「み、観月ー!!」
「――きゃっ!! やだ! もう……離しなさいよ、九澄ぃ……」
倒れ込むように自分の身体へと抱きついてきた九澄を観月が受け止める。口でこそ否定の言葉を吐いてはいるものの、その語尾は甘く溶けていた。
九澄と観月、二人きりの薬品部の調合室はほの薄く桃色の空気が漂っていた。
ある日の放課後、観月は開けばいつも本心とは裏腹の気持ちを喋ってしまう口を苦心の末に押さえ込み、想い人である九澄を薬品部まで呼び出すことに成功した。
調合室に連れ入った観月と九澄をテーブルの上で出迎えたのは、この日のために観月が一週間寝かせたホーレンゲ草の袋だった。
大きな袋の中いっぱいに詰め込まれているホーレンゲ草の鉢の数はおよそ10株。ビニール袋は充満したガスで膨張し、今にも張り裂けんばかりだ。
「なあ観月、俺に見せたい物って何なんだ?」
「えーと、それは……――九澄、ごめんっ!!」
「へ?」
ぷしゅっ!
観月が手の中に隠し持っていた針をホーレンゲ草の入った袋に突き立てた。すると勢いよく萎んでゆく袋から薄いピンク色のガスが溢れ、瞬く間に室内を包んでゆく。
10株のホーレンゲ草を通常の7倍の期間寝かせたガスは量も濃度も強烈だ。
しかし観月自身はすでに抑制薬を飲んでいるのでガスの効果に振り回されることはない。
効果が表れるのはこの場に居合わせた……もう一人だけだ。
「好きだ、好きだ、大好きだっ!」
数分後、調合室にはホーレンゲ草ガスの作用によってすっかり観月に骨抜きとなった九澄の姿があった。
熱烈に愛の言葉を叫び、身体全体で観月を抱きしめる。勢い余って床に倒れこんでしまったことも今の観月にとっては些細な事でしかない。
「うん……本当はね、私も九澄のことがずっと……」
九澄の胸に埋まった観月がうっとりと言葉を紡ぐ。通常であれば望んでも手に入らない、観月が願うままに情熱的な九澄が目の前に居るのだ。
加えて場の空気も後押しし、普段のように歪曲されることのない心情を口に出せていた。
「――やっ!? ちょっと、ドコに手を入れて……」
言葉の途中で夢心地の観月の身体が跳ねる。
いつの間にか観月の背に回していた九澄の手が離れ、制服の下へと滑り込んでいた。
もう一方の手は観月の胸に触れながらネクタイを緩めている。
「あっ!? や、やめなさいよ! ――んっ……むっ!」
流石にそこまでの行動は予想の範囲外だったのか、観月が強い口調で抗議する。
すると、九澄がその言葉を飲み込むように観月に口づけた。
「ん……観月、好きだ」
(く、くくく九澄とキス――!!?)
息をつくために一旦唇を離した九澄が観月に絶えぬ愛をささやく。
その間も九澄の手は少しずつ制服の守りを崩して行っているのだが、熱を帯びた瞳と吐息が観月の頭を甘く痺れ、蕩けさせていた。
「ふぁ……九澄……?」
心も身体も溶かすような九澄のキスに翻弄されていた観月と九澄の瞳が合う。
情欲の熱はあっても自我を失った両眼に光はなく、人形にはめ込まれたガラス玉のようにただ観月を写しているだけだった。
(好きだって言ってもらえたのも、キス出来たのも嬉しい……。けど……この九澄は薬のチカラで見境が無くなってるだけなのよね……)
「――やめてよ! やっぱりこんなのイヤ!」
手を突っ張り、身を捩って九澄の腕の中から逃れる。観月からの抵抗など微塵も考えてもいなかったらしい九澄は呆気に取られていた。
そんな九澄を尻目に立ち上がり、観月が壁にある換気扇のスイッチを入れた。
「な、なんで逃げんだよ観月!?」
「来ないで!! だって、今の九澄はやっぱり……私の……きな九澄じゃないのよ!」
心気と体勢を立て直して迫る九澄に、観月は身体を固くしつつもはっきりと拒絶の意を明らかにする。
フォオオオオ…………
その最中にも、換気扇のファンは音を立て、淀んだ部屋の空気を盛んに吸い込んでいた。
「そんなん関係ねーだ……ろ! 俺はこんなにも……お前の事が……すき……なの……に……?」
だんだんと言葉尻も弱まり、力を失った九澄が床にへたりこむ。
「九澄、正気に戻ったの!?」
「観月……? アレ……俺さっきまで何してたっけ。なんか頭がぼーっとすんだけど……」
目の前の観月に対し、頭に手を当てながら何度も目を瞬かせる。
「……その事なんだけど、ごめんなさい……実は私が、九澄に……」
「って!? なんつー格好してんだよ観月!」
セーラー服の前は大きく開き、ちらりと控えめなフリルの付いた水色の下着が覗いていた。
指摘され、自らの格好に気付いた観月が白い胸元を手で覆う。
「こ、これは……なんでもないわよ!」
「嘘つけ! こんな有様で何もなかったワケがねーだろ!」
「なんでもないって言ってるでしょ!」
(本当の事なんて言えないわよ……!)
