堅物だとか色々言われるものの、気が進まないのだからどうしようもないのではないか、  
と思う。たしかに誰とでも睦言を交わせるようになればある意味で楽になるのかもしれない。  
しかしもって生まれたこの性格だけは、たとえ神の末席に名を連ねるとはいってもなかなか  
御しがたいものなのだ。  
 母デメテルの性格を色濃く受け継いだのかもしれないなとペルセポネはぼんやり考える。  
それもそうだろう、実父は多くの女神どころかはたまた男神とまで浮名をながしたゼウスな  
のだから、やはり自分は母に似ているのだ。  
 「……だから余計に腹も立つ」  
 地中というものは美しい石が眠る宝物庫だ。人間だって、地面を掘ればきらびやかな宝石  
や貴重な鉱石がとれることを知っている。ましてやその地中を支配する王の宮ともなれば  
どれだけ豪奢なものを望んだところで意のままだろう。  
 しかし拳ほどもある大きさの金剛石とてそれを輝かせる光の源がなければただの透き  
通った石に過ぎない。  
 点々と高い位置に据えられた灯かりの台をながめてペルセポネはため息をつく。  
 その灯かりにぼんやりと照らされた彼女のための長椅子は、色とりどりの宝石で飾られ  
たなんとも美しくかつ趣味のよい品物であったが、いかんせん本来の輝きを放つには光が  
足りなさすぎた。  
 
 こんな長椅子で自分の気をひこうとしても無駄だと言い放った時のことはよく覚えている。  
 「私もよくよく見下げられたらしい。宝石の輝きなど地上の春の彩りに比べればなんともま  
あ冷たいことよ」  
 
 冥府の王らしく墨染めの衣を目深く被(かづ)いたハデスは即答を避けたようだった。  
 王の立場にふさわしく宮殿は贅を尽くした造りであるにもかからわず、ハデスがまとうも  
のは漆黒に染めぬいた簡素な衣一枚のみ。冥界にさらわれてきてかなりの時間が過ぎて  
はいたが、ペルセポネはまだその顔を見たためしがない。光に乏しい冥界であることもさる  
ことながら、ハデス自身が顔を見られることを忌避しているのか、真っ黒い衣の上部を長く  
ひいて顔に影を作っているのだ。  
 「機嫌を損ねてしまったのならば謝ろう」  
 ややもするともしかして彼には顔というものが存在しないのではないか、と思うほどその影  
は深い。  
 しかしこうして声を発すると吐息で衣の縁がかすかに揺れるのがわかるので、最低でも口  
くらいはあるのだろう。  
 「地上の絢爛はここ冥府でも噂に聞く。張り合おうなどとは毛頭思っていない」  
 穏やかで静かな口調から、虚勢でも意地を張っているわけでもないことがうかがい知れ  
る。そらしたままだった顎を引いてペルセポネはそっと暗い影の内側を覗こうとしてみた。  
 首すじのような、黒とは違うような気がする部分がちらりと見えたところでハデスが長椅子  
へ向かって歩きだしてしまい、残念ながらそれ以上は何もわからなかった。わずかに指先  
が出るくらいの長い袖を引き、金で縁取られた肘かけへそっと触れる。  
 「知っての通りここでは太陽の光は望めない」  
 死人の場所にふさわしく土色に痩せた指をペルセポネは想像していたが、肘かけを撫で  
るでもなくただ添えられただけの指は存外、健康的な指をしていた。  
 
