この大地、クルの平原にいま集う、幾万とも知れぬ戦士たちを見よ――
ここに対陣する両勢力は、今日を決戦と定めて終結した。
一方はクル勢、一方はパーンドゥ勢。同じクル王の血統の同族。
陣中には今やの開戦を控えた、重ったい空気が流れている。
警戒をうながす戦さ太鼓が、ゆっくりと、絶えず打ち続ける。
点呼の声、兵器を数える声。ひっきりなしに伝令が駆ける。
馬たちは戦車に繋がれた。戦士は、出陣の合図を待っている。
金銀あるいは宝石で飾り立てた戦車は、おのおの一人の御者、一人の戦士を載せ、
戦場を高速で駆け違いながら、たがいに射合う。
徒歩の兵は容赦なく踏み潰す。戦車を駆り、戦士と呼ばれる者たちのみが
現代の戦場の華。
戦士らは自らの血統と種姓を誇り、使命を重んじ、
命を惜しまず、今日、喜んで死に赴くであろう、
命というものがかくも儚く、かくもたやすく消えていく日があろうか。
戦いに高揚した無数の顔は、夏の日に無残な美しさ。
ここにクル族の総帥ビーシュマは、
法螺貝を手に取り、高らかに吹き鳴らした。
陣鼓が速鳴り、軍勢が動き始める。
まさに戦端開かれんとするこのとき、パーンドゥ勢の最先鋒たるアルジュナ王子は、
あい対峙する両軍の間を戦車で駆け、
知った名、知った顔、ともに語らった記憶をもつ、懐かしい人々を敵中に認めた。
親と子、近親、友と友とが、思い思いに引き分かれ、両陣営に分かれて戦わんとする
おぞましい光景をそこに見た。
戦車上、アルジュナは暗澹とせざるをえなかった。
これは何のための戦いか。われわれは、いったい誰と戦うつもりなのか。
親を、子を、友を殺して、そのうえで何を得ようというのか。
まだしも。
この戦争はいずれが勝つか。いずれが勝つとしても、
勝ち側に立った者は負けた縁類を救い、敗者は勝った近親を頼る。
打算して、あえて親子が敵味方となるのも、兵家の生存戦略とはいえる。
ひるがって自分はどうか――
王権を簒奪した者たち、敵軍が掲げるのは、クル王家正統の旗。
血統でいえば王位はアルジュナの兄、ユディシティラが継ぐべきであった。
正統の旗は、ほんらい彼らの掲ぐべきである。簒奪者たち……しかし
あれも、かれも、もとはみな同じクルの一族ではないか?
長年にわたる派閥抗争と陰険な工作の応酬、その果てに、アルジュナは
骨肉といえるその人たちを、真に殺したいほど憎み、いま殺そうとしていた。
アルジュナは心底ぞっとした。取り返しのつかぬ過ちと、痛切に悔いた。
一瞬前まで、戦いに高揚し、無残な美しさを湛えていた彼の顔は
憂鬱にかきくもり、彼は錯乱した。
ついに彼は弓を投げ捨て、戦車上に伏して叫んだ。「われは戦わぬ」と。
「臆したのか、アルジュナ」
冷たい声が問いかけた。
意気消沈し、倒れ伏したアルジュナ王子は、顔を上げ声の方を見やった。
それは彼の戦車上、その御者台より、朗々と呼びかける声。
「たった一騎で神々に立ち向かい、万軍のアスラを蹴散らし、
万夫不当の勇者と謳われたアルジュナ王子が、
戦に臨んで怖じ気づく。アルジュナとは、じつは臆病者だったのか」
その戦い。
神々の王インドラは恐るべき雷撃を投げたが、アルジュナの秘術に退けられた。
ガルダの一族が襲いかかる。続いてナーガ蛇たちが、アスラの群れが。
そのときアルジュナの放つ矢は
一矢ごとに一つの首を刎ね、
五体を切り刻んで大地に撒いた。
神弓ガーンディーヴァ、無限の矢。
戦車上にてアルジュナは
半眼、夢想のうちにあり、
ただ撃ち続け、殺し続けた。
カーンダヴァ森を血の海とした――。
アスラ百万の修羅道が、このときアルジュナを悪魔と恐れた。
