窓の向こうには下弦の月が皓々と浮かび、静まり返った人里を照らし出している。  
この集落のはずれにあるごくささやかな庵でも、一組の夫婦が床に就いていた。  
(とうとう明日だ)  
羿はその思いに興奮が抑えられず、横になってしばらくたつというのに一向に眠りに落ちることができなかった。  
(明日こそ、晴れてこの厭わしい人身を捨てられる)  
羿はふたたび寝返りをうった。ふいに、妻が身を起こす気配があった。  
 
月明かりを横顔に受けて、妻は黙ったまま彼を見下ろしている。  
もとより神籍にあった女であれば人間離れして美しいのは当然だが、今夜の彼女は名工の手になる塑像のように端麗に見えた。  
月光に染められた玉肌は涼やかというより冷ややかな風情をたたえている。  
「嫦娥?」  
羿は妻に劣らず端正な顔をそちらに向け、囁くように問うた。  
「どうした、そなたも眠れぬのか」  
「いいえ」  
嫦娥は微動だにせず、睫毛ひとつ動かさずに長らく夫を見つめていたが、つと身を動かした。  
夫の逞しい長身に覆いかぶさり、唇を重ねる。  
「―――嫦娥」  
羿は驚いたように固まっていた。  
天界にて華燭の典をあげ夫婦の契りを結んでから何百年となく経つが、  
神仙のあいだに貞淑を謳われた妻がみずからこのように触れてきたのは初めてのことだった。  
 
「どうしたのだ」  
妻は答えず、彼の唇に白い指を押し当てて閉じさせたまま、どこか寂しげに微笑んだ。  
そしてその頬に、耳たぶに、首筋に、接吻を繰り返した。  
ついに夫の帯に手をかけ、胸元からはだけていく。  
「我が君、いとしい我が君」  
羿に聞こえるか聞こえないかの声で囁きかけると、嫦娥はその筋骨隆々とした肉体の隅々へ接吻を降らせた。  
鎖骨から肩、そして両の腕をいとおしむように指で撫で、ゆっくりと唇を這わせる。  
人界を旱魃に陥れた九つの太陽を次々に射落としたその腕は、  
何百年にもわたる夫婦の房事において、彼の身体の下で反り返る嫦娥の柳腰を何度となく抱きしめてくれた腕でもあった。  
そして人々を旱魃から救いはしたものの、  
九つの太陽すなわち上帝の九人の息子たちを殺めてしまったがために不浄なる人界に落とされたときも、  
「何があろうとそなたをこの地上の穢れに触れさせはせぬ」  
と抱き寄せてくれた腕でもあった。  
 
「ああ、嫦娥よ」  
妻の小さな朱唇が乳首に触れたとき、羿は思わず声を漏らしてしまった。  
「我が君」  
彼女は顔も上げずに、柔らかい舌で硬くなった乳首を舐めつづけた。  
墨で染めたような黒髪が彼の肌にそっと触れ、ますます官能を刺激する。  
「まさか、そなたが・・・こんな、ことを」  
「お許しください」  
嫦娥はやがてさらに下へと進んだ。硬い腹筋を指でなぞり、臍のくぼみにくちづけし、その下の茂みに顔を近づけた。  
「―――そんなことはせずともよい」  
羿は驚いて妻の頭部を離そうとしたが、その手に力はこもっていなかった。  
嫦娥は夫の命に従うこともなく、お許しください、とただ呟きながらそれを口と手で愛し始めた。  
肉体のほかの部位に劣らず、夫のそれは尋常でなく逞しかった。  
このような愛撫を試みるのは初めてなので、嫦娥も内心では羞恥に震えながら恐る恐る触れるばかりだが、  
自分が唇と舌を下から上へ熱心に動かせば動かすほど愛する人の息が荒くなることに、ひそかな喜びを覚えていた。  
 
とうとうそれは限界まで膨張した。身を隠すべき渓谷を欲して力強く脈打っている。  
それは初夜の床でどれほど彼女に苦痛を与えたことか、しかしその後どれほど彼女に深い歓喜とこまやかな情愛を教えたことか、  
それを思い出すと嫦娥はますます寡黙になった。  
しかしただなすべきすることをなすために、彼女はそれ以上の沈思を自らに許さず、  
音もなく腰帯を解くと寝衣を脱ぎ捨てた。  
羿はまぶしそうに妻の端正な肉体を眺めた。  
人間として有する四肢もむろんたいへんな美体ではあるが、今目の前にいる妻は、  
まるで神女であったころの真珠色の肌を取り戻したかのように月光の中で輝いていた。  
「嫦娥よ、今ほどそなたを美しいと思ったことはない。  
 明日、儀式をあやまたずにあの薬を服すれば、  
そなたの花顔も玉肌も永遠不滅のものとなる」  
羿はそう囁くと妻の身体を引き寄せた。  
いつものように寝台に押し伏せるつもりだったが、彼女は従わず、夫の上に自らまたがった。  
 
