遥か昔。
まだ人間とともに神々が世界に君臨していた頃の話です。
最高神ゼウスの神殿があるオリンポス山には、多くの神々が住んでいました。その中でも特に力を持っていた
とされるのがオリンポスの十二神という男女6柱ずつの神々で、ゼウスの娘である女神アテナもその中に名を連
ねていました。女神アテナは戦争の神でありながら、美の神アフロディーテやゼウスの妻ヘーラーに匹敵するオ
リンポス屈指の美女です。しかしながら、彼女は華やかに着飾ることはなく、常に鎧兜を身に纏い完全武装を崩
さないなど、他のふたりの女神に比べるとずっと男性的な性格の神なのでした。浮気者の父を持った影響でしょ
うか、恋に憧れを持つことはなく、むしろ男性に嫌悪感を持っているのです。戦場で凛々しい美しさを誇るアテ
ナに思い焦がれて、甘い言葉を囁く男神は絶えませんでしたが、アテナの返事はいつもにべもないのでした。
どれほどの神がどれほどの犠牲を払ってもアテナの心は動くことはなく、取りつく島もないのです。彼女に言い
寄った男神は、直情的で粗暴なアテナに罵られるか乱暴されるかが常でありました。
そんな彼女が地上に降臨した時、そこで美しい少女と出逢ったことから、この物語は始まるのです。
アテナイでは知らぬ者のいない守護神、アテナに供物を捧げる巫女として、その少女はアテナの前に現れました。
本来は、じっとしているよりもいつも動いていたいアテナにとって、こうした儀式ばった行いは大の苦手です。早
く終わらぬものかと面倒くさげな態度をありありと浮かべていたのですが、少女の姿を見た瞬間にアテナはその姿
にたちまち目を奪われてしまいました。
「アテナ様、私達の町で一番の織姫が精魂を傾けて作った織物にございます。どうぞお納めになってください」
少女が恭しく捧げた織物を受け取る間にも、女神の目は少女に釘付けでした。
「おまえ・・・、名はなんと言うのだ?」
アテナがたまらずに問うと、予想外だったのか少女はきょとんとした顔をします。
「おまえの名前を、私に教えるのだ」
「は、はい。メドゥーサ、と申します」
「メドゥーサ、か・・・」
なんと美しい少女なのでしょう。芸術家が心身を削って創り上げた美女の彫刻のように繊細な顔立ちに、まるで地
中海の蒼さを写しこんだように澄んだ大きな瞳が輝いています。その姿は、まるで王女様のように気高く、彼女が立
っているだけで花が開いたかのようにその場が華やぐのでした。そして、もっとも人目を惹くのが腰まで伸びた長い
髪です。それは天上から流れる聖水のようにきらきらと光沢を放ち、金でできた絹糸のように肩を滑っていくのでし
た。
「なぁ、メドゥーサ」
「はい、なんでしょうか」
「明日からこの神殿に通って来い。おまえの住む町のことを私に教えるのだ」
「はい、ぜひよろしくお願いいたします!」
美少女は顔をぱっと輝かせました。きっと女神に特別に声をかけられたことが嬉しかったのでしょう。アテナがメ
ドゥーサの町のことを聞くと言ったのは勿論方便に過ぎず、ただこの美少女とまた会って話をしてみたかったための
口実でした。アテナはこの少女が一度に気に入ってしまったのでした。
次の日から、アテナとメドゥーサは毎日色々な話を交わしました。アテナは、共に時間を過ごせば過ごすほど、こ
の美少女を好ましく思うようになっていくのを感じていました。この少女は美しいだけでなく、何事にも控えめで、
しとやかな気質の持ち主でした。知性の神と呼ばれながら、実は単細胞で暴れん坊のアテナはそんなメドゥーサが新
鮮に感じられるのでした。本来は絶対的な存在として君臨する、女神という立場のアテナでしたが、この春の日のよ
うに穏やかな雰囲気をまとった美少女の前ではむしろ、彼女を女神のように感じる瞬間さえあるのです。神などと名
乗りながら、肉欲のためなら阿修羅にも盗人にもなり変わるオリンポスのろくでなし共に比べ、なんと気品のあるこ
とでしょう。戦の女神は、メドゥーサと語らう時間を何よりも楽しみにするようになりました。
そんなある日、アテナは以前遠征中に眺めて感銘を受けた風景をどうしてもメドゥーサに見せたくなりました。
そして、思い立ったらじっとしていられないアテナはすぐさまメドゥーサの手をとり、外へ連れ出しました。
「め、女神様。わたくしをどこにお連れなさるおつもりですか?」
「とても綺麗な景色だ。そう、おまえが一度も見たことがないような美しい景色を見せてやる!」
アテナは、他の誰に見せたこともないような明るい笑顔で言いました。そして歴戦の友である白馬に彼女を乗せ、
遥か天空へと翔け昇ったのです。
「わぁ、なんて見晴らしが良いのでしょう」
メドゥーサは初めて体験する空への旅に興奮を抑え切れません。
「まだまだだ。私がおまえに見せてやりたいのはこんなものじゃない」
