リュカは走る。
最近になってよく感じる、胃のあたりがカッとなるような感覚をどうにかするために。
リュカは走る。
最近になって時折忘れる、胸に立ち込める黒い霧の味を思い出すために。
「リュカがいない?」
元々朝には弱い性分ではあるが、今日もご多分に漏れずシャッキリとしない目覚めだ。
「ああ、寝酒が抜けないんで水を飲もうかと思って一時間くらい前かな?に起きたんだけど、
その時にはベッドが空いてたんだ。用を足しにでも行ってるのかな、と思ってその時は気にしてなかったんだけど」
こちらは別の意味で寝起きが悪いダスターが、重たげな瞼をいつもより少し開いて答える。
どせいだにでの騒動を収め、どせいさん考案の鳥籠に掴まって(と、いっても途中で振り下ろされたようなものだが)
タツマイリに戻ったのが昨日の夕方。
落ちた場所が海面で助かったが、それでもそこからすぐに次の行動を起こすには消耗が激しすぎた。
話し合いの結果、今日はリュカの家に逗留して、明日以降タネヒネリ島への渡航方法を模索しようということになった。
ちなみに、二度目の落下で面目を失したヒモヘビは穴に入って恥じ入っている。
なかなかシャレの分かる奴だ。ヘビなのに。
「散歩にでも出てるんじゃないか?なんせ最近寒暖の差が激しすぎるところを強行軍してきたからな。
たまにはゆっくりもしたくなるだろ」
見ると食卓の上には作ってからまだ間もないのだろう、湯気を立てるベーコンエッグとサラダ、ロールパンといった朝食が用意されている。
ダスターがこしらえたものらしい。この一行の兄貴分とも言える男は、その冴えない風貌とは打って変わりなかなか器用でマメである。
クマトラもリュカも(勿論ボニーは論外だが)こういった点からっきしで、会計及び諸般の雑事を一手にダスターが引き受けている。
一度手伝いを申し出たことがあるが、その時は散々なことになった。
宙を舞う皿、散乱する食材、かちこちウルフが蒸発しそうな超火力…。
苦笑いでしょぼくれる年少の二人の頭を撫でながら、ダスターが任せておけ、と以降の世話役を引き受けたのものである。
「いや、ボニーも犬小屋にいるし、何かメッセージを残していったわけでもない。リュカの性格からするとちょっと、な。
この界隈にはそんな危ないモンスターがいないとは言え、一応あの変な組織とは対立してるわけだし」
「ふぅん。確かにそりゃ少し変だな。でも、そんなに心配することも無いだろ。あいつはしっかりしてるし、
そんな無茶はしないはずさ」
ふむ、とダスターが少し思案するかのように目線を遠いところにやる。
「ま、とりあえず手早く支度してメシ食っちゃおうぜ。そのうちに戻ってくるかもしれないし」
よっと、と少し弾みをつけてベッドから降りる。残った温もりに少し後ろ髪を引かれるが、その誘惑を撥ね退けながら
体を清めるため洗面室に向かう。
と、手前で一度振り返ってダスターをみやる。こちらの視線に気付いたのか、
(ん?)
と目線で問いかけてくる。
「覗くなよ」
バカ、と苦笑しながら言い返す彼を尻目に、少しだけ強くドアを閉めた
――僕は、僕は、僕はっ!
自分の心が分からない。いや、無論今までだって悩んだり苦しんだりしてきた。
しかし今感じているソレは、明らかに今までのものとは次元を異にしていた。
僕は、母さんを殺し、兄さんも殺し、父さんを苦しめている。
何かが出来たかはわからない。でも、何かをしなかったことで結果的に家族を壊してしまったんだ。
僕が殺したのだ。僕が奪ったのだ。僕が!
…僕は忘れちゃいけない。忘れないで、何かを成し遂げなきゃいけない。
忘れてはならない!なのに何故!?――
結局、すっかり支度を整えた段になってもリュカは戻らなかった。ベーコンエッグのベーコンが寂しそうに縮んでいる。
いずれにしろ情報収集を行うつもりではいたし、さすがにちょっと心配になってきたのもあって二手に分かれて
彼を探すことにした。
オレは海岸方面、ダスターは老人ホーム方面を捜索することにし、ボニーには荷物番を兼ねて留守を頼む。
「んじゃ、見つけたらここに戻ることにしよう。戻ってない方にはボニーに呼びに行かせる。いいな?」
「分かった。じゃ、また後で」
言い置いて、ずんずんと海岸へと通じる道を歩き出す。いらない心配をさせて、と思うとあのやや硬い金髪に拳骨の一つ
でも落としてやろうという気になっていた。
広場に差し掛かり、ふと急激に人気が無くなった村を見渡す。
三年前からすると、この村の空気は一変したかのように思える。
原始共産的、と言ってしまったら何だが、それでも以前の牧歌的な雰囲気に包まれたこの村は嫌いではなかった。
少なくとも最近のような妙な目つきをする住人はいなかったし、どこか狂信的なヨクバらへの崇拝も無かった。
変わる、ということに悲しみのようなものを覚えるのは、自分が悠久の時を生きるマジプシーに育てられたからなのだろうか?
