俺の住む街では、冬が来るのが突然だ。9月…下手すると10月の初めまでジリジリと暑い日が続く。  
油断をしていると衣替えが間に合わずに体調を崩してしまう連中も多い。  
 だから、道端にしゃがみ込んでいるこの薄着の褐色の肌の外人女に奇異の目を向ける者も少なからずいた。  
 道行く人は皆避けて通る。当たり前だ。漸く待ち焦がれた涼風の中、薄着で道端にしゃがみ込んでいる  
女などまともな筈が無い。  
 俺もそれに倣い、その女を避けて通る…つもりだった。  
「シンイチ、シンイチ!」  
 俺の心臓が鷲掴みにされた様な感触に襲われた。たった今この褐色の女が呼んだ名は、俺自身の  
名前に相違無かったからだ。  
 それでも俺は、同じ名前の奴がそばにいたのだろうと無理に言い聞かせ、その女の傍を立ち去ろうと  
した…したが、出来なかった。視線が、俺の視線が、この褐色女を捉えてしまった。  
 
 その褐色女は、確かに俺を『視て』いた。足が止まる。視線が外せない。汗が流れる。  
俺に許されたのは、この褐色女を『視る』事のみ。  
「今日、ヤマサキのオヤジにすっごいムカついたよね?」  
 俺は飛び出そうになる叫び声を必死に堪えた。ヤマサキ…確かに、俺は同じ職場の山崎と言う  
パワハラしか趣味の無いオヤジに連日イジメとしか呼べないパワハラを受け続けている。  
「安月給だし、病院代もバカにならないよね?」  
 褐色女は更に続ける。そして、その褐色女の言葉は事実だった。  
 俺は今、山崎のパワハラに情けなくも屈し、心療内科で鬱病の薬を処方して貰っている。  
 そして、その山崎も含めコネ入社のボンクラどもに押され薄給で喘いでいるのもまた事実だった。  
 
 褐色女に歩み寄る。今度は自分の『意志』でだ。  
「…何なんだお前は」俺は褐色女に話しかける。  
 良く言えばウェーブのかかった…悪く言えばボサボサの長い黒髪を掻き上げて、その褐色女は言った。  
「やっとあんたに会えた」  
 正直少し頭のおかしい女だと思っていたが、黒髪の間から覗くその整った顔は、その懸念を一瞬にして  
払拭した。  
 太すぎず細すぎず、綺麗に整えられた眉。少し吊り気味の、アーモンドの様な形をした瞳。  
 少なくとも、所謂メンヘラと呼ばれるイッた女にこんなはっきりとした美しさを持った女はいない。  
少なくとも俺は知らない。  
 その褐色女は手を差し出した。そして、それが義務であるかの様に俺はその手を受ける。  
 女が立ち上がる。俺とさほど変わらぬ美しい長身だった。  
「あたしは、カーリー」言って、褐色女は艶っぽい笑みを見せた。  
 
 今日もまた、同じ1日だった。  
 今度は、山崎に引き継ぎを受けていない仕事の事で詰られた。俺の職場は突然仕事のやり方が  
変わる事があり、定期的な朝礼の引き継ぎでは対処出来ない事が多くある。そんな時は随時、  
社員同士の素早い引き継ぎが必要となる。  
 そもそも引き継ぎをするのは仕事のやり方を変えた山崎の仕事だ。その事を山崎に詰問すると、  
今度は「引き継ぎを受けに来ないお前が悪い」と来た。  
 俺は馬鹿らしくなり、それ以上の反論を止めた。そもそも山崎は50も過ぎてバイトを取り巻きに  
身辺を固めないと会社で過ごせない臆病者、そして馬鹿野郎だ。そんな人間に理詰めが通用する  
筈も無い。  
 しかしそう結論付けても、俺の苛立ちは治まらない。俺は鞄から安定剤を取り出すと一気に飲み干した。  
 1日の規定量より一袋多い。しかし、こうでもしなければ俺はきっと他の人間に嫌な思いを  
させてしまうだろう。  
 罪悪感と共に、薬が胃袋に流れ落ちた。  
 
 俺はいつもの激安スーパーでつまみと酒を買う。俺の薄給では、これが精々の贅沢だ。  
そしてショッピングセンターと服屋に寄り、帰路に着く。  
 今日も、同じ1日だった。…そう、会社を出るまでは。  
 俺はアパートの部屋の鍵を開け、中に入った。いつもと違う、芳しい匂いが鼻孔を擽る。  
 女が1人部屋にいるだけで、こんなにも匂いと言うのは変わるのかと吃驚した。  
 そう、一週間前に街角で出会ったカーリーと言う名の外人女だ。彼女はインドのカルカッタから  
来たと言った。俺が日本に来た理由を問うても微笑んではぐらかすばかり。…正直言って  
面倒事なら御免被りたい。厄介事に巻き込まれないうちに追い出してやろうとおもいつつ、  
こうやって一週間が過ぎてしまった。  
 
「あ、お帰り。シンイチ」  
 ワンルームのキッチンから、カーリーが小走りで出迎えて来た。…全裸で。  
 たわわな乳房を揺らしながらやって来るカーリー、その姿を正しく認識するのに、俺はたっぷり  
ふた呼吸分の時間を要した。  
「お、おい!何やってんだよ!」  
「何って…シンイチお腹空いてるだろうから晩ご飯を」  
「違う!その格好だ!服はどうしたんだ!」  
「…んもう。そんなに怒鳴んないでよ。サリーならとっくに脱いじゃってるわよ。あたし、  
こっちの方が楽で好きなのよね」  
「楽って、そう言う問題じゃ…」  
 言ってカーリーはふい、と後ろを向いた。汗をかいてる訳でも無いのに、カーリーの肌は  
艶やかに光っていた。  
「…興奮した?」カーリーはペロリと舌を出すと、形の良い尻をクイッとこちらに突き出した。  
 突き出した尻臀の奥のもう一つの膨らみ、そしてそこにある、最も秘められた場所…。  
 
