも正気じゃなかったの?」
「あれは本当だよ」
嘘だけは言いたくなかった。結城と面と向かって話すのも最後になるかもしれないからな。
「なら、出て行かなくていいわ。あなたも病院の世話になるのは嫌でしょ?」
そう言われた俺は、何も言い返せなかった。これって、結城が俺を受け入れてくれたのか? そう考えるのは早計だとしても、入院は確かに嫌だった。
結城の屋敷で暮らすようになってから、俺と結城の仲はどんどん親密になっていった。といっても、喧嘩ばかりしているけど。
その要因に、夜の暴走があるのは事実だと思う。一度許された俺は味をしめたのか、何日か置きに結城の体を貪っていた。
結城は何も言わないので、俺も昼間にそのことを聞くことはしなかった。俺が正気の時には結城と手をつなぐこともないからな。基本的に友達以上の関係はない。俺は友達以上になりたいと思ってるけど、夜のことがあるとなおさら言えない。
学校でも、俺が結城の所に厄介になっていることは隠している。通学は結城の車だけど、途中で俺だけ車から降りてそこから徒歩で学校に通っている。
帰りは部活動の後なので、人が少なければ結城と一緒に車に乗せてもらっている。隠すのはめんどくさいけど、なかなかスリルがあっておもしろい。
それと関係あるのかは分からないけど近頃思うのは、俺と結城が近くなったのとは反対に、他のみんなと俺の距離が離れたような感じを受ける。
圭介はやたら俺を心配するし、女子の目が冷たく見える時がある。秋姫とだけは仲良くなれたけど。園芸部で秋姫と話をすることが増えた。同じ園芸部員でも、八重野はどうも苦手だ。彼女は俺が嫌いなのか、たまにきつい目で俺を見る。
放課後、今日も俺は裏庭で土をいじっていた。ジャージを着て雑草を抜く姿も様になってきたと思う。
屈んでの作業は意外と重労働なんだよなぁ。花に水をあげるのも大変だ。水でいっぱいに満たされたジョウロはけっこうな重量がある。秋姫なんかはいつも楽しそうに花に水をあげているけど、単純にすごいと思う。結城は園芸部が好きみたいで、何をやるにしても積極的だ。
手を休めて女の子たちを見ていたら、秋姫が俺の視線に気づいて逃げていった。俺ってやらしい目で見てたのかな。ちょっとショック。
そんなことを考えていたら、すぐに秋姫がこっちに向かって走ってきた。水筒を持っている。どうやら俺の勘違いだったようだ。
「ハル君、疲れた?」
「少し」
「はい、お茶」
秋姫はコップに注いだお茶を差し出した。ちょうどのどが渇いていたので、俺はコップを受け取って一気に飲み干した。もう十二月なので、熱いお茶だった。やけどするほどじゃなかったけど、のどの奥がじんじんした。
「ありがとう」
「あ、熱くなかった?」
コップを返したら、秋姫がおろおろと心配していた。俺の不注意のせいなのに、やさしい子なんだな。
「熱くておいしかったよ」
そう言ってあげたら、にっこり笑って喜んでくれた。その花が咲いたような笑顔に、一瞬心臓がどきっとした。今、俺の顔が赤くなってないよな。赤くなっているとしたら、きっと熱いお茶でのどが痛いせいだ。
などと自分に言い訳していたら、いつの間にか結城がすぐそばまで来ていた。
「石蕗、肥料を取りに行くから手伝って」
急に声をかけるからびっくりしただろ。今度は心臓がぎくっとしたぞ。結城と俺は恋人ってわけじゃないけど、夜のことがあるからなぁ。それに、俺は結城が好きだし。……考えてみると、俺って情けない。
「わかった」
「あっ、私も手伝う」
俺が結城に返事をしたら、秋姫も手伝うと言ってくれた。肥料の入った袋も重たいんだよな。ちょっと助かった。
肥料を取りに行く間、俺と結城と秋姫は無言だった。俺も含めて普段から口数が少ない三人なので、別におかしなことはないのだが、妙なプレッシャーを感じてしかたがなかった。俺の意識しすぎか?