否、それは違う気がする。
少なくとも、この旅を始めて以来自分も変わってきたと感じるからだ。
それは時折不安などを生んだりもするけど、多くは暖かな気持ちをもたらしてくれるものだった。
何より、二人と一匹といる時に自分はよく笑っているのだ。以前ではちょっと考えられない。
変化といえば、と広場を横切りながら考える。
仲間達に対する感情も随分と変わったものだ。
リュカ。初めて会ったのは絶体絶命の時だった。痛快極まりない登場の仕方ではあったが、あの時はまだ自分より頭一つ小さく、
どこか頼りない感じを受けたものだ。
それが今では背丈も自分と同じくらいまで伸び、多少生意気な口も利くようになった。未だあどけなさは残っているものの、
戦いにおいては逞しく、普段の行動でもいっちょまえに仲間を気遣ったりする。
今では、もし弟というものがいたらこんな感じだろうか、とまで思うようになっている。
まだまだ少しからかえば赤くなるあたりウブだけどな、と少しよからぬ事を企みながら口の端を上げる。
ボニー。彼もリュカと一緒に会ったんだったな。そのときから思ってはいたものだけど、本当に随分利口な犬だ。
一行のマスコットとして癒しを与えてくれ、戦闘においては常に先頭を切って敵の懐中に切り込む。
弱点を探り当て、そのお陰で切り抜けられた局面も多々あったものだ。
さすがにクラブ・チチブーでの変装には噴き出すのを堪えるので一杯一杯になったが。
ダスター。かつての臣下との思わぬ再会を思い出す。自分の不肖の倅だ、とウエス爺に紹介されたが、
その時はどこかしまらない、少し口臭のある男だとしか思わなかった。
ああ、ウエス爺が間違ってダスターの熟成靴下を投げつけてきたことで、足が臭いのも分かったんだっけ。
あの時、思わず本気で彼をぶん殴ったことも懐かしく感じられる。アレは会心の一撃だった。
それがまさか、こんな長い付き合いになるとは。
卵と彼を探し求めてなんとか探し出した時のことと、それからのはがゆい日々を思い出してつい感傷的になりかけた。
いけないいけない、と頭を振る。
ともあれ彼は記憶を取り戻し、以降は少しはぐれたりもしたが、一行を陰となり陽となり補佐し続けてきてくれた。
リュカが弟だとするならば、ダスターは兄だろうか。いや、それとも父に近いものがあるだろうか。
そのどちらにも何か違和感も感じるが、あまり深く考えるのはよそう。
彼らだけじゃない、色々と関わってきた人や猿や謎の生物などとの出会いを思い返す。
やはり、変化そのものが悪いわけじゃない。要は、どう変化したのか、だ。
うんうん、と自分の考えに納得して一人頷いた時だった。
――最近、今まで感じたことのない未知の感情が自分に渦巻いている。
そして、それを感じている時、間違いなく自分は忘れている。自分の罪を感じなくなってしまっている。
その時は決まって胃の辺りが熱くなるのだ。不快ではないのだが、正直持て余している不思議な感覚。
収束するのはいつも、クマトラの姿だった。
こう、とても安らぐのだけど、同時にとても落ち着かなくなる。そして例の感じ。
小さい頃、母さんに対して似たような感情を抱いたことを思い出す。でも、それもやはり少し違う。
第一、クマトラと母さんは全然似てない。
母さんはふんわりとした人だったけど、クマトラはどっちかというと凛とした感じの人だ。
母さんはにっこりと笑ったけど、クマトラの笑顔はニカッという感じ。
あ、でも。
母さんが好きだった向日葵に、なんだかとても似てる。
それでかもしれない。知らず知らずのうちに、彼女に母を重ねて甘えていたのかもしれない。
自分の、許されざる罪から逃げるために――
遠目に、浜辺に仰向けになって寝転がるリュカを見つけた。
「リュ…」
反射的に呼びかけようとして、思いとどまった。
見たことも無い、思いつめたような空虚な少年の顔がそこにあったから。
何となしに、犯すべからざる領域に足を踏み込んでしまった気がする。
正直に、
(怖い)
と思ってしまったが、それでも足は止めなかった。
何だか、リュカの存在がとても希薄なものに感じられて仕方がなかったから。
それに、自分の中の何かが、そうしてあげなきゃと命じたから。
押し黙ったまま歩を進め、彼の傍らまで来た。
が、彼はそれに気付くでもなく放心したかのように身じろぎもせず中空を見つめている。
しかし、それでも眉根が僅かに煩悶を示すかのごとく寄っているのを見つけて、覚悟が出来た。
両頬をむにりとつねりあげてやる。なんだかあまり柔らかくなかったのが、とても悲しい。
「クマ…トラ?」
呆然とそう呟くリュカの瞳を見て、自分が何をすべきなのか瞬時に悟った。
傍らに座り込んで、つねっていた両手を開放してそのまま彼の頭を自分の膝に乗せる。
膝枕完成。
「…?」
イマイチ状況を理解してないのだろうか、抵抗することもなくぽすりと落ち着いた。
彼の、汗が混じった太陽のような匂いが間近に感じられる。
そっと、太陽と同じ色の髪の毛を梳きながら語りかける。
「無理しなくていいよ」
自分でもびっくりするくらい優しい声が出た。一体どこからこんな声が出たんだろうか?