「おい、ちゃんと本当の事言えって――……ん?」
まだわずかに漂うホーレンゲ草の残り香にひくひくと九澄が鼻を鳴らす。
「この香り……どっかで嗅いだ事あんな……。わかった! ――ホーレンゲ草のガスだな!」
(〜っなんでこんな時だけカンが良いのよ!!)
「――すまねえ!」
「え……?」
九澄が目にも止まらぬ速さで床に頭を伏した。
「記憶は全くねえんだけど、たぶん俺がガスを吸って、部活勧誘の時にみたいにまた観月を襲っちまったんだろ……?」
「そ、そんな、謝らないでよ……」
土下座の体勢で謝罪の言葉を述べる九澄を観月が起こそうとするが、九澄は余計に床へと頭を擦り付ける。
「なんて詫びたらいいのかわかんねえけど、お前に嫌な思いをさせちまって本当にすまねぇ! 許してくれ――」
「ち……ちが――違うのよ!! 謝らなきゃいけないのは私の方なの……!」
観月が強い口調で九澄の言葉を遮った。
「……どうして観月が俺に謝らなきゃいけねーんだ?」
その声の悲痛さに九澄もおもわず頭を上げる。
「私が、九澄にわざとホーレンゲ草のガスを吸わせたの! 黙って九澄に抱きつかれてたのも……九澄に身体を触らせたのも……」
「私……九澄の事が好きだったから!!!」
「!?」
「……だから……ひっく、謝らないで……これ以上私をミジメにさせないでよ……ぐす」
これまで積もりに積もらせてきた九澄への思いの丈を直接的な形で口にした瞬間、観月の心の堰堤は完全に決壊した。溢れる涙は観月を飲み込まんばかりに止め処ない。
「観月……」
「……うぅ、ひぅ……っく……」
「あー……その、観月、話したいことは色々あんだけどよ、まずは制服の前を直してくれねーかな……」
「……ぅっくっ……ふええぇぇん……」
「俺にとっちゃかなり目の毒で……って聞こえてねーな……」
しゃくり上げるだけで、外からの声が全く耳に入っていない相手に困り果てた九澄が頬を掻く。
「悪いけど勝手に手ぇ出させてもらうぜ……め、目は瞑ってるからよ!」
肌蹴た制服に九澄が手を出すが、目を閉じた上に正面の観月から首を90°以上逸らしているため、そうスムースに事が進むはずがなかった。
「――ふゃっ!?」
タイを結ぼうとして伸ばした手がダイレクトに観月のバストを掴んでしまう。
「わわわ、悪い!」
「な、何してんのよー……」
袖を絞り咽ぶ観月も、この刺激には流石にうつつに返った。
「だってよ……気になる女子の胸がチラチラ見えてたら落ち着いて話しも出来ねーだろ……」
「え? 九澄、気になるって……」
「そりゃ……あー、くそ、やっぱ――言葉なんかよりもこっちの方が早い!」
――!!
「観月……これでわかっただろ」
「……今のって……」
いまだ近く、九澄の吐息がかかる自身の唇に観月が触れる。確かめるように当てられた2本の指は小さく震えていた。
「恥ずかしいから聞き返すなよ。……俺の……気持ちだっつーの」
「……わ、わかる訳……ないでしょ!」
耳まで赤く染まった顔を九澄の視界から隠すように俯く。
「な!? そんじゃどうすりゃ……」
「だから! その、ね……もう一回し……」
「観月……」
そうして二人の顔が引き寄せ合い、再び重なろうとしたその時、――外からドアのノブが回された。
ガチャ
「おう、誰か居んのか?」
「――きゃああああっ!?」
「はがっ!!」
室内へと投げかけられた声に、動揺した観月はあとわずかな距離まで近づいていた九澄を張り倒した。
「観月に九澄じゃねーか。来てたんなら油売ってねーで店の方手伝えよな。忙しーんだから……ってなんかこの部屋の空気、薬品クセーな……?」
無遠慮な人影の正体は薬品部部長の及川だった。九澄と同じく、調合室の空気にピクリと鼻を鳴らす。
「そ、そんな事ありません!!」
(鍵閉めるの忘れてた〜!)
「そうか? まあお前らが何作ってようと俺には関係ねーけどよ。とりあえずそこで伸びてる九澄をどうにかしてやったらどうだ?」
そう言い放ち、及川の太い指が観月の背後を示す。
「九澄!? なんで倒れてるのよアンタ!!?」
「……少なくとも俺の目にはさっきお前が掌底喰らわしたように見えたけどな」
「いやーっ!! ちょっと、ねぇ、しっかりしてってば!!!?」
甘いムードは流され、騒々しくなった調合室内に、開かれたままのドアから薬品部売店の賑やかな声が流れてくる。
「え? 好きな女の子を射止めたいって? それならホーレンゲ草なんかどうです? コレ自体の効果は短いけど、
これをきっかけに数々のカップルが成立したって実績もありますよ。信じるかどうかはお客さんに任せますけど、物は試しに……」
一鉢いかがです?
終わり