 「なにより冥い場所だ。彩りといえば宝石と鉱石しかない。少しでも慰めになればと考えた  
のだ」  
 「さらってきておいて慰めという言葉を口にするなど、傲慢も甚だしい」  
 「すまない」  
 さらりと衣が揺れて指先が隠れる。頭があるであろう部分がペルセポネのほうを向いた。  
 「言い訳にすぎぬと自分でも思う、情けない話だが矢に射抜かれた時にそこまで頭が回ら  
なんだ」   
 仮にも冥府の王なのだからもう少しふんぞり返って偉そうにしてくれても良さそうなものだ  
が、どういうわけかハデスはペルセポネの予想と期待をことごとく裏切ってくれる。手荒な方  
法で連れ去られただけにどんな仕打ちが待ち受けているのか心底震え上がったというのに、  
王宮に到着するなり賓客そのものの待遇をうけハデス自身が陳謝するという事態になった。  
 どうやらハデスはエロスに射抜かれ自分を見初めたらしい、ということも理解した。そこで  
順序正しく求愛していればこのような事にはならなかったのにと思うのだが、そこで助言を  
求めたのが自らいらぬ事件を引き起こす天才のゼウスで、手段が拉致監禁だったにも関  
わらず疑問すら抱かずハデスに実行させてしまうのがさすがはエロスの矢、といった所だ  
ろう。  
 突然ふってわいたまさしく災難としか言い様がなかったが、みずから丁重な待遇を事細か  
に指示し謝罪してくるハデスの姿を見ていると、この人にとってもある意味災難だったのだ  
と思うしかない。  
 「あのいまいましいエロスの矢が原因であるとわかったのならもう理由はないはず」  
 きりきりと唇を噛んでハデスをにらみつける。  
 「こんな暗い場所、息が詰まって今にも窒息しそう」  
 「……」  
 「母の所へ帰しなさい、今すぐに」  
 
 いつもの展開ならばここでハデスは何も返答せずに、今日はもうお休みになられるがよ  
いとだけ穏やかに呟いて座を辞してしまう。  
 「……かような手段でここまで連れてきてしまったことは、心から申し訳ないと思っている」  
 しかし今日だけは続きがあった。ペルセポネは自分の喉がかすかに鳴ったのを自覚する。  
 「すまないと思っているのならばなぜ非礼をそそぐ手段を実行しないのか」  
 「地の実りの娘、ペルセポネ」  
 喉の下の深いところで何かが鳴り響いた。  
 それが心臓の鼓動であったことになかば驚愕する。  
 「たしかにこの暗い地中は息も苦しかろう、花もなければ樹木も草も風もない。食べ物は  
あるが地上のそれとは甘さも比べ物にはなるまい」  
 いつのまにかハデスの右手には、真っ赤に熟れたざくろの実が顕現していた。  
 太陽も豊穣の恵みもない冥府では食べ物は神々の奇跡によって生み出される。だがどう  
いう理屈なのか、神の手による作品だというのにそれらはひどく滋味に乏しい。ハデスもそ  
れは死者の口から知らされてはいるのだろう、生きているあいだに口にしたあれはもっと美  
味であった、と。  
 「だが」  
 弱い灯かりをうけてきらりと光ったざくろを目にしてペルセポネは唐突に知った。名前を。  
 「もしほんの少しでもこの暗き場所に住むものを哀れと思うのならば、地の実りの絢爛で  
ここを照らしてはくれまいか」  
 口の中が乾いてくる。  
 「……それは、太陽……」  
 
 「光であればなんでもよい、と言っているのではない」  
 ペルセポネの思考を読んだかのように素早くハデスが先を制した。いつも穏やかでゆる  
やかな言葉を発する彼らしくない物言いだった。  
 「ペルセポネ」  
 名を呼ばれて身が震えた。  
 この冥府の王がさきほど初めて自分の名を呼んだという事実を、やっと飲み込む。  
 「矢に射抜かれた結果の戯れ言と考えるもよかろう。だが」  
 「なりません」  
 窒息しそうだと言いはしたが当然のことながら吸う空気など無尽蔵にある。それにもかか  
わらずペルセポネは肩で喘いだ。急速に息苦しくなってきて考えがまとまらない。  
 「帰して。母のところへ」  
 「冥府の王とて地上に焦がれぬわけではない」  
 「いやです。こんな所はいや。帰して」  
 たしかに射抜かれはしただろう。しかしハデスはそれが理由で長いこと冥府へペルセポネ  
を留め置いたのではなかった。  
 「后としてここに留まってはもらえまいか、ペルセポネ」  
 両耳をかたく塞いでうずくまる。  
 胸がどきどきしてうまく呼吸ができない。支えようとでもしたのだろうか、狭い視界に黒い衣  
の裾が近寄ってくるのが見えたがペルセポネは全身で拒否した。  
 耳が熱い。頬が燃えているような気がする。  
 
