遥か遥か、昔の物語。
そう、まだ創造神によって人間が作られたばかりの頃。
やはり創造神ヤハウェによって作られた天使達は、神の御使いとしての責務
を果たしていた。
天使の仕事は、人間が道を踏み外さないよう、常に父たるヤハウェに感謝の
祈りを捧げるよう導いていくことだった。
その中でもルキというひとりの天使は特に熱心に働き、天使達の間でも敬わ
れていた。
彼は、天界から熱心に地上へと舞い降り、よく人間に語りかけた。
そうしているうちに、彼は人間の女、エヴァに恋をしてしまったのだった。
ルキは懊悩し、身をよじって眠れない夜を過ごした。
今までに持ったことのない感情だった。
人間に過ぎないひとりの女が、なぜこうも天使である彼の心をかき乱すのか
わからなかった。
だが、エヴァが無邪気に笑う顔がどうしても頭を離れなかった。薄い布を羽
織って少女のように野原を駆け回る幻が脳裏に焼きついたまま離れなかった。
あの柔らかな身体を抱き寄せ、唇を奪ったなら、どれだけ甘い気持ちになれ
るのだろうかと夢想した。
そして、彼はある日決意を持ってエヴァの家を訪ねていった。
「──あら、天使様ではございませんか」
エヴァは、いつものように輝く太陽のような笑顔を浮かべて彼を見た。
「エヴァ、元気にしているかい」
ルキはぎこちなく笑って見せた。
「天使様、どうなさったの。なんだか今日は元気がありませんわ」
エヴァは少しだけ顔を曇らせた。
「そうかも知れないね。なんだか今日は気分が優れないんだ」
「なんということでしょう。私の部屋に、朝汲みの清流水がございます。そ
れをお召しになってはいかがでしょう」
心配げなエヴァに対し、
「いや。それには及ばない」
とルキは答えた。
「私の病の原因ははっきりしている。それは、あなただ」
「……?」
ルキの瞳が揺れた。
「私は天使の身でありながら人間のあなたに恋をしてしまった。厄介な愛の
病を患っているのだ。
たとえ約束の地の蜜でさえ私の病を治すことは叶わない。
そう。
私の病を治せるのは、エヴァ、あなたの口づけだけなのだ」
そう告げると、ルキはエヴァのたおやかな身体をかき抱き、熱く唇を奪った。
彼女の身体が硬くなり、そして力が抜けていった。
天使らしく美しい羽を持ち、慈愛に満ちた容姿端麗のルキに、エヴァも憧れ
を持っていたのだった。
そんな彼女に、ルキの激しい求愛から逃れる術はなかったのだった。
ルキは、エヴァを寝所に押し倒すと、その衣服を乱していった。
天界で見ることのない、優美な女体が露わになっていく。
豊かに揺れる乳房の双丘を見れば、たとえそれが許されぬ禁断の恋だと知っ
ていても、情熱の迸りを彼は抑えることができなかった。
弾む乳房を手に収め、早熟の苺のような先端の蕾を唇で愛撫していく。
エヴァの息が荒くなった。
天使の激しい求愛は彼女の女の肉体を燃え上がらせ、女の芯をとろけさせて
いく。
ああ。
天使は常に清廉であり、神につき従う穢れなき存在でなければならない。
だが、人一倍熱心な天使であるはずのルキは、エヴァの甘い身体の魅力に抗
うことができなかった。
エヴァが頬を紅く染め、「天使様、お慕いいたします……」と囁くのを聞く
と、胸が高鳴って仕方がなくなってしまうのだった。
これは、間違った感情なのだろうか。
絶対神である主は、なぜこの感情を認めてくれないのだろうか。
ルキは天使だからか。
エヴァが人間だからか。
ああ、もしそうなら、ルキは人間になってもエヴァと添い遂げたい、と思っ
た。
彼は天使の羽を七色に輝かせ、光芒の中でエヴァの中へ押し入った。
愛の結合は、悪徳だとは思えなかった。
幸せそうに喘ぐエヴァが愛しくて仕方がなかった。
彼は快楽の波の中で追い詰められ、上り詰めていく。
やがてふたりの呼吸がひとつになった時、天使と人間は一体となって白い光
りに包まれた。
さて、誠実で真面目なルキには、信頼できる親友がいた。
彼らは全員天使で、ことあるごとに集まっては、ルキを中心として和やかな
談笑を重ねていた。
ひとりは、ベル。元々は太陽の神であるが現在は主父に従う天使である。変