ふたりは馬を駆り、どこまでも飛び去ります。そして、馬は壮大な山脈にぶつかり、その山脈を登っていきます。
「女神様、いったいどこまでいらっしゃるのですか」
「もうすぐだ、もうすぐ・・・、この山を越えたら・・・」
その時、白馬は山頂を越え、眼前に見渡す限りの視野が開けました。
「・・・!」
メドゥーサは息を呑みます。そこには延び続ける平野と、その先に横たわる海が極上の展望で広がっているのでし
た。白馬がゆっくりと天空に昇っていくと、彼方に地平線が弓なりの曲線を描きます。少女が普段見上げるように見
ている大きさのものが、ここから見下ろせばまるで小さな豆粒のように見えます。一本一本の木々は爪の先ほどの大
きさですが、それらが合わさって鬱蒼とした森を形成しています。草々は刈り上げられた芝のように生え揃い、彼方
の海原はさざ波を繰り返しているのです。まるで千人の熟練の工芸家たちがナイフの先ほどの細工を作って壮大な立
体芸術を創り上げたかのようなのです。そしてそれらが、沈みゆく夕陽に染められると息をのむほどに美しく、えも
言われぬセンチメンタルな気持ちを少女の胸に抱かせるのでした。
「どうだ、美しいだろう」
アテナは本当に嬉しそうに笑いました。彼女は、美しい光景も、好ましい相手とともに見つめればまるで別物のよ
うに魅力を増すのだと初めて知りました。
「あまりにも美しくて・・・、私は何も申し上げることができません、女神様」
メドゥーサは食い入るように彼方に視線をやっていました。景色も勿論綺麗でしたが、夕陽に染められる少女の感
傷的な横顔もアテナにとっては、胸が痛いほど美しいものに感じられました。
「アテナ・・・と呼ぶが良い」
とぽつりと女神は口にしていました。
「え・・・?」
「女神様、では誰のことかわからないだろう? 私のことはアテナと呼ぶが良い」
アテナは自分でも何を言っているかよく理解できませんでした。ですが、にこりとしてメドゥーサは微笑むのです。
「はい、アテナ様」
その時アテナは、自分はこの少女に特別な目で見てもらいたいのだ、と思っていることに気づきました。
さて、実はこのメドゥーサの美しさに惹かれていた神はアテナだけではありませんでした。最高神ゼウスに匹敵す
る力を持った海神、ポセイドンも彼女に目をつけていたのです。好色な彼は妻のいる身でありながらメドゥーサに一
目惚れしてしまい、彼女を熱心にかき口説きました。メドゥーサは頑として彼を受け入れませんでしたが、ポセイド
ンが神としての威光を嵩にきて、遂には彼女の故郷を大津波によって押し流すぞ、と脅迫するや、拒みきれずに彼の
寵愛を受け入れることになったのでした。そしてポセイドンは、風光明媚な神殿でメドゥーサを抱きたいと考え、こ
ともあろうにアテナの神殿で交わることを思いつきます。そして、強引なポセイドンはすぐさま白馬に姿を変え、メ
ドゥーサをアテナ神殿に連れ去り、彼女に挑みかかるのでした。そして、折悪しくその神殿の主アテナは、このふた
りの情事を目撃することになったのでした。
その日、アテナはメドゥーサに贈るつもりでいた薔薇の花を、手ずから摘んできた所でした。最も香りがかぐわし
いと噂の高い薔薇を手に入れるために、朝から地中海を越えて北の国に行っていたのです。それをアテナは、不器用
な手つきで王冠の形に編んだのでした。女神は、それをアテナの頭に載せてあげる所を想像しました。普段から美し
い彼女のことですから、きっと桃色のこの薔薇が映えて、さらに神々しいまでの輝きを放つことでしょう。そして、
薔薇の放つ芳香と、少女が持ち合わせている甘い香りが絡み合ってきっとアテナを自失させてしまうほどの香りにな
るはずなのでした。
そしてそんな甘く切ない想像を楽しんでいる時に、女神アテナはポセイドンとメドゥーサの姿を目にしたのでした。
ポセイドンは美少女メドゥーサにのしかかるようにして腰を振っていました。彼は力強い海神らしく、荒波で鍛え
抜かれた漁師のように太い体躯をしていました。しかし、その肌からは若さが失われ、身体には怠惰な脂肪がまとわ
りつき、顎に生えた髭も張りを失って汚げに見えるのでした。それに反して、メドゥーサはほっそりとしていて瑞々
しく躍動感のある身体つきをしており、それでいてどこか硬さを残し成熟しきらない少女の面影を残しているのです。
ですから、初老の醜いポセイドンが力に任せてメドゥーサを犯す姿を目の当たりにした時、いささか潔癖症のきらい
があるアテナは嫌悪感のあまり吐き気を催しました。そしてその相手がメドゥーサであると気づくと、衝撃のあまり
薔薇の王冠を取り落としました。
ポセイドンはまだ十分にふくらみきっていないメドゥーサの乳房に吸い付き、小ぶりの先端に歯を立てます。それ
は刺激が強すぎるのか、美少女は顔を歪めますが、自分の快楽を追うことに夢中のポセイドンはまるで気づいていま
