「厄日だぜチクショウ」  
真昼とは思えない真っ黒い空を、バスの窓越しに見上げ、俺は小声で呟いた。  
雷様の野郎、俺がバス下校する日を狙って夕立かますとは、いい度胸してやがる。  
街で見かけたら、空気読むことの大事さを拳で教えてやるからな、覚えとけ。  
子どもの頃にお笑い番組で見た、全身色物タイツにアフロ頭の雷様をぼこぼこにするのを  
想像すると、ほんの少しむかつきが納まった。  
 
いや、待てよ。むかつくならまず、迎えの車を出せなかった和と黒井だ。何でも、  
和が突然モウチョウとかいう病気でぶっ倒れて、一緒にいた黒井が救急車を呼び、  
そのまま付き添って病院に行っちまったらしい。しかも、救急車に乗ってる間に鍵を  
落っことしたとか。  
組から連絡を受けたとき、晴れてるからまぁいいか、と安請け合いした俺もバカだったかも  
しれない。俺が学校の昇降口を出た途端、青かった空が嘘みたいに黒々と曇っていき、校門に  
辿りつく前に土砂降りになっていた。歩いて数分のバス停に着くまでに、このざまだ。バスに  
駆け込んでもう5分にもなるのに、未だに髪の先から雨が滴っている。  
モウチョウぐれぇ気合で治しやがれ、馬鹿野郎。  
坊主頭の舎弟のにやけ顔を思い出しながら、俺は窓にぐしょ濡れの頭を押し付け、ぎりぎりと  
歯を食いしばった。  
 
「榊くん?」  
へっ、と振り返ったとき、俺はどんな顔をしてたんだろう。少なくとも、外を睨んでたときの  
メンチ顔ではなかったらしい。彼女―――梅村さんは少しも怯えず、いつも通り、天使のような笑顔でそこに  
立っていたからだ。彼女も雨に濡れたらしく、二つに束ねた髪の先から、ぱたぱたと滴が垂れている。  
「バスで会うの初めてだね。隣、いい?」  
「どっ……どうぞどうぞ!」  
俺は隣の椅子に放置していた鞄を光速で回収し、席を空けた。鞄の下に隠した胸で、少し以前から俺を悩ませている、  
あの痛みが荒れ狂っている。養護の先生によると、これは樵の仕業らしい。  
―――やめろ、樵……この距離じゃ、梅村さんに聞こえるだろうが!  
心の中で怒鳴ったが、樵はまったくの無視を決め込んでいる。薄く触れた彼女の腕、シャツから覗く白い二の腕、  
雨に濡れたせいかいつもより強く香るシャンプーの匂い、そんな何でもないはずのものが五感を刺激するたび、  
樵は狂ったように激しく、俺の胸に斧を突き立てた。  
「はうっ……!」  
「どうかした?」  
「い、いえ、何でもないです!あるわけないです!」  
「そう」  
にこっ、と彼女はまたしても清らかに笑う。樵は、今度は激しく斧を上下させるのをやめ、深く抉ることにしたらしい。  
さっきのが荒波だとしたら、今度のは津波だ。飲み込まれそうになるのを懸命にこらえ、俺は正面から梅村さんに  
向き合った。  
ガキの頃、喧嘩に負けたとき、親父が俺にアドバイスをくれた。恐ろしい相手にほど、正面から立ち向かえ。  
こそこそしたら、その瞬間に負けると思え。  
何だか知らないが、この子はある種、めちゃくちゃ「恐ろしい」。気ぃ抜いたら、根こそぎ持っていかれる。  
俺は全身全霊をかけて彼女と目を合わせ、自然な会話を試みた。  
「梅村さんは、いつもバスですか?」  
「うん。駅までバスで、そこから電車。榊くんは、いつもは歩き?」  
「いや、リムジ……はい、あの、無理強いされて、遠いんですけど、歩いてます」  
「この雨じゃ、歩くの無理だよね」  
いつの間にか走り出していたバスに揺られ、俺は思いのほか普通に彼女と話せていた。彼女のタオルを借りて  
頭と顔を拭く、という離れ業もこなした。  
何だ。簡単じゃねぇか。  
姿の見えない樵をあざ笑いながら、俺は勝ち誇った。それがいけなかったのかもしれない。  
 
「きゃっ!」  
不意打ちのように、バスは乱暴に左折し、右隣に座っていた彼女の身体が、大きく傾いた。  
はにゃ?と思ったときはもう、遅かった。俺の二の腕に、彼女の身体が―――いやぶっちゃけ胸が、ぺっちょりと  
張り付いたのだ。樵の反応は早かった。  
―――ぐわあぁぁぁ!!  
その柔らかな感触に、俺の全身は一瞬にしてビッグウェーブに攫われた。  
―――樵いぃぃ!!殺す気か!!!  
溺れながら樵にメンチを切るも、例によって奴は聞いてない。それどころか、多分にやにや笑っている。でなければ、  
あんなことは起きないはずだ。  
「ごめんね、榊くん……」  
「いやいや、大丈夫っす、よ……」  
ちょっと語尾が怪しくなりながらも、懸命に平静を装う俺の目に、とんでもないものが飛び込んできたのだ。  
上目遣いで申し訳なさそうに俺を見上げている彼女の、胸。ろくに照明のないバスのせいで分からなかったが、間近で  
見たら、お前。こら、樵。  
シャツ丸透けじゃねぇかよ。ブラがピンク色じゃねぇかよ。目を凝らしたら谷、谷、谷間……!!  
―――ノオォォォーー!!  
俺は膝ごと180度旋回し、彼女から身体を背けた。  
落ち着け。落ち着け、俺。何がブラだ、谷間だ。女の身体なんか、飽きるほど見てるじゃねぇか。それも、抱いたら一晩で  
何十万とかかるような、極上の女の身体を。なのに何でこんな、普通の、素人の、女子高生の胸なんかで、こんな動揺  
してんだ。どういうことだ。これも、樵のなせる業なのか。  
「ごめん、ごめんね、榊くん。私、うっかりして、気に障ったよね、ごめん」  
彼女が何か言っている。しかし、とてもじゃないが向き直ることなんかできない。またあれを見たら、俺は発狂しかねない。  
高校を卒業する前に、豚箱入りになりかねないのだ。  
「ごめん……」  
俺はとにかく樵を静めるのに必死で、消え入りそうな彼女の声さえ、耳に入らなかった。  
 
