マリーは14歳になった。  
 
あの出来事からおよそ一ヶ月後、サンソンの家では、ささやかに娘の誕生日を祝っていた。マリーは友達を誰も招待していない。  
父親とふたりきりの誕生日。  
 
サンソンが部屋の明かりを消して小さなケーキのキャンドルに火を灯す。  
「さあ、一息で吹き消すんだ」  
娘はただロウソクの炎を見つめていた。サンソンの言葉など、まるで聞こえていないようだ。  
「どうした、早くロウソクを吹き消さないと願いが叶わないぞ」  
少女はゆっくりと顔を上げて父親を見つめる。  
「わたしのお願いはね・・・おとうさんじゃないと叶えられないの」  
そしてマリーありったけの勇気を振り絞って言う。  
「わたし、おとうさんって呼べない。もう、おとうさんだけじゃ嫌なの! これからはサンソンって呼ぶ!」  
 ・  
 ・  
「わかった」  
「・・・へっ?」  
まったく動じないサンソン。  
あっさり認められて、間の抜けた返事を返すマリー。  
 
彼女の予定では、驚いて戸惑うサンソンにいきなりキスをして・・・それから、あんな事をするつもりだった。  
さらに、こんな事や、そんな事までしてもらうつもりだった。  
それなのに、『わかった』 『・・・へっ?』で終ってしまった。  
(・・・こんな筈じゃなかったのにぃ・・・)  
暗い部屋の真ん中で、マリーはキャンドルの灯りに照らされながら呆然とサンソンを見つめた。  
 
パーティーを終えて、眠りについたマリーの部屋の前にサンソンが立っていた。  
ドアを開ける音で娘が起きないよう、静かに部屋の中へ入る。ベッドには毛布にくるまってマリーが眠っていた。  
サンソンはベッドの横に座り、ラッピングされた小さな箱を枕元に置く。  
 
「おめでとう、マリー」  
彼は娘の頬に口付けをする。マリーが可愛いかった。どうしようもないほど、この娘が愛しかった。  
サンソンは手のひらを娘の頬に添える。少し汗ばんだ柔らかな感触。彼はマリーの唇に指を這わせた。  
 ・・・ん・・・・・やぁ・・・  
娘は小さく首を振って手を払い、再びおだやかな寝息を立て始める。  
しばらくの間、サンソンはベッドの横からマリーの寝顔を見つめた。  
娘が寝返りをして、父親に身体を向ける。  
彼は毛布を直してから、少女の額にキスをして立ち上がった。  
部屋のドアを閉める前に、もう一度だけ娘の寝顔を見つめる。  
「・・・どおすりゃあ良いんだよ・・・」  
小さく首を振って、今度こそドアを閉める。  
 パタン  
小さな音を立てて、ドアが閉まった。  
ゆっくりと娘の瞳が開く。もぞもぞと毛布から手が伸びて、マリーは己の額を指で触わる。  
少女はしばらくの間そうしていたが、思い出したように枕元の小さな箱を手に取ってラッピングを丁寧に剥ぐ。  
中には長方形の小さな小箱。そっと箱を開けると、女性の横顔をあしらった小さなカメオのペンダントが入っていた。  
とても精巧な細工を施されたカメオ。そしてプラチナの額。チェーンは銀細工。  
マリーは首にペンダントをかけると、部屋の明かりを点けて鏡の前に立つ。  
電灯に照らされた銀のチェーンとプラチナの額が明かりを反射して光る。  
カメオに描かれた女性の横顔が、柔らかな陰影をつけて、ほのかに白く浮かぶ。  
「・・きれい」  
娘のひそやかな胸のふくらみに、そのペンダントはとても可愛らしく映えていた。  
マリーはペンダントをキュっと握り、頬と額に口付けしてくれた父親を想う。  
『どうすりゃあ良いんだよ』と、部屋を出るとき呟いたサンソン。  
愛されている。  
たとえ、どんな愛されかただとしても、たしかに自分は愛されている。  
「・・サンソン・・」  
そう囁く娘の瞳は潤んでいた。  
だから、マリーは変わってしまった。  
 
マリーは家事に積極的になった。  
年頃になってから自分のもの(主に下着)は洗濯していたが、サンソンの衣服も強引に引き受けるようになった。  
食事の仕度は鬼門だった。聞きかじりの知識で作った創意溢れるマリーの料理は、およそ食欲をそそる物では無かった。  
それでもサンソンは嬉しかった。だから食った。当然腹を壊した。それっきりマリーは料理をしなくなった。  
 
だが、マリーの行動は、そこで留まりはしなかった。  
 
放課後、用が無ければ探偵社を訪れ、邪魔にならない範囲で事務などを手伝う。でも以前とは探偵社の主を見る視線が違う。  
 
当然所員たちに気取られて、冷やかされもした。  
探偵社からの家路はとても幸せなひと時。仕事を終えたサンソンは、娘を伴って市場で献立を考えながらあれこれと食材を買い求める。  
マリーは大通りの服飾品店の飾り窓で足を止め、似合いもしない宝石やドレスを物色して父親を困らせる。欲しいのではなく、甘えているだけ。  
困った事に、そんなマリーがサンソンには可愛くて仕方無かった。  
道すがら、少女はサンソンの腕を胸に抱きしめて、女になった身体(自主申告)をアピールした。その数秒後、マリーは人目もはばからず、幼児の様にタカイタカイや肩車やオンブされ、街を行き交う人々の面前に晒された。  
 
衆目の失笑を集めながらも、マリーは諦めなかった。  
 
 
ある初夏の朝、朝食の仕度を終えて階段を登るサンソンの足音をマリーは聞いていた。  
 トントントン  
「マリー早く起きな」  
ドアをノックする音。そしてぶっきら棒な父親の声。もちろん娘は無視を決め込む。  
 ドンドンドンドン!  
「おら、何してる! メシは出来てるんだ、早く起きろ!」  
ドアを叩く音。そして乱暴な父親の声。まだまだ娘は無視を決め込む。  
 ガチャっ!  
なかなか起きようとしないマリー。痺れを切らした父親は娘の部屋に乱入した。  
 (準備は万全。あとは、サンソンが毛布を剥がすのを待つだけ・・・)  
なぜか娘は薄手の毛布を頭までかぶって笑っていた。  
「なぁ、チビちゃん・・・そろそろ、目を覚ましてみないか?」  
ベッドの端に腰を下ろし、サンソンは毛布の上からグリグリ頭を撫でる。  
「んっ・・う〜〜ん・・ふにゃぁ・・・」  
毛布にくるまれてムニャムニャ寝ぼけたふりをしてみる。  
「ほら、学校に遅刻するぞ、起きろ!」  
サンソンが肩を掴んで身体を揺らしている。そろそろ毛布が引き剥がされるころ。  
マリーの心臓がバクバク大きく脈を打つ。  
「さっさと目を覚ませ!」  
 バサっ!  
サンソンは娘が被っていた毛布を無理矢理剥がした。  
「このバカ娘! 年頃の女の子が何て格好をしてやがる!」  
 
未練たらしく毛布の裾を掴むマリーのパジャマのボタンは全て外れ、春先よりふくらみを増した乳房が半ば露になっていた。  
パジャマの下も当然脱ぎ捨てられており、小さなショーツに包まれた尻や太股がゆるゆると艶めかしく揺れる。  
そう、散々積極的にアプローチをかけても何もしてこないサンソンに焦れたマリーは、実力行使に出る事にしたのだ。  
「・・・もう少し・・寝かせてぇ・・・」  
マリーは毛布を引き剥がそうとするサンソンの手を握って引き寄せつつ、パジャマをギリギリのところまで乱し、ベッドの端に座る父親の体に腰を擦り付けて、しどけなく半裸の身体を晒す。  
目のやり所を無くしてうろたえるサンソン。視線を逸らしてマリーの肩に手を置き、揺すり起こそうとする。  
「いやぁ・・・変なとこ触らないでよぉ・・・」  
父親の手は、娘の乳房を掴んでいた。  
マリーはその手を嬉しそうに胸で抱きしめる。ついでにパジャマをはだけて、乳房を露にしてしまう。  
「んふふふっ・・・サンソンのエッチぃ・・」  
父親の顔が真っ赤に染まった。  
 (・・・♪)  
サンソンの赤い頬を見て、今日こそ願いの叶う事を確信するマリー。  
だが、父親の顔つきが怒りの表情に変わる。そして彼はベッドのシーツを握りしめた。  
「いい加減にしねぇかっ!」  
 ブァサっ!  
「きゃっ!」  
 バタン!  
いきなりベッドから落とされた驚きで、シーツを握りしめながら床に落ちるマリー。  
 ゴロゴロゴロ・・・  
勢い余って床を転がるマリー。  
シーツの端を握りしめていたので、可愛いプリント生地で簀巻きになってしまったマリー。  
「今朝はメシ抜きだっ!」  
朝食抜きを高らかに宣言して、サンソンは階下に降りる。  
シーツで簀巻きになっているマリーは、涙をこぼしながら助けを請う。  
「動けないよーっ! ほどいてよーっ! なんでこうなっちゃうの? サンソンのバカーっ!」  
 
 
ある真夏の夜、夕食後の後片付けを終えたサンソンは居間でくつろいでいた。  
テーブルの上にはマールのボトル。父親はグラスから芳醇な液体をあおる。(マールは葡萄の絞り滓から作ったお酒)  
マリーは風呂に入っている。娘の入浴は異様に長い。以前なら『早く風呂から出やがれ!』と、どやしつけるところだ。  
しかし今それをすると、マリーは生まれたままの姿で抱きついてくる。下手をすると風呂の中に連れ込まれかねない。  
いまや娘が入浴中の風呂場は、近づく事もままならない危険地帯だ。  
しかし、それで良いのか? サンソンは自問する。  
ここは俺たちの家だ。ふたりで住んでいるのだ。小娘ひとりに振り回され踊らされて良い筈が無い。  
今晩こそ、ガツンと言ってやる。  
きつく尻を引っぱたいてやる。  
サンソンは心の中で固く誓った。  
 