せん。自分の欲望のみに忠実ですから、メドゥーサの秘められた場所へも自らの男の欲望を手前勝手にえぐり込むの
でした。真っ白な褥の上にはメドゥーサの自慢の髪が広がって、頭が動くたびにさらさらと光の清流のように流れる
のです。
やがてポセイドンは快楽の閾値を越えそうになったのか、メドゥーサの秘部から己の欲望を引き抜いて、それを彼
女の美貌の前へ突きつけました。そして、自らの手で欲望をしごくと、快楽は閾値を越え、メドゥーサの彫刻のよう
に端正な顔におぞましく白濁した精液が勢いよく命中しました。一弾、二弾、三弾と彼女の顔を思うさま汚した後、
ポセイドンは汚れた陰茎をメドゥーサに押し付けました。
アテナは、腰に佩いていた剣を抜きました。元々激情家の女神は、すでに見境を失っていました。
「ポセイドン、貴様、我が神聖なる神殿でこのような淫らな行為をするとはどういう了見か!」
戦の女神の突然の出現とあまりの剣幕に仰天したポセイドンは飛び上がりました。
「待て、アテナ。これには理由があるのだ」
「言い訳は冥府でハデスに言うが良い」
怒りのあまりアテナの顔は赤くなることを通り越し、危険な蒼白色になっていました。
取り付く島もないアテナに肝を冷やしたポセイドンは裸のまま神殿を飛び出し、海に身を躍らせて深海に身を隠し
てしまいました。
後には、ポセイドンに抱かれたままの姿のメドゥーサといつものように完全武装のアテナが残りました。
「なぜ・・・・だ?」
いつもは顔を上げて凛々しく話すアテナは俯いたまま少女に問いました。前髪が目にかかり、女神の表情は窺
い知れません。
「わたくしは言い訳はいたしません」
と、むしろ少女の方が顔を背けずに真っ直ぐ言いました。
「なぜ・・・・だ?」
アテナは白痴のようにもう一度つぶやきます。なぜ、の後に続く言葉が多すぎて彼女には言葉が選びきれませんで
した。ああ、まるで地面のことごとくが崩れ、世界が崩壊してどこまでも落下していくような錯覚を覚えます。ある
いは、胸に大きな穴が開いて、そこから風がひゅうひゅうと通り過ぎていくような感じがします。なぜ、こんな時に
あの日、夕陽に染まった少女の眩しいほどに美しい笑顔を思い出すのでしょう。
どんな言い訳でも、してくれれば良いとアテナは思いました。この少女の言葉であるならそれがどれほど荒唐無稽
な言い訳であろうとアテナは喜んで信じたでしょう。世界のすべてが敵に回ろうとも、アテナだけは少女を信じるつ
もりでいました。ああ・・・・、それなのに。メドゥーサは決然とした表情で口をつぐんでしまうのでした。
アテナが顔を上げると、その瞳からは涙がこぼれ落ちていました。いくつもいくつもそれらが光っては流れ落ちて
いきます。
「ああ、どうかお泣きにならないでください。悪いのはわたくしなのですから。アテナ様は何もお悪くないのです」
メドゥーサは哀しげな表情を浮かべました。
そうではないのだ、とアテナは思いました。終わった行為が哀しいのではないのです。メドゥーサが言い訳をしな
いことは、アテナを本当に必要とはしていないからであるように思えたのでした。もしも今アテナが感じているほど
の喪失感をこの少女が感じているなら、きっとどんな事をしてでも許しを乞うに違いないはずです。
アテナは自分のひとり相撲に対して、猛然と腹が立ってきました。それは自分自身に向けられるべきものでしたが、
怒りに我を忘れた女神はそれを暴力的な衝動としてメドゥーサにぶつけることにしたのです。
「おまえの言いたいことはわかったぞ、メドゥーサ。望みどおり、おまえに恐ろしい刑罰を与えてくれる」
アテナは鬼神のような表情になって剣を天に掲げました。世界に満ちるエーテルの力が剣に凝集していきます。
そして、剣を振り下ろすと、メドゥーサの身体にエネルギーの塊が炸裂しました。すると、みるみるメドゥーサの身
体に変化が起こりました。彼女の最も美しかった髪の一本一本が蛇と化してもぞもぞと不気味に蠢きだしたのです。
メドゥーサは悲鳴を上げました。
「以後、おまえの姿を見た者はすべて石と化す。もう、おまえに近づける者はいない。人目を忍んで生きていく
がいい」
アテナは涙を流しながら少女を神殿から追いたてました。そして人目に触れることのできなくなったメドゥーサは
冥界にほど近い西の果て、オーケノアスの地へと追放されたのでした。
女神アテナはさながら爆発寸前の炸薬のように苛立っていました。もしも何かの拍子に彼女の苛立ちが沸点を越え
れば、たちまち血の雨が降り世に災いが荒れ狂います。オリンポス山の誰もがアテナを避けて通りました。戦の女神
の八つ当たりの餌食になった例は枚挙に暇がなかったからです。文字通り触らぬ神に祟りはない、と言うことなので
した。
そんなアテナの噂を聞きつけ、呼び出したのは他でもない全知全能の神にして彼女の父であるゼウスでした。
