「たーいが! 今日はいいお魚が取れたからムニエルにするね!」  
 
 家のドアを開け、川から上げられたばかりの虹鱒の入ったたらいを持って入る。  
 そのまま奥の部屋に足を踏み入れると、ベッドの上でガウンを羽織って読書をしていた大賀が本から顔を上げて微笑んだ。  
「ああ。楽しみにしてる」  
 そう答える声には張りがあった。  
 どうやら今日は食欲があるみたいだ。昨日まで熱があったから心配していたけど、顔色も良さそうで安心した。  
 最近、暖かくなったと思ってたら雨が降って冷えちゃったから、体調を崩しちゃったのかも。  
 やっぱりまだ毛布は出しておいた方がいいのかな?  
 そうだ、明日はお布団を干して太陽でふかふかにしてあげよう。  
 今日の夕焼けは綺麗だったし、明日はたぶん晴れるだろう。  
 ……ううん。きっと、絶対に晴れる。  
 
 明日も明後日も、昨日みたいな雨は降らずにずっと、ずーっと晴れていればいい。  
 
 
 これまで、大賀と校長先生の庇護の下に守られていたお陰で私の“本体”は普通のマンドレイクでは考えられないような大きさにまで成長していった。  
 それに伴って魔力の方もぐんぐんと増幅してゆき……ついに数年前、念願だった人型を取ることが出来るようになった。  
 見た目は実際の年齢よりも少し……う゛う、ホントはかなり若い設定にしてるけど……(だって好きな人の前ではいつまでも綺麗でいたいじゃない!)  
 以前のように中空に浮かぶことは出来なくなったが、普通の人間のように二本足で地を歩き、お店で売ってる人間の女性用の服だって着こなせる。  
 加えて魔力の容量が増大したことで魔法特区を出ても動けるようになった。その際、周囲の人間たちに常時“イメージ”を伝えているため人通りの多い所に行くほど魔力の消耗が激しいのが難点だけど  
 (そうしなきゃ人間には大きな根っこが歩いてるようにしか見えないのよ! ケーサツに通報されちゃう!)  
 もちろん特区の中の方が居心地がいいに決まっているが、大賀の薬や食料を調達するのに自分の身体で動けた方が効率がいいのだ。  
 
 それともう一つの利点は、初めて外の世界で大賀とデートが出来たことだった。  
 腕を組んで、街を歩いて、疲れたらカフェでお茶を飲みながらおしゃべりをして……まるでドラマや映画で見た恋人たちみたいなデートをした。  
 でもその頃の大賀はもう『おじいちゃん』になっていたから、恋人同士には見られなかったんだけどね。隣の席のおばさんに「お孫さんとお買い物ですか? いいですねえ」なーんて言われちゃったりもしたけど(まったく失礼しちゃうわ!)  
 でも……でもね、それでも凄く嬉しかった。  
 やっと一緒に、大賀の知ってる世界を同じ視点で見て回れたから。  
 こんなこと言うと大賀に馬鹿って言われるかもしれないけど、実はこれが私が人間型を取りたかった一番の理由だったりする。  
 
 どこまでも広いこの聖凪山に私と大賀は二人きり。山の仲間はいっぱい居るけど、それでも誰も邪魔しない二人だけの住処。  
 昼間は聖凪高校の校舎の方から生徒たちの賑やかな声が風に乗って聞こえてくる。  
 今でもクラスマッチは恒例となっていて、初夏になると山が騒がしくなる。張り切る生徒たちをこっそりと見学するのが私たちの楽しみだった。  
 
 『今年はどこが優勝するかな〜?』  
 『このぶんだと、たぶんB組だろう。キングが飛行魔法を持っているし、何よりアタッカーに一人勘のいい奴がいるからな』  
 『え〜!? それなら私はC組を応援するもん!』  
 『ははは。なんだかんだ言っても、どうせルーシーは毎年C組を応援するんだよなあ』  
 
 盛夏、爽秋、厳冬、芳春。  
 この山で暮らしていて、そんな季節の移り変わりを何十回と経験してきたけれど、大賀だけはいつも私のそばに居て変わることは無かった。  
 『ルーシーはいつまで経っても綺麗だな』  
 毎年お花見をしていると、少しお酒の入った大賀は決まってそう言う。  
 昔の私だったら『クサッ』って噴出すかもしれないけど、自分に向けられたものだと思うと不思議とすんなり受け入れられる。  
 大賀はよくそう言ってくれるけど、大賀もいつまで経ってもカッコいいよ……なんて、自分で言っても『クサッ』ってなるから一度も伝えたことはないんだけどね。  
 その代わり、私は大賀のお猪口にお酒を注ぎながらこう伝える。  
 『うん、ずっと綺麗でいるよ。だからずっとずっと、一緒に居ようね』  
 