バスタブの中から足を上げ、太股から膝にかけてスポンジで清める。  
肌を痛めないように泡を立て、張り詰めた柔らかさを確かめるように何度も何度もこすりたてる。  
 じゃぱっ!  
バスタブの湯を手ですくって泡を流すと、白い肌があらわになった。  
スポンジを放り投げ、てのひらで太股を撫であげてみる。  
 んぁっ!  
甘い心地良さが背筋を痺れさせた。  
今日こそサンソンの手がこの肌を這うかもしれない、わたしが女になる日かもしれない!  
 じゃぱ、じゃぱ、じゃぱ  
マリーはバスタブの中で妖しく身をくねらせ、湯を波立てながら身悶える。  
「んふっ!・・・・・くふふふっ♪」  
そして怪しく笑う。  
今晩こそサンソンを誘惑して我がものにしてみせる。バスタブを泡だらけにしながら、少女はそう意気込んでいた。  
磨きをかけたこの肌で父親を悩殺してやると誓っていた。  
 
決戦のときが来る。  
身体じゅう余すところなく磨きあげた。髪も湿気を拭って梳った。ほんのりと甘い香りのコロンも纏った。  
準備は万全。マリーは身体にバスタオルを一枚巻いただけでの姿で居間に襲撃をかける。  
「サンソン、お風呂開いたわ」  
レースのカーテンが微かに揺れ、居間の窓から涼しい風が吹き込む。少女はサンソンの隣に座り、ローテーブルの上からグラスを奪い、チェイサーの水を飲んで喉を潤す。  
「ふう・・・美味しいね」  
ソファーに座りながら足を少し崩して、隣のサンソンにしなだれかかる。  
父親は呆気にとられて言葉が出ない。身体も動こうとしないようだ。完全に硬直している。  
「・・あ、あのなぁ・・・お前はなんて格好をして・・・」  
それでも彼は何とか声を絞り出した。しかし娘は行動をエスカレートさせる。  
「今日は汗を一杯かいたから、お風呂が気持ちよかった・・・サンソンも汗を洗い流そうね。シャワーだけじゃダメよ?」  
父親の顔を見て微笑み、そっと手を取る。慌てて腕を引っ込めようとするサンソンを抑えて、その手を太腿の上で抱く。  
ごつごつした父親の手。バスタオル越しで乳房に当たる太い腕。少し汗くさい父親の匂い。  
マリーの頬が朱に染まってゆく。  
「マリー、ちゃんとパジャマを・・・」  
何とか娘を諫めようとするサンソン。だが、マリーはそれを許さない。  
「夜になっても暑いね。ほら、すぐに汗かいちゃう」  
そう言って、白く浅い双丘の谷間を覗かせた胸元に、サンソンの腕を密着させた。  
父親の視線が、胸元から首筋へ、腰から太腿へと慌ただしくうつろう。太腿に置いた彼の手が汗ばむ。  
勝利を確信したマリーは、再びサンソンの手を取って内腿に触れさせた。  
「・・・マリー」  
かすれた父親の声が聞こえる。内腿にあてた手のひらが熱い。あの場所から淫らなものが溢れてしまいそうになる。  
足が震える。何もされてないのに身体が熱く火照ってしまう。  
少女はサンソンの胸に顔を埋め、逞しい身体に身をゆだねた。  
 ぐいっ  
父親がマリーの身体を引き寄せて、その細い肢体を膝の上に乗せる。  
ハラリとバスタオルが滑り落ち、娘は裸体を晒す。サンソンはマリーのこんもりとした尻に手を這わせた。  
「ああ、サンソンっ!」  
とうとう、この時が来た! 今日こそ願いの叶う時! 少女は歓喜の声をあげる。  
 
「歯ぁ食いしばれっ!」  
(・・・・へっ?)  
状況にそぐわない父の怒声に、マリーの頭の中では間抜けな疑問符が駆け巡っている。  
サンソンは娘の尻を撫で回し、肉の厚い部分を探り出して狙いを定めた。  
「覚悟は出来たな?・・・今日は一発や二発で済むと思うなよ!」  
(えっ!・・なにっ!)  
娘の混乱した思考をものともせず、父親は手を振り上げ、そして勢いをつけて思い切り振り下ろした。  
 バチーンっ!  
「きゃうっ!」  
尻を平手で引っ叩くと娘が悲鳴をあげる。サンソンは再び手を振り上げる。  
 バチーンっ!  
「いたい、いたい、痛いよーっ!」  
見る間にマリーの尻が真っ赤に染まってゆく。  
 バチーンっ!  
三発目の平手が、マリーのむき出しの尻を叩く。  
「おらっ、これくらいで許してもらえると思うなよ! 今日は身に染みて分かるまで続けるぞ!」  
サンソンの膝の上で素っ裸の身体を捩って暴れるマリー。  
「何でお尻叩くの? わたし何も悪い事してないよぉ!」  
 バチン、バチン、バチン、バチン  
四連発。サンソンは小刻みに連続して尻をはたく。  
「だらだら風呂に浸かるな! はしたない格好で家の中をうろつくな! ふしだらな真似をするな! いったいお前は何を考えているんだ、この馬鹿娘がっ!」  
 バチン、バチン、バチン  
「ひゃうっ! いたい、いたい、いたい、いたいっ! ごめんなさい、もうしません! もう許してよー!」  
 バチン、バチン、バチン  
「うるさい! 今日は徹底的にやると言った筈だ!」  
 バチン、バチン、バチン  
「わああああ〜〜〜〜〜〜ん! なんでこうなっちゃうのよぉ、サンソンのバカーーーーっ!」  
「親に向かって馬鹿とは何だ! この馬鹿娘!」  
バシン!バシン!バシン!バシン!バシン!バシン!バシン!バシン!バシン!バシン!バシン!  
心温まる親子のふれあいは夜遅くまで続いた。  
 
 
秋も深まったある日曜日の深夜、ボルベックの町にちょっとした嵐が訪れていた。  
大粒の雨、強い風、光る稲妻、轟く雷鳴。そんなものには動じもせず、サンソンは自分の寝室で安らかに眠る。しかし、この時こそマリーにとってはチャンス。当然、少女は父親の寝室を目指す。  
小さいころ雷を怖がっていたマリーは、嵐の夜だけはサンソンのベッドに入ることが許されている。もちろん、いまさら雷が怖いわけもない。父親のベッドに潜り込むための口実である。  
そんな訳で、マリーは枕を抱えていそいそとサンソンの寝室へゆく。  
 トントントン  
寝室のドアをノックする。しばらく待っても返事は無い。  
 ドンドンドン  
こぶしを丸めて寝室のドアをノックする。しばらく待っても返事が無い。  
「くふふふふっ」  
マリーは怪しく笑う。  
 かちゃっ!  
父親の了解も得ずに娘は寝室の中に忍び込む。ベッドの傍に行くと、サンソンはこちらを向いて熟睡していた。  
「おじゃましま〜す♪」  
サンソンを起こさないように、そっと布団の中へ身体を滑り込ませる。  
それでも父親は目を覚まさない。すこしムっとするマリー。  
(それなら、わたしにだって覚悟があるもん!)  
マリーは枕を放り捨て、サンソンの胸の中に身体を押し込んだ。  
父親の腕を枕にして、ゴロゴロ喉を鳴らしながら猫のようにして大きな体に縋りつく。  
ここまでされて、さすがのサンソンも身じろいで微かに目を開く。  
「・・・・マリー・・雷が怖いのか? ほら、布団の中に潜れば大丈夫だぞ・・・」  
父親は寝ぼけながら娘の身体を包むように抱きしめ、掛布団の中に押し込んで厚い手のひらで背をさする。  
サンソンのベッドに入れたのは良いけど、これでは目的を果たせない。  
マリーはイヤイヤをする幼児のように首を振って抵抗した。  
しかし背を撫でる父親の手が心地良くて、どうしてもあらがえない。  
 
「なんか違うよぉ・・でも・・こんなのも良いかな?」  
サンソンにすっぽり包まれるマリーは、彼の胸に頬擦りしながら微笑んだ。  
 どくん・・どくん・・どくん  
力強い心音が聞こえる。娘は父親の鼓動を耳にして懐かしい安らぎを感じ、身体から力を抜いて身を任せた。  
背中をさする手が、ぽん・・ぽん・・ぽん・・ぽんと鼓動にあわせるように背を優しく打つ。  
枕に貸りた腕で、そっと頭を撫でてくれる。  
 (・・サンソン・・)  
いつのまにか娘は涙ぐんでいた。  
何故か寂しくて哀しくて、父親の体を強く抱きしめる。そして本当に雷が怖かった幼いころを思い出す。  
風が強く吹けば、ざわざわと木の葉がざわめくのが怖いといって泣いた。雨が降れば、雨音が怖いといって父に縋った。怖い夢を見れば、矢も盾も堪らず父親の胸に潜り込んだ。ひとりが怖くて心細くて、しくしく泣きながら父親の寝室に入ったことだってあった。  
だけど、いつだってサンソンはかまってくれた。慰めてくれた。抱きしめてくれた。  
血のつながりなんてまるで無い、赤の他人の子供なのに。ほんとうの親子なんかじゃないのに。  
それなのにサンソンはわたしを慈しんでくれた。まるで我が子のように・・・ううん、それ以上に。  
そして今も包みこんでくれる。  
守ってくれている。  
あの気球での約束通り。  
 
わたしは、この男を滅茶苦茶にした。  
自分の我が侭でサンソンの一番大切な時を捨てさせてしまった。  
つまらない子供の約束を強引に守らせて、この男の人生を棒に振らせてしまった。  
そんなことを露ほども考えず、わたしは他の男の子とデートを重ね、抱きしめられ、口付けを交わした。  
挙句の果てに望まぬ行為をされかけた。そんな恋愛ごっこに興じていた。  
この男の半生を台無しにした小娘のくせに。  
 
いくら感謝しても足りない。  
どんなに悔やんでも追いつきやしない。  
だから、このひとの為に生きたい。  
すべての想いをこのひとにのせて。  
いつか、願いの叶う日が訪れることを・・・  
 
マリーはサンソンの胸の中で嗚咽をもらした。  
すると、彼女を抱く太い腕に力がこもる。  
「・・・どうした・・雷なんて、もうすぐ遠くへ行っちまう・・・俺がついてるぞ・・大丈夫・・大丈夫だ・・・」  
眠いのを我慢して娘をあやすサンソン。  
「・・・・ぅぅっ・・・ヒック・・・ぅぁぁぁ・・・・・」  
少女は父親の男臭い匂いにつつまれながら、声を潜めて泣いた。  
やがてマリーはサンソンに抱かれてまどろみ、ほどなく少女は健やかな眠りにつく。  
サンソンは微笑みを浮かべて瞳を閉じる。  
そして、ふたりの穏やかな寝息が父親の寝室でひそやかに重なった。  
 