 そういえば自分は求愛されるのは初めてだった、とペルセポネは混乱したままそんなこと  
を思った。エロスの矢のせいだと鼻で笑うこともできただろう。しかし伝聞に聞くエロスの矢  
は連れ去ったことを陳謝するような展開など一つもなかった気がする。  
 耳を塞いで目を閉じていると、これ以上何か言っても刺激するだけだといつものように賢  
明な判断をしたらしくハデスの気配が遠ざかっていくのがわかった。時間をかけてもう戻っ  
てこないのを確認して、ペルセポネはふらふらと立ち上がる。  
 目を落とせばすぐそこに宝石で飾られた長椅子があった。  
 薄暗くとも、目をこらすまでもなく明らかだった。宝石による装飾はただ見事と言うしかな  
いすばらしいもので、たわわに実をつけた樹木や朝露がしたたりそうな花が表現されてい  
た。胸がつまり、理由のわからない涙を飲みこむのが信じられないくらいに辛かった。  
 
 針のように細く撚った銀で編まれたたくさんの籠の中には、およそペルセポネが思いつくす  
べての果物が揃っている。ただ林檎と言っても赤いもの黄色のもの青いもの、手の平に握  
りこんで隠せるような小さなものから両手で支えなければならないほど大きなものまで、文  
字通りに何でも揃っていた。  
 単なる楽しみのためやコミュニケーションを円滑に進めるための手段のひとつとして飲食  
することは神々の間でも決して珍しくはないとはいえ、人間とは違いそれを摂取しなければ  
死んでしまうということはない。だから毎日決まった時間に出されるそうした果物をすげなく  
断ったとしても、ペルセポネは何一つ困らない。言ってしまえばこれらを用意するハデスの  
ほうにも、用意しなければならない責任も義務もない。  
 給仕によこされてきた女官がなんだか苛々しているような気がするのは、自分の考えすぎ  
というわけでもないだろう。  
 「……」  
 色つやの良い葡萄を手にとってしばらく眺め、眺めただけでペルセポネは無造作に籠へも  
どした。  
 「あの、差し出がましいこととは思いますが」  
 「なに?」  
 「何がご不満なのでしょうか。王に供される果物でもお口に合わぬということでしょうか」  
 「そういう問題ではない」  
 神に空腹というものはないが食欲ならばある。神とて美食を快いと思うのは当然のことだ。  
現にデュオニュソスときたら酒の守護者であるのをいいことに、葡萄酒の風呂に浸かったほ  
うが手っ取り早くて都合がいいのではないかと思うほどよく飲む。  
 「単純に、気が進まないだけ」  
 「左様ですか」  
 