「・・・なんの用ですか、父上」
ゼウスの神殿に呼びつけられたアテナはひどく不機嫌そうに言いました。
「アテナ、最近荒れているそうではないか。どうしたのか?」
父ゼウスは優しく娘に問いました。
「なんでもありません。私は元々短気で、皆に恐れられてきたでしょう。いつも通りです」
戦の女神は硬い表情で言いました。
「ふむ。だが、ここ最近は誰に対してもいつも穏やかな笑顔を浮かべていたではないか? とても幸せそうに父に
は見えたが」
「・・・」
さすがに父は、見ている所は見ているのでした。
「これは私の勘に過ぎぬが、我が娘よ、おまえは恋をしたのではないか?」
「なっ」
と胸をつかれたようにアテナは目を見開きました。
「これは断じて恋などではありませぬ。これはきっと、一時の気の迷い。そう、まるで麻疹のようなものなのです」
純情な女神は、いよいよ自らが語るに落ちていることには気づいていません。
「不器用な我が娘よ。私にはおまえの気持ちが痛いほどわかる。だが、おまえもオリンポスに住む女神であるなら、
この苦難も自分の力で乗り越えて見せよ」
そしてゼウスは付け加えました。
「・・・ただひとつ言えることは、おまえが自分の気持ちに素直になることで、変わるものがあるということなの
だ」
アテナは憤然と身を翻し、神殿を立ち去りました。妻がありながら浮気を繰り返すあの男に自分の何がわかるとい
うのだ。馬鹿らしい。確かに、ゼウスがアテナの気持ちを本当に理解していたかどうかはわかりません。ですが、ア
テナ自身もまた、自分の気持ちを整理することができずにいるのでした。
神に仕える巫女であったメドゥーサにとってもまた、アテナへの想いはさらに複雑な要素を含んでいるのでした。
メドゥーサは元々、朝起きてからと夜眠る前、そしてすべての収穫と喜びに対して女神アテナに感謝の祈りを捧
げる敬虔な巫女でした。ですから、女神アテナに目をかけられて多くを語らう日々はまるで夢のように幸せでした。
ですが彼女の胸の中は、アテナを女神として崇拝する気持ちと、対等の相手として慕う気持ちがないまぜになって、
まるで幾滴もの油絵の具が水に落ちたように不可思議な模様を描くのでした。年端もいかぬ少女は自らの中で絡み
合う気持ちの整理ができず、人知れず苦しんでいました。それが、相手が神々ですら避けて通る無敵の戦の女神で
あるなら、尚更のことなのです。
メドゥーサは、自分の気持ちを崇高な神への信仰心なのだと、思うことにしたのでした。ですが、ああ、どこま
でも真っ直ぐな女神アテナは少女の瞳を覗き込み、メドゥーサが心の奥に押し込めた気持ちのドアを静かにノック
するのです。あの日、白馬の背に揺れながら女神に抱きついて、空の上から眺めた光景のどれだけ美しかったこと
でしょう。その時だけは、少女は誰の目も憚らずに美貌の女神に抱きつくことが許されていたのでした。そして自
分は、こうして女神様の好意を受けてそばにいられればそれで幸せなのだ、と思うのです。ですが、そう思おうと
することは、少女の胸に切ない痛みを生じさせるのでした。
メドゥーサは、誰もが恐れおののく怪物に化身させられ、西の果てでひっそりと暮らしていました。これは、ポ
セイドンに対して心ならずも不貞を働いた自分に対する罰でした。女神アテナの怒りを買って別れを告げることは
胸が張り裂けそうになるほど辛いことでしたが、それはおぞましくも穢れてしまった自分に対する罰なのでした。
しかし、罪な女神はこの冥界にほど近い地までやってきて、少女の胸を揺さぶるのでした。
「久しぶりだな、メドゥーサ」
と、例の白馬に乗り、いつものような完全武装姿でアテナはこの地に降臨しました。
「お久しぶりでございます」
メドゥーサが顔を伏せてその場に平伏すると、女神はなぜか機嫌が悪そうになりました。
「そのようなことはしなくとも良い。立て。くそっ、私が馬の上になど乗っているからか」
アテナは苛立った様子で馬から飛び降り、メドゥーサを乱暴に引き起こしました。
「ああ、乱暴はおやめください」
「い、いや・・・すまなかった。そんなつもりはなかったのだ」
女神は慌てて手を離します。
「今日は、どのようなご用件でいらっしゃったのですか」
とメドゥーサが恭しく訊ねると、この言葉がまたなぜか女神の神経を逆撫でした様子でした。
「用がなければ、来てはいかんと言うのか? ・・・いや、待て。また感情的になったようだ」
アテナの様子は変でした。まだお互いの仲が険悪になる前から時折見られたことのですが、これは女神がご機嫌で
話している時に、ある瞬間を境に現れる徴候でした。
「・・・最近は、どうしているのだ?」
「はい。このような姿ですし、見た方を石に変えても気の毒ですから、こうして人目を避けて暮らしています」
「いや・・・、その、今のそなたも十分に美しいと思うぞ、私は」