 
『ベルギーから来た製鉄技術者が、かなり内部機密に近い資料を持ち出して逃亡した』  
その一報が専用回線の非常電話でもたらされたのは、嵐の過ぎ去った月曜日の午前2時だった。  
布団の中から手を伸ばして受話器を置き、胸の中で穏やかに眠る娘を起こさないようにそっとベッドを離れる。  
手早くスーツに着替えて、ブローニングのオートマティック(改造済み)をベルトの間に捻じ込み、マリーのおでこに口付けをして足早に部屋を出た。  
廊下の壁にコルクボードがぶら下っている。彼はメモ用紙に鉛筆で書きなぐって画鋲で貼り付ける。  
 
 
   ちょいと用事ができた。  
   朝メシはジャンの家で食ってくれ。  
                サンソン  
 
 
玄関へ向かう。彼は掃除用具などをしまう造り付けの収納を前にして立ち止まり、ありったけの力で収納を押し込む。  
1mほど収納が後退すると、その右手に狭い武器庫が現れた。サンソンは棚から拳銃の予備弾倉を取り出す。  
そして少し躊躇ってから、自動装填式大口径ライフルのケースと完全被甲弾の弾倉を握った。  
 
嵐は去ったが雲が空を覆っていた。月明かりはおろか星ひとつ見えない。点在する街灯を頼りに集合場所へ急ぐ。  
玄関を出てから5分後、集合場所へ車で迎えにきた部下と合流した。  
「どんな具合だ」  
黒塗りの乗用車から部下が降りて後部座席のドアを開ける。サンソンはライフルの巨大なケースを後部座席に放り込み、運転席へ乗り込む。  
 
「持ち出されたのは、試作高炉の図面と合金のデーターです。資金さえあれば、フォーナインクラスの精錬と耐磨耗・耐腐食・耐熱などの特性を持つ合金の製造が実質上可能だと、技術開発室から報告を受けております」  
車の運転を部下と変わったサンソンは、アクセルを床まで踏みつけ、ハンドルを叩いた。  
「クソっ、製鉄部門の機密管理はザルか!・・・まあ良い。逃亡した技術者の経歴、それから手引きした組織を教えてくれ」  
助手席に座る部下が資料から必要部分を読み上げる。  
「名前はロベール・ワセージュ。南部ワロン地方の製鉄所に勤務後、リールの関連会社の紹介でうちに入社。調べた範囲では、どこかの軍部と接触した気配はありません。ただロベールは妻子をベルギーに置いて来ておりますので、おそらくは家族が人質にされたかと思われます」  
サンソンの表情に険しさを増した。  
 
「ロベール自身は素人か。少しは訓練を受けたかも知れんが、戦闘能力は低いだろう。手引きした奴らと接触する前に押さえたい。捜索の現状はどうなってる?」  
「陸路は警察に協力させて完全に押さえました。鉄道は貨物も含め停車させて調べ、道路は検問を敷いて人・馬・車を問わず徹底的にやっております。ですが、一番高い可能性は水路でしょう」  
彼は何の変哲も無い民家の前で車を止めた。  
「わかった、良くやったな。関連する役所や機関には鼻薬を嗅がしてあるから、苦情なんぞ気にせず思いっきりやれと伝えてくれ。俺は船に乗って上流を指揮する。下流は任せるから連絡急げ。無線はロベールを見つけた場合のみ許可する」  
「わかりました」  
部下が車を降りて民家の中に吸い込まれるのを確認し、サンソンは車を急発進させる。  
 
ボルベックの市街地は狭い。少し中心部から離れると石畳の道など無く、未舗装の道ばかりだ。車は土煙をあげてセーヌ川方面に走る。当たり前の乗用車が出すスピードなど、とっくに超えていた。  
カーブや交差点では細いタイヤが簡単に悲鳴をあげ、車体が右に左に滑り続ける。それでもサンソンはアクセルを踏み続けた。  
やがて車は小さな運河の船着場に突き当たる。サンソンは車を捨て、船着場の掘っ建て小屋に飛び込んだ。  
 
「すぐに出すぞ。セーヌ川に出たら通信用ワイヤーで各艇を繋げ。聴音機の使用を許可するが無線は使うな。準備急げ!」  
小屋に詰めていた15名ほどの部下達が一斉に船へ散る。  
彼等が乗り込んだ船は、どう見ても動力など無い漁船。それも帆にホツレが目立つボロ舟だ。それが突然くぐもったエンジン音を響かせ始めた。  
「各艇判断任せる。エンジンが安定した順に出せ! セーヌ手前の堰でワイヤーを繋ぐぞ。照明は可能な限り絞れよ!」  
サンソンがエンジン音に負けまいと叫ぶ。各艇のエンジン音が一段と大きくなり、彼の乗船する艇を中央にして出艇した。  
ものの数分でセーヌ川と合流する最終堰に到達した。各艇をワイヤーで繋ぎながら最後尾の艇から1名が下船して堰を開く。  
「ワイヤードラムの解除は確認したな? 最大間隔を500mとして散開。行くぞ!」  
最後尾の艇を除いて全艇が闇の中に消えてゆく。  
 
「聴音機を起こして、下流の散開状況を確認しろ」  
サンソンは艇長に指示を出しつつ、有線通信機の受話器を取る。  
『所長、一番艇配置に着きやしたぜ』  
受話器を取るなり一番艇の艇長から報告が入った。  
「お前、察しが良すぎだ! 脅かすんじゃねぇ!」  
『『『『がはははははっ!』』』』  
有線通信機は各艇と繋がっているため、全艇から笑いが起こった。  
「所長、下流に5隻の不審船を確認。エンジン音照合・・・なんだ、うちの船ですぜ。下流も展開終了したようです」  
ヘッドホンを装着した船員がつまらなそうに報告した。  
「1番艇と最後尾の5番艇は岸から100m位を維持しろ。岸の監視はお前らに任せた」  
『『了解』』  
「全艇エンジン停止。聴音機で下流を調べ、異常が無ければ上流へ向かう」  
スローだったエンジンが完全に停止した。聴音機を操作する船員が、どんなに小さい音も聞き逃すまいと操作盤の前で目を閉じる。  
 
突然、二番艇から連絡が入った。  
『所長、下流に水切り音。おそらく帆船』  
一番艇からも入電する。  
『こっちでも確認しましたぜ。』  
サンソンは即座に反応した。  
「三番、四番、五番、水切り音を確認したか?」  
少し間を置いて返事がくる。  
『『聞こえません』』 「ちょっと待て・・・やばい、微かに聞こえる!」  
サンソンが乗る三番艇の船員が悲鳴をあげた。  
一番艇と二番艇の間隔は約300mと近い。三番艇の感度が低いのなら、目標は対岸に近い。  
「一番艇、二番艇、三番艇、感度を比較して目標の位置を確認、急げ! 全艇エンジン始動!」  
エンジンが始動し、下流に向けて船体が加速する。  
『所長、目標の距離、二番艇から2000m! 対岸まで約400m!」  
もし、目標が動力船ならば捕捉は難しい。サンソンは全艇に指示を出す。  
「全艇聞いたな? 全速で目標に向かえ。二番艇は照明弾の用意。距離500まで近づいたら撃て!」  
 
有線通信機を艇長に任せ、ライフルのケースを握り甲板に上がる。サンソンは大口径自動装填ライフルを組み立てつつ、目標が敵でない事を、そして敵であっても殺さずに済む事を祈る。  
船体が速度を上げてゆく。短く刈った髪が、風にとられてなびいた。  
「所長、二番艇から入電。目標まで1000で不審船エンジン始動!」  
艇長の報告に、聴音していた船員も叫ぶ。  
「こちらも確認しました! 対岸まで約300!」  
 
目標にこちらのエンジン音が聞こえたのだろう。ならば目標はおそらく敵。サンソンは進行方向の闇を凝視する。  
風切り音に混じって微かにエンジン音が聞こえた。  
「二番艇、照明弾撃ちます!」  
艇長の声と同時に前方の上空で照明弾が光った。それを直視しないよう前方を見ると、約500m先に黒煙をあげて疾走する木製の不審船を見つけた。  
一番艇と二番艇は対岸に回り込もうとしているが、間に合う距離ではない。しかも不審船の甲板上に、ライフルを構える敵がいた。  
サンソンは覚悟を決める。  
 
「一番艇と二番艇に照明弾を上げ続けるよう指示を出せ。俺が撃つ!」  
艇長が有線通信で指示を伝えている。サンソンは完全被甲弾の弾倉をライフルに装填した。  
大口径ライフルの威力は凄まじい。位置さえ特定できれば、壁に隠れる敵でさえ殺傷できる。弾丸は壁に大穴を開け、尚且つ殺傷力を失わないのだ。  
その威力を持ってすれば、木製の船体など紙のようなもの。  
よしんば鉄板を張ってあるにしても、そんな装甲では直径25mmの完全被甲弾を防ぐ事など出来ない。  
 
サンソンは全長2mを優に超えるライフルを軽々と持ち上げ、甲板上の銃座に固定する。  
どんな怪力の持ち主であっても、このクラスのライフルを手で構えて連射するなど出来る訳が無い。  
もし立射すれば、運が良くて反動で後ろに飛ばされて転び、運が悪ければ肋骨なり鎖骨なりをへし折ったあげく折れた骨が肺に突き刺さり、口から血を吐きながら失血死するだろう。  
このライフルは銃ではなく、むしろ砲と呼ぶべきなのだ。  
 
照門を覗いて船橋を探す。彼は船橋の窓に操舵輪を操る船員の後頭部を見つけた。照準を合わせて引き金を引く。  
 ドムッ!  
銃座に固定してもなお伝わる射撃時の衝撃。排夾と同時に、シューッと熱いガスが噴き出す。弾丸は船橋の上部ギリギリに着弾した。  
初弾は照準の微調整。サンソンは着弾位置のずれを目測で修正し、照準を船員の頭部から50cm程下げる。  
火点が見えたのだろう、不審船上でライフルを構える男が銃口をこちらに向けた。だが、無視して引き金を引く。  
 ドムッ!・・ドムッ!  
油圧の緩衝装置が装弾速度を落としている。次弾装填まで僅かな間が空く。  
しかし、初弾で船橋に大穴が開き、次弾で船員の胴体がグチャグチャになって操舵輪に叩き付けられたのを照門越しに確認した。  
同時に舵が狂い不審船が左に大きく曲がる。サンソンはエンジンがあるだろう船体後部に照準を合わせ、再び引き金を引く。  
 ドムッ!・・ドムッ!・・ドムッ!・・ドムッ!  
船体後部に4発連射した。だが船体は止まらない。どうやらエンジンは船体後部ではなく、船体前部にあるようだ。サンソンは弾倉を取替え、船体前部に照準を合わせて撃つ。  
 ドムッ!・・ドムッ!・・ドムッ!・・ドムッ!・・ドムッ!・・ドムッ!・・ドムッ!  
7発連射した。銃身が熱でたれたのか、着弾位置にばらつきが目立つ。それでも完全被甲弾はエンジンを貫いたのか、目標の速度が落ちた。  
そして対岸の30mほど手前で船体が爆発した。弾が燃料タンクに当っていたようだ。  
 