漠然としたそんな疑問を浮かせたまま、彼に笑いかける。
心が、すごく暖かく穏やかだった。
「無理しなくてもいいんだ。大丈夫だから」
その言葉の意味するところが何なのか、良くは分からないけど。
自分が今かけてあげるべき言葉を言えてるんだ、というのは確信していた。
さっきより苦悶の表情は濃くなったようだけど、それは人間の表情だから構わない。
鎮めるように、宥めるように、無言で髪を梳いてやる。
そのうち、徐々に徐々に彼の表情も和らいでいった。
「ところで」
彼の顔に表情が戻り始めた頃に爆弾を投下してやる。
「オレの膝枕、そんなに気に入ったか?」
「…?……!?クックックックックッ!?!?」
最初、状況が理解できずにぼうっとこちらを見ていたが、頭がやっと追いついたのかものすごい勢いで硬直して
パニックを起こし始めた。
さっと、なんてものではない。ズオオッと音が聞こえるぐらいに顔に朱が上った。
割と見ていて面白い。思わず笑いが漏れてしまった。
が、あまり面白がって拗ねられたりすると面倒なのでまずは落ち着かせることにする。
「落ち着け」
ぺしりとおでこを叩く。
「そ、そんなこと言ったって…」
プシューッと顔を紅潮させながら、今更ながらにジタバタと抵抗を始めるのを人差し指一本で止める。
「フッフッフ、甘いなリュカ。人間の体は状況次第では指先一つでダウンさせたままに出来るんだぞ」
うりうり、と講釈を垂れながら抵抗が止むまで彼を押さえ込む。
しばらく足掻いていたが、どうやら起き上がれないことを悟ると顔を赤くしたままリュカは黙り込んだ。
それで良し、と一つ笑い解放してやる。
「昔さ、まだオレが小さい頃なんだけど、どうにも心細い気分になったり不安を感じた時にイオニアが
よくしてくれたんだ、膝枕」
少し目をつぶって思い出す。
怖い夢を見た時。自分の存在に漠然とした疑問を抱いた時。
アラアラ、とそのヒゲの剃り跡が青々とした顔をほころばせながら、膝をぽんぽんと叩いてくれた。
ちょっと硬かったけど、お香のいい匂いがして安心できるその場所に飛び込んだものだ。
そんな時、彼女が囁いてくれた魔法の御呪いを思い出す。
「怖いの怖いの、飛んでいけー…か」
「さ、そろそろ戻ろう。いい加減ダスターにも知らせてあげないとな。
それとも、まだもう暫くこうしているか?甘えん坊将軍?」
さすがにムッとした様子でリュカが見上げてきたけど、唐突に何か悪戯を思いついた子供のような顔になったのを
見てギクリとした。
慌てて飛びのこうとしたけど、時既に遅し。
「そうだね、ふかふかでキモチイイから暫く独占していようかな。なんたって、僕将軍様だし」
ね?と無邪気に問いかけられて、頭を抱える。薮蛇だ。
揚げ足を取られた形をなんとか打破しようとあれこれ考えてみたが、妙案は浮かばない。
珍しく素直に甘えてくるリュカを邪険にすることも出来ず、仕方なしに折れるしかなかった。
「もう少しだからな」
「うん………ありがとう」
その言葉の二重の意味を感じ取って、オレは目を合わさずに軽く頷いた。