がくん、と身体が上下する。バスが停留所に止まったらしい。雨に濡れているせいもあるだろうが、薄汚れた感じのビル街だ。  
この辺は小奇麗な住宅街だけだと思ってたが、ちょっと入り込むとこんなところもあるんだな。  
わざとどうでもいいことを考えながら、やっと落ち着いてきた胸を抑え、深呼吸する。これだけ沈静化すれば、話しかけても  
大丈夫だろう。あのブラ……いや、胸にさえ注意すれば、大丈夫、いける。自分を鼓舞するようにきっと目を上げ、右隣の  
梅村さんを振り返る。わざとらしいぐらいの作り笑いと、「すいません、急にバス酔いしちゃって……」というさりげない  
台詞で、フォローは完璧なはずだった。  
しかし、俺の計画は打ち砕かれた。台詞とか笑い以前の問題だった。俺の隣席にはそのとき、猫の子一匹いなかったからだ。  
いや、猫にいられても困るんだが。訳が分からず、きょろきょろと見回した先、窓の向こうに、雨の中をずんずんと歩く彼女がいた。  
横殴りの雨のせいで、彼女の前髪は額に張り付いて伸び、目を覆ってしまっている。そのせいで、表情は分からない。ただ、  
唇は真一文字に引き結ばれていた。  
手と額と鼻で窓に張り付き、茫然とそれを見送る。いつの間に。まずいぞ、さよならも言えなかった。いや待て、梅村さんは  
ここで降りるのでいいのか?駅って言ってなかったか?駅って終点じゃなかったか?  
再びがくん、とバスが揺れ、歩き去る彼女と反対に走り始めたとき、俺は天井を突き抜けるような勢いで手を挙げ、叫んだ。  
「はいはいはい!降ります!降ろして下さい!」  
「あー?駄目だよ、バスが同じ停留所に二回も三回も停まるわけねぇだろ」  
かったるそうにバスの運転手が言ったこと、耳元で何かが切れるような音がしたこと。覚えているのはそこまでだ。  
 
「梅村さん!」  
怯える羊の目をした運転手を置き去りに、俺は梅村さんの背中を追いかけた。俺が声をかけた途端、何故か走り始めた彼女を、  
夢中で追いかける。  
駄目だ梅村さん。あんた間違えてる。そっちは駅じゃない!  
意外とうっかりな彼女のおさげが、背中でひょこひょこと揺れている。距離を詰めるにつれ、その様子がはっきりと見えるようになり、  
手に取れるほど近づき、ようやく俺は彼女の二の腕を掴んだ。  
駄目っすよ、急いでる時ほど、進んでる道が正しいか確認しなきゃ。  
学級委員らしい示唆に満ちた台詞が思いついたことに満足し、俺は口を開きかけた。しかし、その台詞は一文字も音になることは  
なかった。俺の手を振りほどき、きっと睨んできた彼女の目が、真っ赤に泣き腫らしていたからだ。  
「あ……の?」  
訳が分からず、かくんと首を傾げる。その間にも、梅村さんの目からはぼろぼろと涙が零れ、白い頬で雨と混じった。  
「榊くんって、変」  
やけにきっぱりと、彼女は言い放った。  
土砂降りの雨に頭と肩とを殴られながら、俺はぽかんとその言葉を聞いていた。  
「何考えてるのか全然分からない。にこにこしてたと思ったら、急に怒ったり、口もきいてくれなくなったり。全然……意味分からない」  
言葉の最後に、彼女はうっと喉を詰め、嗚咽した。  
しゃくり上げて泣く彼女を見るうち、新手の樵がまた、俺の胸を穿ち始める。これは俺にも分かる。罪悪感ってやつだ。どうしようもなく  
非道なヤクザを、うっかり再起不能にしちまったとき、似たような感じを覚えた。今のと比べれば、屁みたいなものだったが。  
あわあわ、と訳の分からない言葉を発しながら、俺はとりあえず、持っていた鞄で彼女を雨から庇った。俯いたまま泣き続ける彼女を  
見ながら、必死で考える。俺が何をしたんだ?こんなに、泣かせるほどのことをしたのか?自分がバカなことをこんなに呪ったことはない。  
90秒経っても、結局答えは見つからず、とりあえず屋根のあるところへと、彼女の肩を掴んで歩き始めた。  
ついさっきの怒りようが嘘のように素直に、梅村さんは素直に従ってくれた。多分、泣くのに必死だからだ。手の下で、細い肩が不定期に  
跳ね上がっている。そのたび、罪悪感は目の前の大雨を吸い込むかのように膨れ上がっていった。  
 
喫茶店でも、と思っていたのに、立ち並ぶビルはどれも事務所や会社ばかりで、雨宿りできそうなスペースもない。どっか適当なところに  
押し入って、中にいる奴を脅し上げて強引に休んでいこうか、とも思ったが、梅村さんを前にそれはできない。この間の肝試しでバレかけた身元が、  
本格的に割れてしまう。梅村さんが俯いて泣いているのをいいことに、俺はぎらぎらとガンをつけながら、客商売の店を探した。  
そして一応、見つけた。見つけたが。これはありか?ありなのか?俺は雨を受けながら、白目を剥くまでその「店」の看板を凝視した。  
看板には、これ以上ないほどくねくねと曲がった字で、「ホテル・ヴィーナス(はぁと)」とあった。  
だけどまぁ、考えようだ。ラブホテルなら、タオルはある。着替えるスペースもある。俺さえ気をしっかり持てば、何も困ることはない。  
嫌がる女の子を無理矢理組み敷くほど、俺は落ちぶれてはいない。  
腹を括ると、俺は彼女の肩をぐっと抱き、「ホテル・ヴィーナス」へと足を踏み入れた。  
 
