私の神が死んだ。七つの命を奪い、一つの剣を残して。
私の神が死んだ。
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「おい、こらジジィ。てめぇんとこは娘にどういう教育してんだ、このやろう。」
朝餉の席で、青くなった顎をわざとらしくさすりながら男が悪態をつく。
「いや、申し訳ございません。御子さま。…その、このようなことになろうとは思いもしませんでしたので、その辺の教育は一切しておらなんだのです」
好々爺は額に汗をかき、ひたすら頭を下げる。
「姫や、お前も御子さまにに謝りなさい。」
好々爺、もとい国津神・大山津見神の子アシナヅチの妻、テナヅチも先ほどから飯をかき込むだけの娘を促す。
(何よ、だいたい妻になるなど約束した覚えはないわ。)
ちらりと男を見やると、御子と呼ばれた男は
「ま、これから手取り足取り躾直すという楽しみもあるがなぁ・・・。」
と言って何処か遠くを見つめ、ニヤリと笑った。
恐すぎる。
この男こそ天津神の御子、建速須佐之男命である。まだ少年の面影を残してはいるが、面立ちはさすが天津神と呼ぶにふさわしく、すばらしく整っている。が、目つきだけは恐ろしく凶悪であった。
高天原を追放され、どういう訳か一月前にこの地に流れ付き、郷長アシナヅチの家に居座っている。そして何故か郷の脅威であったヤマタノオロチを退治し、結果、郷と櫛稲田姫を救ったのである。
そして昨夜、事もあろうにクシナダ姫に夜這いをかけ、手痛い仕打ちを受けたのである。
スサノオが彼方を見つめて朝っぱらからあられもない妄想を楽しんでいる間に姫は食事を終え、居住まいを正した。
両親の顔を交互に見ると、両手を付いて頭を垂れた。
「お父様、お母様。お二人の娘は皆死んだものとお思いください。私は大宮さまのお傍に侍り、オロチと姉様方の御霊をお鎮めしたいと思います。どうか、お赦しください」
「なんと…!姫や、そのような…」
テナヅチは倒れるように夫にしがみつき、アシナヅチは言葉もなく娘を見つめるばかり。
スサノオが吠えた。
「何だよ、それ!!巫女になるって言うのかよ!」
(顔を上げる事が、出来ない。)
「御子さま。私は巫女になるのではありません。すでに巫女なのです。鎮めの巫女としてオロチの御霊を鎮めることこそが、私の宿命なのでございます。」
(もう、私はあの瞳に耐える事が出来ない。)
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オロチの血であんなに真っ赤に染まった川水は既に元の色を取り戻し、惨劇の名残はもうない。
村も人も日常に還る。流れていく。
クシナダ姫は河原に座り、その水面を眺める。
八年前、突然それは現れた。
その眼はほおずきのように真っ赤で、胴体一つに八つの頭と八つの尾があった。体には、ひかげのかずらや檜、杉の木が生えていて、その長さは八つの谷、八つの峰にわたり、腹は一面いつも血がにじんで爛れていた。
人はそれを八岐大蛇と呼んだ。
アシナヅチの娘、大姫がその命を差し出してオロチを鎮めた。
大姫はオロチにその身を捧げる前の晩、七人いる自分の妹達を集めて言った。
「お前たち、よくお聞き。天津神には遠く及ばずとも、父上は国津神・大山津見神の子である
。私たち八つの命を持ってすれば、オロチの荒ぶる御魂を鎮める事も出来よう。身の清らかなるまま鎮め巫女となることが、神の娘として生まれた、我らの宿命であろう。
恐れることはないよ、皆一緒だ。母神の御胸に還るのだから。」
それからオロチは毎年同じ時期にやって来て、娘を喰った。
また一人、また一人と娘は喰われ、八人いたアシナヅチの娘はとうとう一人になった。
そして、今年が末娘櫛稲田比売の番だった。
死ぬはずだった。
なのに、
オロチが死んだ。その体から一本の太刀が出て来た。
(どうして私は生きているんだろう。私も剣となるはずだったのに。)
「…忘れるのか。」
誰かが言った。
「違えるのか、約束を。」
大姫が言った。
「一人だけ、手に入れて。」
二の姫が言った。
「未来を。」
三の姫が言った。
「幸福を。」
四の姫が。
五の姫が。
六の姫が。
七の姫が。
言った。
「八の姫。私たちを、忘れるのか。」
違う、違う。
違います、姉さま!
わたしは……!