照明弾の炎と不審船の爆発で、辺りが一瞬だけ昼間のように明るくなる。そのとき、対岸に銃を構えた2つの人影を見つけた。  
 
弾倉を取り替えたサンソンは、彼等にも容赦なく引き金を引く。  
 ドムッ!・・ドムッ!・・ドムッ!・・ドムッ!  
4発で二人を仕留めた。体が弾けて彼等は絶命した。  
 
下流を捜索していた仲間の船と四番艇・五番艇は、念のためにライトで両岸を捜索中。その明りが点々と見える。  
一番艇は対岸に接岸し、不審者を調べ始めていた。二番艇も不審船の残骸を調べている。  
サンソンの乗る三番艇は不審船と岸の中央に位置し、万が一の事態に備えた。  
「所長、二番艇から連絡入ってます」  
艇長から有線通信機の受話器を受け取る。  
「・・・・俺だ、何かわかったか?」  
サンソンの声は暗く沈んでいた。  
 
 
『書類の入ったケースを見つけましたぜ。持ち主らしき野郎が、近くで縛られて浮かんでます』  
「縛られて浮かんでいる?」  
意味がわからずオウム返しに聞き返すと、二番艇の艇長が呻く。  
 
『拳銃で頭を打ち抜かれて・・・船内で殺されたんだ、畜生どもに!』  
 ガンっ!  
受話器の向こうで、何かを蹴り飛ばす音がした。  
 
サンソンは甲板に上がる。  
不審船を見ると、ロベール・ワセージュらしき縛られた男を収容しているところだった。  
その近くに、敵と思われる死体が2体浮かんでいる。  
 
(俺はロベール・ワセージュを殺すために船を撃った。それなら、ロベールを殺した奴等と俺と何の違いがあるんだ?)  
彼は死体から目を背ける。  
そこには不審船を破壊したライフルがあった。  
 
サンソンはライフルの銃口を己の頭に押し付けて、引き金を引きたくなった。  
 
 
ロベール・ワセージュの事件の翌日  
火曜日の午後3時、ラルティーグ家の台所  
 
「あっはははははははは・・・・ひぃっ・・・ぷーーーーーっ!・・・きゃはははははははっ・・・」  
 どんどんどんどんどんどんどんどんっ!  
ナディアの息子達が、笑い転げながらテーブルを叩きまくる母親を心配そうに見つめている。  
彼女の向かいに座る少女は、頬をプクプク膨らませてナディアを睨みつけた。  
 
サンソンが出張でベルギーに行ってしまったので、マリーはナディアの家に預けられていた。  
娘は一向に進展しない父親との関係に思い悩み、ナディアに相談することにした。そして今までの経緯をぶちまけた。  
最初は真面目に聞いていたナディアだが、マリーの話が進むにつれて俯き身を震わせ始める。  
サンソンを誘惑しようとして失敗した話を語り終えるころ、どうにも堪えきれず笑い転げ、今に至っていた。  
 
「ナディア、わたしの不幸がそんなに面白い?」  
何とか気を静めようと、テーブルの上に手を置いて拳を握り締めるナディア。  
マリーが真剣なのはわかる。だが、その内容は笑い話にしか聞こえない。いまマリーを見れば絶対に大笑いしてしまう。  
ナディアは下を向き、肩をこわばらせて堪える。  
相談相手が落ち着いてきたので、マリーは再び話はじめた。  
「一昨日、雷が鳴ったでしょ? だから、雷のせいにしてサンソンの部屋に忍び込んだの」  
・・ぷっ!  
ナディアがふき出した。  
ギロっと睨みつけるマリー。  
「あっ、なんでもない、なんでもないのよ・・・ほら、そんなことより、サンソンさんの部屋に忍び込んでからどうしたの?」  
なんとか誤魔化そうとするナディア。子供達は母親の狂態に恐れをなして、自分達の部屋に逃げ込んでいた。  
マリーは釈然としないものを感じながらも仕方なく話を続ける。  
「ベッドに潜り込んだのは良いんだけど、サンソンったら気付きもしないのよ。だからわたし、思い切って抱きついちゃった」  
なんだか次の展開が読める気がするナディアは、笑わないように気を引き締めた。  
「ええ、それで? ・・・んぐっ!」(笑い出さないように唇を噛んで身構えたのはいいが、強く噛みすぎてしまった)  
「そしたらサンソンも抱き返してくれて、背中を撫でてくれたわ」  
今までとは違う展開に、ナディアは顔をあげた。  
 
「それで・・・どうなったの?」  
マリーの表情が憂いた乙女のものになった。ナディアの期待は高まる。  
「ぽんぽん背中を優しく叩かれて・・・子供をあやすみたいに、雷なんか怖くないぞって慰めてくれた」  
 ぶーーーーーっ!  
意表を突かれたナディアが盛大にふきだした。  
だが、マリーは意に介さない。それどころか何かを耐えるように身を固くしている。  
「わたし、サンソンにとっては何時までも娘なのね・・・どうすれば娘じゃなくて、女として見てくれるんだろう」  
(この子は、この子なりに苦しんでいるんだ)  
ナディアは思い悩む少女をどこか懐かしく感じていた。  
「サンソンさんのこと好き?」  
コクンと素直に頷くマリー。  
「サンソンはわたしの為に色んなことをしてくれたよ。でもね、そのせいでサンソンは自分の人生を捨てちゃった・・・わたしなんかのために全部捨てちゃった」  
「マリー・・あんた・・」  
勘違いをしている、とナディアは少女に言おうとした。だが、マリーがそれを遮る。  
「だからわたしはサンソンに好きになってもらわなくちゃダメなの。愛してもらわなくちゃいけないの! そうでなきゃ何にもしてあげられないもん」  
この娘の心はなんて幼いんだろう。ナディアは少女を見つめて呆れた。  
「・・・まあ・・・どうにもならないんじゃない?」  
あっさり、さじを投げる。  
ナディアも子供の恋愛ごっこに付き合うほど酔狂ではない。  
「わたしじゃサンソンと釣り合わないって言うの? サンソンが好きだって気付かせたてくれたのはナディアじゃない」  
顔をあげて縋るような視線を向けるマリー。  
「今のあんたじゃサンソンさんは相手をしてくれないわ。あんたは好きだって理由をこじつけて逃げてるだけ。もし、うまくいったとしても二人とも不幸になるだけよ」  
食って掛かろうとするマリーを制して、ナディアは続ける。  
「その理屈なら、あんたじゃ無くても構わないわ。本当にサンソンさんを好きになってくれる女性が現れたら良いのよ。ふふっ、実はねぇ・・サンソンさんを紹介してくれっていう女の人は沢山いるのよ? あんたより歳の近い素敵なひとを紹介しなくっちゃ!」  
ナディアは住所録を引っ張り出して、あれこれ考え始めた。『このひとはダメ。このひとはお似合いね』と、楽しそうに女の名前をメモに書き写してゆく。  
 
「やめて・・お願いだからやめて!」  
マリーは、そのメモを掴んで握りつぶした。ナディアは冷たい視線を少女に向ける。  
「そうだ、あんたの後見人のグランディスさんとエアトンさんに話をしておきましょうね。サンソンさんを後見人から外してもらって、親権者を立ててもらわなくちゃ。サンソンさんが結婚するなら、マリーはイギリスに行ったほうがいいかしら。さっそくグランディスさんにお願いしてくるから、ちょっと留守番を頼むわ」  
そうして席を立ち玄関に向かおうとした。だが、マリーがナディアを引き止めた。  
「やだ・・サンソンと離れたくない。ほかの女になんか渡さない。サンソンはわたしのひと。絶対誰にもあげない・・・」  
少女は台所を出ようとする女の手をきつく握り締める。その瞳には、狂気にも似た色が宿っていた。  
 
「サンソンさん、あんたが恩を返すために誘惑してたって知ればどう思うかしら。怒るよりきっと悲しむだろうな」  
ナディアは振り向いてマリーを見つめ唇にキスをした。別に他意は無い。脅かしたことへのナディアなりの謝罪だった。  
突然の口付けに驚いた少女は掴んでいた手を離す。  
「好きなら好きで良いじゃない。それだけをサンソンさんにぶつけるの。いつかきっとサンソンさんもマリーを愛してくれるわ」  
少女は唇を押さえて数歩後ろに引き下がった。  
(そういえばナディアって、グランディスさんとあんな関係なんだ・・・もしかして、わたし襲われちゃうの?)  
貞操の危機にマリーは怯える。  
「酷いこと言ってごめんね。でも親は子供に恩を返してほしくなんか・・・・ちょっとマリー、あんたどこへ行くつもりなの!」  
ナディアは台所を逃げ出そうとするマリーの肩を掴んで引き戻した。  
(やっぱりそうなのね・・・わたしを食べちゃうつもりなのね!)  
マリーはナディアの戦闘能力を熟知していた。ナディアにかかれば、ジャンなど文字通り瞬殺されてしまう。  
普通の女の子が敵うわけ無い。マリーは賭けに出た。  
「やめてっ! 犯さないでぇーーーむぐっ・・・」  
慌てて、手で口を塞ぐナディア。その手に噛み付くマリー。  
少女の理不尽な勘違いに腹を立て、ほんとに犯したろかと思い始めるナディア。  
マリーは高まる貞操の危機を敏感に察知して、玄関目指し走り出す。  
外に逃がしたら、どんな噂が立つか分らないので、ナディアはマリーの首根っこを掴んで引き戻す。  
その後、ふたりの攻防戦は、いつ果てるとも無く続いた。  
 