高校生は駄目、と言い掛けた受付のおっさんをメンチ切って黙らせ、薄暗いエレベーターに乗った。梅村さんはようやく顔を上げ、  
不思議そうに辺りを見回す。  
「ここ……?」  
「あ、ホテルっす」  
ぎょっとして目を剥く彼女に、俺は慌てて弁解した。  
「いや、変な意味じゃなく、雨がやむまでと思って。その……誓います!絶対に、命賭けて、俺は指一本あなたに触りません!」  
右手を高々と掲げて宣誓する俺を、彼女は呆気に取られたように見上げた。それから「そう」と呟き、まただんまりを決め込んだ。  
ほっと息をついた途端、エレベーターはがくんと揺れ、目的の階に停止した。今日はよく、ガクンとする日だ。  
 
―――あぁぁぁん?!  
部屋に入った途端、俺は叫びかけた口を慌てて抑えた。何だこの部屋は。半分どころか、8分の7ぐらいベッドじゃねぇか。設計者はどこの  
どいつだ。情緒とかもののあわれとか、そういうの知らねぇのかコノヤロー。  
梅村さんも同じようなことを思ったのか、戸口で立ち尽くしている。まずい。この雰囲気は非常にまずい。  
俺は両手でばしっと額を叩き、焦る心を懸命に宥めた。考えろ。与えられた状況のなかで、何ができるか。兎の目だ。俺は部屋に踏み込み、  
部屋の中心(=ベッドの中心)に膝立ちし、周囲を360度見回した。そして、人一人ようやく立てそうなスペースを目敏く発見する。  
それはクローゼットの手前、開いた扉を遊ばせるための隙間だった。俺はスライディングする勢いでクローゼットにとびつき、中からタオルと  
着替えを取り出すと、梅村さんに投げ渡した。ぽすん、とそれらが梅村さんの腕に納まるのと同時に、俺もまた、クローゼットとベッドの隙間に  
入り込む。防空壕に逃げ込んだかのように頭を抑えながら、俺は叫んだ。  
「風呂場で着替えてきて下さい!」  
「……はい……」  
気圧されたような彼女の声と、風呂場の扉がぱたんと閉じる音を聞いて、俺はようやく息をついた。少し前の俺なら、靴下に隠してた煙草全部  
吸いきる勢いでふかし始めてただろう。だけどそれができないせいで、俺は正面から現実と向き合わなきゃならなかった。  
あの、薄くて立て付けの悪そうな扉を一枚隔てた向こうで、梅村さんが着替えをしている。華奢で白いあの手が、濡れたブラウスのボタンを  
一つ一つ外し、ついにはあのピンクのブラまでも……。  
―――ファーーー!!  
掌の下、異常に顔面が熱くなってるのを感じる。認めたくねぇ。認めたくねぇが。  
―――これが思春期ってやつか、チクショウ。  
すっかり春真っ盛りになってしまった頭と頬と胸と股間とを、俺はその狭い狭い空間で痛いほど持て余していた。  
 
扉が開いた。俺は喧嘩前の目で、勢い良く顔を上げる。あくまで自然に接することだ。着替えを想像して発情してたなんて知れてみろ、  
俺は彼女に一生顔向けできない。  
「あの、榊くん」  
「はいっ」  
元気よく返事をして、立ち上がる。予め出しておいた、自分の分のタオルと着替えをかたく抱き締め、梅村さんに向き直った。  
何のことはない、一言二言交わしてから、「俺も着替えます」と浴室に立て篭もればいいだけのことだ。  
それなのにどうしちまったんだ俺よ。何故、指一本動かせない。そのくせ男の一本をそんなにいきり立たせて、どうしたってんだ俺よ。  
たかだか―――梅村さんがバスタオル一枚巻きつけた姿でそこに立っている、それだけのことで。  
俺はぱくぱくと口を動かしたが、一言二言はいっこうに出てこなかった。  
「ち、違うの、私何も……ただ、これ」  
梅村さんは可哀想なほどしどろもどろになって、俺が手渡した着替えを広げてみせた。それは、杉本彩を髣髴とさせる、皮製のボンデージ水着だった。  
顎が外れるほど口を開けながら、俺はバスタオルと着替えを取り落とす。見れば、俺の着替えも皮製で、やけにぴっちりしたホットパンツとベレー帽と  
胸元の開いた皮ジャン……ああもう、連想したくもねぇ。ハードゲイと杉本彩でどんなプレイしろっていうんだ、『ホテル・ヴィーナス』。  
過剰サービスとはこのことだ。  
「せ、制服……着ようと思ったんだけど、私、慌てて……トイレに、シャツ落としちゃって」  
彼女の声が弱弱しく震える。いかん。また泣かせてしまう。  
俺は掌で顎先を押し上げ、無理やり気を取り直した。  
「いやいやいや!問題ないっす!シャツはあの、俺が洗いますから!そ、それまで、あの……」  
言いながら、そんなことできるはずはないと俺は気付いていた。シャツを洗いに浴室に行くには、彼女とすれ違わなきゃいけない。タオル一枚だけの、梅村さんと。  
そして目の前には、余計なぐらいでかいベッド。何もせずにいられたら、俺は俺じゃない。  
再び防空壕に潜り込み、俺は頭を抱えた。  
「いや、その……俺、見ないんで、その辺に座ってて下さい。俺ここにいますから」  
最後の言葉は、自分に言い聞かせていた。  
 