 そう、  
 私は本当に幸せだった。  
 
   
 ひたひたと迫っている大賀の命の期限に目を背けていた訳じゃない。私たちマンドレイクと比べて人間の命が格段に短いことなんて大賀に会うずっと前からわかっていたことだ。  
 大賀は一日のうち床に伏せている時間がだんだんと多くなり、お医者様から入院を勧められる程に身体は病魔によって蝕まれていった。  
 でも大賀は、最期までこの山で、私たちの家で過ごすことを望んだ。  
 ……そして梅雨の匂いが近づいてきた五月の終わり、大賀はもう床から起き上がることも出来なくなっていた。  
 
 その日は、朝からしとしとと小粒の雨が降っている日だった。  
 起きたときから大賀の顔色は悪くて、お医者様を呼ぼうとしたけれどそれは大賀に制された。  
 ……わかっていたのだ。大賀は。  
 自分の命の期限が今日までだと。私と一緒にいれる時間が、あとわずかだと。  
 時間が刻一刻と過ぎるにつれて雨が一粒一粒地に落ちるのと同じで、床にいる大賀の脈もだんだんと弱っているのは診なくてもわかった。  
「なぁ……泣くな、ルーシー。……そんなんじゃあ心配で……あっちに行けないだろう?」  
「そっちの方がいいよ! 大賀とずっと一緒に居られるなら魔力もこの身体も……何にもいらない!」  
 大賀がか細い息を吐きながら喋る。  
 それが私には耐えられなくて、見せてはいけないと思っていた涙すらついに流してしまった。  
「ルーシー、あんまり……困らせるなよ。せっかくお前には他の奴よりも、長い寿命が与えられているんだ……。精一杯生きなきゃ損……だろう?」  
「でも……でも、大賀が居ないとどうしたらいいのかわかんないよ……!」  
 
 私がぼろぼろ涙をこぼしながら大賀の手にすがるように握っていると、大賀がふっと得心したように笑った。  
「……それなら一つ、俺の……頼みを聞いてくれるか?」  
「聞く! なんでも聞くよ! だから……」  
 ――私を置いて行かないで。  
 そう言おうとした最後は言葉にならず、胸に詰まった。  
「……ありがとうな。なあルーシー、世界を回って……俺が見たことのない沢山の風景を見てきて……くれないか……?」  
「え……」  
 なんでそんなこと? と困惑していると、それが表情に出ていたのか大賀が私の頭に手を伸ばしてきた。  
「ルーシーは……生まれてからずっとこの聖凪から出たこと……無かっただろう? だから……世界中の綺麗なものや、壮大なものを沢山見て、感動してるルーシーが俺は……見たいんだよ」  
 本当は俺が連れて行ってやれればよかったんだけどな、と大賀が苦笑してまた私の頭を撫でた。苦さの中にも照れたような表情は、高校時代から全く変わってはいない。  
 懐かしい、遠い昔の日々を思い出したためか、胸がぎゅっと詰まった。  
「うん、うんっ……! 大賀のお願い、絶対にか、かなえる、から……ぁ」  
 言葉がなかなか喉の奥から出て来ない。  
 どうして? どうして? もっと大賀に言うことが一杯あるのに!  
「た、たい、がぁ……わ、わたし……ぜっ、絶対、ぜった、い、に、かな……えるよぉ……」  
  “だから、お願い”  
 精一杯絞り出しても、出てくるのは壊れたオルゴールのように断片的な音ばかり。  
 それでも大賀は私の言葉を最後まで聞いてくれてから、満足したように微笑んだ。  
 
「ああ。ルーシー、お前だけが頼りだぜ」  
 
 そう言って先の二回よりも暖かく私の頭を滑った手は、重力に逆らわず……そのまま崩れて落ちた。  
 大賀の表情は柔らかい笑みのまま。  
 何度見ても飽きない、ほっとするような大賀のこの笑顔が大好きだった。  
 どれだけ見つめていたのだろう。辺りが暗くなって、大賀の顔が闇にすっかり隠れてしまった頃、私はようやくベッドから離れた。  
 立ち上がった私は、もう二度と大賀が目を覚ますことも私を撫でてくれることもないのだ、と永訣の別れを受け入れていた。  
 大賀と向き合っていた間、心で反芻していたのは遠い昔からずっと私の好きな言葉。  
 初めて聞いたときは嬉しさのあまり、大賀にねだって何度も繰り返してもらった言葉。  
 大賀はきっと覚えていてくれたのだろう。  
 “私だけが頼り”  
 最期に聞いたその言葉は、往古の記憶からわずかたりとも色褪せてはいなかった。  
 