 
マリーの誤解も何とか解けた、ロベール・ワセージュ事件から四日後の火曜日  
午後8時のラルティーグ家台所  
 
テーブルを挟んでナディアが熱弁をふるい、マリーは何やらノートに書き込んでいる。  
「・・・ここまでは良いかしら。これで一般的男性論は大体教え終わったわね。じゃあテストしてみましょうか・・・マリー、これまでの事を要約してみなさい」  
マリーはノートのアンダーラインを引いた箇所に目を通し、まとまった思考になった所で言葉にした。  
「えっと・・・男性は基本的に母体回帰を求めています。でも母の胎内へ還る事ではなく、むしろ乳児期〜幼児期の絶対的に守られていた自分、そして際限なく甘える事ができた自分に戻る事を望んでいるんだと推察できます」  
ふんふんとマリーの言葉に頷くナディア。マリーは己の推論の正否を問うようにナディアを見つめる。ナディアは視線で続けるように促がす。  
「その一方で己の優位と正当性を誇り、他者を圧倒することも望んでいます。この自己矛盾が男性の男性たるゆえんとも思われる節があります。男性の持つ父性とは、ある意味ここから派生したとも考えられます」  
少女の言葉はナディアを満足させるに十分だったようだ。彼女は己の仕事に満足したのか、笑みを浮かべて出来の良い生徒を褒める。  
「今のはあなた独自の視点ね。とても良いところに目をつけたわ。父性には確かにそんな側面が見られる・・・ええ、男性の庇護意識を分析する為の重要な材料だと私も思うわ」  
 
(傍から見ていると、なんだか大学のゼミみたいだ)  
ふたりの様子を居間から見守るジャン。彼は学歴を偽って入学した大学の1年間という短い期間を懐かしく思い出していた。  
もっともジャンの場合、いきなり院生として入ったのだ。もとから経歴に箔をつける為だけのものだったから、特に学んだ事も大学生活に対する感慨も無い。逆に開発研究室との2足の草鞋が大変だったのを思い出して彼は顔をしかめた。  
ついでにナディアとマリーが何故こんなことをしているかという理由まで思い出し、今度は頭を抱える。  
 
食卓では相変わらずマリーが発言し、ふんふんナディアが頷いていた。そして重要な事柄を別の行動計画案に書き写してゆく。  
やがて今日のゼミも終わりに近づいたのか、ナディアがまとめに入った。  
「じゃあ、これからの行動指針も自ずから見えてきたと考えて良いわね」  
力強く頷くマリー。彼女は食卓に広げられた行動計画案から重要な項目をピックアップして読み上げる。  
 
「第一ステップとして、わたしが朝食を作り始めます。ただ、このインパクトは比較的短時間で解消される可能性が高い。  
・・・・だから最初のうちは調理に失敗して初々しさを印象付け、徐々に味を向上させて健気な努力を対象者に認めさせます。  
その次の第二ステップは毎朝優しく起こしてあげる事です。また、第一ステップとの複合でさらに高い優位性が生まれるのも  
ポイントかと思われます」  
 
ナディアは破顔して生徒を褒め称える。  
「素晴らしいわ、マリー! でもね、行動計画案に縛られちゃダメ・・・この計画には、その場に応じた自由な発想に基づく無限のバリエーションがあることを絶対に忘れないで。拙い料理や掃除や洗濯なんかでサンソンさんの庇護意識をくすぐりながらも、精一杯の母性で包んであげる。これこそ、この計画の意義なのよ!」  
「はいっ!」  
ナディアとマリーは食卓の上で力強く手を握り合った。握り合った手の下の食卓には、先ほどの行動計画案がある。  
 
その最上部には、  
 
 『幼な妻計画』  
 
と、文字が踊っていた。  
 
「次は実技よ。今から料理の特訓を始めるわ。サンソンさんはイタリア出身。イタリア人の男はみんな重度のマザコンよ。マンマ、マンマって煩わしいったらありゃしない!」  
「・・・・サンソンはマザコンじゃないと思う」  
マリーは恨めしそうに抗議した。だがナディアは目尻をキュウっと吊り上げてマリーを威嚇する。  
二児の母になり穏やかになったと評判のナディア。平素の彼女は、それを裏付けるように垂れ目がちだ。  
しかし今のナディアの目は猛禽類が獲物を狩るときのそれに見える。恐怖に思わず半歩ほど後退りするマリー。少女の体感温度が5℃ほど下がった。  
もしかすると、ナディアはマリーが誤解したのを根に持っているのかもしれない。  
「・・・まあ良いわ。マリー、あなたには同じくイタリア出身のグランディスさんから教えてもらった様々な調理方法を伝授します。  
厳しい特訓になるけれど、しっかりついてくるのよ!」  
「はいっ、ナディア!」  
マリーは直立不動で返事をした。  
 
 トントントントントントントントン  
台所から、食材をきざむ包丁の音が聞こえてきた。  
 ジャーーーーっ! ザっザっザっ・・・・ぐつぐつぐつぐつぐつ  
フライパンで何かを炒める音、フライパンを振って料理途中の食材をひっくり返す音、鍋で何かを煮るあやしげな音。  
そして、ツーーーーン!って感じで、鼻の粘膜を痛めつけるほど辛そうな香辛料の臭気が強烈に漂ってきた。  
あいかわらず居間で頭を抱え続けるジャン。彼は出張中のサンソンに心の底から同情した。  
 
 
土曜日の午後1時過ぎ、天気はちょっと荒れ模様。  
 
サンソンの探偵社に向かうマリーは溜息を吐く。風に流された雨が、キルトスカートの裾を湿らせて重く纏わりつていた。  
グレーのキルト生地が雨に濡れて紺色に染まり、見た目にも少し鬱陶しい。赤みの濃いオレンジ色の薄いセーターで、全体が暗くならないように気を配ったのも無意味になってしまった。  
風に飛ばされそうなブラウンのショールを押さえて、マリーは空を仰ぎ小さく舌打ちをする。  
 
ボルベックの駅を横目に道を南に折れて、大通り沿いの商業地に入った。小規模ながらも工業地を形作るだけあって、それなりの賑わいを見せている。  
化学、製鉄、部品、自動車、商社などの事務所が入っている大きな建物。ブティックやテーラー、宝飾品店にレストランなどの小奇麗な店舗。小さいけれどデパートだってある。  
マリーは宝飾品店の飾り窓で足を止めた。その視線を辿ると、トルマリンのペンダントに行き当たる。淡いピンクに発色しているから、たぶんルペライトなのだろう。やや小粒ではあるが良い色合いだ。  
簡素な飾り付けの銀細工の台がトルマリンを引き立て、とても可愛らしい逸品に仕上がっている。  
「・・・・きれい」  
マリーは溜息混じりにそう呟いた。それを己に飾ったときの事を思うのか、ショールを押さえていた手を、柔らかな膨らみの合い間に添える。その指先にカメオのペンダントが触れた。  
すると少しだけ物欲しそうだった表情が、満たされたものに変わってゆく。ショールを肩から降ろし、マリーは宝飾店のウィンドウに己の姿を映し見る。  
 ふふっ!  
くすぐったそうな笑みを残して、マリーは宝飾品店をあとにした。  
 
華やかな大通りの半ばまで歩くと、通りのはずれに、場違いに小振りで地味な建物が見える。サンソンの探偵社だ。  
マリーの歩みが知らず知らず速くなった。小走りぎみの歩みで玄関の前に辿りつく。彼女はひさしの中に身を入れ、傘をぱさぱさ振って水を切り、事務所に入る。  
 
「こんにちはー」  
今日は土曜日だから、事務の人達は帰ってしまったはず。だから返事が帰ってくる筈も無いが、一応マリーは挨拶をした。  
「よお、久しぶり」  
「きゃあっ!」  
まさか返事が戻るとは思ってもいなかったので、マリーは悲鳴をあげる。慌てて声のした方をみると、航海長がいた。  
「大声をだすことはないだろう。 一年ぶりなんだから『お帰りなさい』くらい言ってほしいところだな」  
「おめぇが行き成り声をかけるからだろう。なぁ、マリー」  
今度は操舵長が階段から顔を出した。  
「お帰りなさい! ふたりとも、やっと戻ってこれたのね!」  
喜色を浮かべて二人の手を取る。でも、彼等は困った顔をして視線を逸らした。  
 
「いや・・・それが、艦隊に復帰せにゃならんのだ」  
と、操舵長。  
「私も・・・その、東アフリカに・・ちょっと用があってな・・・」  
と、航海長。  
「でも、しばらくはボルベックにいるんだよね? 今日はうちに泊まるんだよね? わたし、ちょっとだけピアノ巧くなったよ。聞いてくれると嬉しいな。それから学校や友達のことも教えてあげる!」  
弾けそうな笑みでふたりの手を引くマリー。操舵長と航海長の表情が曇った。  
 
操舵長は政府の肝いりで海軍に入隊した。現在は提督付きの参謀として務める一方、各国軍部の情報収集にあたっている。  
航海長は堪能な語学と不可思議な存在感で商社を仕切っている。おまけに何を好きこのんでか、自ら買い付けで方々に奔走いる。もちろん、買い付けに行った先々では各国企業の情報を収集していた。  
操舵長は喪った家族の事が忘れられず、ひとり身を通している。航海長も気侭な一人暮らしが良いなんて言ってるが、本心は知れたものではない。  
だから、ふたりともマリーを娘のように可愛がった。もちろんマリーもふたりに懐いていた。  
 
「俺は、こいつと一緒に今晩出港の連絡艇で艦隊に合流する。14時の汽車でル・アーブルに戻る予定なんだ」  
操舵長は必要最小限の言葉で別れを告げる。彼とて寂しいに違い無い。  
「14時って・・もう行っちゃうの? そんな・・・相談したい事だってあるのに・・・」  
航海長がニヤッと笑う。  
「さっそく本音が出たな。エーコーから聞いたよ、サンソンをお父さんって呼ぶの止めたんだってな?」  
マリーがパアっと顔を朱に染め、・・それは・・とか、・・えと・・とか、モゴモゴ口ごもる。  
「この10年、あいつは父親として生きてきた。いまさら簡単に他の生き方を選べやしない。それだけは解ってやれ」  
マリーは操舵長の言葉を理解出来ないでいた。航海長はそれをもどかしく思い、つい余分な言葉を言ってしまう。  
「サンソンは遊び以外の目的で女を見ようとしない。あいつはお前の為に男としての時間を捨てたのさ。マリー、時間は巻き戻せやしない。お前がサンソンの捨てたものを拾ってやれ。そしてあいつを救ってやってくれ」  
「馬鹿野郎! 妙なこと言うんじゃねえっ!」  
航海長は自分の失言に気付き、慌てて少女の様子を伺う。俯くマリーの顔色は青ざめて、肩を落としこぶしを握りしめていた。  
「でも・・・わたし、なんにもできない・・・」  
そして、ひとつふたつ涙を零す。慌てふためく航海長。それを蹴飛ばす操舵長。  
「すまない、俺が無神経だった。だがな、サンソンを男に戻しやれるのはお前だけなんだよ」  
そう言って航海長はマリーの頭をグリグリ撫でる。  
「あいつは他の女には見向きもしないねぇよ。あいつにはお前しかいないんだ。そうだ!マリー、今日はチャンスだぞ。しっかりサンソンを口説き落としてこい!」  
 