アテナはなんだかよそ見をしながら言いました。
「・・・え?」
「なんでもない。今日来たのは、おまえにもう一度釈明の機会を与えようと思ったからだ。この前は・・・、そ
の、私も興奮していたからな」
女神は憂いのある表情でメドゥーサを見ました。アテナは結局、ひとり天界で少女のことを想ううちに矢も盾も
たまらなくなり、ついには彼女を許すきっかけを作ろうと西の果てまでやってきたのでした。
「なぜ私の神殿であのような行いをした? おまえは貞淑な乙女だ。なにか理由があるのだろう。さぁ、私に話
してみるが良い」
女神アテナは慈愛の微笑を浮かべました。メドゥーサの心は揺れます。よりにもよって女神様の神殿であのよう
な行為に及んだ少女を、なぜこのように優しく許そうとするのでしょう。巷ではアテナを、嵐を起こし雷を落とす
戦の神として恐れていますが、誰も知らないこんな優しさを持っているのです。しかし、メドゥーサは一度こうと
決めたら決して変えようとしない少女でした。それは、決意の固さと意志の強さでもありますが、悪い方へ働くと
頑固さになって自らを追い詰めるのです。
「わたくしは、何も申し上げることはありません」
「な、なんだと・・・」
アテナは驚いた顔をしました。
「理由を話せば許してやるんだぞ」
「やったことはやったこと。わたくしは言い訳などしたくないのです」
「な・・・っ」
よもや、メドゥーサがこのような強硬な態度に出るとはアテナも予想していなかったに違いありません。意外に
も頑固な少女の態度に女神はしばらく絶句しました。そして、女神らしからぬ弱々しげな顔をしました。
「よし、わかった。もう何も聞かぬ。ただ一言謝ればそれですべて水に流す」
おそらくは、猛き女神の最大の譲歩だったに違いありません。それだけ、アテナはメドゥーサを許したかったの
です。ですが、一度決心した少女の心は動きません。
「わたくしは、女神様に申し上げることは何もないのです」
もはやこの問題は、神殿での一件にはとどまらないのでした。メドゥーサは、お願いだからそっとしておいて欲
しい、と思っていました。。女神アテナの顔を見るたびに心の一番奥に押し隠した切ない少女の気持ちが、外へ飛
び出そうと暴れだすのです。それは、決して誰にも悟られてはならない危険な想いです。
「おまえは、ポセイドンを愛しているのか・・・?」
アテナの口をついて出た言葉は、メドゥーサの思惑から離れていました。
「だから、私には何も言えないと、そう言うのか?」
戦の女神アテナは険しい表情をして、少女を睨みつけていました。
「あのような男のどこが良いというのだ・・・」
「アテナ様・・・」
「ポセイドンのどこが良いというのだ。奴が、男だからか・・・?」
「え?」
「私なら・・・」
とアテナは燃えた目で言いました。
「もっと、おまえを優しく愛せる。あんな乱暴な・・・」
後先考えずにそこまで口走って、女神は口をつぐみました。
「くそっ」
アテナは身を翻し、白馬に飛び乗ってしまいます。今の言葉に驚いたメドゥーサは引きとめようとしましたが、
もはや空翔ける女神の耳には届きません。
アテナの狂おしいほどの愛は、受け入れられないことで憎しみへと成り代わりました。元々が感情の制御が苦手
な女神ですから、愛していたのと同じだけの強さの憎しみがメドゥーサに向かいます。そして、アテナは衝動的に
思いました。メドゥーサを、亡き者にしてやる、と。
アテナは、メドゥーサを殺そうと図っていたセリーポス島のペルセウスという若者に、表面が鏡のように磨かれ
た青銅の盾、姿を隠す帽子、メドゥーサの首を入れる魔法の袋、青銅の鎌形刀、翼のあるサンダルを貸し与え、メ
ドゥーサの暗殺を援助しました。ペルセウスは、首尾よく眠っているメドゥーサの首を刎ねました。そして、その
首はアテナに献上されたのでした。
直情型で思慮の浅いアテナには一時の感情のままに行動に走り、そして落ち着いてみると後悔する、という悪癖
がありました。例えば、今回がまさにそうでした。アテナの前に鎮座したメドゥーサの首を見つめて、彼女は言い
ようのない後悔の念にさいなまれているのです。
「メドゥーサ・・・」
と、冷たくなって動かない少女の首にアテナは哀しげに話しかけました。
「私は愚かだった。ああ、なんということをしてしまったのだろう。おまえを殺めてしまうなんて・・・。もう、
おまえに会う事はできないのか」
戦の女神は打ちひしがれていました。例え何万の巨人たちを前にしようともひるむことのない勇敢な女神は、ま
るで小さな少女のように膝を抱えて俯いているのでした。アテナはあのしとやかで気品のある美少女の笑顔を見る
ことはできないのだと思うと、はっきりと自覚したのでした。自分はあの少女に恋をしていたのだと。アテナは、