 では、と言い置いて女官はさっさと籠を片付けはじめる。客への対応にしてはなんだか無  
礼が過ぎる気がしたが、別に賓客扱いされることに喜んでいるわけでもないのでかまわない。  
 冥界に連れ去られてこのかた、とうに一ヶ月は過ぎているはずだ。太陽が昇らないせいで  
昼夜がまったくわからないため想像するしかないが、人間の食習慣の通り一日三回で果物  
や食事が運ばれてきたのだとしたらそのくらいの計算になる。  
 別に母とべったりの生活をしていたわけではないが、何の知らせもなく行方をくらましただ  
けにきっと今頃心配しているだろう。それこそ拉致という単語がふさわしい連れ去られ方はし  
たものの、暴力を受けるどころか帰ることができないくらいで生活そのものには不便がない。  
せめて無傷で無事でいることくらいは知らせたいのだが、果たしてそれができるかどうか。  
 金と宝石で装飾された大理石の長椅子の上へ体を横たえながら考えを練る。  
 ペルセポネに与えられた部屋は丸く、天井もドーム状になっていて瑠璃の巨大な岩盤が  
むきだしになっている。灯かりを弱めればそこへ含まれた金紗が光をはじいて、ちょうど濃  
紺の星空のように見えて美しかった。これで月でもあれば地中の夜空にも興を添えてくれる  
のだろうが、残念ながら石英や金剛石の結晶を含む岩盤はこの部屋の近くにはないらしい。  
 認めたくない事であったが、ハデスは賢明でものの道理をわきまえている。これで他の男  
神であったなら今頃自分がどうなっていたかなどすぐに想像できようというものだ。それだけ  
に、いくらエロスの矢のせいであったとは言ってもあんな手段を使われたことが腹立たしく  
てならない。  
 これまた認めたくないがハデスが自分のために作らせたこの長椅子ときたら、細工や造り  
の麗しさもさることながら高さも広さも背もたれのカーブも絶妙で居心地いいことこの上なく、  
頭ごなしに罵倒してしまったことを心底後悔した。単に自分のものにしたいだけなら、連れ  
去ったその足で獲物を寝所に放り込んでやるべき事をやってしまえばそれで済む。手間を  
かけてこんな椅子など作らせる必要も、時間をかけて心境が変わるのを待つ必要もないの  
だ。  
 それだけペルセポネ自身を尊重しているということであり、多少順序や手段がおかしかっ  
たとはいえ同意の上での婚姻を望んでいる事にはもう疑いようがない。本当になぜ拉致で  
なければいけなかったのか、もしこの場に父ゼウスがいたとしたらかなりの勢いで罵ってし  
まいそうだ。  
 
 頭からつま先まで黒い布で覆い隠した、ハデスの姿を思い出してペルセポネはため息を  
つく。  
 まだ一度も顔を見たことがない不可思議な求婚者。オリュンポスやアテナイ周辺の土地は  
温暖なので、衣といっても腕や足を露出させるものは多い。両腕を露出させる形式の衣服を  
身に着けた今のペルセポネが寒い思いをしているわけでもないので、冥界がとりたてて寒  
冷なわけでもないことを思うとハデスのいでたちはどう考えても異様だ。  
 黒衣の死者の王。突如地面を裂いて現れでた漆黒の馬の襲撃者に、心臓が握りつぶさ  
れるような恐怖を覚えたことはまだ生々しい記憶だ。  
 生きた心地がしない、とはきっとあんな気分のことを言うのだろう。  
 死ぬこともできないまま切り刻まれるか、あるいは亡者の贄にでもされるのか。そんな結  
末を想像していたのに薄暗い世界に連れられてきてから待っていたのは賓客の待遇で、と  
うの拉致犯が折り目正しく腰を折って冥界の王妃となってほしいと要求してきたのだからた  
まらない。  
 「本当に、腹が立つ」  
 苛々と爪を噛みながらペルセポネは呟く。  
 全身真っ黒で顔すらまともに見えない。正直なところハデスそのものは不気味以外のな  
にものでもなかった。でも折にふれて発せられる声と言葉は驚くほどに穏やかで、力や権  
力にあかせて屈服させようなどという陳腐な手段など決して使わないだろうという安心感が  
持てた。常に細やかな気配りを忘れず先を急がない。目深くおろした布のせいで著しく視界  
が制限されているはずだが、それでも所作には迷いがなく足の運びにも不安げな所はな  
い。  
 勤勉に冥界を管理するためオリュンポス十二神の座を自ら辞したとも聞く。悪い噂もない  
ので有能な施政者なのだろうという想像も容易にできた。  
 「本当に、『あれ』さえなければ……」  
 だからそこでペルセポネの思考は堂々巡りになってしまう。  
 ハデス自身が人格的に何ら申し分のない相手であることなど、冥界に連れて来られて数  
日で嫌でもわかった。あの黒衣の王に抱いた嫌悪感がすでに遠い場所へ去っていることも  
認めざるを得ない。まださすがに彼の求め通り結婚してもよいとは思えないし考えるつもり  
もないが、好意の比重が大きくなりつつあることも認めざるを得なかった。  
 どうしてもっとこう普通の、どこかに設けた宴席でだとか、そういう手段ではなかったのだ  
ろう。  
 「……」  
 しかし、ふとペルセポネは我に返った。  
 あれだけ道理をわきまえた王なのだから、こちらがきちんと嘆願すれば、ここから出ること  
はすぐにできずとも母に知らせを送ることくらいはできるのではないだろうか。  
 