目の前に裸同然の女を前にして、お前何びびってんだ、童貞か。ぐだぐだ言ってねぇで食っちまえよ。耳元で囁いた、俺の声をした悪魔を、俺は  
右カウンターでぶちのめし、踏み潰し、口の中に放り込んでばりばりと粉砕した。  
相手は「女」じゃない、梅村さんだ。俺にピンクのシャープペンを貸してくれた。何もかも投げ出したくなるほど惨めなとき、いつも隣にいて、  
励ましてくれた。そんな子を、身体が命令するまま抱いてみろ。俺は、生きていけなくなる。  
俺は歯茎から血が出そうなほど奥歯を噛み締め、時間が過ぎるのを待った。正確には雨がやむのと、いくら叩き潰しても際限なく増殖する悪魔が  
絶滅してくれるのを、待った。  
 
「榊くん」  
「はひっ?!」  
856匹目の悪魔を食い殺した辺りだったろうか。彼女の手が、そっと俺の肩に置かれた。肩に手、ということは、あの胸は、俺の後頭部のすぐ傍に。  
瞬時に、頭の中が祭りになった。祭りも祭り、リオのカーニバルだ。火が踊る、花吹雪が踊る、水着美女が踊る。  
「マンボ!」  
「えっ?」  
「あっ、いや、なんすか?」  
「代わるよ。今度は私がそこ、榊くんがベッド。ずっとその格好じゃ、脚痛くなるよ」  
俺の体育座りを心配してくれているみたいだ。何て優しいんだ、梅村さん。ますますもって、俺は耐えなければならなくなった。  
いつの間にか3000匹ぐらいに増えている悪魔を次々と薙ぎ倒しながら、俺は梅村さんの手を払った。  
「いや、大丈夫です。俺、狭いところ好きなんで」  
「でも」  
「いいんですってば!」  
いきおい、声が大きくなった。大声は普段から出しているので、深い意味はない。なかったのに。  
 
彼女はまた、泣いてしまった。俺はぐしゃぐしゃと髪を掻き乱しながら、膝の下まで頭を落ち込ませる。馬鹿野郎。ヤクザ者に怒鳴られて平気な  
女子高生がいるか。三次関数が分からなくてもそれは分かれ。俺は拳骨で一発自分の頭をぶん殴ると、立ち上がって彼女に向かい、頭を下げた。  
「すみま……」  
「ごめんね」  
なのに謝ったのは、彼女のほうだった。俺はきょとんとして、顔を上げる。ベッドの上で、膝を崩して正座している彼女は、不思議といやらしさを  
感じさせず、むしろ凛としていて、俺も悪魔どもも押し黙って見惚れるしかなかった。  
「私、いつもこうなんだ。鈍いっていうか……ドジだし。いつも何か空回りして、その気はなくても、人を怒らせちゃうの。  
順も、多分私のそういうとこに嫌気が差して、私と距離置いたんだと思う」  
彼女は頬をつたう涙を手の甲で拭き、次の涙をこらえるように、ぐっと息を詰めた。  
そのとき、俺は何故だか無性に、桜なんとかを往復拳打したくなった。  
「挙句に逆ギレして、榊くんにあんな酷いこと言って……意味分かんない、なんて。分かんないのは私が鈍いせいなのに。ごめんね」  
「……え、あ……」  
「ごめんなさい」  
 
言い切って、彼女が泣き出す。俺は頭をフル回転させて彼女の言葉を飲み込んでいた。  
鈍い。ドジ。逆ギレ―――分からねぇ。一体何のことだ。この子が一体何をしたってんだ?考えても考えても、彼女がこんなに自分を責めている  
意味が、俺にはさっぱり分からなかった。  
俺は今度は、こめかみに拳骨を食らわせた。また「分からない」ことに逃げようとしている自分を、踏み止まらせるために。バカだからって甘えるな。  
分からないなら、今分かることだけでも、この子に伝えてやれ。  
「う、梅村さんは……鈍くなんかないです。空回りもしてないし」  
やっとの思いで、それだけ。当然彼女が泣き止むはずはないから、また言葉を探す。不思議と、次々に言うべきことが見つかった。彼女はこんな風に  
自分を嫌うべき女の子じゃない。未だに三角形の合同も証明できない俺だが、これだけは簡単に証明できる。  
「人の心、ちゃんと分かってます。じゃなきゃ俺、あんなに何度も、あなたに励まされたりしてません。俺もみんなも勝手だから、助けが  
欲しいくせに意地張って、つっぱねたりもするけど……それは俺達のせいで、あなたは何も悪くありません」  
しゃくりあげていた彼女の背中が、次第に凪いでいく。目を上げた彼女の顔は、もう泣いてはいなかった。そのことに勇気づけられ、  
俺は一気に畳み掛けた。  
「ほんとです!球技大会も追試も、夏期講習も避難訓練も、全部あなたがいてくれたから……シャープペンとか、『がんばろうね』とか、  
そういうの一個一個……すげぇ、有り難くて、だから……それに俺、今日だって、一度も怒ってなんかいません」  
「……じゃあ、何でバスで、急に黙っちゃったの?さっき怒鳴ったのは?どうして?」  
―――どうして?  
不意を衝かれて、俺は息を飲んだ。説得している間、ベッドに身を乗り出していたせいで、彼女の全てが、手を伸ばすまでもなく届くほど、  
近くにあった。濡れたままこっちを見上げるリスみたいな眼も、泣き跡で上気した頬も、裸の肩も、剥き出しの腕も―――布きれ一枚に包まれただけの、  
彼女の身体も。  
そのとき、俺は悪魔の声を聞いたんじゃなく、悪魔になってたんだと思う。ほとんど無意識に、俺は彼女の唇を奪い、磨き上げた石みたいに白いその身体を  
押し倒していた。  
 