色恋沙汰に忙しい他の神々を横目に見ながら、自分はきっと永遠に恋などしないだろうと思っていました。戦場で
駆けることに生き甲斐を感じ、およそ繊細さとは無縁な女神。カッとなるとすぐ頭に血が上ってしまい、粗暴な振
る舞いに出るアテナはいわゆる女らしさとはかけ離れた存在なのでした。それに何より、男というものが嫌いなの
です。アテナはきっとひとりで生きていくのだと思っていました。あの少女に会うまでは。
愛し合い、慈しみ合うとは、なんと温かく素敵な心持ちなのでしょうか。厳しい冬から春が訪れて、積もった雪
が解けていくように、アテナの凍てついた心がほろほろと甘くとろけていくようでした。人々はアテナを女神と呼
びますが、アテナにとってはメドゥーサこそが女神だったのです。
だからこそ、ポセイドンに抱かれる少女が許せなかったのかも知れません。初めての恋にのめりこんだアテナは、
メドゥーサのすべてが欲しかったのです。少女の時間も、笑顔も、言葉も、身体も。何もかもを自分のものにして、
初めからひとつのものとして生まれてきたかのように溶け合ってしまいたかったのです。そして、自分を押し付け
るあまりいつの間にかメドゥーサの気持ちを置き去りにしていたのかも知れないのでした。
「ああ、メドゥーサ」
と再びアテナは呼びかけました。
「私はなんと子供だったのだろう。おまえに自分を押し付け、そして私は自分の気持ちすらわかっていなかった
のだ。すでにおまえがいなくなってしまった今なら、すべてを伝えることができるのに」
女神は拳を握り締めます。ですが、生命の灯火を消した少女は表情もなく目を瞑ったままなのです。
「私は、おまえを愛していたのだ。私は女神で、おまえは人間の少女に過ぎぬ。しかし、それがどうしたという
のだろう。私は人間よりも愚かで感情的で、自制ができぬ。おまえは私にとっては女神のようであったのだ。私達
の間に障害があるとしたなら、きっとそれは私とおまえが自ら作った幻の障壁なのだ。私が自分の気持ちを認めさ
えすれば、煙のように消えて失せる脆い壁に過ぎなかったのだ。
私は女神としての誇りも名誉もすべて投げうてる。世界中すべての者達に嘲笑われてもかまわない。おまえを誰
よりも愛している。おまえにもう一度会いたい。おまえが人間の男を選ぶというなら、止めはしない。ただもう一
度だけ、あの夕陽を眺めた折、私の名を呼んでくれた時の笑顔を私に見せてくれるなら、それだけで私は満足なの
だ・・・」
アテナが物言わぬ相手に秘めたる想いを告げた時、そっと瞳から涙がこぼれ落ち、それは静かにメドゥーサの顔
に落ちました。それは、少女の頭をゆっくりと伝って、彼女の目に触れます。すると・・・、メドゥーサの目がぱ
ちりと開いたのでした。
「わたくしも、世界で一番あなたを愛しておりますわ、アテナ様」
メドゥーサは生気の戻ってきた顔にそっと微笑を浮かべました。ふわりと風が吹くと、七色の粒子がさざめいて
少女は全身を取り戻しました。驚いたことに、以前の美しい髪も取り戻しています。
「な・・・、これはいったい・・・・」
アテナが瞠目すると、あたりの空気が震えて、
「今度だけだぞ、アテナ」
という男神の声が響きました。アテナの父、最高神ゼウスでした。
「おまえが自分の気持ちを伝えられた褒美に、ただ一度だけ奇跡を起こしてやる」
あの無責任そうな父は、決して手出しすることなく陰ながら娘の恋の行方を見守っていたのでした。
「父上・・・」
女神がつぶやくと、その胸元にメドゥーサがそっと抱きついてきたのでした。
「メ、メドゥーサ・・・」
こんなに積極的な彼女は初めてです。
「アテナ様。わたくしも、お慕いしています。アテナ様がいれば、他の誰をも必要とはいたしません。例え世界
中が敵に回っても、どこまでもお仕えいたします。だから、笑って・・・」
アテナは、自分がぽろぽろと涙をこぼしていることに初めて気づきました。嬉しい時にも涙が出るなんて、アテ
ナにとっては思いもよらないことでした。もしかすると彼女は心から喜んだことがなかったのかも知れません。女
神は目を乱暴に手でこすってから、少しぎこちなく笑って見せました。でも、メドゥーサの笑顔を見ると、自然と
本当の笑顔がこぼれてくるのです。
「おまえを、愛している」
「わたくしもです、アテナ様」
アテナはそっと少女にくちづけました。夢にまで見た甘いくちづけでした。女神は衝動を抑えきれずに、少女の
唇をさらに熱く求めます。これが夢じゃないと、確認したかったのかも知れません。
「アテナ様、わたくしをあなたのものにしてください。わたくしのすべてを」
潤んだ瞳でメドゥーサが言うと、アテナは彼女をお姫様のように抱き上げ、静々と寝室へと運んでいきました。
「ああ、アテナ様・・・」
アテナはメドゥーサの着物を脱がせました。少女の身体は白く、とても柔らかでした。戦場を駆けるアテナの体