羿が目を見張るのも構わずに、嫦娥はそそり立った夫のものをみずからの玉門にあてがい、ゆっくりと腰をおろしていった。  
夫のものを口に含むあいだ自然に潤い始めていた牡丹色の花弁は、  
いまは静謐な閨房に水音を響かせながら硬く熱いそれを滑らかに受け入れていた。  
「そなたは、―――今宵はいったい、どうしたのだ」  
別人のようにふるまう妻の姿を眼前にしながら、羿は驚愕と陶酔の混じったような声で吐息混じりに問いただした。  
「お許しください」  
夫の顔を見下ろしながら嫦娥は囁いた。  
口では自らの淫行を詫びながらも、その腰は休むことなく前後に動いている。  
このような営み方は初めてなので嫦娥は内心不安に満ちているが、  
時間がたつうちにどのように動けば夫が悦ぶかが分かってくる。  
彼女の吐息も夫に劣らず熱く激しくなりつつあった。  
「責めているのではない。  
 ―――そなたも、明日が待ちきれぬのだな」  
羿はふっと笑うと、彼女の細い腰をつかみ、下から突き上げ始めた。  
 
「我が君、許して」  
嫦娥は絹を裂くようなか細い声で夫の激しい責めに応えた。  
彼女の弱点を知り抜いている夫に緩急をつけて苛まれながらも、嫦娥はみずから腰を動かすことをやめなかった。  
乳房は小ぶりながらも羿の顔の上で悩ましく揺れつづけた。  
よく見れば、薄紅をさしたような乳首は触れられてもいないのに硬くとがっていた。  
「今宵のそなたは人界の娼妓という女たちのようだ」  
羿はふたたび微笑し、揺れ動く乳房を両手で包み込んだ。  
そして親指でその頂点を小刻みになぶってやる。  
「我が君、いけません」  
「娼妓はこのような扱いを受けるというぞ」  
「お許しください、我が君。この身を、嫦娥を」  
息も絶え絶えにそう囁きながら、乳首をもてあそばれるまま、嫦娥は夫に激しく貫かれることに耐えていた。  
その細い肢体からは力も抜け気って、もはやみずから腰を動かす気力も残っていない。  
「許さぬぞ、嫦娥。  
未来永劫我が妻たる女人がかような淫婦と化すとは、決して許さぬ」  
息を乱しながらも羿は諧謔まじりに妻を責めた。  
 
明日になればふたりは不老不死の身体を取り戻せるのだ。  
もはや飢えや寒さや人の目に悩まされることもない。  
ふたりで霊験あらたかな山中にこもり清浄に暮らそう。  
ふたりで一粒ずつ服用するだけでは神として天界には戻ることは叶わぬとはいえ、ふたりが互いにいれば十分ではないか。  
ふたりは永遠の伴侶たることが明日、たしかなものとなるのだ。  
 
「お許しください、我が君」  
嫦娥はふたたび呟いた。そこには嗚咽が混じっていた。  
貞淑であろうとするあまり切々と詫びる妻を心からいとおしいと思いながら、  
やがて羿はかつてないほど多くの精をその深奥に放った。  
そしていつものように妻を抱き寄せて眠りに落ちた。  
 
夫がよく眠っているのをたしかめてから、嫦娥はそっと身を起こした。  
寝台からおりるとき、彼が授けてくれた精がゆっくりと太腿を伝っていくのが分かった。  
それはまだ温かかった。羿の体温そのもののようでもあった。  
何百年となく、ふたりはこのようにして求め合ってきたのだ。  
雲を枕に初夜を迎えたときも、天界のはずれの渓谷でその地に住まう神仙の目を盗んで肌を重ねたときも、  
人界に落とされた最初の晩、神籍にあった者の目には家畜小屋にしか見えない陋屋で身を寄せ合ったときも、  
ふたりはいつもこうやって互いを何者にも替えがたいと確かめてきたのだ。  
 