ざぁっと一陣の風が川上から吹き下ろし、クシナダ姫の長い黒髪が舞い上がった。
夢………?
白昼夢を見ていたのだろうかと乱れた髪を整えながら姫は思った。
あいつめ。
最近寝不足気味なのだ。オロチが死んでからというもの、スサノオが毎夜のように夜這いをかけるのでオチオチ寝ていられないのである。
食欲もないし、気分も悪い。
イライラしながらスサノオの事を考える。
この頃振り回されてばかりだ。
だいたい、郷の華、クシナダ姫とは道理を知る孤高の女ではなかったか?その心は決して乱れる事なく、常に穏やかであったはずだ。
あの眼のせいだ。
最近あの眼に見られるのがのがひどく落ち着かないのだ。
スサノオの瞳はいつも気だるげに半開きにされ、その周りを濃い隈が縁取っていた。
光を灯すことのない黒目は瞳孔が開いているのかと思うほど、暗く生気がなかった。
さらに、スサノオの肌は陽に当たった事がないように青白いので、微動だにしなければ間違いなく死人に見える。
そのくせ、時々見せる眼差しは全てを見透かすように強い。
そんな思考もまた唐突に中断された。
「姫様!クシナダ姫様!!大変なんです、お助けください!御子さまが…!」
またか……。
どこぞで暴れているのだろう。
うんざりしつつ村娘に連れられて郷に戻ってみると、家の周りに人垣ができている。
話を聞けば、村の乙女を一人連れ去ったのだと言う。
戸口に顔を近付ける、かすかに声が聞える。
「ああっ…いやっ。どうか、お許しください。御子さま」
「よいではないか、よいではないか。…けけけけけっ」
おっさんか?
いや、変態か?
中ではまだ日が高いと言うのに怪しげな会話が繰り広げられている。
「御子さま、私でございます。失礼致します」
声をかけて勢い良く戸を開け放つ。
部屋の中では少女が床に押し倒され、上衣の胸元が今まさにはだけられようとしていた。
間一髪。
姫が視線を送ると男達が数人部屋に入り、娘を襲っているスサノオを引き剥がした。
その隙に涙ぐむ娘の襟口を整えてやり、女たちに渡す。
さて、勝負はここから。
数人が取りすがって抑えているが、それも時間の問題だ。
剣を持っていないのが幸いだが、相手は天津神の御子。素手で人を殺すくらい造作もない。
荒れると手が付けられないのだ。この御子を恐れる事なく対等に渡り合えるのは、社の巫女である大宮かクシナダ姫だけである。
最近は以前に比べ、このような騒を起こす事もなくなっていたのに。
こんな昼間から、しかも姫に「妻になれ」と毎晩夜這いをかけているくせに結局これだ。
イライラする。
「どうかお鎮まりくださいませ、御子さま」
なるだけ冷静に声をかける。
御子のただでさえ凶悪な顔付きが、怒りで眼も血走り最悪になっている。
「ふざけるなっ!この俺を誰だと思っている…!天神・伊佐那岐命の御子、建速須佐之男命だぞ!!」
「存じております。しかし、御子さま。ご無体を申されますな。ここにおわします娘は許嫁のいる身でございます。」
わざとスサノオを讃える世辞句を外した。
声にもわずかに苛立ちが混じる。
姫は必死になって落ち着こうと、うつ向いた。
「お前が悪いのだ…、お前が!!」
わたしのせい??
何でそうなる?私が悪いのか?