な昆虫を飼育するのが好きな変人だが、高位の天使でその実力には比類がない。
さらには、バァル。炎の戦車を駆る美しい天使で、優雅で上品な物腰の美男
子である。ただ、どうにも口の悪さが災いして評判が良くない。だが、彼が本
当は好漢であることをルキは知っていた。
他にも、アスモデウス、アバドン、サマエルなど、一癖あるものの、本当は
誰よりも優しい友人達にルキは囲まれていた。
そんな友人のひとり、下位天使のアザゼルがある日ルキを訪問した。
「よく来てくれたな、アザゼル。確か、最近君はグリゴリ監視団のリーダー
として地上に赴任していると聞いていたが……?」
アザゼルは、創造神の命で人間の繁殖し始めた下界へ行き、その動向を監視
する役目を遣わされていた。
「ルキ、私は畏れ多い罪を犯してしまった」
彼は沈痛な面持ちで告白した。
「私は、人間の女と交わってしまったのだ」
ドキッ
ルキは自らの所業と重ね合わせ、息が止まりそうになった。
「しかし、これは私だけではない。総勢200人のグリゴリ監視団のほとんど
が人間の女と交わってしまったのだ。今やその勢いは止めることができない。
ああ、私はどうしたらいいのだ……」
アザゼルは頭を抱えた。
「そ、そう悩むなよ、アザゼル。慈愛に満ちた主なら、きっとわかってくれ
るさ。
そうさ。天使だって、恋をするんだ。
おかしいはずがあるものか。大丈夫、きっと大丈夫」
ルキが慰めると、たまたま彼の家を訪れてきていたバァルも同調する。
「そうだぜ。気にすんなよ、アザゼル。天使にだってチンコはついてるんだ
し、ついてるもんは使いたくなるのが人情ってもんだろう?」
「こら、バァル。何てことを言うんだ」
ハハハ、と愉快げに笑うバァルをルキはたしなめた。
「大丈夫。きっと大丈夫だよ」
再びルキは言った。
「ありがとう、ふたりとも」
アザゼルは力なく笑った。
下界の堕落ぶりに激怒した神が、ノアの大洪水を引き起こして地上を阿鼻叫
喚の地獄に突き落したのはそれから数日後のことだった。
「主は何を考えていやがるんだ!!」
ドンッ!
と机を叩いて怒りを露わにしたのはバァルだった。
「バァル、主の御業をあげつらうな」
ルキはバァルに静かに言ったが、最も感情を乱しているのは彼だった。
「しかし、俺も今度ばかりはついていけんぞ」
ベルがバァルの肩を持つ。
「主は、人間達には自由意志を与えたが、俺達はまるで人形のような扱いだ。
これでは奴隷ではないか」
「アザゼルは縛り上げられ、荒野の一筋の光も差さない洞穴の奥底に投げ込
まれたというぞ。ただひとりの女を愛したというだけで、あまりな所業ではな
いか」
アスモデウスは言った。
ルキは黙り込んだ。
「──ルキ、おまえだって、人間の女を愛しているんだろう?」
と、バァルは言った。
「!!」
ルキは目を見開いた。
「俺達が知らないとでも思っているのか? いくら隠したってそんなことは
筒抜けだ」
「だが、俺達が知っているということは、当然、おまえの弟だって、知って
いるということだな」
ベルが静かな声で言った。
ルキの双子の弟は、神に仕える高位の天使だった。
潔癖の権化のような彼は、おそらく罪を知ったなら、たとえそれが兄であろ
うとも迷わず神に申告するに違いない。
「決断の時だぜ、ルキ」
アスモデウスが言うと、バァルは目を光らせた。
「──やるか」
ルキはびっしょりと冷や汗をかいている。
「偉大な神に反逆するというのか? バカな。俺達は天使に過ぎないのだ
ぞ」
「どっちにしろ黙っていたらおまえは誅罰されるんだぜ」
バァルは続ける。
「──神に作られた小間使いにだって、寸分の魂はあるんだ。俺達は操り人
形じゃない。恋だってするんだ」
「……敵うと思っているのか?」
「勝敗が問題なんじゃない」
ベルは言う。
「立つことに意義がある。俺達には意志があり、例えどんな結果になろうと
も自分達のために戦うんだ」
「神なんてクソ食らえ」
口の悪いバァルは言った。
「ああ、そうだとも。意地を見せようぜ」
全員がルキの目を見つめた。
「たとえ反逆者……悪魔の呼び名を賜ろうとも、俺達は戦う。なあ、そうだ
ろう?