「クリシュナ、僕はもう戦わない。僕は殺戮の罪に気づいた。
これまでの敵の不正は、すべて許す。もう終りにしよう」
クリシュナと呼ばれた御者は、聞いて驚きもしなかった。
振り向いて微笑した。端正な笑顔だった。
「なにを泣き言……。いまさら彼らに通じない。彼らは聞き容れないだろうな。
きみだって、彼らの友をすでに幾人殺した? パーンドゥの王子たるきみが、
恥も外聞も捨てて和を乞うたとて、彼らが許すとでも思うのか。
彼らはきみを嘲笑し、喜んできみを殺す。それだけだ」
言うだけ言うと、クリシュナは御者台を立ってアルジュナのもとに来た。
彼は――いな、男装しているが、クリシュナは女だ――彼女は、
アルジュナ王子を王子とも思っていない。奇妙な御者であった。
「そして、」 嘆きに顔を覆うアルジュナを見下ろし、少女クリシュナは告げた。
「そして同族殺しの輪廻の果ては、堕地獄」
「その通りだ! もしも彼らを殺せば、僕は同族殺しの罪を負うことになる。
いや、相手が誰であれ、もうこれ以上の殺人はしない」
アルジュナ王子は絶望して繰り返した。
「なぜ僕は、こんなにも沢山の人を殺さなければならないんだ。
兄君の、たかの知れた王権のために?馬鹿げている。
思えば王宮を追われてから、兄弟してがつがつと権力ばかり夢見てきたよ。
王座など、ドゥルヨーダナにくれてやってよかったじゃないか」
ドゥルヨーダナ、彼らを放逐した敵。それに対しても、もう何も求めない。
ただ悪をこうむるも、悪をなさじ。
「今からでも遅くはない。これ以上人を殺すくらいなら、僕は今ここで殺されていい」
豪奢な天蓋に覆われた戦車の上で、アルジュナ王子は、心身冷え切って突っ伏した。
そのさまを、少女クリシュナが冷徹に見下ろした。
「ビーシュマ!」
高らかに名を呼ぶ。一族の長老ビーシュマ。
デーヴァヴラタ、超戦士ビーシュマ。
老躯にまとった古鎧は、古傷だらけ、彼はクル族最古の戦士。
王租を父に、ガンガー女神を母に持つ。なかば神的な存在である。
衆議に参する全将兵、全軍が彼を待ちわびた。
クル族の総司令官として、当然、彼は最上座につく。
誓って一生を不犯で通し、限りない修行を積み終えた。
すでに人類の三倍の寿命を経てきた男。
その男は、神より強い。
「この戦争はそも、ドゥルヨーダナが悪い。骨肉の内紛となったのは、
クルにはなんとも不幸な始末であった。
できることなら今からでも、パーンドゥの子らと和解したいものだ。
しかしドゥルヨーダナ、カルナの両名は、和睦には断固反対という」
歯に衣きせぬ自家糾弾が始まった。戦士たちは目を剥いた。
彼ビーシュマには人間すべてが小児に見える。遠慮すべき相手はいない。
「戦争は悲惨だ。私はここ三百年、飽きるほどその悲惨を見てきた。
若い諸君は戦争の何たるかを知るまい。
踏みにじられた土地、焼かれた街。女子供、弱い者が、その悲惨を舐めるのだ」
最長老の慨嘆に、粛として声もない。
「が、こと戦場にあっては――」
ふっふっと不敵な笑みをもらす。
「ビーシュマに敵する者こそ憐れ」
パーンドゥの王家の長兄、ユディシティラ王は陣を見やり、
「アルジュナが遅いな」
とひと言、いった。
アルジュナ王子の戦車上、少女クリシュナが語っていた。
「いま何を為すべきか、分かってるはずだ。アルジュナ王子。
すでに戦局は、戦いたくない、殺したくないでは済まない。
きみも軍の指揮官だ。殺されてもいい、では済まない。
ところできみは、戦いで自分が負けるということは全く考えないようだな。
ドゥリタラーシュトラ王の子らをなめているのか?」
彼女のソプラノは辛辣だった。
「僕は戦ってはならない」
