夜が好きだ。薄暗く、静寂が漂い、寂しげな陰の気が寄り添う夜が好きだった。  
彼の国を思い出す、夜は私の味方だ。  
けれど、今は。  
あの方の出かける夜。他の女の元で過ごす夜。  
泣いて縋れば引き止められるだろうか。繋ぎ止めることが出来るだろうか。  
多分無理だ。私がそれを出来ない。泣いたら負けだと思う。かといって笑って送り出すことも出来ない。  
嫌いだ。  
月明かりに色濃く伸びる自分の影を睨む。  
どんどんあの方の心が離れて行くことくらい分かっている。  
それでも私は…。  
 
 
 
「今夜はどちらへ?」  
突然物陰から投げかけられた問いに大国主は一瞬身を硬くする。  
「越の国、宗像、鴨都波…それとも、因幡かしら?」  
厩の影から姿を現し、スセリ姫は思いつくまま大国主が立ち寄りそうな乙女のいる地を数え上げた。  
口元は笑んでいるが、目元と眉はつり上がっている。  
声の主と姿を見つけた大国主は反対に笑顔を見せたが、暗闇では快活そうな日に焼けた肌に白い歯だけが浮き上がって見える。  
「君は、またずっとここにいたのかい?」  
可笑しそうに言われると腹が立つ。  
「ええ。あなたこそ毎晩毎晩飽きもせず。」  
ツンとすまして言ってやると、  
「昨日は家にいたじゃないか。」  
と言って笑った。  
「雨が降ったからじゃない!天気が良ければどうだったか、知れないわ」  
「……君って人はなぁ。」  
今にも爆発しそうなスセリ姫に、困ったなという風にそれでも笑って見せた。  
どうしてこの人はこうなのだろう。怒りもせず、突き放しもせず、ただ、困ったよう。  
「君の父上の通った女性が君の母上と、櫛名田姫だけだとおもうかい?」  
面白そうにスセリ姫の顔を覗き込む。  
「………」  
荒ぶる神として、高天原や豊葦原を暴れ回った父を、知らぬわけではない。その血がわずかでもこの男に流れているのだ。  
「…そうね。あなたは男ですもの。打ちめぐる島の崎々に、打ちめぐる磯の崎ごとに、妻がいてもおかしくないわ」  
俯いたスセリ姫の白い頬に睫の影が淡く落ちた。  
 
それでも私にはあなたしかいないのよ。  
 
昼も夜も、春も冬も無い地の底で、スセリ姫は退屈な毎日を過ごしていた。  
ある日、父の末裔だと言う変わった男がやってきた。健康そうな体躯も、大きな笑い声もちっとも父に似ていなかった。  
男はスセリ姫に豊葦原の面白い話を聞かせてくれた。  
 
別れの日、男が言った。  
「あんたに見たこと無い世界を見せてあげるよ。」  
 
 
不安に躊躇う私の手を、  
「俺がいるだろ」  
って、あなたが引いてくれたのよ。  
それなのに、こんなに女好きだったなんて知らなかったわ。  
あなただけを頼りにこの世界に来たのに。  
私の負けだわ。  
 
「もう、行って。夜が明けてしまうわ。」  
思いきり声を上げて泣いたら、少しは困らせる事が出来たかもしれないけれど、こんな時に限って涙は静かに流れ落ちるだけだった。  
その上、ちょうど月が蔭って涙は大国主には気づかれなかった。  
たまらなく惨めな気持ちになって、背を向けて歩き出したスセリ姫の腕を大国主が掴んだ。  
「そんな言い方をされたら、行きづらくなるじゃないか」  
困ったように言葉を吐き出した。  
「どうぞ、私の事などお気になさらず。」  
そっぽを向いたまま、スセリ姫はなるべく普通に喋ったつもりだが、声は震えて棘が混じっている。  
言葉通りに受け取る事は出来ないだろう。  
「…ずるいなぁ」  
スセリ姫の白い腕の感触を楽しみながら、可笑しそうに呟いた。  
「ずるいってなによ?!」  
すごい剣幕で振り返ったスセリ姫の瞳が潤んでいるのを見て、大国主は少し面食らった。  
この状況で泣くのは、更に卑怯かもしれない。  
でも、ずるいのはあなたじゃない。  
「私には…あたしかいないのよ?」  
「他…に、いくところはないのよ…?」  
「あなたのことが、こんなに好きなのよ?」  
最後は、声にならなかった。  
「悪かった。あんたを泣かせる為に豊葦原に連れて来たんじゃなかったのに。」  
そう言って大国主は泣きじゃくるスセリ姫を抱き寄せて、頬に唇をつけた。  
 

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