とても綺麗な人だ。  
 無心に窓の外を眺めるその横顔に、今更のようにそう思う。  
 病的な白い肌は、例えば健康美などとは程遠く。切れ長の目はその美を讃えるには鋭さに過ぎた。  
癖の無い長髪は艶やかに流れているのに、黄泉の淵を覗き込むかのようなその瞳のせいで、美しさの  
黒は不吉の黒へと転換されていた。  
 それでも。この人はとても綺麗だ。それはきっとこの人が―――。  
「アキト」  
「は、ハイッ!」  
 不意に、窓の外を眺めたままのイズミに呼ばれ、アキトは慌てて応えた。反射的に背筋が伸びる。  
「そんなに見つめられると、照れるわ」  
「あ、ス、スンマセン……」  
 微塵も顔色を変えずにいるイズミに軽く頭を下げる。ここ数ヶ月間の密会で、アキトはイズミが意  
外に正直な人間である事に気付いていた。表情に出ていないだけで、照れると言った以上は実際に照  
れているのだろう。愛すればこその理解である。  
「アキト」  
「あ、ハイ」  
 ようやく、イズミの顔が向けられる。そのまま暫し無言で見つめられ、アキトの背筋に緊張が走り  
始める。  
「………」  
「……? あの、イズミさん……?」  
 そう促すと、僅かに、ほんの僅かに目を伏せ、イズミは重々しく言葉を紡ぎ始めた。  
「あたしはそんなに付き合いづらい女だったの」  
「えぇっ!?」  
「こんなふうに逢うのは今夜が最後なのに……あなたは結局、最後まで緊張してばかりだわ」  
 
「あ、いや、コレは……」  
「嫌なら嫌と言ってくれれば良かったのに。あたしは責めたりはしない」  
「―――!」  
 確かに緊張する。正直言って付き合いづらい。何か沈鬱な面持ちをしているかと思えば、そのまま  
の顔で小学生でも言わないようなダジャレを口走ったり、かと思えばとても聞き取れないような小声  
で哲学めいた事を語り出したり。真摯に付き合っていると非常に疲れるのだ。  
 しかし、それでも。  
「俺はイズミさんと一緒にいたいから、ここでこうしてるんです。それだけはその、本心、だから」  
「そう言ってくれるのは嬉しいわ。たとえ言葉だけでもね」  
「お、俺は! そんな、言葉で気持ちを誤魔化したりしない!」  
 思わず立ち上がる。  
 確かに、今日で最後だ。ユリカとの結婚が間近に迫る今、周囲に怪しまれずに密会を重ねるのも限  
界だろう。この秘められた関係を、今夜、断つ。  
 最後に精一杯愛し合って、穏やかに別れよう。それが最善だと二人で決めた。その筈なのに。  
「……スンマセン、怒鳴っちゃって。でも、本当に俺―――」  
「この胡麻はあたしのもの〜、誰にも渡さない〜」  
「……へ?」  
 今の流れと何一つ関係無い言葉に、アキトの動きが止まった。イズミはわざわざ立ち上がって視線  
の高さをアキトと合わせて―――  
「胡麻、貸したりしな〜い……」  
「あ……」  
 力尽きたマラソンランナーのように、ガックリと肩を落とすアキト。頭上からイズミの声が聞こえ  
てくる。  
「さあ、最後の夜を始めるわ。何一つ悔いの残らないよう、時の許す限りあたしを愛して」  
 
 だったら始める前にこんなに疲れさせないで欲しい、とは口に出せないアキトだった。  
   
 白い肌を撫でる。触れればヒヤリと冷たいのではないか、そう幻想を抱かせる青ざめた肌は、しか  
し燃えるように熱い。  
 その熱い身体を、背後から抱き寄せる。余りに細い身体は容易に腕の中に納まってしまう。けして  
豊満とは言えない胸の双丘に手を這わすと、微かにイズミの吐息が聞こえた。幾度と無く繰り返され  
た、背中からの抱擁。互いの顔を見ずに愛し合うその様は、最後の夜であっても変わり無い。  
 例えばユリカ。人格と同様に自己主張の激しいその身体を抱く時、アキトはいつも圧倒される。あ  
の弾けるような嬌声も、感情のままに躍動する健康な肉体も、それらのすべてが止まぬ“喜び”を伝  
えてくる。おそらくユリカは幸せなのだろう。満ち溢れる幸福感が心身の枠を飛び出し、その肌に触  
れるアキトにも届くのだ。  
 しかしイズミは。その痩身は容易に不幸や悲しみといった情景を喚起させるが、むしろ気になるの  
はその顔だ。  
 笑顔を。見た事が無い。  
 人の迷惑を顧みずに連発されるダジャレの後の、熱病患者の痙攣のような笑い顔ならば、もう嫌と  
言う程に見た。だが、心の底から湧き上がるような本当の笑顔を目にする事はついに無かった。  
 嬉しくは無いのか。幸せでは無いのだろうか。  
 他の女と婚約まで済ませたような男と、夜毎人目を避けて逢瀬する。親しい者達を欺きながら。常  
人の感覚であれば、そこに喜びや幸福を見出せる保証は無い。イズミはどうなのだろうか。  
 アキトは短く息をつき、同情心にも似た下世話な疑念を振り払った。  
 いずれにせよ、今夜別れる自分に問える事では無いのだ。  
   