「良いから!これ!」俺は持っていた袋2つをカーリーに押し付けた。  
「あんっ」カーリーは落としそうになりながらも、辛うじて抱え込んだ。「なあに?これ」  
「なあにって、服とか下着とかだよ。あんなサリーとか言うペラペラの服だけじゃ、これから  
キツいだろ」  
「ふうん」カーリーがひょいとしゃがみ、袋の中を探り始めた。  
 …ヤバい。見えてしまった。カーリーの国の習慣かそれとも個人的な趣味かは知らないが、  
しゃがみ込んだ太ももの間にある陰毛が全く生えていないぷっくりとしたその肉の合わさり目、  
その間から僅かに覗く花弁が露わになった。  
「…何かスッゴい綺麗に包んであるんだけど…開けちゃって良いんだよね?」  
「当たり前だ。プレゼントだって言わなきゃ単なる変態だろ」  
「…なあに?このちっちゃい布切れ」  
「なあにって…パンティじゃないか」俺は『悟られぬ』様にカーリーに背を向けた。  
「んしょ…っと…やだ、すごい食い込むんだけど。あっちとかこっちとか…もう」  
 
 …本当にマズい。後ろを向いたは良いが、それが返って色んな事を想像させてしまう。  
「ねえシンイチ、このブラ止まんないんだけどさあ。手伝ってよ」  
 やれやれ。仕方無い。俺のはあくまで不可抗力なんだからな。俺を興奮させる、カーリーが悪いんだ。  
 
 結局、ブラはカーリーには合わなかった。サリーを着ていた時には気付かなかったが、  
カーリーの胸は驚くばかりの大きさで、俺はランジェリーショップの店員のアドバイスで  
出来るだけ大きいサイズのブラを買って来たつもりだったが、それでもカーリーには間に合わなかった。  
 だから、カーリーは俺のTシャツ一枚で過ごす事になったんだが…全く、30もとうに過ぎた  
男が何をやってるんだ。シャツ越しに見える…そうだ、カーリーの胸元から完全に  
目を離せないでいた…情けない。  
 
 カーリーが作った豆のスープは本当に美味かった。どこかで誰かに俺の味の好みを訊いたのかと  
言いたくなるぐらい絶妙な味付けで、全て食べ終わる頃には程良い満腹感を得られた。  
「美味しかった?」カーリーは肘を突き、両手を顎に当てて訊いた。  
「うん、美味かったよ」  
 皿を片付けようとしたが、カーリーはそれを制して2人分の皿を手にキッチンへ向かった。  
「良かった。シンイチ、ちょっと塩気が強いのが好きだもんね」  
 麦茶の入ったコップを持つ手が止まった。俺はゆっくりと、皿を洗っているカーリーの背中に  
視線を向けた。  
 そうだ。カーリーが俺の家に来てから一週間、どうしても考えなければならない事があったのだ。  
 日々の糞みたいな仕事に追い立てられて考えるのを延ばし延ばしにしていたが、これだけは  
はっきりしておかねばならなかった。  
『何故カーリーは、俺の事を知っているんだ?』  
 
 まず最初に、あの街角でカーリーは俺を『シンイチ』と呼んだ。もちろん、シンイチと言う  
名前自体は珍しくないが、しかし道行く男を適当に捕まえて、そいつが『シンイチ』である確率は高くない筈だ。  
 どこかで会った事がある女なのか?カーリーは、俺が通院している事も知っていた。  
 仮にカーリーが…馬鹿げた話だが…どこかの外国人クラブのホステスならば酒の勢いで  
そう言う事を口走ったかも知れない。しかし残念ながら、俺はそんな店に行った事が無い。  
 そして、それが真実だったとしても…カーリーが俺の味の好みを知り、満足させる料理を  
作れる理由にはならない。  
 
『カーリー、お前は誰なんだ?』  
 
「シンイチ、お湯借りるねー」  
 カーリーの声で俺は思慮の底から引き戻された。  
 カーリーはバスタオルを手に、相変わらず恥ずかしげも無くあられもない姿で前を横切った。  
「…一緒に入る?」  
 カーリーの言葉に、俺は黙って手を振った。  
 
 シャワーを浴びている間も、その疑念が消える事は無かった。それどころか考えれば考える程  
その疑念は膨らみ、その姿を複雑に変える。  
 シャワーから上がり、俺は冷蔵庫の缶ビールを開けると3分の1程を一気に煽り、部屋に戻った。  
「話がある」  
 俺の言葉にカーリーは、まるで小動物の様な表情で小首を傾げた。「どうしたの?怖い顔しちゃって」  
「誤魔化すな」  
「きゃっ」  
 俺はカーリーをベッドに押し倒し、覆い被さった。「今日こそはっきりさせとくぞ」  
 カーリーの顎を持ち、真っ正面から見据えた。「お前は誰だ。どうして俺を知ってる」  
 カーリーの驚いた表情は一瞬で、すぐにいつもの表情に戻った。「言ったでしょ?あたしの名前は  
カーリー。そして、あんたの名前はタナベシンイチ」  
「だから、何でお前がそうやって俺の名前を知ってるんだ!」  
「そんなに怖い顔しなくても良いじゃない」  
 
 

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