躯は女性にしては無骨ですが、メドゥーサの身体は触れると押し返してくる弾力があり、抱きしめるとなんとも言
えず心地が良いのでした。
「おまえは柔らかいな」
「アテナ様こそ、しなやかで素敵です」
アテナは少女を抱きしめ、少女の身体のいたる所にキスの雨を降らせます。
「ああ、うれしい・・・。こうして、女としてアテナ様に抱かれるなんて、夢のようです」
メドゥーサは顔を赤らめて言いました。
「私こそ、おまえをこうして愛せるなんて、まるで夢心地だ。もし夢なら、永遠にさめないで欲しい」
「夢ではありません。その証に、ほら、こうして・・・」
少女は自ら女神の頭を抱えてくちづけました。まるで愛のしるしを隙間なくつけていくように、ふたりは相手の
身体の隅々にまで唇を這わせていきました。もしかすると、お互いの身体のすべてを自分のものにする作業だった
のかも知れません。
メドゥーサは、そっとアテナの秘められた渓谷に舌を這わせました。
「っっっっ、そこは・・・ダメだ。汚い」
女神は拒みますが、少女は譲りません。
「アテナ様に汚い所などありません」
「おまえは・・・、頑固だな」
「ええ。わたくしはアテナ様に、わたくししか出来ないご奉仕をさせていただきたいのです。そのためなら、何
も譲るわけには参りませんわ」
「・・・好きに、したらいい」
メドゥーサはそっと舌を伸ばし、アテナの、誰も触れたことのない女の渓谷に侵入しました。そして最も敏感な
粒を刺激します。
「うっっっ」
アテナがぴくりと身体を震わせます。
「うふふ、アテナ様、かわいいですわ」
「っっっ」
女神は余裕を失い、言葉を返すことができません。戦場での歴戦の勇士は、褥の上ではどうやら少女に押され気
味のようでした。
ですが、いつまでもそのままでは女神の面子に関わります。
「あッ・・・、アテナ様、何をなされるのですか」
「私もおまえの大切な所を愛するんだよ」
アテナはくるりと身体の向きを替えると、メドゥーサに秘部を愛撫されながら、自らも少女の秘部を愛する体勢
になりました。
「女神様が、そんな不浄な所をお口にされてはいけません」
「ふふ、おまえにも汚い所なんてないんだよ。それに、今は私は女神ではない。ただの女だ」
「ああ、アテナ様・・・」
ふたりは激しく求め合うように、お互いの秘部を愛撫するのでした。お互いを慈しみながら、精神的な交歓をで
きるのは女同士だけなのかも知れません。ただ、純粋に相手を喜ばせ、幸せにしてあげたいという奉仕の精神だけ
が行為の拠り所なのです。女神はますます熱をこめて少女に愛を注ぐのでした。
やがて、ふたりは愛の感情がゆっくりと高まっていくのとともに性感も上昇していきました。女神アテナも、自
ら自分を慰めた経験はありましたが、それはひどく無機的な感じがしたものでした。行為の後になんだかひどく虚
しい気持ちに支配され、二度とすることはありませんでした。
それが、今こうしてメドゥーサに愛撫されることのなんと満たされることでしょう。とても胸が温かくて、気持
ちが良い。そして、ほんのひとつまみだけの切なさがあるのでした。
ふたりはいつしか快楽の瀬戸際に立っていました。
「メドゥーサ、もう・・・」
「アテナ様、私も、もうダメです」
「ん・・・」
そして、お互いを最も愛しいと思った瞬間に、ふたりは同時に頂点に達したのでした。
ふたりが快感の波濤に呑まれて、やがてその波が静かにひいていく時でした。メドゥーサの身体が首を残してみ
るみる消えていきます。
「なっ、メドゥーサ!? どうした!?」
「ああ、わかりません。なぜか力が抜けていきます・・・」
アテナはメドゥーサの身体に起こった異変に慌てますが、どうすることもできません。
「くそっ、どうすればいいのだ!?」
「アテナ様・・・」
メドゥーサは哀しげな目でアテナを見ます。
「ゼウス様は、一度だけ奇跡を起こすと言われました。きっと、奇跡の時間は終わったのです」
少女の身体は透き通り、もはや向こう側が見えているのでした。
「やめろ、消えるなっ!! せっかく、愛し合えたのに・・・」
アテナはメドゥーサの首をかき抱き、叫びます。
「もう、おまえを失うなんて嫌なんだ。私は耐えられない。もう、ひとりは嫌なのだ」
「わたくしもあなたとお別れするのは身を切られるように辛いですが・・・。お気を確かに持たれてください。
お強い女神様は、きっとひとりでも生きてけますから・・・」
「やめろ、別れの言葉を言うなっ!! 私は別れの言葉など口にしないぞ。私とおまえは一心同体、もう離れる
ことなどないのだ!」
アテナが絶叫します。
「アテナ様・・・」
メドゥーサが弱々しく笑みを浮かべました。
「頼む、もうひとりに・・・・しないでくれ・・・・」
アテナの言葉が涙にかき消えそうになった時、首だけの姿になった少女は、最愛の女の頬にキスをしました。