 指先で、汗に湿った乳房の先端を弄ぶ。首筋に軽く歯を立てると、息を詰めるような喘ぎ声。空い  
た片手を、ゆっくりと下降させる。微かに肋骨の浮いた脇腹を執拗に撫で回すと、喘ぎが緩やかな溜  
息に変わった。「骨に触られるのが好き」と奇妙な注文を受けて以来、必ず重点を置いて行う愛撫だ。  
 
「今更だけど、こんな趣味に付き合ってくれる男も……珍しいわ」  
「嫌いじゃないですから。こういうのも」  
 乳房を優しく揉みしだいていた手を、胸の谷間に押し付ける。硬い胸骨の感触。肋骨の曲線を確か  
めていたもう一方の手は、内腿の間へと潜り込ませた。やや薄めの茂みを掻き分けるようにして更に  
奥へと進ませると、指先がヌルリと花弁の内部に潜り込んだ。  
「………ッ……!」  
 ビクリ、と腰を引く過敏な反応。肉付きの薄い尻が押し付けられる。アキトは鋭敏な肉芽を直接は  
責めず、その僅か下のポイントで指先を震わせた。イズミのウィークポイントは既に熟知している。  
数ヶ月間の付き合いと言っても、その時間の大半はこの寝室で過ごして来たのだ。  
「…あ……っう……」  
 壁を掴んで鋭い快感に耐えるイズミ。クチュ、クチュ、と粘ついた音を立て始める。  
 いつもとほぼ同じ段取りでありながら、アキトはいつもより遥かに興奮している自分に気付いた。  
もう我慢できない。  
「イズミさん……ッ」  
「……ぁあっ!?」  
 常ならぬ性急さに意表を突かれ、細く狼狽した声を上げるイズミ。それに構わず、アキトは自らの  
怒張を一気に突き込んだ。乱暴な程の勢いで腰を叩きつける。それでも、イズミの身体は勢い任せの  
刺突を無理なく受け容れ、断続的な喘ぎ声から苦痛の響きが次第に薄れていった。  
   
   
 最初の内は、こうして二人でいられる残り時間などを何処か冷静さを残す頭で把握していたが、今  
はもう現在の時刻すら解らない。自分の上に跨って余韻に身体を波打たせるイズミを見上げながら、  
アキトは何となく意識が遠退くのを感じ始めた。今夜だけで何度放出した事か。  
「………どぉ?」  
「も、限界っす。さすがに……」  
 
「あたしももう疲れたわ」  
 アキトの隣りに身を投げ出すイズミ。二人分の体重に、ベッドが微かに軋みを上げる。そのまま二  
人して暫し無言で天井を見上げていたが、不意にイズミが口を開いた。  
「初めて……ね」  
「え?」  
「このベッドに二人で横になるのは」  
「あ。そう……言えば、そうですね」  
 時間を惜しんでの事と、イズミの好みに合わせて、立ったままでの行為ばかりして来た。事が済ん  
だら済んだで、今度は速やかに秘密裏に、この場を立ち去らねばならない。こんなにゆったりと、余  
韻を楽しんだ事は無かった。  
「なんか、もったい無かったですかね…?」  
「仕方無いわ」  
「……ですよね」  
 時計を見る。もう帰らなくてはならない頃合だ。  
 先にシャワーを済ませ、この部屋を出たら―――それでお終いだ。  
 それはいい。そう決めた事だから。ただ、最後に心残りが一つ。しかし。  
(……笑顔、見せて下さいなんて言えるかよ。アニメじゃあるまいし……!)  
 言おうか言うまいか、熱いシャワーを浴びながら迷い続けたが、結局決心は付かなかった。入れ替  
わりにイズミがバスルームに入る。  
 イズミがシャワーを浴びている間にこのまま立ち去るのが、いつものルール。それは今夜も例外で  
は無かった。  
 身支度を整え。ドアに手をかけ。二三歩室内に引き返し。  
 そしてアキトは部屋を後にした。今までそうであったように、何一つ言葉も見つからぬまま。  
   