「んっ……う……!!」  
驚いて声をあげる彼女の舌を、肉食獣の獰猛さで捕らえ、味わう。その感覚は、今までどんな女にしたキスとも違っていた。火傷しそうに熱くて、  
舌が溶けそうなほど甘い。強いて言うなら、荒熱をとる前の、焼きたてのプリンに似ていた。  
「……ん、ん……!!」  
いくら貪っても足りなくて、唇を離せない。どういうわけか、いつもは痛い樵の攻撃さえ、何だか気持ち良い。スーパーマリオでいうと無敵に  
なった感じだ。俺は息をするのも忘れて、夢中でキスをしていた。  
「さか、き、くん……」  
正気に返れたのは、唇を離したとき、彼女が虚ろに呟いてくれたおかげだった。焦点を取り戻した目で見下ろせば、文字通り眼と鼻の先に、  
梅村さんの顔がある。普段は二つに束ねてある髪が、シーツに広がって艶々と光り、ピンク色の可愛い唇もまた、キスの名残で濡れて光っ……キス?  
「ファーーー!!!」  
俺は生まれて初めて、後ずさりをした。それも、尻をつき、後ろについた手と投げ出した足で地面を漕ぐ、一番格好悪いやつだ。  
「すいませんすいませんすいませんすいません!!!」  
背中で壁に激突するや、俺は土下座で謝った。  
「や、やだ、やめてよ榊くん」  
「ほんとすいません!!もうしません!!死んでもしません!!」  
ベッドに額をめりこませながら叫ぶ。だけど何度言っても、そんな言葉は無意味だった。俺は誓いを破ったのだ。  
何てことだ。サルか、俺は。  
「こうなるから、俺、恐かったんです」  
「恐、い……?」  
「その、バスで……梅村さんのシャツが透けてて、ブ、ブブブブブラが見えたり!タオル一枚だったり!そういうの見てたら、さっきみたいに、  
見境なくなるっていうか、あの……俺サルです!すいません!」  
叫びながら謝り倒し、更に深々と額をベッドにこすりつける。梅村さんは「サルって……」と呆れたように言うと、ゆっくりと身体を起こした。  
女神のように優しい手が、俺の髪にそっと触れる。  
「謝らないで。だって私……」  
頼む。いくらあなたが優しくても、これだけは笑って許したりしないでくれ。下手すりゃ、ファーストキスだろう。殴るなり蹴るなり罵るなり  
好きなようにして、俺の罪を償わせてくれ。  
 
「嬉しかったし」  
「え」  
思いがけない言葉に、俺はきょとん顔で梅村さんを振り仰いだ。頬を染めて、もじもじと恥じらう姿が、いつにも増して可愛らしい。  
「う、嬉しい……?」  
「だって、私、あの……もう!全部言わせないでよ」  
梅村さんは真っ赤になって、掌でベッドを叩くと、ぷいっと背中を向けた。  
「榊くんだったらいいの!変なこと考えても、キス、しても……」  
おい。おいおいおい。これはまさか。  
今、俺の頭に電球を突き立てたら、七色に輝くだろう。蛍光灯でも多分いける。  
「梅村さん。それって……」  
「全部言わせないでって言ったでしょ!」  
ばたばたと、彼女はベッドの上で拳を弾ませる。見えないが、顔は多分真っ赤だろう。何だ。何なんだこの可愛い生き物は。  
俺はたまらなくなって彼女を抱き寄せ、ガキみたいにおっかなびっくり尋ねた。  
「キ……キスまでっすか?それ以上は?」  
彼女の肩がぴくんと上下し、ほとんど同時に、蚊の鳴くような返事が返ってきた。  
「い、いいよ……いいけど!」  
付け足す声だけがやけに厳しい。俺は「待て」をされた犬のように凍りつく。  
「私、は、はは初めてだけど……いいかな」  
『初めて』のところで完全に声のひっくり返った彼女の答えに、俺の全身はめでたく雪解けを迎えた。  
ありがとう神様、仏様、運命をつかさどる全てよ。俺達、幸せになります。空から差す虹色の光にさんさんと照らされ、俺は  
満面の笑みを浮かべた。  
 
―――とはいったものの。  
いざ、梅村さんに覆いかぶさったところで、俺は臆病風に襲われた。  
―――初めて、か……。  
さもありなん、と思わせる、染み一つない滑らかな肌。汚れを知らない、とはこのことだろう。  
俺なんかが抱いて、ぶっ壊れたりしないだろうか。喧嘩においてもセックスにおいても、俺は百戦錬磨だが、今までの戦いでは、  
相手もまた百戦錬磨だった。その俺が処女を抱くなんて。鉄パイプをもって赤ん坊に殴りかかるみたいなもんじゃないのか?  
―――ええい、ぱぱよ!  
『どうにでもなれ』という意味らしいその言葉を心の中で叫び、俺は梅村さんの身体からタオルを剥ぎ取った。  
 
「はわぁっ?!」  
現れた肢体に、俺は卒倒しかけた。陶器製の人形といわれても、多分信じただろう。それほど、彼女の裸は美しかった。  
若鹿のよう、とでもいうのか。決して貧相ではないのだが、しなやかに細く、整っている。発展途上の胸と、  
よく締まったウエストのラインが目に眩しい。  
「どうしたの?」  
「あ……あんまり綺麗だから、つい」  
彼女は俺の言葉にさっと頬を染め、はにかんだ。その笑顔に、俺はまたも樵の一撃を食らう。  
つい口をついたのだが、素直に褒めて良かった。また『何でもない』なんて誤魔化せば、彼女を不安にさせてしまったことだろう。  
決めた。何でも素直に言おう。  
俺は新たな決意とともに、彼女の身体にむしゃぶりついた。  
「きゃっ!」  
「すげぇ綺麗です、梅村さん」  
首筋と肩と背中とを、順繰りに撫で回し、耳朶に舌を纏わせながら囁く。  
「鎖骨とか、耳とか、全部……食っちまいたいぐらい、綺麗だ」  
「んっ……」  
恥ずかしそうに、梅村さんは眉を寄せた。それさえ可愛くて、今度はついばむように、彼女の唇にキスをした。  
わざと音を立ててやると、彼女は照れたように笑う。  
「何か、恥ずかしい」  
彼女の初々しさが微笑ましくて、俺も少し笑い、彼女の双丘に手を伸ばした。キスの後で胸に行くのは、いつもの手順だ。  
 