操舵長が少女を励ましていると、コツコツと階段を叩くヒールの音が辺りに響いた。  
「あら、お帰りなさいマリー。サンソンさんなら2階の応接室よ、早く行って顔を見せてあげなさい」  
ヒールの音はエレクトラのものだった。焦りまくる操舵長と航海長。マリーは涙を拭ってエレクトラに笑顔を向ける。  
「帰ってきたのね! よかったぁ・・・今週、ずっと出張だったから心配しちゃった。あっ、二人とも早く戻ってきてね」  
そして、二人には目もくれず階段を駆け登ってゆく。操舵長と航海長の扱いは、おまけクラスに急降下している。  
二人は階段を駆け上る少女を見送り、そのまま探偵社の玄関目指して、そろそろと歩き出す。  
だが、エレクトラはそれを見逃さなかった。  
 
「さて、お二人の心積もりを教えてくださいな。 少なくとも恋に悩む年頃の娘にいう言葉じゃありませんね。あの子が苦しめばサンソンさんがどんな思いをするか・・・これ以上彼に辛い思いをさせるおつもりなのですか?」  
まるで猛獣を前にしたかのように、歩みを止めたふたり。  
「いやぁ・・・ほら、俺たち汽車の時間があるから、そろそろ失礼させていただきますね?」  
その場を引きつった笑顔でごまかす事に決めた操舵長。  
「ジブラルタル経由で地中海に入るのでしょ? ル・アーブルの連絡艇はキャンセルして、トゥーロン港から乗艦なさい。わたくしから提督にお願いしておきますから、心配はいりませんわ。これから一緒にお話しをして、明日ゆっくり発ちましょうね」  
・・・ニッコリ・・・  
エレクトラの奇麗には奇麗だが、とてつもなく含みのありそうな笑顔。  
航海長と操舵長の脳裏に戦慄が走る。  
(エリザベス女王)・・と、航海長。 *海賊船保護や国家規模の権謀術策で有名な名女帝エリザベス一世のこと。  
(せ、西太后)・・・・・・・と、操舵長。 *言わずと知れた清朝末期の悪鬼の如きキングメーカーって言うか実質女帝。  
方向性は全く違うが、ふたりとも強権女帝を想像している。  
「「・・・はい、了解しました」」  
刑場に引き出される受刑者の気分を満喫して、操舵長と航海長は大きく溜息を吐いた。  
 
 
『まったく・・・済んじまった事を何時まで引きずってる積りかねぇ・・・』  
応接室のドア越しに皮肉混じりの女の声が聞こえた。  
(グランディスさんだ・・・うん、きっと仕事の話よ・・・)  
マリーはグランディスを前にすると、どうしても構えてしまう。彼女自身、別に含むものはない。だが、昔サンソンが好意を寄せていた相手だと思うと、居ても立ってもいられなくなってしまう。つまらない嫉妬だと分っているだけに、マリーには抑えようがなかった。  
『姐さん、いい加減にしてください。サンソンはロベールの家族を埋葬したばかりなんですよ!』  
(珍しいな、ハンソンおじさんがグランディスさんを怒るなんて。それに、『家族』とか『埋葬』ってなにかな)  
部屋の中にハンソンもいると知り、マリーは少しだけ安心した。でも、只ならぬ話の内容に、違う意味で心配になる。  
『ほぉー・・・ハンソン、あたしに意見しようなんざぁ、あんたも偉くなったもんだ!』  
『サンソンの気持ちを考えてくれと言ってるんです! 励ますにしても、言い方ってものがあるでしょう!』  
 バンっ!  
『止めんかっ!』  
(機関長のおじいちゃん・・・いまのバンって音、おじいちゃんが何かを叩いた音?)  
温厚な機関長が声を荒げ、何かにあたるのは珍しい。マリーは俄かに信じられなかった。  
『悪い事は言わん、仕事は部下に任せて2・3日休みを取れ・・・』  
『俺は大丈夫・・うっぷ・・・げ、月曜日に警備体制の見直しを含めて、機密保持の徹底を議題に・・・悪い、ちょっと席を外す・・』  
サンソンの絞り出すような呻き声。5日ぶりに聞いた父親の声が擦れた呻き声。マリーはドアを開けて、応接室の中に入った。  
 
「サンソン!」  
応接室には、グランディスとハンソン、機関長と科学班長が居た。そして目の前には酷い顔色をしたサンソン。  
「どうしたの、気持ち悪いのっ?」  
サンソンは一瞬笑おうとしたようだが、すぐに口を押さえてマリーの横をすり抜け応接室を出てしまった。少女は急いで後を追う。行き先は洗面所だった。中から吐き戻すような音がする。マリーは慌ててドアを開けた。  
サンソンが洗面台の前でうずくまっている。息が臭い。それに酒の臭いと、汗臭い体臭、それに胃液の臭い。  
「背中さするね。ネクタイ緩めるよ。Yシャツのボタンも外して・・・どう、まだ吐きそう? 我慢しちゃだめなんだからぁ・・」  
臭いなど気にせず背中をさすると、サンソンは吐き気を催したのか、洗面台にかじり付いて僅かな胃液を戻した。  
彼は荒く息を継ぎながら、苦しそうに胃の辺りを押さえている。マリーはスーツ越しに背を擦るのがもどかしくて、背広に手をかけた。  
「汗びっしょり! 熱も少しあるわ! 早く着替えて横にならなくちゃ・・・3階の仮眠室に行きましょ。階段登れる?」  
サンソンは返事の変わりに、心配そうに背をさするマリーの頭に手をのせる。  
 
廊下から機関長とグランディスそしてハンソンが、サンソンに肩を貸して階段を登るマリーの甲斐甲斐しい様子を、苦笑しながら見つめていた。  
「あいつにはマリーが一番の薬じゃろう・・・さて、わしは帰るか。あとで探偵社まで往診に来るよう藪医者に声を掛けておくから、マリーにそう伝えてくれ」  
そう言い残して階段を下りる機関長の足取りは確かだった。  
 
「あの爺さん、あれで70歳を超えてたわね。あたしも、まだまだ老けていられないか・・・」  
階段を下りてゆく機関長を、呆れ顔で見送るグランディス。ハンソンはそんな彼女の横顔を見つめる。  
「姐さんは年とか関係なく綺麗ですよ。僕なんて、40前だってのに誰も信じてくれませんからね」  
グランディスはハンソンを見て微笑む。  
「あんたは要領が悪いんだよ。開発室に入りたかったのに、わざわざ貧乏くじ引いて自分から社長なんか引き受けちまってさ・・・」  
「良いんです。浮世離れしたノーチラス号の乗組員達に、商売なんて出来るわけなかったから。それに金儲けだって面白いもんですよ?」  
グランディスは、そっとハンソンの頬に手を触れた。  
「馬鹿だねぇ・・・あんたも、サンソンも・・・あたしの仲間は、みんな不器用なんだから・・・・」  
その手に自分の手を重ねて、ハンソンは肩をすくめる。  
「器用な奴なんていませんよ。じゃあ、僕はサンソンの腹に入るような食い物でも買ってきます」  
そういって、階段を降り始める。グランディスは応接室で薄手のコートを羽織ると急いでハンソンの後を追う。  
小走りで階段を降りると玄関の手前で追いついた。  
「待ちなよ。老け顔のあんた一人で買い物ってのは、気持ちの良いもんじゃないからね」  
そして、ハンソンの腕に自分の腕を絡める。  
「・・・あたしも一緒に行ってあげるよ」  
グランディスは、小さな声で照れくさそうに呟いた。  
 
夜になるとサンソンの熱が上がった。  
この一週間、無理を重ねていたサンソンの体力はかなり落ちていた。そこへきて深酒をして、おまけに汗をかいたのに着替えなかったので、体が冷えて風邪をひいてしまったらしい。  
幸い貰った薬のおかげで、なんとか湯冷ましを飲めるようになった。しかし、飲んだ水分以上に汗をかく。  
 『マメに水分を補給しないと脱水症状になりますよ』  
船医の代わりに往診に来たイコリーナは、脱水症状に気をつけろと何度も注意していた。マリーはグランディス達が差し入れにくれたオレンジを搾る。  
「サンソン、オレンジを搾ったから飲んでね」  
オレンジを3個使ったフレッシュジュースのグラスを持ってベッドに近づく。  
吐き気は治まったが、胸焼けは相変わらず続いていた。でも娘が作ったジュースを断れるはずも無く、上半身を起こしてグラスを受け取る。さすがに一気に飲めないので、ちびちび口に含んで少しずつ飲み込んでゆく。  
オレンジのさわやかな酸味が口の中に広がり、意識がスッキリするような気がした。  
「・・・美味いな。何杯でも飲めそうだ」  
マリーはサンソンの肩に自分のショールを掛ける。  
「よかった。直ぐに搾るから、ほしくなったら言ってね。そうだ、グランディスさんが作ってくれたスープがあるの」  
グランディスのスープ! 当然のごとく、べらぼうに辛いだろう。  
「いや、スープは遠慮しておく。姐さんのスープは胃に辛い・・・マリー、晩飯は食べたか? 腹が減ってるなら何か作るぞ」  
いま何か料理を作れば、さぞや気持ち悪いだろうなと想像して、サンソンは少し顔をしかめた。  
マリーは首を左右に振る。  
「ううん・・・グランディスさんのスープとパンで済ましたから大丈夫・・・」  
彼女は何ひとつ料理ができない。自宅ではサンソンが食事の仕度をしていたし、グランディスやナディアの家に預けられたときは、それぞれの家主たちが作ってくれた。  
マリーはこんなときでもサンソンに食事の心配をさせてしまう自分を情けなく感じた。  
サンソンはオレンジのフレッシュジュースを、もう一杯搾ってもらうことにした。  
 