嫦娥の漆黒の瞳にはふたたび涙が浮かんできた。しかしなんとか自分を抑えつけようとした。  
嗚咽を漏らしでもしたら羿に気づかれてしまう。  
彼女は裸のまま寝台から離れ、部屋の隅の小卓に近づいた。そこにはふたつの小壷があり、それぞれひとつずつ丸薬が入っていた。  
嫦娥はふたつの丸薬を手のひらに載せ、寝室を出て庭に向かった。  
あづまやの屋根の下に立ったとき、ふと、自分が服を着ていないことに気がついた。  
しかしそれはたいしたことではない。どうせすぐに人の姿は捨て去るのだから。  
嫦娥は丸薬を口元に近づけ、そこで手を止めた。唱えるべき文言は分かっている。  
しかし声が震えてしまいまともなことばにならない。  
屋敷のほうを振り返ると、閨房の窓枠が照らし出されているのが見えた。  
その奥にあの方が安らかに眠っている。今ならまだ戻れる。戻れるはずだった。  
 
でも、わたくしはもう決めたのだ。  
今宵はわたくしの思うままに愛させていただいた。  
玉の肌よ、と愛でていただいた。  
あれが最後、それでよいのだ。  
 
お許しください、と最後に呟き、嫦娥はついに上帝の英邁を称える文言を唱えた。  
そして丸薬をゆっくりと嚥下した。  
 
月明かりを浴びながら、嫦娥の肉体は徐々に輪郭を変えていく。  
丸薬の効果がついに現れきったと思ったとき、彼女の耳元で至尊のお方の玉声が響いた。  
 
(困った女人よの、そなたも)  
 
嫦娥はもはや、お許しくださいとは言わなかった。  
 
(我が愛息たちを虐殺したあの不遜なる輩への罰は人界に落としたくらいではすまさぬつもりだったが、  
そなたがすっかり呪薬を服用してしまうとは。  
西王母から渡された際、何か聞いていたのか)  
(いいえ、誰の罪でもありません。わたくしが自分でこれを望んだのです)  
(ふむ、殊勝なことよ。  
そなたは本来なら天界に身をおいたままでもよかったものを、大罪人たる夫に従い人界に堕ちていったというのに、  
その程度の献身では気がすまなかったというわけか)  
玉声はしばらくやんだ。ふたたび聞こえたときには、その声音は少し温和なものになっていた。  
(罪人を庇いだてたとはいえ、その心根はたいしたものだ。  
人界の汚濁にも染まらなかったようだな。神女の矜持を忘れたわけではないようだ。  
褒美を与えよう。そなたは何を望む)  
(このような身に成り果てた今、望むものなど何もありません。  
 ただ願わくば、この醜悪な姿が二度と夫の目に留まらぬようにしてくださいませ)  
 
玉声は返ってこなかった。  
しかし次の瞬間、嫦娥は自分の疣だらけでじめじめした四肢が地上を離れたことを知った。  
淡い月明かりのなか、彼女の小さな肉体は天空に吸い上げられていった。  
 
 
「嫦娥」  
翌朝、羿は血眼になって妻の姿を屋敷じゅう捜し求めた。  
夫婦の不老不死を約束するはずだった丸薬の壷はふたつとも空になっていた。  
最後に庭に出たとき、あずまやに設けられた石卓の上に、文字が刻み込まれているのが見えた。  
羿は駆け寄ると一字一字を目で追った。  
「嫦娥よ」  
羿は両手で顔を覆い、地に膝をついてうめいた。  
妻があれほど丸薬の服用を諌めた理由がようやく分かった。  
ひょっとして彼女がひとりでふたつ服用したいからではないかと一瞬でも疑った自分が愚かしかった。  
西王母からは、ひとつ飲めば不老不死に、ふたつ飲めば神として天界に戻れるものだとばかり聞かされていたのだ。  
何も呪薬を自分ですべて服用しなくても、ひそかに捨ててくれればよかったのに、と羿は心から恨めしく思った。  
しかしこうして妻の身で実証されぬことには、彼はこれからも不老不死の薬を求め、  
結局は上帝の命を受けた神仙によって呪薬を渡されることになっただろう。  
 
これはもはや、人として寿命のつづくかぎり、人界の汚穢を受け入れよということなのだ。  
 
それでも嫦娥さえいれば苦痛ではなかった。しかし彼女はいない。  
いったい呪薬でどんな姿に変じられ、今はどこにいるというのだ。  
「嫦娥よ」  
涙が枯れきったころ彼はようやく立ち上がり、あたりを見渡した。  
早朝の庭園に、答えるものは誰もいなかった。羿は天を振り仰いだ。  
東の彼方には彼が射落とさずに残しておいた十番目の太陽がのぼりかけていた。  
その反対側、はるか西の彼方には、白い月が消えかけたままたたずんでいた。  
 
 
(終)  
 

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