あれから、何年が経ったでしょうか。
舞台はエーゲ海東部、トロイアに移ります。
アガメムノンを大将とするギリシャ軍は総勢10万の世紀の大軍団で強国トロイアに攻め寄せていました。その陣
営にはこの戦いで勇名を馳せることになる英雄アキレウスの姿があります。対するトロイア陣営の大将は勇将ヘク
トル。さらには、オリンポスの神々もそれぞれの思惑によって両陣営に分かれます。ギリシャ軍にはヘーラー、ポ
セイドン、ヘパイストス。トロイア軍にはアフロディーテ、アポロン、アルテミス、アレス。きら星のごとき英雄
と神々が一同に会し、しのぎを削るギリシャ神話中屈指の大戦役、トロイア戦争です。
そして、ギリシャ軍の幕下には戦争の神である女神アテナの姿もあったのです。
アテナは戦いを待ちきれずに、準備運動のように槍を振り回しました。
「さぁ、世紀の大戦争だ。手加減なし、腕が鳴るよ」
「あら、アテナ様が戦いの時に手加減などされたことがあったかしら?」
アテナの傍から鈴を転がすようなきれいな女性の声が聞こえてきます。アテナはくくっと笑って、
「そうだな。でも、今回はスケールがまるで違う。相手側には錚々たる面子が揃っているのだ。私がどれほど本
気で戦っても相手に不足はない。安心して暴れられるというものさ」
「そうですが、意外とあなたは抜けている所がありますから、十分にお気をつけてくださってね」
傍らから聞こえてくる声に対して、少しアテナはむっとしました。
「おまえも、昔は控えめだったものだが、今ではすっかり口さがなくなったな」
「あら、わたくしがいるから、アテナ様も昔ほど暴走されることが少なくなったのではなくて?」
まったくもって、口が立ちます。言い負かされたアテナは不機嫌そうに鼻を鳴らしました。
「私が負けるはずなどない」
「ええ、そうですわ。もしもアテナ様が傷つけられそうになる時があるなら、わたくしが身を呈してお守りいた
します」
「そんなことはさせん。いかなる事があろうとも私はおまえを敵に近づけることはしない」
「では、わたくしたちはきっと負けませんわね」
声は楽しげに笑った。
「そうさ。私たちがふたり揃ったら決して負けはしない」
「あら、それは少し違いますわ」
「ん? ああ、そうだったな」
「わたくしたちは、ふたりでひとり」
「永遠に別れることはない」
アテナは左手に持った盾にそっと微笑みかけました。そこに入っているのは、メドゥーサ。首だけになって生命
を永らえた美少女なのでした。
「しかしおまえは、首だけになっても生きるなんて生命力が強い女だな」
「うふふ」
「てっきりあの時は、あのまま死んでしまうのかと思ったものだが」
「あの時の女神様の顔は見ものでしたわ。きっとあんなに情けない顔のアテナ様を見たことがあるのはわたくし
だけですわね」
「や、やめろよ。あの時の話は。まいったな」
アテナが顔を赤くすると、メドゥーサは微笑むのでした。この頃のアテナは以前の粗暴さが身を潜め、心穏やか
な戦争と平和の神としてますます名声を高めていました。それも、常に盾としてメドゥーサがアテナの傍らにつき
従っていたからかも知れません。
「きっと、ゼウス様のおはからいだと思いますわ」
とメドゥーサは言いました。
「あまりにも気性が激しすぎるアテナ様に手を焼かれたものですから、わたくしをお目付け役として生かしてく
ださることにしたのだと思います」
いたずらっぽく笑う。
「ふん、本当におまえは口が悪くなったものだな」
そう言うアテナも本気で怒っているわけではありません。なぜなら、それは彼女が自分に気を許している何より
の証拠だからです。
アテナはこのアイギスの盾を常に持ち歩き、手放すことはありません。ふたりが望んだように、いついかなる時
もふたりは一緒になったのでした。アテナはギリシャの女神としては珍しく処女を守り通した神ですが、それは決
して恋をしなかったということではありません。ただ一度の狂おしいほどの恋に落ち、そして永遠の愛を誓った処
女神、それがアテナなのでした。
そこには、少しでも気に入らないことがあると暴れていたかつての彼女の姿はありません。思慮深く、どのよう
な身分の者にも等しく恵みを与える慈悲の神がそこにいました。なぜなら、苦しみの中から幸せを求めてもがく者
に対しての慈しみを知ったからです。アテナはまるで自分のことのように、苦しむ者に愛おしさを感じるのでした。
「アテナ様」
とメドゥーサは言いました。
「アテナ様は、今や一枚の盾に過ぎないわたくしと一緒で、お幸せですの?」
言うまでもなく女神アテナは幸せでした。なぜなら、最愛の人がいつもそばに、永遠にいてくれるのですから。
なんということのない軽口を毎日叩き合って、ふたりで生きていくこと。それはごく平凡なことかも知れません。
ですが、何よりも幸せなことだと女神アテナは誰よりも知っていたのです。