夜もとっぷりとふけた頃、サンソンの熱は更に上がっていた。  
呼吸は荒く、発汗量も多い。あまりの気持ち悪さに彼は目を覚ましす。どうやら、意識はハッキリしているが、頭痛と節々の痛みで体が自由にならないようだ。  
マリーは、吸い刺しに湯冷ましを入れてサンソンに飲ませる。ふた口ほど含んで止めてしまった。  
噴出した汗でシャツはグショグショだし、シーツも湿っている。マリーは着替えを用意した。  
「汗でシャツもパジャマもグショグショだよ。早く着替えようね」  
しかし、体の痛みで着替える気になれない。サンソンは首を振って着替えを拒んだ。  
だが、汗まみれでは体が冷える一方だ。もう、恥ずかしいなどと言っていられない。  
「脱がすからね!」  
マリーは覚悟を決めて、パジャマのボタンに手をかけた。  
「・・馬鹿、自分で着替えるから止めろ」  
ぜーぜー、荒く呼吸しながら抵抗するサンソン。娘の手を払いのけ、自分でパジャマのボタンを外す。  
しかし、袖を抜こうと体を起こす途中、酷い痛みでベッドに倒れこんでしまった。  
その衝撃で頭痛が激しさを増す。節々の痛みで身を丸くする。目が眩み吐き気を催す。  
「ぐっ・・ぅぅ・・・げぇっ」  
シーツを掻き毟って何とか吐き気を堪えた。マリーがサンソンの背中をさする。  
「ほら、無理じゃない。いいから、わたしに任せて!」  
彼は抵抗を諦めて娘に身を任せた。  
仰向けに寝ているので上手く袖が抜けない。マリーは手を引っ張って体を右に向けさせ、パジャマの袖を左手から抜く。  
今度は左に向けて、やっとパジャマの上を脱がす事が出来た。シャツは腰から手繰りあげて無理矢理脱がせた。  
 
「ついに、下半身を脱がすときが・・・やって、まいりました・・」  
節々が痛くて体を動かしたくないが、意識だけはハッキリしているサンソン。ヤケクソになって自分でナレーションを入れた。  
マリーの顔が真っ赤に染まってゆく。  
「バカ・・エッチ! 何で病人のくせに、からかう事には頭が回るのよ!」  
文句を言いつつも、布団と毛布を剥いでパジャマのズボンに手がかかる。  
 
「とうとうパンツに手がかかりました・・若干14歳の、うら若き、乙女によって・・いま、わたしの下半身、が露に、なろうと・・・」  
ニュース映画の弁士を真似て、実況中継をするサンソン。しかし気持ち悪くなって途中でやめた。  
「ほんっとうにバカなんだからっ! ねぇ、酷くなっちゃったらどうするのよぉ・・・おとなしくしてよぉ・・・」  
マリーの言葉尻が怪しくなってきた。これ以上からかうと泣いてしまう。サンソンは娘の手を取って軽く握る。  
「ありがとう、マリー・・・・もう、おとなしくする。からかって悪かったな・・・」  
そして娘の目を見つめて微笑んだ。マリーは拗ねたようにサンソンの目を見つめ返す。  
 
「じゃあ・・・一緒に寝ても良い?」  
「・・へっ?」  
「今晩、サンソンのベッドで一緒に寝かせて!」  
「・・・・・・はぁっ?」  
(なにを言ってるんだ、この娘は・・・)  
高熱に浮かされて頭が回らないサンソンは、漫然と問い直すだけだった。  
「いいもん! だめって言っても、わたしベッドに入っちゃうから!」  
そう宣言して、マリーはサンソンの腰に手を掛け、パジャマのズボンを一気にずり下ろした。  
その勢いでサンソンの全身をタオルでゴシゴシ拭う。手早く体を拭いた後で、奇麗なシャツとパジャマを着せようとする。  
しかし、こちらは重量差がありすぎて、マリーにはとても無理だった。潔く諦めた少女は、箪笥からタオルケットを引っ張り出してサンソンに掛け、その上から布団を掛けた。  
「わたしシャワー浴びてくるね!」  
娘が楽しそうだ。嬉々として部屋を出てゆくマリーを見送りながら、サンソンは吸い飲みを手にとって口に含み、仰向けでベッドに横たわる。  
なぜか気持ちよく眠りにつけそうな気がした。  
 
夜も明けるころ、サンソンは目を覚ました。  
 
よく眠っていたようだ。すぐには睡魔も訪れそうに無い。  
なぜか体の節々が痛む。熱に浮かされているのか、意識がぼぉっとしている。  
それでも天井を見て、ここが自宅ではないと分った。  
(そうか、事務所にいるんだったな)  
自棄酒を飲んで、おまけに飲みすぎが原因で体調を崩し、事務所でひっくり返ってしまった事を思い出す。  
そして己の馬鹿げた行為に苦笑した。  
「サンソン、起きたの?」  
マリーが耳元で囁く。右腕を枕にして、身体をピッタリくっつけている。  
「ああ、起きたぞ」  
右を向くと、微かな常夜灯の明かりに照らされる娘がいた。  
ブロンドに近い栗色の髪が、少し乱れて顔を隠している。左手の指でほつれを梳くと、薄くなったソバカスが淡く浮かぶ。  
ついっと指でソバカスのあとを追う。まるい目を大きく見開いて頬を膨らませる抗議の仕草。  
「おまえは可愛いな。こら、逃げるな!」  
悪戯されると布団の中に潜り込む、昔と変わらないマリー。  
逃げないように身体を引き寄せて、こちょこちょ脇をくすぐってみる。  
「ひゃうっ!・・・もう、くすぐったいよぉ」  
ちょっと身をよじってから抱きついてくるのも、いつもの懐かしい遊び。お尻をぺちぺち叩いて顔を出すように促がす。  
もぞもぞ動いて、マリーは布団の合い間から膨れっ面を覗かせた。  
「おい、そんな顔をしてると可愛い顔がだいなしだぞ?」  
機嫌を直すよう、小さな身体を包むくらいに抱きしめる。  
こうするとマリーは腹の上に乗ってくるのを、サンソンは思い出した。  
 
こうされると、息苦しさから逃れるため父親の上に登ったことを、マリーも思い出した。  
「苦しいよぉ」  
懐かしい台詞を口にしながら、布団をずらさないように気を付けて、マリーはサンソンの上に乗る。  
少しだけ身体を浮かせているので、隙間から冷気が布団の中に入り込んだ。サンソンの体が小さく震える。  
マリーは思い切って身体を重ねた。  
「・・ああ、懐かしい」  
子供のころ、怖い夢を見て泣いたあとは何時もこうして寝ていた。サンソンのパジャマをはだけ、自分もパジャマを脱いで、裸の胸に顔を埋め、大好きな匂いを胸いっぱいに吸い込んで眠りについていた。  
だから、いまはパジャマ越しなのが凄く悔しい。  
(脱いじゃおうかな。脱いじゃったら、サンソンどんな顔するかな)  
そんなことを考えて、クスッと笑う。  
「どうした?」  
気遣わしそうなサンソンの声。  
「なんでもない・・・それより、のど渇いてない?」  
中年男に身体を重ねる少女は、彼の裸の胸に頬を摺り寄せて訊ねた。  
「ちょっと渇いてるな。すまんが吸い飲みを取ってくれ」  
「吸い飲みのお水、昨日から換えてないの。新しい湯冷ましを入れてくるから少し待って」  
サンソンの体から降りて、ベッドを離れる。布団を掛け直して、サイドワゴンに置いた吸い飲みを取ろうと手を伸ばした。  
だが、サンソンがその手を押さえつける。  
小さい手をきつく握りしめる。  
 
「・・・・どうしたの?」  
しかし何も言わない。だた、無言で手を握るだけ。  
突然の事に、鼓動が早く打ちはじめる。  
なぜか男としてのサンソンを意識してしまう。  
それが怖い。  
いままで一度として、サンソンから生々しい男を感じたことが無かった。  
だから、とても怖い。  
春先に、少年から暴行されかかったのを思い出してしまう。  
「お水、これで良いの?」  
この場を何とか誤魔化すために、吸い飲みの事に話をすり替えようとする。  
「・・・・・・・ああ、それでいい」  
低い声。  
なんで気付かなかったんだろう。サンソンは父親じゃなくて男なんだ。  
おずおずと吸い飲みの口を唇に当て、水を少しずつ流してみる。  
ごくっごくっと、喉が大きく音を立てて動く。あっという間に水が無くなった。  
「水・・・汲んでくるね」  
サンソンから逃げたい。この男から離れていたい。  
その一心で言い訳が口を吐く。  
だが、手を離してくれなかった。それどころか、思い切り手を引かれて、ベッドの中に引きずり込まれてしまう。  
「やっ・・いやっ!」  
身体をベッドに押し付けられて、サンソンがのし掛かってきた。  
汗ばんだ男の体。  
その胸に両手を当て、押し退けようと力一杯伸ばす。  
しかしサンソンが肩を押さえつけているので身動きできない。  
もう覚悟を決めるしかない。  
父親に犯されるんだ。  
泣きたくなんか無いのに、涙がこぼれる。  
サンソンに両手を掴まれた。両腕を広げられてしまった。  
もうだめ。  
これでおしまい。  
 
・・・・・・あれ?  
なんにもされない。  
 
キスしてこない。  
おっぱい揉まれない。  
べたべた触ってこない。  
足開かない。  
お尻撫でない。  
あそこにも、なんにもしない。  
どこにもキスしないし、触ろうともしない。  
どうしたの?  
 