 
 
 草の上に溜まった露が朝日を反射してキラキラと宝石のように光っている。  
 顔を洗うためにたらいへと汲んできた水に顔が映った。  
 「……あーあ、私ももうおばちゃんだね」  
 水面へと映った自分の顔に触れてみる。  
 ひやりと指先だけでなく全身に沁み渡った冷たさに心までもしんと落ち着いた気がした。  
 
 ――私は今、人生の折り返し地点を曲がったばかりだ。  
 まだまだ先は長い。  
 でも終わりはきっと茎がぽきりと折れるようにあっけなく死んでしまうのだろう。  
 生命は誰しも生涯において輝ける時間というものを持っている。  
 私にとってのそれは大賀と一緒に居られた日々だった。  
 
 小屋の窓から何度となく見てきた朝日を一瞥し、人型を取るため全身を縛り付けていた魔力を解放する。  
 主を失った洋服が床に沈み、機能を失ったただの布切れとなった。  
 布の固まりから顔を出して見る久しぶりに低い視点。  
 覆うもののなくなった全身を風が舐める。  
 だけど寒いとは感じない。  
 身体の中心から溢れてみなぎる魔力が皮膚を突き破りそうに熱いくらいだ。  
 これならば聖凪から一番近い魔法特区まで飛べるだろう。  
 久しぶりの滑空はなんだか不安定で頼りないが、大丈夫だ。  
 隣にはいつも、私を包んでくれる温かい手が在るから。  
 
 あの暗い洞窟から連れ出してくれた。  
 勘違いだったけど、私の死を悼んで涙を流してくれた、優しいヒトの手。  
 
 
 さようなら聖凪。私のお母さん。  
 私は今日、貴方の元から旅立ちます。  
 
 
 さあ、  
 
 
 これから沢山の風景を見て、めいっぱい感動しよう  
 
 そしていつかまた大賀に会えたら  
 
 大賀の知らなかったこと、見たことのなかった物、私の感じた全てのことを  
 
 全部全部、大賀に聞かせてあげるからね!  
 
 
 
 ・  
 ・  
 ・  
「……こーんな感じの老後が理想なのよねー」  
「想像とはいえ俺、死ぬのかよ……」  
「うん! だってお別れのシーンって感動的でしょ?」  
「…もー好きなようにしてくれ……」  
 
 
 …………うーん。  
 大賀は苦笑してるけど、本当にこれが私の理想なんだよ?  
 ここのセンセーになれば別だけど、大賀もいつかこの学校を出て行く時が来る。  
 外の世界でお仕事に就いて、そのうち人間のお嫁さんをもらって、賑やかな家庭を作って……そして最期は沢山の家族に看取られて逝くの。  
 大賀ならきっとそんな幸せな人生を過ごすって、確証はないけどなんとなく想像がつく。  
 ……でも、そこに私は居ない。  
 人間と植物、現実と魔法世界の隔たり。  
 ロミオとジュリエット以上に結ばれない運命だけど、けして叶うことはないと決まっているのだからロマンチックさなんて欠片もあるわけが無い。  
 だから遠くない将来やって来る日のために、今はただ綺麗で幸せな水の中に浸からせていてね。  
 
「あー……ずっと一緒にってのは無理かもしれねーけどよ、でもルーシーと俺の家だっけ? そんくらいなら今すぐ作ってもいいぜ」  
「ホント!?」  
「ああ。執行部の分室も校長室もあるけど、よく考えたら俺とルーシーが誰も気にせずにのんびり出来るところなんてねーもんな。だから校長たちにも柊たちにも内緒の、俺とルーシーだけの秘密基地ってのがあってもいいかもな」  
「た…大賀ぁ〜! 大好きっっ!!!」  
「おわっ!! 目を塞ぐなっつーの、見えねーだろ〜!」  
「や〜だ! 離れないも〜ん!」  
 
 
 今は私だけの大賀。  
 私にだけは弱いところも格好いいところも全部見せて。  
 その思い出があれば残りの長い人生も“大賀”と一緒に生きていけるから。  
 
 
 
end.  
 
 

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