 冥界という場所はどうしても客人のほうが圧倒的多数になるので、そこから出て行く者は  
希少だ。さらに、出入りする者、ともなるとさらに希少だ。そんな人物は冥界王ハデスでも両  
手で足りる程度の人物しか知らない。  
 黒曜石の床に杖を立て、帽子と脚部の装具へそれぞれ一対の翼を飾った伝令使を視界に  
いれてハデスはふと考えた。  
 「つかぬ事を訊くが」  
 聡明そうな目でハデスに言葉の先を無言で促したのはゼウスに使える伝令使ヘルメスだっ  
た。伝令使として神々からの伝言をハデスに伝えにくることもあれば、彼自身英雄の魂を冥  
界へ導く案内人としての役職も持つため、そちらの任務でも冥界へは頻繁に出入りする。もっ  
とも、後者の場合は冥界のさらに下部に位置する奈落タルタロスからタナトスとヒュプノスを  
呼び出して伴っているものなので、ヘルメス一人でいるか、はたまた同行者がいるかですぐ  
に目的が知れる。  
 「『あれ』からどれほど過ぎたのだったか」  
 「さあ。私は正確な日付は存じ上げぬので」  
 「左様か」  
 「なにか問題でも?」  
 「……デメテルがあれをそう易々と渡すことはあるまい、と言ったのはゼウスだが」  
 思わず深い溜め息が漏れた。どうも長いこと冥界で暮らしているせいか自分は行動を起こ  
すまでの時間が、地上やオリュンポスにいる彼らよりずいぶん遅いのかもしれない。  
 「地上の民に八つ当たりするくらいならば直接ここへ乗り込んでくれて良かったのだがな」  
 デメテルがそんな自棄を起こす前に自分から何かしら接触を持っていれば良かったのか  
もしれないな、と考える。  
 「それにしても実りを与える職務を放棄、か。ゼウスが何を言ったのかは知らんが、  
賢(さか)しいあれのことだ、よほど短慮な事を言ったとみえる」  
 「これは又聞きの話ですが」  
 伝令使という役職を仰せつかるだけあってヘルメスは噂話や大っぴらにはできない秘密な  
どにも通じる。  
 
 「なんでも今回の件をたきつけたのが我が主人であるを知るや、その足で事の次第を問い  
ただしにお越しになられた様子」  
 ある日突然愛娘が姿を消したのだ、人間の母親でも死に物狂いになって探すであろうこと  
は簡単に想像できる。農耕を司る愛情深いデメテルのことだ、それがペルセポネともなれば  
それこそ地上のおよそ思いつく場所を隅から隅まで探しまわることだろう。つくづくデメテルに  
も悪いことをしてしまった、とハデスはもう一度溜め息をついた。  
 「それはそれは大変な剣幕だったそうで」  
 「……で、ゼウスはあれに何と?」  
 「我が主人なりになだめようとされたのかもしれません。『冥界王ならば充分夫として釣り  
あうだろう』と仰られたようですが、それを聞くなり来た時よりももっと凄い剣幕で農耕神とし  
ての役目を放棄すると宣言して地に下られたとか」  
 何ともお粗末なオリュンポス最高神の返答にさすがに額を覆ってしまう。デメテルが訊きた  
かったのはそういう事ではないだろうし、いやむしろデメテルにとってはそんな事などどうだっ  
て良かっただろう。最高神としてオリュンポスの頂点に君臨しているくらいなのだからそう頭は  
悪くないはずだが、どうもハデスは時折弟神の軽率な言動に不安なものを感じずにいられ  
ない。  
 「単になぜあのような手段で連れ去ったのかを尋ねたかっただけだろうに……ゼウスもなぜ  
その程度の事に気付かぬのか」  
 「さて、過ぎてしまった事ゆえ。今更嘆いたところでどうにもなりはしますまい」  
 「確かに」  
 ヘルメスの言った通りだ。  
 無体な手段でペルセポネを連れ去ったのはどう足掻いてもこの自分であり、デメテルがゼ  
ウスの言動に激怒して農耕神の職務を放棄してしまったのももう変えられない。  
 デメテルの加護なくば地上に実りは訪れない。冥界と地上の時間の流れが違うことなど誰  
でも知っているが、早急にペルセポネをデメテルのもとへ送り返すように、とゼウスがこうして  
ヘルメスを寄越してきたことを考えると地上はのっぴきならない状態なのかもしれない。  
 冥界の王としてもいたずらに死人を増やすような真似はいくら神とは言っても理に反する。  
何よりハデスは冥界を治める王なのであって、人を殺して楽しみとする悪鬼などではない。  
 