   
 シャトルの発進時刻が迫りつつある。アキトもユリカも既に搭乗を済ませていた。今頃、これから  
始まる新婚旅行の段取りの再確認でもしているのだろうか。  
「あ〜、ここからじゃ遠過ぎ〜! シャトルが見えるだけじゃん」  
「まあシャトルの窓に張り付いてって訳にもいかねぇからな」  
 脇でヒカルとリョーコが何やら騒いでいる。新郎新婦にとってはこれから旅行が始まるのだが、見  
送る側にはシャトルの打ち上げがクライマックスである。騒ぎたくもなろうというものだ。  
 イズミは目を細めて空を見上げた。雲一つ浮いていない、まったくの晴天だ。シャトルが天を切り  
裂いて成層圏に達する様が良く見える事だろう。  
「でもホントに結婚しちゃったんだねぇ、アキトくん。これで良かったの? リョーコは」  
「あ、あの二人が決めた事なんだから、外野が口挟む筋じゃねぇだろ。いいも悪いもねぇ」  
 友人二人の会話が、なおも耳に届く。  
 リョーコがアキトへの想いを強く抑制していた事は、ヒカルも自分も知っている。知られていない  
と思っているのは当のリョーコだけだ。そうやって己を制する事の出来る友人には素直に感心する。  
「ま〜たまたぁ、無理しちゃってぇ! 式の最中にさらっちゃえば良かったのに。そして銀河の果て  
まで愛の逃避行〜」  
「バッ、てめぇ! テンカワと艦長の門出だぞ! ちったぁ真面目に祝福しろよ!」  
 ぎゃあぎゃあと騒がしい友人達を尻目に、イズミはただシャトルを眺める。  
 不意に。機体の窓の一つに、アキトの顔が見えた。  
 そんな筈は無い。シャトルの窓など、この距離では単なる黒い点だ。視力に自信の無い者にはそれ  
すら見えるかどうか怪しい。そこから誰かが覗いていたとしても、それが肉眼で見える筈など無い。  
 しかし。確かに見える。視線が合って。窓の向こうで一瞬、表情を曇らせて。それから。  
   
 アキトが、笑った。  
   
「おいイズミ、妙におとなしいじゃねぇか? どうせまたくっだらねぇダジャレでも―――」  
 自分に向けられた言葉が急に途切れ、イズミはリョーコに顔を向けた。見ると、リョーコもヒカル  
も呆けたような顔で視線を返して来る。  
「……何?」  
「いや、なんか……いい顔で笑ってやがんな、ってよ……」  
 リョーコの顔が、ゆっくりと笑顔に変わる。  
「ほぉーんと! イズミのそういう笑顔って、見るの初めてかも」  
 ヒカルも目を大きく見開いて驚いている。  
 自分では気付かなかったが、どうも自分は笑っているらしい。ならば先程ののアキトの笑顔も、自  
分のこの笑顔を見てくれたからなのだろうか。イズミは再びシャトルに向き直った。  
 思えば、今まで愛してきた男はすべて死んだ。アキトも同じように死んでしまうのだろうか。自分  
などに愛されたせいで。アキトに抱かれる度に、イズミは密かにそう怯えていた。  
 しかし今、アキトはあんなにも笑っている。  
 心配だった。アキトを笑顔で見送る事が出来るのか、と。心の底からの笑顔などとうに忘れてしま  
って、かつて自分がどのように笑っていたのかも思い出せないというのに。  
 しかし今、自分はこんなにも笑っている。  
 アキトの、そして自分の笑顔が、例えようも無く嬉しかった。  
   
 天高く、シャトルは昇る。  
 凄まじい速度で距離が開く。見えない筈の笑顔も、当然のように完全に見えなくなった。  
 構わない。どんなに離れたっていい。傍らに居るのが自分でなくてもいい。遠く何処かで、アキト  
が笑っていてくれるのなら、もうそれだけでいい。それだけで、自分もこうして笑う事が出来る。  
 それはなんと幸せな事だろうか。  
   
   
 轟音に、空が震える。オレンジ色の炎が、まるで恒星のように輝いた。  
「―――なっ……! なんだよ……なんだよありゃぁっ!?」  
 数瞬の自失の末、最初に声を上げたのはリョーコだった。その怒声に弾かれ、イズミはようやく事  
態を把握する。  
 アキトとユリカを乗せたまま、シャトルは遥か上空で爆散したのだ。周囲は混乱と狂騒に満たされ  
始めたが、それらの雑音が急速に遠退き、イズミには何も聞こえない。ただ、自分の表情が歪む、そ  
の感覚だけが感じ取れる。  
 激しい爆発で焼失するのを免れた破片が、陽光を受けてキラキラと舞う。それらの動きが、イズミ  
の目には妙にゆっくりと見えた。  
 ―――あの内のどれかが、アキトなのかも知れない。  
 何処か微笑を残したような表情を凍りつかせたまま、イズミはただ、空を見上げていた。  
   
   
 一つだけ。イズミの胸の片隅に予感が残る。  
 たとえアキトが生きていたとしても。また逢えたとしても。  
 あの笑顔を見る事は。  
 二度と、無い。  
   
 何ら根拠の無い、しかし確信めいた何かを感じながら、イズミの視界が暗く閉じられていった。  
   
                                     終  
 
 

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