スサノオの言葉に反射的に顔を上げると、あの眼が射るように姫を見ていた。
もう、嫌だ。何で私がこんな思いを。
ひどく疲れた。
私はあなたの鎮め巫女ではないのに…。
「では、私の命をもって贖いましょう。誰か剣を。どうせ捨てるはずだった命、惜しくなどありません。
それで気が済むのでしょう!!!」
一気に叫んだ。
「おい……」
スサノオは怒りも忘れ呆然としている。
もう、止まらない。
「あんたのせいよ!全部!!あたしは………」
助けてくれと、頼んだわけじゃない。
その言葉を何とか飲み込むと、代わりに涙があふれでた。泣きたくなんてないのに。
「うっ……っう゛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
泣きながら走った。走って、走って、逃げた。そこから。御子から。自分から。
嫌だ、嫌だ。こんな自分。望でいたわけじゃない。
苦しい、苦しい、苦しくて…………恐い。
生きることが。
「俺が恐くないのか」
いつか御子が言った。
恐くなかったわけじゃない。ずっと前に決まっていたから、未来は。終わりを知っていたから、どうでも良かった。
だから、揺らぐことなどなかったのに。
なのに…どうして私が、私だけ。唐突に与えられた、未来。
どうしていいのかわからなかった。
その先の自分を、考えたことなどなかったから。
恐かった。置いていかれたと思った。恐くなった。
孤独が。愛されることが。愛することが。傷つくから。いつか必ず失ってしまうのを知っているから。
あの眼に見つめられて、分かった。心が泡立つのが、揺れるのが。
だから、理由をつけて逃げようとした。
今だって、結局全部をあの人のせいにしようとした。
なんて、弱くて、汚くて、ずるい。
こんな自分に気付きたくなかった。
死んでしまいたかった。
姫の言葉に大宮はやさしく耳を傾けた。
童のように泣きじゃくり、支離滅裂な姫の話を辛抱強く聞いた。
「生きるとは、そういうことだよ。皆そうして生きている」
諭すように大宮は語る。
「そう……かもしれません。でも、恐いのです。不安で不安でたまらない」
「だからら、一人では生きられないと、そなたが御子どのに教えたのではなかったかの?
この郷に来た時の御子どのは荒ぶる神そのものであった。皆、あの若者を畏れた。そなただけが畏れなかった。
側を離れなかった」
「それは違います。恐れなかったのは御子さまでは、ありません。恐れなかったのは、死ぬことです」
「同じ事だよ。そなたに御子どのはどう見える?」
「寂しそうだと思いました。…荒ぶる事で必死に自分を守っているように見えて……」
何にも気を許せず、一度も安心して眠ったことがないように濃い隈でその瞳を縁取り、自分以外全てを恐れ、守るように膝を抱える姿が、とても心細そうに見えて…。
側に、いてあげたいと思った。
「御子どのは、そなたと出会い、優しさや、温もりを知り、孤独に気付いた。
そなたと出会わずば、知ることもなかったであろうかの。
しかし、御子どのは気付いてしまった。
一度知ってしまえば、その前に戻ることなどできないのだ。あの若者をまた一人にするのかね?」
クシナダ姫の頬をまた一筋、新しい涙が流れ落ちた。
「姉姫たちを憐れと思ってはいけない。あの子たちはその宿命を生きたのだから。
その事を忘れてはいけないよ、けれど、縛られてはけないのだ。
そなたもまた、そなたの道をゆきなさい」
「姫や、よくお聞き。
死したものの御霊を鎮める事は、たやすいことだ。誰でも出来る。
しかしね、御子どのの荒ぶる御魂をお鎮めすることは、この大宮にもできぬ」
「どうして……だって…」
「巫女など、まいともに生きられぬものがなるのだよ」
そう言って盲た老巫女は静かに笑んだ。
*****
どうしよう。あれからどうなっただろう。
社を下る山道を歩きながら、姫は考えていた。
すでに陽は暮れ、うっそうとした森に射し込むわずかな月光のみが頼りだ。
自分の感情に流されてはいけないという鎮めの基本を忘れて逃げだしてきてしまったことが恥ずかしく、情けない。
大宮さまのおっしゃっていたのはどういうことだろう。
その時、クシナダ姫は山道の入り口、大きな楠木の下に膝を抱えて座る男の後ろ姿を見つけた。
「……御子…さ‥ま…?」
ぱっとスサノオが振り向く。
「……御子さま。あの、昼は申し訳ありませんでした……。わたし…」
駆け寄ってくる御子に視線を合わせることもできず、姫はうつ向き気味に謝罪を始める。
暗くて良かった。泣き腫らした顔を見られなくてすむ。
唐突に、抱き締められた。
「‥わっ…」
声を上げながら姫は身構える。
いつもならこのまま押し倒そうとするはずなのに、スサノオは言葉を発することもなく、抱きしめる腕に力を込めた。
「御子さま…?」
常とは違う御子の様子に姫は声をかける。
少し苦しい。
「……言うな…」
え?
「…死ぬとか、命が惜しくないとか言うなよ」
姫は昼間の自分を思い出した。そして、大宮の言葉を。
(あの若者をまた一人にするのかね?)
姫は暫く黙った後、顔を上げて優しく笑った。
もう、その視線を外すことはない。
「はい、二度と言いません」
お側にいます、ずっと。
そしてスサノオに腕を押さえると、そっと唇を重ねた。
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ちなみ、それからしばらく村中でクシナダ姫はツンデレだ、という噂が立ったのは言うまでもない。