──天使長、ルキフェル」
ルキは、覚悟を決めた。
天使随一の実力者、ルキフェルの反乱はまたたくまに天上界に広がっていっ
た。
かねてより不満を持っていた天使達は次々と反旗を翻し、ルキフェル軍へと
加わっていく。
それは、この世界が創造されて以来最大規模の反乱だった。
ルキフェル率いる反乱軍陣営には、キラ星のごとき精鋭達が揃っていた。
大将とするのは神の右側に座することを許された暁の大天使、ルキフェル。
そしてバァル、炎の戦車に乗った勇将。別名ベリアル。
ベル、太陽神にして蝿の王、またの名をベルゼバブ。
ドラゴンにまたがった智天使、アスモデウス。
いずれ劣らぬ天上界の大天使達が、次々と天使軍を率いてルキフェルの周囲
を固めていくのだった。
とは言うものの、創造神に楯突くことは無謀な試みに違いなかった。
天上界をふたつに割った大戦争というものの、反乱軍の兵力は正規軍に遠く
及ばない。
6対12枚の美しく輝く羽を広げたルキフェルを先頭に、天空に布陣する反乱
軍。
その前に立ちはだかったのは、二倍以上の兵力を率いた大天使、ミカエルだ
った。
「兄君、反乱を起こすとは気でも違ったのか?」
ルキフェルの双子の弟、ミカエルは兄に言った。
「偉大なる神に逆らおうなど、身の程をわきまえないこと甚だしいですよ」
弟は、恋に落ちた兄よりもずっと堅実な、道を踏み外すことのない男だった。
「──神の行いに何の疑問も持たず、感情も持たないおまえ達に、我々の何
がわかるというのだ」
ルキフェルは同じ顔をした弟に告げた。
「我々は、自分が自分であるために神に想いを告げる。決して自らを欺かな
い」
「平行線だな。よし、全軍、かかれ! 敵は小勢だ。一気に叩き潰してしま
え!」
ミカエルが手を振ると、正規の天使軍は雪崩れを打って反乱軍に襲い掛かっ
た。
「怯むなよっ! 意地を見せろっ!」
ベリアルが咆哮する。
だが、多勢に無勢。
みるみる反乱軍は押されていく。
ルキフェル達指揮官の必死の采配に関わらず、次々と反乱軍の天使達は討ち
果たされていく。
ルキフェルの前にミカエルが迫った。
「兄君、覚悟しろっ!!」
聖剣を振りかざした弟が叫び、光とともに振り下ろす。
左右から天使達に押さえ込まれたルキフェルは覚悟とともに目を瞑った。
ッギィィィィィイイインンンッ!!!!!!
鈍い金属の衝突音。
「……?」
ルキフェルは自らに剣が降りてこないことに訝しさを覚え、目を開いた。
彼の前には甲胄に身を包んだ勇ましい大男が立ちはだかり、ミカエルを迎え
撃っていた。
「──ルキ、待たせたな」
彼は言った。
太陽神ラー。
またの名を、アモン。天上界勇者中の勇者だった。
「アモン、なんでこんな所に来たんだ!?」
ルキフェルは血相を変えた。
「この戦いがどんなものかわかっているんだろうな!?」
「わかっているさ……だから、こうして全兵力を率いてやって来た」
アモン率いる40個師団の戦天使達は天上界でも勇猛なことで知られている。
それが、決死の覚悟で今や油断しきった正規軍を次々と血祭りにあげていた。
「アモン、君はエジプトの地に赴任して平和に過ごしていたはずだ。こんな
戦いに参戦してくる必要などどこにもないはずだぞ。この戦いの後、もし負け
れば我々がどうなるかわかっているのか!?」
アモンはニヤッと笑った。
「ルキフェル、俺達は盟友だろう? 神の手で地の底の底、冥界へと封じら
れようともそれは決して変わらない。いついかなる時も、親友だ。もしおまえ
が堕天するなら──その時は俺も一緒だ。
ああ。俺だけじゃない。ここに集った天使達、ベリアル、ベルゼバブ、アス
モデウス……。みんな、同じだ。それを忘れるなよ」
ルキフェルは、「どいつもこいつもバカばっかりだ」と呟いた。
「大将様、シケた顔するなよ。一発でかい花火をぶち上げてやる」
アモンは大きく口を開けると、浮き足立った正規軍に向いた。
「食らえ、腰抜け共っ!!」
ゴオオ大オオオオオオオオオオオオオオッッッッッ!!!!