―――はにゃ?  
しかし、俺が余裕ぶっこいてたのはそこまでだった。手の内にある、この感覚。この張りと滑らかさ、そして柔らかさ。  
俺はそいつを知っていた。  
―――これは……まさしくアグネスプリン!!  
俺は身体をずり下げ、まじまじと梅村さんの胸に見入った。形はそれほど似ていないが、感触はほぼそのままだ。  
ということはこのてっぺんのやつは……さくらんぼ?まさかこんなところで、ちょっぴりデラックスになったアグネスプリンに  
出くわすとは。俺は夢中で目の前のプリンをたいらげた。  
「あっ……やぁっ!!」  
頭の上から、梅村さんの切なげな声が降ってくる。俺はその声と、口の中で食むプリンの甘さと、左手で掴んでいるもう一つの  
プリンの柔らかさに酔った。右手で探り当ててみれば、尻朶もちょっとプリンっぽい。同時に3つのプリンを貪り、俺は  
幸せの絶頂にいた。  
 
それから、どこに触れているときでも、俺は必ず片手か唇で、梅村さんのプリンを食っていた。  
「榊、くん……私の胸、好き?」  
「好きです!」  
おずおずと尋ねてくる声に、間髪入れず即答する。面食らったように目を見開き、彼女はまた、はにかみながら俯いた。  
「だけど、そんなにしたら、おっきくなっちゃうよ」  
「いいです。どんなになっても、俺は梅村さんのプ……胸、好きですから」  
一瞬本音が出そうになりながらも、俺はきっぱりと言った。彼女のほうからキスしてきてくれたのは、そのときが  
初めてだった。  
「へへ……嬉しい」  
ぼっ、と顔が熱くなるのを感じる。これがあれか。想い想われるってやつか。初めての感覚に、俺は胸まで熱くしていた。  
幸せで、どうかなっちまいそうだった。  
 
「あ、待って!」  
指を挿れようとしたとき、彼女が弾かれたように叫んだ。悪戯が見つかった子どものように、俺はその場で固まった。  
何でだ。もう十分濡れてんのに。やっぱり恐いのか。それとも、俺の鼻息が荒くなってんのがばれたのか。  
俺は無意識に鼻から下を手で覆いながら、「どうしたんですか?」と問いかけた。  
「だって、さっきから私ばっかり、色々してもらってるよ」  
人形みたいだった彼女が、よいしょと身を起こす。人形のままでも、俺はいっこうに構わなかったんだが。  
「そういうの、マグロっていうんでしょ?」  
「マ、マグ……」  
俺は絶句した。凄いこと言うな、最近の女子高生は。  
「私も何かする」  
「いや、いいですよ、俺は……おかげさまで、その、すげぇ元気ですし」  
そうなのだ。マイサンときたら、触れられてもしゃぶられてもいないっていうのに、視覚や手のお相伴に預かるだけで、  
はちきれそうなほどりんりんになっている。高級枕営業の姐さん達に構われ慣れてるとは、到底思えない。  
このうえ何かされたら、最悪、即起爆する。一触即発ってやつだ。  
そんな俺の息子事情を知って知らでか、梅村さんは今までの大人しさを取り返すかのように、ずいっと身を乗り出した。  
「駄目!ちゃんとするから」  
「ちゃんと、って……」  
「本で読んだから、大丈夫。知ってるよ」  
梅村さんは俺のそれをまともに見て、一度驚いたように身を竦め、それでも果敢に手を伸ばしてきた。  
何という勇気。俺は自分のもんだから見慣れてるが、こんな奇っ怪なもの、初めて見たら目を背けるのが普通だろう。  
彼女の身体を隅々まで見せてもらったが、どこもかしこも、綺麗なものばっかりだ。その彼女が、こんなものに  
触れようとするなんて。  
俺は彼女の、儚げな風貌に似合わない勇気に感服した。  
 
梅村さんはまず、俺の男の部分を力任せに擦り上げた。  
「いでっ……!!」  
「あ、ごめん!」  
彼女は慌てて手を離した。おろおろと「ごめんね」を繰り返す彼女に、俺は無理にでも笑顔を向ける。人一倍気ぃ遣いらしい彼女を、  
心配させてはならない、その一心だった。たとえここに焼き鏝を押されても、俺は笑っててやろう。  
「や、大丈夫っす……ええと、とりあえず、唾で濡らしてもらえますか?手につけるのでも、直接でもいいんで」  
「唾?」  
「はい。ぬめり、っていうんですか、あの、擦れないように……」  
彼女は感心したように自分の両手を見て、「唾か……」と呟き、ぺっぺと一生懸命に細い指を濡らした。それから唾液を纏った手で、  
痛くてちょっと萎えた俺の息子に、おずおずと触れる。腫れ物を扱うようにゆっくりと動く手が、あんまり気持ち良くて、俺は  
腑抜けた声で喘いでしまった。  
「うわ、や、っべ……」  
「痛くない?」  
「いや、もう……気持ち良すぎです。いきそう」  
情けなくも上擦った声でようやく告げると、彼女は心から嬉しそうに笑った。根気良くろくろを回す職人のように、  
彼女は単調に俺のを擦り続ける。緩急を自在に操るプロの技よりも、何故だかそれは何百倍も気持ち良かった。  
それは多分、その手が、他の誰でもない、梅村さんのものだったからだ。  
俺は天井を仰いで息をつき、懸命に暴発をこらえた。もし叶うなら、いつまでもこうしていたい。確かにそう思っていたのに、  
人間ってやつは……いや、俺は何て強欲なんだろう。気が付くと、俺はかすれた声で彼女に懇願していた。  
「梅村、さん……それ、舐めてもらえませんか」  
「えっ……これを?」  
「はい。あ、嫌ならいいです」  
彼女が断れないと知っていて、俺は卑怯にも付け足した。一番嫌っていたはずの、計算高い男に、俺はなっていた。恋ってやつは、  
人をどこまでも醜く、ずるくさせるらしい。ツルゲーネフも見落としていた真実を、俺はそのとき見つけた。  
彼女はひどく真剣な顔で手の中のものを見据え、やがて思い切ったように目を閉じると、それに口を寄せた。  
 