 それに、いくら死が等しく誰にでもに訪れるものであるとは言っても、心楽しくいられる地上  
にあったほうが人が幸せなのはどう考えても揺るがない。冥界に来るのが早まるのが、人に  
とって幸せであるはずがない。  
 「……」  
 なぜかそこでペルセポネのことを思い出してハデスは胸を突かれたような気分になった。  
 別に命を奪うつもりもなければ危害を加えることなど考えもつかなかったので、失念してい  
た。まともな思考を持っていれば、冥界に行くということは死と同意だ。ヘルメスや自分のよう  
に冥界に関わる職務を持つならば話は別だが、縁のない者にとってはそうだろう。  
 死地に愛娘を連れ去られた心痛。話に聞くかぎりデメテルの怒りそのものは自分ではなく  
失言をしたゼウスに向けられているようだが、愛娘を突然奪われた心痛は当然自分に責任  
がある。  
 しかもその先は死人の場所だ、神の眷属ゆえ文字通りに踏み込んだら最後生きては戻れ  
ないということはないが、それでも生命の保証はされているのかと心を痛めるのが普通だろ  
う。  
 かえすがえすも無思慮な行動であったことが悔やまれる。  
 「可能な限り早く要請にお応えする、と伝えておいてほしい。問題はあれがまたゼウスの言  
うことを聞いてくれるかどうかだが」  
 「別に我が主人が使者に立たねばならぬ道理はないでしょう。冥界王から直接言葉を賜っ  
た自分が出向いた、とさえ申し上げればそれで事足りる」  
 「なるほど」  
 伝令使の杖ケリュケイオンを取り上げ、ヘルメスは軽く一礼してから執務の間を辞していっ  
た。  
 被(かづ)いた衣の下でハデスは考えに沈む。ゼウスに間違いなく約束は守ると返事をした  
以上、一日も早くペルセポネを地上へ送り返す算段を整えなければならない。  
 あれだけ帰りたがっていたのだ、戻れると知ればきっと喜ぶだろう。  
 
 残念なのは、ペルセポネの顔を恐らくはもう二度と見ることはないという事か。喜ぶ笑顔を  
見ることができるであろうことは密かに楽しみなことではあったが、冥界を離れることができ  
るという理由の笑顔というのも寂しいものだと思う。  
 手段が手段だっただけそう簡単にペルセポネの心が手に入るなどと、はなから考えてはい  
なかったとは言え、時間を惜しまず話し合ったり長くかかっても心が変わるのを待つつもりで  
はいた。  
 やはり冥界という領域を統治することを決めた時から、永久の伴侶としては孤独の他には  
いっさい望んではならなかったのかもしれない。  
 「決まった以上、長く引き留めるのは良くはなかろうな」  
 誰に言うとでもなく呟いて椅子から立ち上がり、ハデスは人影を求めて執務の間を出た。す  
ぐ右手にある通路の角を曲がったところで、死角になる位置に立っていた人物と危うく接触し  
そうになる。慌てることなくすぐに脚を後ろへ引くと、何かおびえたような様子でその人物が顔  
を上げた。  
 「ごめんなさい」  
 自分の体を抱きかかえるようにしてペルセポネが立っていた。  
 「立ち聞きするつもりはなかったのです」  
 その言葉で、自分とヘルメスのやりとりをペルセポネが聞いていたことが知れた。  
 

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