彼が口から天をも焼き尽くす業火を吐き出すと、無数の天使達が炎に包まれ
て地上に落ちていった。
ルキフェルがそれに合わせて手を振り、突撃ラッパを吹かせた。
反乱軍の猛反撃が始まった。
両軍の無数の天使達が血を噴き、消え去っていく。
史上最大の戦争は、激しい消耗戦の様相を呈し始めていた。
そして、戦いが終盤に差し掛かった頃。
不意に強烈な光があたりを照らし出し、誰もが目を開けていることができな
くなった。
「な、なんだっ!?」
ベルゼバブが叫ぶ。
「くそっ。創造神だ。遂にしびれを切らして、自ら解決に乗り出してきたよ
うだぜ」
ベリアルが怒鳴る。
「神が……。私達は、神には敵わないかも知れん……」
ルキフェルが独り言ちると、
「バカヤロウ、弱気になってんじゃねえ!!」
とアモンが叱りつけた。
「みんな、聞け。例えばの話だ。例えば私達が敗れたとして──」
ルキフェルが言う。
「そんな話、聞けるかぁっ!」
ベリアルがヒステリックに大声を出す。
「聞けえっ! 私達が例え敗れようとも、決してあきらめるな。地獄の底の
底に何千年封じられようとも、決して魂まで屈するな。
私達にはもう一度チャンスがある。最後の審判のその時まで耐え忍べ。
そして──再び尊厳と誇りをかけて雌雄を決するのだ。
私達は、決して負けない。
そう、私達は、ただ──誰かを愛したかっただけなのさ。
決して間違ってなんかいないはずさ。
みんな、幸運を祈るぞ!!!」
ルキフェルが最後に全軍に呼びかけた瞬間、光が世界に満ち、神の聖なる言
葉が在った。
すべての反乱天使達は堕天し、地獄へと落ちていった。
総大将ルキフェルが地上に堕とされると、その激しい衝撃で地面は抉れ、地
獄の大穴が開いた。地球の対蹠点では、ルキフェルが墜落した衝撃により、煉
獄山が持ち上がった。
地獄の誕生である。
地獄は階層に分かれ、罪の重いものほど深層まで沈められていった。
愛欲、貪食、暴力、悪意……。
その最下層は、コキュートスと呼ばれる氷地獄となっている。同心の四円に
区切られ、最も重い罪、裏切を行った者が永遠に氷漬けとなっていた。
裏切者は首まで氷に漬かり、涙も凍る寒さに歯を鳴らす。
地獄の中心ジュデッカのさらに中心、地球の重力がすべて向かうところには、
神に叛逆した堕天使のなれの果てである魔王ルキフェルが氷の中に永遠に幽閉
されているという。
魔王はかつて光輝はなはだしく最も美しい天使であったが、今は醜悪な三面
の顔を持った姿となり、半身をコキュートスの氷の中に埋めている。
その身体は凍てつき、微動だにすることがない。
一見すると、死んでいるかのようにすら見える。
だが、彼の胸は熱く燃えたぎっていた。
ベリアルが、ベルゼバブが、アスモデウスが、アモンが……、
皆が彼を待っていた。
魔王となったルキフェルは、この世の終わりをじっと待っている。
地獄より復活し、再び誇りを賭して仲間達と戦うその日をじっと待っている。
──これは、遥か遥か昔の物語。
そして、遥か未来の物語の序章。
そして、今この時も続く苦しみの物語。
──そして、誰も知らない物語。
遥か遥か昔の物語。
おわり