―――うおっ?!!  
だが、いざやられてみると、うろたえたのはむしろ俺のほうだった。彼女の舌が俺の筋に沿って這う。上へ、下へ。それだけのことなのに、  
俺は何かやばい薬でも嗅がされたみたいに、色んなもんが飛びそうになっていた。  
―――なっ……何だこりゃ?!一体……!!  
目を細めて眉をしかめ、一生懸命舌を遣う、彼女の横顔。それを見るうち、俺はその異常な快感の正体に気付いた。  
―――コノヤロー、いつの間に……?!  
内心で怒鳴りつけても、もう遅かった。俺の胸をしつこく苛んでいた、あの樵。あいつがいつの間にか下降して、そこにいやがったのだ。  
樵はざまぁみろとでも言うようににやりと笑い、俺のゴールデンボールに斧を振り下ろした。痛みはない。ただ、圧倒的な快感が  
押し寄せて、俺は一溜まりもなかった。  
―――ファーーーーっ!!  
その獣じみた叫び声を、口に出さなかっただけ、自分で自分を褒めてやるべきかもしれない。自制心なんて、そのときの俺には欠片も  
なかったのだから。小学校のときの夢精以来、俺は初めて自分の意思に拘わりなく、ぶちまけてしまっていた。  
 
いや、褒めることなんかない。一つもない。白濁まみれで、ぽかんとしている梅村さんの顔を見て、俺はそう確信した。  
「すっ……すいません!」  
サイドボードから奪い取るように何枚ものティッシュを摘み出すと、俺は必死で梅村さんの顔面を拭いた。  
何やってんだ。これじゃ、どっちがバージンか分かんねぇじゃねーか。  
自棄のように次々とティッシュを繰り出しながら、俺は泣きそうになっていた。生物の時間にえころじぃってやつを習ったばかりだが、  
今の俺には梅村さんの顔を綺麗にすることのほうが大事だ。  
「すいません!」  
「い、いいよ、ちょっとびっくりしただけ」  
大量のティッシュに溺れながら、彼女はそれでも気丈に言った。ティッシュをかきわけるようにして現れた、彼女の顔は、  
何故だか幸せそうだった。  
あんなもんをぶっかけられたっていうのに。俺は梅村さんの心の広さに改めて感激し、その頬を手で包んで、唇を寄せた。  
「ちょっ……今、汚いよ!」  
「いや、俺のですから」  
「あ、そっか」  
ふにゃりと笑う彼女の顔に、いくつものキスを落とす。あれの生臭さを覚悟していたが、あらかた拭き取られたせいか、彼女の花みたいないい匂いに  
掻き消されていた。  
 
改めて彼女の女の部分に触れると、驚いたことに、さっきよりも濡れていた。ずっといじってなかったのに。  
処女でも、相手のを舐めてて感じることなんかあんのかな。俺は慎重に指を動かし、彼女から溢れ出るものを弄んだ。  
「んっ……あ……」  
ひくひくと、胸の下で彼女の身体が震える。取れたての若鮎はこんな感じかもしれない。柔肉を押し広げ、呼吸するように蠢く芯を弄うたび、  
彼女は可哀想なぐらい素直な反応を見せた。  
このぶんなら、大丈夫だろう。俺は深呼吸をすると、何も入れたことがないという、その小さな穴に、人差し指を突き入れた。  
「いっ……!!」  
しかし彼女は、下半身の全てを強張らせ、俺を拒んだ。俺は大腿の内側を撫でて、力を抜くように諭す。すぐにでも奥まで押し入りたいのを、  
反対の手で手首を捕まえて抑えた。乱暴にするな。本当にぶっ壊しちまう。すっかり内面に同化した悪魔に、俺は懸命に言い聞かせた。  
ゆっくりと、彼女の中で指を動かす。指に纏わりつく、襞の一つ一つが、ひどく温かくぬめっていた。そのくせ、指一本がいっぱいいっぱい  
みたいに、ぎゅうぎゅうに締め付けてくる。  
この中に、指なんかじゃない、一番挿れたいものをぶちこむ。それを想像するだけで、俺のげんきんな息子はむくむくと元気を取り戻した。  
「梅村さん……なんでこんなに、濡れてるんですか?」  
「えっ?」  
彼女は面食らったように声をあげた。その声に、俺もまた「えっ」と同じ台詞を返しそうになる。  
しまった。何を聞いてるんだ俺は。いや俺じゃない、今のは息子が。うちのバカ息子が。  
泡を食う俺に、彼女は目を伏せて答えた。  
「わ、分かんない、けど……多分、榊くんが喜んでくれたからだと、思う」  
「俺?」  
意外な答えに、俺は間抜けな鸚鵡返しをしてしまった。梅村さんは、怒ったような照れたような赤い顔で、早口に言った。  
「だって……好きな人が喜んでくれたら、嬉しいから……そうじゃない?」  
黒々と潤んだ、リスの瞳が、虚勢を張って勇ましく見上げてくる。その可愛らしさにしばらく見惚れていたが、後でもっと重要なことに  
気付いた。  
好きな人が喜んでくれるから。何てことだ。これは物凄い、コロ何とかの卵だ。これまで何百人もの女を抱いてきたが、俺はついぞそんなことは  
考えなかった。挿れたはめたの世界じゃない、もっと崇高な、いわゆるひとつの……。  
それ以上考えると髭の剃り跡が余計濃くなりそうなので、止めた。俺はもう辛抱たまらず、ぱっつんぱっつんに張った息子を構えた。  
 