わぁ、わぁ、わぁっ  
胸に思いっきり抱きついてきた!  
 ・  
 ・  
 ・  
 ・  
「マリー」  
さみしそうな声  
 
「マリー」  
やだ・・・サンソン、声が震えてる。  
 
「マリー」  
・・・そっかぁ。  
 
お仕事で大変な事があったんだ。だから、お酒を沢山飲んで二日酔いになって・・・  
ハンソンおじさんが『家族』とか『埋葬』って言ってたけど、サンソン大丈夫かな。  
熱まだ下がってないのに無理に動いて気持ち悪くないかな。  
 
「おとうさん、ちょっと顔を見せて」  
久しぶりに、呼びかたが『おとうさん』に戻っていた。  
マリーはサンソンの下から両手を伸ばして父親の顔を挟み、正面を向かせる。  
サンソンの瞳は潤んでいた。  
涙のわけには触れず、マリーは父親の額に手を当てる。  
「熱が上がってる! 無理するからよぉ・・・ほら、重たいんだからおりて!」  
先ほどまでの怯えた様子はどこへやら。マリーは強引にサンソンを横へ転がした。  
簡単に転がり落ちる父親。少し体が震えている。  
「ほんっとうにバカなんだから! なんでおとなしく出来ないの?」  
文句をつけるマリーの瞳も、少し潤んでいた。  
彼女はベッドから降りると、吸い飲みを拾い上げて部屋の隅にある流しで洗い始める。  
ベッドの中から、サンソンが心細げな視線を向けていた。  
洗い終わった吸い飲みに、用意してあった湯冷ましを注ぐ。そして直ぐにサンソンの待つベッドに駆け寄った。  
「おとうさん、お水飲む?」  
彼は首を左右に振る。  
「いらないの? それじゃ少し待ってね」  
マリーは後ろを向き、パジャマを脱いで後ろ手にブラを外す。娘の白い背中を垣間見て、サンソンは視線を逸らした。  
脱いだパジャマを着直してから深く息を吸い、マリーはくるっと振り返って身体をベッドに潜り込ませる。  
「暖房切ってあるから寒いね。わたしが、あっためてあげる」  
そしてマリーは父親の体にのし掛かってゆく。  
「こら、やめるんだ!」  
マリーは両手両足をサンソンに巻きつけ、押し離そうとする父親に断固抵抗する。先程とは立場がまるで逆さまだ。  
いや、最初はマリーが父親の腹に登ったのだから、元に戻ったと言うべきか。2転3転する立場に、ふたりとも訳が分らなくなっている。  
 
「やだ! 絶対に離れないんだから・・・おとなしくしてっ」  
マリーは身体をずり上げ、引き剥がそうとするサンソンの手をかわし、彼の首に腕を回してしがみ付いた。  
やがてサンソンの力が弱くなってきた。狭いベッドのリング上で繰り広げられた、病人vs少女のシングルマッチは、力の差よりも体力に勝る少女がものにした。  
ふたりとも、肩で荒く息を継いでいる。「ゴホっゴホっ」と、サンソンが咳をする。  
「あっ、大丈夫? こっち向いて!」  
急いでサンソンの体を横に向け、背中に手を滑らせてさすった。  
「心配するな・・ゴホっ・・ちょっと噎せただけだ・・ゲボっ・・」  
なかなか止まらない咳に、マリーはベッドの上に座ってサンソンの背中をさすり続ける。  
父親の目前でパジャマ越しに揺れる娘の乳房。  
その小刻みにぷるぷる揺れるさまは、愛しくて、可愛くて、なんとも気恥ずかしい。父親は視線を娘の顔に向けた。  
マリーは真剣な表情で懸命に背中をさすっている。  
 
サンソンの瞳が再び潤んだ。  
彼の脳裏に酒の力に頼ってでも無理矢理に消化しようとした、ロベールの家族に対する罪悪感が込み上げてくる。  
ベルギーに渡り、すぐにロベールの家を訪れたが、そこはもぬけの殻だった。  
微かな痕跡を手繰り、なんとか妻子を見つけてみれば、彼等は既にこの世の人ではなかった。惨い殺され方だった。  
10歳に満たないような子供にまで施した余りに惨い残酷な仕打ち。さぞや苦しかっただろう、怖かっただろう。  
彼らの無念を思い、そして彼等を助けられなかった不甲斐なさを悔いる。犯人達への怒りが渦を巻く。  
しかし、犯人を追う手がかりは完全に途切れていた。ロベールを手引きした連中は、見せしめのためだけに彼の妻と子供を殺した。そして、サンソン達に惨殺したロベールの家族を見せ付ける為に、わざと手がかりを残したのだ。  
怒りや憎しみの行く先を完全に失ったサンソン。  
彼は思い知る。ロベールとその家族を殺したのは、サンソン自身でもあるのだ。  
だから酒に溺れるしか無かった。  
 
「おとうさん、おとうさん!・・・ねぇ、サンソン!」  
そして、いまのサンソンには、娘に縋るしかなかった。  
 
「・・・マリー・・・」  
心配そうに声をかけてくる娘の身体を壊れ物のように抱いて、その乳房に顔を埋める。  
先程は抵抗したマリーだが、今度は両手で優しく父親を抱き寄せた。  
「おとうさん、少し休もうね?」  
父親は娘の乳房に縋ったまま頷く。  
サンソンの全身を抱きしめてあげたい。このひとを慰めてあげたい。愛してあげたい。  
守られてばかりだった少女が抱く不思議な感情。湧き上がる初めての気持ち。  
娘は父親を抱きしめたまま、ベッドの上で仰向けになった。  
「ね・・・わたしの上に乗って」  
しかし、サンソンはマリーに重なろうとしない。どうしても娘に甘えきれない。業を煮やした少女はサンソンの体の下に自分の身を滑り込ませて、大きな体を強く抱きしめる。  
少しずつ重くなる父親の体。やがて彼女の全身にサンソンが重なっていった。  
「っ!・・・やっぱり、おとうさんは大きいね。ちょっとだけ・・苦しいよ・・」  
本当は凄く重い。マリーの倍は体重がありそうなサンソンだから、苦しいのが当たり前だ。  
「でも、嬉しい。身体が・・おとうさんで一杯になったみたい」  
 ビクン  
サンソンの体が震えた。彼は娘の乳房に埋めた顔を擦り付ける。  
お世辞にも豊かとはいえない、固さの残る双丘。それでも健気にサンソンの顔を覆いつくそうとする二つのふくらみ。  
彼は我を忘れて力一杯マリーを抱きしめた。  
 
「お・・とう・・さん・・」  
きしみをあげる華奢な肢体。苦しそうな娘の声。それでも口から漏らすのは父親をいたわる言葉。  
痛みに震える娘の手が、優しくサンソンの髪を撫でる。父親は娘の手が震えているのに気付いた。  
マリーが苦痛を堪えているのを知った。サンソンは腕を緩め、身を起こして娘の様子を伺う。  
少女は微笑み、父親の頬に手を添えていた。そして、そっと頬を撫でる。  
無精ひげをこすられる感触。少し冷たいマリーの手。  
慈愛にも似た瞳の色。  
サンソンは魅入られたように瞳を見つめ、娘に顔を寄せて唇を求める。  
マリーが瞳を閉じる。  
ふたりは口付けを交わした。  
唇が触れ合うだけの長いキス。  
やがてサンソンは唇を離し、マリーを見つめる。娘は満ち足りた笑みを浮かべていた。  
父親は娘に寄り添うように身を横たえて目を閉じる。なぜかマリーの香りに包まれているような気がする。  
サンソンは高熱に浮かされながらも安らかな眠りにおちた。  
 
 
朝になり、サンソンの家に誰もいないことを知ったグランディスは、ハンソンを誘って探偵社を訪ねた。  
ふたりは合鍵を使って中に入り、仮眠室を目指す。  
「姐さん・・・覗き見なんて趣味悪いですよ」  
仮眠室の前でハンソンはグランディスを嗜めていた。  
そおっとドアノブを握り、音を立てないようにゆっくりとドアを開こうとしていたグランディスは、ハンソンを睨みつける。  
「いいんだよ! あのふたりがどうなったのか、あんただって気になってるんだろ!」  
「まあ少しは・・・・・・いや、そうじゃなくって!」  
ハンソンの返事など待たず、既にグランディスはドアを開いている。  
彼女が様子を伺うと、ベッドの中で抱き合うサンソンとマリーがいた。だが、少女の様子がおかしい。  
グランディスは中に入りベッドに近づく。サンソンを抱きしめていたマリーがそれに気付いた。  
 
「グランディスさん・・・どうしよう、サンソンの熱が下がらないの・・・」  
父親を胸に抱きながらうろたえるマリー。  
グランディスはサンソンの額に手を当てたあと、慌てて彼の頬をはたく。  
「サンソン、サンソン! ほら、しっかりおし、サンソン!」  
だが、何の反応も無い。  
「あー、こりゃダメだねぇ・・・ちょいとハンソン! 悪いけど、デンギルの爺さんを呼んできておくれ!」  
「へいっ!」  
ハンソンが仮眠室を駈け出してゆく。  
それを確かめてから、グランディスはマリーの髪を梳かしてやった。  
「安心おし、こいつなら大丈夫。それより見てごらんよ、この安らかな寝顔・・・」  
マリーの胸の中で、サンソンは汗をかき呼吸を荒くしながらも、安心しきった表情を見せていた。  
まるで母に包まれているように。  
 
「ありがとう、マリー・・・・詳しい話は出来ないけど、サンソンの仕事は辛いことばかりなのさ。心が押し潰れてしまうくらいにね。  
だけど、お前が癒してあげたんだ。こいつの寝顔を見ればわかるよ。本当に良くやってくれたね、マリー・・・」  
グランディスにくしけずられる娘は、気持ち良さそうに髪を女の手にゆだねる。  
「昨日の夜・・・サンソンすごく寂しそうで苦しそうだったの。わたしも何だか辛くなっちゃった。そうしたら、おとうさんが可愛くて可哀想で愛しくて・・うまく言葉にできないけど、そんな気持ちになったよ。だからね、わたし・・・・・」  
少女の髪を撫でる手を休めて、グランディスは微笑む。  
「言わなくてもいいよ・・・それはね、お前も女だってことなのさ。女なら誰だって好きな男を癒してあげたいと思うものよ。今までマリーはサンソンに守られていたね。こいつだって、お前を守る事で自分の心を保っていたんだ。だけど、これからはそうは行かない。  
もう、こいつは限界なんだ。だからね、お前がサンソンを守ってやっておくれ・・・お願いだよ・・・」  
グランディスは己の瞳に浮かぶ涙を指で拭う。  
 
マリーは驚く。こんなわたしに、グランディスが頼みごとをするなんて信じられなかった。それも、サンソンを守ってくれだなんて。  
「わたし・・・わたしにできるのかな。おとうさんが好き、サンソンが大好き。でも、わたしに何ができるんだろう・・・」  
グランディスの瞳から雫がこぼれ落ちる。  
「馬鹿だねぇ・・・それだけで十分じゃないか・・・ありがとうよ、マリー・・・」  
マリーは顔をあげてグランディスを見つめる。  
グランディスが小さく頷く。  
そして、ふたりはサンソンに視線を移す。  
 
彼は安心しきった面持ちでマリーの胸に抱かれていた。  
ハンソンが船医を連れてくるまで、マリーはサンソンを見つめていた。  
 
 
 
中篇 終  
 
 
 
 
 

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