あの時君が殴ってくれなかったら俺は理性を失い、何をしていたかわからない…いんこはいつもの席で熱いコーヒーをのみながら、一昨日の車の中の出来事を思い出していた。店にはベートーベンの田園が静かに流れている。
おれはクールに振る舞っているが君に恋焦がれ、慕って止まないのだ。君が俺を好いてくれているのは、何となく分かる。しかしこれはあくまでも『いんこ』としての俺であって本当の俺ではない。
そう、中学生の時、素晴らしい友人として君と付き合った。色々な本を読み、互いに人間的に成長していったっけ。だけど俺は男だ。何回君の夢を見ただろうか。半裸の君が俺の背に張り付いて啜り泣いた時夢精を知った。
モモ子の白い肢体に赤みがさし、潤んだ瞳で俺を見詰め……。ふとキスしたあとの万里子の真っ赤な顔がちらついた。「チェッ!思い切り殴りやがって。」いんこは小さく呟いたが、おもわず微笑みがうかんでしまった。
その時ガランと店の戸が開き、何故か得意気な顔をして千里刑事が入って来ると、真っ直ぐにいんこのほうに歩み寄った。「やっぱりここにいた。あのね、無断であんたの本棚から本を借りていたから返しに来たよ?」
「刑事さんが演劇の専門書を読むとはね。」万里子が手に持ったそれは『ロミオとジュリエット』だ。皮肉なものだ。両家の都合で引き裂かれる男女…まるで俺達みたいじゃないか。「今度国立劇場で代役として出るんでしょ?」
「あー。それで前もって研究して俺を張ろうって訳ね。」
フッと万里子は淋しげな瞳でいんこを見詰めた。それを見て思わずたじろいだが、サングラスを掛けているから多分気付かれていないかな?と少し安心する。横のソファにドスンと腰を降ろすと、本に挟んだ付箋紙を静かに抜いていった。
(一昨日の事はどう思っているのかな)…モモ子…夢の中でモモ子は淋しげな潤んだ瞳をして、自分が上半身裸であることも気にせずにしきりに俺にキスを求めた。「ちょっと落ち着いてよ」と理性的な少年である俺はストップをかける。
「お願い…」とかすかに赤く染まった白い顔が近づいてくる。すると両手で陽介の頭部を抱き込み、柔らかい唇が押し当てられた。「ちょっ…ダメだよモモ子ちゃん!」顔を背けようとするが、そうすると唇がそれを追い掛け、
陽介の唇を捕らえると今度は吸い付いてきた。初めての口への刺激で、何だか分からないが全てを吸い取られるのではないかと思うと同時に興奮で目が回る。時折モモ子の口のわきから熱く甘い息が漏れ、陽介の頬をくすぐる。
(いけない…中学生がこんな事をしちゃいけないんだ!)陽介は諭そうとしてモモ子の両肩に手を掛ける。…か細いが弾力のある、やさしい肩。モモ子のあらわな若い乳房についている淡い乳首はピンと立ち、自分を眺めている様だった。
自分の中で熱く燃えていた何かがさらに熱くなり、そんな事をするはずがない理性的な俺は、気付くとモモ子を床に押し付け、馬乗りになっており、下半身に身につけてある布に手を掛けていた。キスだけを求めていたモモ子は
驚いて陽介を見上げる…。 「ねえ、いんこ」「ん?」その声で現実に引き戻される。「あんたには中学生の時、報われなかったロマンスがあるんでしょ?」「ヘ?!」 思わずいつもよりTオクターブ高い声が出てしまった。「な、何だって?」
「これが本に挟まっていたのよ。あんたが演劇少年だった頃のじゃない?」手には少し色褪せた舞台のチケットが二枚あった。「彼女をデートにでも誘おうとしたのね?」「…。」いんこは無言でそれを受け取ると急に悲しさが沸いてくる。
(万里子…。あんなに好きで楽しみにしていた演劇なのに、何もおぼえちゃいないんだよな…) いんこは試すように聞いてみる。「刑事さん、いつか行ってみない?」「…」万里子は向こうを眺めている。「なんだよ」「シッ!」