アルジュナは低く呟いた。
天蓋を閉ざした戦車の外は、パーンドゥ勢の集結した戦陣。
軍兵のざわめきが届いてくる。しかしここは、それとは別世界のようだった。
「僕が戦うということは、人間の争いに神々の兵器を持ち込むことだ。
このガーンディーヴァの弓も、無限の矢も、本来人間のものではない。
僕が戦い続ければ、やがては、ブラフマ・アストラをも使うことになる。そうなれば」
「人類は滅ぶ」
無感動にクリシュナは言った。
「人類を滅ぼせというのか」
「人類のことを考えるのはきみではない」
人類のことを考えるのはアルジュナではない。
少女クリシュナ、彼女は神の心を知る聖者。
「五感にとらわれるな、アルジュナ。
今きみは五感の対象に過度にとらわれ、そのため迷妄に陥っている。
同族と、人間の血と、この地上的なる戦争と…。
きみの憐れみなるものは、つまりは、きみの迷いだよ」
迷うなアルジュナ。少女は言った。
「この世は幻」
試みに、この地上を平坦なものと見よ。
山もなく、海、川のごとき窪みもない。
天もなく地もない。どこに執着するところがあろう?
人は自由になれる。その眼を持てば――
「黙れ! きみまでが、そんな詭弁を吐くとは思わなかった。
それとこれとは話がべつだ。だから人殺しを続けろと言われる僕の気持ちが、
きみにわかるのか」
瞬時クリシュナの表情はこわばり、口をつぐんだ。
感情をぶつけてしまってから、アルジュナは目を逸らした。
クリシュナの細身は所在なく揺れて、そんなアルジュナを見下ろした。
「そうね…」
かすかに微笑んで、クリシュナは彼に間近く寄った。
息を感じるほどに…。アルジュナのそばに膝をついた。
「諸行無常――」
聖なる乙女は目を閉じて唱えた。
「この世にうつろわぬものはない。五感の捉える対象はすべからく無常。
その移ろいに一喜一憂する迷いが、恐れを生じさせる。…の、だけど」
クリシュナは言葉を切り、戦車の外の喧騒を聞いた。
ここには二人のほか誰もいない。
「生身の人間が、永遠なるものを見るのは楽じゃない。
きみを導く聖者クリシュナは、つねに『アルジュナよ、戦え』と、
理を尽くして説くべきだけど…」
ふたたび、言葉をためらった。黒い瞳が揺れた。
「アルジュナ」
アルジュナは彼女を見、クリシュナは彼の瞳を覗き込んだ。
「きみは、私にはきみの気持ちが分からない、と言った」
「それは…」
「殺すより殺される方がましだという、アルジュナ、きみの言うことは正しい。
それがここ戦場でなく、またそれが、きみアルジュナでないならば。
戦場で戦士が戦いを放棄すれば、それは怯懦でしかない、アルジュナよ――」
声にふたたび力を込めた。クリシュナはわずかに身を寄せた。
「アルジュナ」
「違う。誰も傷つけず、誰も殺さずに済む方法があるはずだ……きっと」
あるのだろうか。
「ドローナ!」
老仙ドローナは、子息アシュヴァッターマンを伴って登場した。
ヒョコヒョコと杖ついてゆく老人を、陣に並み居る戦士らは唖然としてみる。
あれがドローナ? あらゆる武芸の奥義に通じた、クル族の師。
子息を伴い、飄然とゆく。
伝説のドローナ。彼はクル族の最高指揮権を委任され、それを拒否した。
「アルジュナ、ユディシティラ、ビーマ。かつは、ドゥルヨーダナ、百の王子。
みなわしの弟子でない者はおらぬ。それがあい争うさまは、見るに耐えぬ…。
この争いを避けるすべは、本当になかったのか」
彼に従う子息にして、一番弟子アシュヴァッターマン、
寡黙にしてその表情は窺われない。
老ドローナはひとめぐりクルの陣営を視察し、天を仰いで長嘆息した。
「あるまいなあ」と…。