夏が往く。いつの間にか夕闇に包まれている屋外を見遣り、梅村ひかりはふっと息をついた。
ほんの数日前まで、この時間はまだ、夕焼けが明々と照っていた。いとあはれなり、と3人で見惚れたあの夕日は、
今どこにあるのだろう。机の上のプリンの包みを抱き締め、ひかりは目を閉じる。
もう少し。もう少しだけ待たせて下さい。
誰にともなく願いを掛けながら、ひかりは瞼の裏に、夏の化身のような想い人の姿を描いた。
かたん、と扉の開く音に、ひかりははっと目を上げた。期待に輝く、猫に似た涼やかな瞳は、一瞬だけ悲しみに
揺らぎ、それから親しげな笑みを浮かべた。扉を開けた男―――桜小路順は、幼馴染である彼女に対し、にこりともせずに
きゅっと唇を引き結ぶ。
「おかえり。今日も図書室?」
「………」
順は答えずに、視線を落としたまま自分の席へと歩き、帰り支度を始めた。向けられた背中が、どんな言葉より雄弁に
語っている。
ほんとバカだな、お前。僕はもう知らないぞ、と。
ひかりは敏感にそれを察し、不貞腐れた風を装って、おどけた。
「何よ。そんなツンツンしなくたって、順に食べろなんて言わないもん。全部自分で食べるんだから」
「……それ全部?太るよ」
背を向けたまま、順は短く言った。それでも十分に伝わる優しさ―――同情としか、ひかりは思っていなかったが―――が
却って辛くて、ひかりは無理に言葉を繋げた。
「弟たちにもあげるもん!うちは4人もいるんだからね、足りないくらいよ」
「お前の弟妹、卵アレルギー治ったの?」
ぐっ、とひかりは二の句に詰まった。いくら幼馴染だって、弟たちのアレルギー事情まで覚えているとは思わなかった。
最近少し喋るようになったものの、もう何年も疎遠だったというのに。
順は、必要なものを詰め終えたらしい通学鞄を、叩きつけるようにして机に置くと、傍らの机に手を置いて、
ひかりを見下ろした。彼が右手を突いているのは、順とひかりの席を隔てる、たった一つの机である。
「お前さ、いい加減にしろよ。毎日毎日、未練がましいったらありゃしない。一体僕に何個プリン食わせたら
気が済むんだ?こんな試すようなこと続けるぐらいなら、直接言ったらいいだろ。まだ好きですって。
避けられて辛いですって。でなきゃお前……」
「言わないでよ」
ひかりは順の言葉を遮り、両手で耳を塞いだ。
『放課後、教室で待っています』
たった一言ルーズリーフに走り書き、彼の鞄に忍ばせるだけで、ひかりには精一杯だった。来る日も来る日も、彼の好きな
プリンを抱えて待ち続ける。どんなに虚しく、身を切るように悲しくても、そうすることでひかりは、一縷の希望を持っていられた。
昨日は用事があったのかもしれない。今日は風邪気味だったのかもしれない。明日はきっと来てくれる。そうやって自分をごまかし、
待ち続けることができたのは、彼からまだ何も、決定的なことを言われてはいないからだ。
「私が好きでやってるんだから、いいじゃない。そんな酷いこと言うなら、放っといてよ」
泣き顔を見られたくなくて、ひかりは机に突っ伏した。正論を説く順の言葉は、一つ一つがひかりの胸に突き刺さり、彼女の
心を抉った。
「……僕もそうしたいよ。できるんなら」
順は呟くと、ひかりの前の席の椅子を引き、後ろ向きにこしかけた。机の上の袋をがさがさと漁り、すっかり慣れた手つきで
プリンを取り出す。
「……っ無理に……食べなくても、いいったら……」
しゃくりあげて切れ切れになったひかりの声に、順はもはや何も答えない。黙々と、修行僧の面持ちで手の中のプリンを
たいらげる。その気配に、ずたずたに傷ついていたひかりの心は、ほんの少しではあるが、確かに救われていた。
空のプリン容器が、ひかりの右隣の席に、2つ3つと積み上げられていく。
机に頬をつけたまま、ひかりはふと、目だけを上げた。
「プリン……ちょっとは好きになった?」
「全然」
心から不味そうに顔をしかめ、順は即答する。開け放たれた教室後方の窓から、涼やかな夜の風が吹き抜けた。