―――うっ……わ……!!  
押し入ったそこは、想像以上だった。狭い。きつい。食いちぎられる。いや、でも食いちぎられてもいい。  
俺は阿呆みたいに白目を剥き、ぽかんと口を開けて、その感覚に溺れた。  
まだ先を挿れただけなのに、こんなんで大丈夫なのか。さっき出したばっかなのに、もういっちまいそうだ。  
際限なく開かれていく口を、あるとき俺ははっと閉じた。馬鹿野郎。心配すべきは俺じゃない、梅村さんだ。  
見れば、彼女は顔をしかめて、必死に痛みに耐えていた。  
「う、めむら、さん……抜き、ますか?」  
「ん、ん……大丈、夫」  
彼女は弱弱しく笑い、気遣うように俺の二の腕をそっと撫でた。  
「でも……」  
「いいの。大丈夫だから……早く」  
梅村さんはなおも強がって、力を振り絞るように上身を起こした。そして、俺の耳に唇を寄せ、囁く。それは本当に小さな、風の吹く音に紛れてしまいそうなほど、  
儚い声だった。なのに、俺の耳に、何よりも心に、深々と刻まれて、永遠に消えることがない。そういう声だった。  
―――さかきくんに ぜんぶ あげる  
 
「ーーーーっ!!」  
高く叫んだのは彼女だった。だけど俺も多分、何かを叫んでいただろう。すっかり自失して、俺は彼女の中で暴れ狂っていた。  
彼女の奥と、そのまた奥とを、何度も何度も往復する。びしゃびしゃと、俺の先走りとも彼女の蜜ともつかない液が、弾け飛んでは  
シーツに零れた。  
「あぁっ!あぁっ!や……あぁぁっ!!」  
彼女の甲高い悲鳴が、耳に突き刺さる。それさえ、何故だか心地良い。  
「はーっ……はーっ……」  
俺は捕食前の肉食獣のように、深い呼吸を繰り返した。べろりと彼女の耳裏を舐め、浅く腰を動かしながらその時を待つ。  
この一回で精根尽き果てても構わないと、本気で思った。  
「っ………!!」  
彼女が身を強張らせると同時に、俺もまた、真っ白な光を見た。痙攣するように蠢くそこへ、どくどくと己を注ぎ込む。  
何度も何度も、彼女の中でそれを突き立てて……その先を何も覚えてないところを見ると、そのまま眠ってしまったらしい。  
夢の中で、俺は彼女の全部を―――さらさらと流れる黒い髪を、プリンのように甘やかな胸を、しなやかに細い身体を、  
抱き締めていた。  
 
「榊くん」  
深刻そうな彼女の声に、俺ははたと目を覚ました。腕の中に、彼女がいる。彼女を抱いていたのは、どうやら夢ではなかったらしい。  
にへっ、と笑う俺に、やや引き攣った笑みを返すと、梅村さんはおずおずと口を開いた。  
何を言ってくれるんだろう。「私、幸せ」か。「結婚しちゃおっか」だったらどうしよう。どこまでも前向きににやける俺に、彼女は  
意を決したように言った。  
「これ、どうしよう」  
「これ?」  
「うん………これ」  
彼女は困ったように、人差し指で「下」を指差した。その指を追いかけ、俺の視線は下へ、下へと下降していく。そして、  
「えぇぇーーー?!」  
繋がりっ放しの俺と彼女の急所を発見した。慌てた引き抜こうとするが、押しても引いても、何故か抜けない。  
縋り目で彼女を見ると、彼女もまた泣きそうになっていた。  
「起きてからずっと、離そう離そうって思ってるんだけど……外れないの。こういうものなの?違うよね?どうしよう……」  
どうしよう、って言われても。  
俺は子どもの頃に見たワイドショーニュースを思い出していた。その昔、こういうことになって救急車で担ぎこまれた芸能人カップルが  
いたらしい。子ども心に、どんなに恥ずかしかっただろうと同情していた。その立場に、自分がなるとは。しかも、生まれて初めての  
恋の相手、梅村さんと。  
俺はぐらぐらと揺れる頭で必死に考えた。救急車だと。それはまずい、絶対無理だ。恥ずかしいのは勿論だが、最悪の場合、  
モウチョウで担ぎ込まれてる和の野郎と鉢合う。梅村さんと合体したまま、俺は舎弟に何て声を掛ければいい?  
『よう和。モウチョウぐれぇ気合で治しやがれ。救急車ってのはなぁ、こういうどうしようもねぇ時に乗るもんだ!』  
―――言えるか、バカヤロー!!  
俺は必死で、梅村さんから息子を引っこ抜こうと足掻いた。最悪切り落としてでも、自分で何とかしなければ。般若の形相で  
奮闘していた俺は、ある時梅村さんの気配に気付いた。この感じ。すげぇ来てる。心配オーラ来てる。あと少し放っておいたら  
彼女は言うだろう、『ごめんね。私、どうしたらいい?』と泣き出さんばかりに潤んだ瞳で。  
俺は彼女に、にかっと笑顔を向け、明るく言った。  
「大丈夫っす!よくあることですから!あの、女の子が寝てたほうが外れやすいらしいんで、ちょっと寝ててもらえますか?」  
「そうなの?」  
はい、と快活に頷く俺に、彼女はやっと安心して微笑むと、ことんと枕に頬を落とした。数分の内に、すうすうと寝息を  
たて始める。その無防備な寝顔に、俺まで何だか安らいで、まるで子どもにするみたいに、おでこに口付けてしまった。  
何だってしてやろう。彼女がこうして眠れるように、天使みたいに笑ってくれるように。  
そう思ったとき、胸に走ったのは、痛みではなく、ほんの一瞬だけ血の沸くような、温かな感覚だった。  
樵も、ずいぶん人間が丸くなったらしい。俺はとんとんんと胸を叩くと、そのまま後ろ手に手を泳がせた。指先に当たった  
通学鞄を器用に手繰り寄せ、ケータイを探し当てる。数回のコール音の後、守役の声が聞こえた。  
「俺だ。医者連れて来い。……ここにじゃねぇ、そっちにだ。電話口に聞くだけで足りるからよ。……何科?知るかコラ、何でも科連れて来い!  
……ああ、腕さえ良けりゃ何でも構わねぇ……いや、一つだけ条件がある。口の堅い奴にしろ」  
 

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