そんな中で最初に口を開いたのは秋姫だった。
「あのね、結城さん。ハル君の病気、少しでもよくなったのかな」
病人の本人がいるんだから俺に聞けばいいのに、なぜか結城に聞いていた。俺が答えてもいいけど、でしゃばるのは苦手なのでやめた。
「変わりありませんわ」
「そうなんだ……」
改善してないと聞いて、秋姫が肩を落とした。でも、結城はこれでも気を使ったのだと思う。だって、俺は病気が悪化していると思っているから。結城を最初に押し倒した夜、俺は寝てもいないのに入れ替わった。まるで二重人格になったように……。
秋姫は俺の病状を聞いて、何かを決めたように結城を見た。
「それなら、今も看病は大変なんだよね?」
「ええ」
「私もハル君の看病、手伝ってもいいかな」
あっという間に俺の背中が冷や汗でべたついた。おそらく、結城の背中も同じことになってるだろう。ケダモノになっている俺を見られたらと思うとぞっとする。へたをしたら、秋姫も襲いかねない。
「そ、それだけはダメだッ!」
「気持ちだけで充分ですわッ!」
俺と結城の大きな声が重なった。突然俺たちが取り乱したので、秋姫は意味が分からず唖然としていた。俺と結城は突っ立ったままの秋姫を見て、慌てて落ち着こうとした。今の俺たちは明らかに不自然だ。
「本当に大丈夫ですから」
「そうそう、秋姫にまで迷惑はかけられない」
俺は結城に話を合わせて場を取り繕おうとした。大人しい秋姫は、これ以上は何も聞いてこなかった。多分、不信感は与えただろうな。
週に一日あるかないかだけど、結城が夜に外出することがあった。そういう夜は、明朝まで松田さんが俺の様子を見ていてくれる。
今夜も結城はいないようで、俺が寝る前に部屋に来たのは松田さんだった。
「結城は外出しているのかな」
「はい、お嬢様は急な用事ができまして、ついさっき外出されました。大丈夫です。石蕗君はこの松田が責任を持ってお世話します」
松田さんは外出の理由を教えてくれない。結城に聞いても教えてくれなかった。まあ、俺に教える義務なんてないから責めるわけじゃないけど。でも、隠し事をされているようで少し寂しい。
眠くなってきた俺はベッドに横になった。目を閉じて、そろそろ眠りに落ちようかという時、松田さんの声が聞こえた。寝ている赤ちゃんに問いかけるような、小さいけどやさしい声だった。
「大変自分勝手なことで申し訳ないですけど、石蕗君には是非、お嬢様を選んでいただけたらと、私は最近考えております。どうか、これからもお嬢様を大切にしてあげてください。それが私の願いです」
バレてる。これバレてないか? 俺と結城の関係が丸バレしてないか? 俺にはそうとしか聞こえなかった。
しかし、聞いてしまったのはいいけど、これにはどう答えたらいいんだ。
幸いと言ってはどうかと思うけど、まだ俺は目を閉じている。ここは眠っていることにしよう。眠っているかもしれない時に小声で言ってきたのだから、松田さんも返事は望んでないだろう。そう思うことにした。
けど、別に俺は結城と遊んでいるつもりはない。俺は本気なんだ。あとはどうにかして結城を口説き落としたいんだけど、ちょっと複雑な事情なんだよなぁ。松田さんもこう言ってくれるし、もう少しがんばらないといけないな。
松田さんの一言に俺は考えさせられ、なかなか寝付けなかった。それでも、眠ってしまえばいつもと同じで、今夜も俺じゃない俺が目覚めた。
ベッドから下りて部屋を見回す。松田さんは机で寝こけていた。広げていた本によだれでできた染みが広がっている。炊事、洗濯、掃除と昼の仕事が大変だから居眠りしてしまったのだろう。俺が余計な仕事を増やしているので悪いとは思うけど、今は感謝だ。今夜の俺は自由だ!
夜、きれいな水をたたえる清流の上を小さな星が飛び回っていた。その小さな星を二つの大きな星が追いかける。
「プリマ・プラム、そっちに行ったわ」
「うん、任せて」
ノナがレードルに乗って飛び、星のしずくを誘導する。すももはその先でレードルを手に、待ち構えていた。二人は協力して星のしずくの採取に取り組んでいた。
「プルヴ・ラディ!」
すももの言葉一つで、小さな星は吸い込まれるようにレードルのスプーンに収まった。すももはガラスの小瓶をポケットから取り出し、スプーンのしずくを瓶に垂らした。ふたをして採取完了だ。
ノナもすももの横に来て、捕まえたばかりの星のしずくを覗き込んだ。
「見事だったわ」
「ううん、ノナちゃんがうまく星のしずくを私の所まで届けてくれたから」
仕事を終え、二人の魔法少女はほっと一息ついた。しかし、二人に休む間は与えられなかった。
「お嬢様ああぁあああ、大変ですぅぅうううううッッ!!」
ノナを呼ぶ大きな声が救急車のサイレンのように近づいてくる。夜の闇から姿を現したのは、犬の姿に変身した松田だった。犬の足で大急ぎで走ってきたのだ。松田が息を切らして報告する。
「どうしたの、アーサー」
「は、はい、石蕗君が……石蕗君が屋敷を抜け出して外に出てしまったのですっ」
「なんですって!」
「ハル君が!?」
「ああっ、私が居眠りしてしまったのがいけないのですっ。全ては私の不注意がいけないのですっ。ああぅ、石蕗君の身に何かあったら、どうお詫びすれば」
失敗を泣いて謝る松田だが、今はそんな場合ではない。早く石蕗を探さなければ、彼が何をしでかすか分かったものではない。ノナは動揺する松田と秋姫を叱るように、ややきつい口調で指示を出す。
「アーサー! 手分けして石蕗を探すわよ。プリマ・プラム、あなたも手伝って」
「うんっ」
「お供のミスは主人のミス。アタシの責任よ。秋姫さん、ごめんなさい」
「いいよ。それより、早くハル君を探さないと」
「ほんっとおおおに、申し訳ありませんぅっ」
三人は一時間後に集合することを決めて、それぞれが思い当たる場所へ向けて散開した。