ねえ、手をつなぎましょう  
 少女が囁くように提案した。少年はさび付いたロボットのようにゆっくり左手を後ろに伸ばす。  
 差し出された手はバットを振り回すにふさわしい肉刺が出来ていて、少女は痛みを与えないようそっと人差し指で触れた。人差し指はやっぱり古い機械に似た緩慢な動作で握られて、どちらからともなく、手をつなぐ。  
 少年の左手はぼんやり暖かくて、少女の右手はふんわり柔らかくて。  
 二人は声もなく、言葉もなく、ただ今まで旅してきた道を、時間を、思い出をかみ締めながら、辿る。  
 空は青くて大きな雲が浮かんでいる。  
 ふと鉄橋で顔を上げると海が見えた。  
 本当にバスに乗らなくていいの  
 うん  
 二人は恨めしげに、それでもどこか微笑みながら、靴の先を睨んで歩く。  
 舗装されたアスファルト、オレンジのライン。  
 真上に輝く太陽が短く濃い二人の影を作る。  
 一人が二人になり、二人が三人になって、三人が四人に。  
 長い長い冒険。  
 いろんな場所に行って、いろんな人に出会った。いろんな物を見て、いろんなことを思った。  
 いままで会った人たちの顔が脳裏に浮かぶ少年は何度もその話題を出そうとするが、うまく言葉にならなかった。たくさん言いたい事はあるのに、のどの奥に砂粒が詰まって、鈍い空気の出入りする音にしかならない。  
 今まで起こった事件が胸いっぱいに広がる少女は何度もその確認をしようとするが、うまく台詞にならなかった。尽きぬほど話すことはあるのに、瞼の奥が焼けるほど熱くて、微かに震える唇を動かす事さえ出来ない。  
 ただ、つないでいる手を握ってそこに少女が居ることを確認しながら歩く。  
 ただ、牽かれている手を握り返すと少年の歩調が僅かに緩む様に安堵する。  
 
 ながかったね  
 うん  
 プーは王様になるのかな  
 きっとね  
 会いに行こうね  
 うん  
 短い返事を何度も繰り返して少年は言葉を必死で探す。  
 ジェフはきっと有名な科学者になるよ  
 そうね  
 どせいさんにも手伝ってもらって  
 うん  
 世界で一番すごい科学者に  
 楽しみね  
 途切れ途切れの相槌を続けて少女は台詞を懸命に喋る。  
 ぽつりぽつりと浮かんでは消える会話と呼べぬほど短いやり取りは、もどかしくて切ない。  
 まだ少女の家まで長い長い道のりがある。  
 少し前までどこまでも歩いていけると思ってた。世界の果てまで。  
 この旅を始めて少年はどこまでも行けないことを知った。  
 あのトンネルを一番最初に抜けたとき、ビックリしたのよ  
 少女が日に照らされて輝くトンネルの入り口を指差して笑った。  
 うん、ぼくも驚いた、海が広がってて  
 この先は砂漠なのにね、まるで広い砂浜みたい  
 ジェフが何度も日射病で倒れそうになって困ったよ  
 濡れタオルも蒸しタオルみたいになっちゃって  
 笑い声のままコントラストの強い闇の中へ少女が消える。  
 少年は慌ててその背中を追った。  
 
 トンネルの中はひどく暗くて、ぼんやりオレンジに光る照明さえうっすらとしか見えないような始末だった。手探りするように用心深く足を進める。  
 陰に入るとちょっとは涼しいわ  
 襟元をパタパタ扇いで少女が汗を拭う。ようやく暗がりに慣れた少年の目は、金色の長い髪がぺたりと控えめな双丘に続く闇のその先まで張り付いているのを捉えたまま動こうとはしない。  
 髪を鬱陶しそうに一まとめにした少女の仕草に虚を突かれ、はっと目を逸らしたが、少女は少年の視線など気付かぬ風でハンカチを取り出し首筋などを拭く。  
 ネスも汗ふいといたほうがいいよ、ハンカチ持ってるんでしょう?  
 あ、ああ、よかったら、濡れタオルあるけど、使う?  
 少年が差し出した濡れタオルを受け取った少女は額に当てて大喜びした。  
 紅潮した自分の頬に濡れタオルを当てながら少年は胸元が開いたままの少女から視線が外せないでいる。ちらちらと、伺うように盗み見るように視界の隅で捕らえたまま。  
 ピンクのワンピース、白いブラウス、襟元のレース。赤い頬、上気した口元、細い腕。白い足、短いくつした、赤色の靴。  
 どきどきどきどき、自分の薄い胸板が振動しているのまで見えるようだ。  
 やだぁ、ネスったらどこ見てんの?  
 急に胸元を庇った少女に意地悪っぽく声を掛けられて、少年…ネスと呼ばれた…は慌てて後ろを向いて背筋を凍らせ、直立不動になった。全身がPKフリーズを受けたみたいに動かなくなる。  
 ななななにも!なにも見てないよ!みてない!どこも見てないよ!  
 少女を見つめていたのとは違う速さの鼓動が、更に自分の焦燥と彼女の疑念を煽っている様な気さえした。  
 うそ、見てないならどうして後ろなんか向くのよ?  
 見てないってば!ホントに何も見てない!  
 …………ネスのえっち。  
 ちちちち違うよ!そんなんじゃないったら!  
 じっとり暑く薄暗いトンネルに少年の悲痛な叫び声が響き渡った。  
 
 ほんとに、そんなんじゃないってのに  
 はいはい分かったわよ、ジェフとプーにはひみつにしといてあげるから  
 だからちがうんだよぅ  
 でもあつーい眼差しで見つめられるのって悪くないわね  
 くすくす笑いながらさっきとはあべこべに少女が少年の手を引きながらトンネルを歩く。遠く小さな出口の光を目指して。  
 ネスでも女の子に興味があるのね、なんか意外で笑っちゃう  
 ……なんて言い草だ  
 だって旅してる間そんな風に見えなかったもの、硬派っていうんだっけ、そういうの  
 少女の声に少年は言いようのない居心地の悪さを感じた。それは腹立ちと悲哀のちょうど中間みたいな不思議な感情だった。少年はまだその感情に名前をつけられるほど大人ではない。  
 別にそんなんじゃないよ  
 あらそう?  
 そんなんじゃない  
 少年は引かれるままの足をとめて立ち止まる。不意に引き止められた少女はたたらを踏んでしまった。  
 どうしたの?  
 そんなんじゃないんだよ、ポーラ  
 なにが?  
 少女…ポーラという名前らしい…はいつの間にか真顔になっている少年を振り返って訊ねる。  
 きみが女の子だから見てたんじゃないよ、ポーラを見てたんだ  
 少女は少しばかりあっけに取られたような顔していたが、にっこり笑ってありがとうと言った。  
 ……あー、だから、えー……わかってる?ぼくのいいたいこと  
 わかんない。  
 屈託のない無邪気な声で元気よく言い切った少女に、少年は腰が砕ける。  
 
 へなへなと座り込んだ少年の隣に少女はちょこんと座って、どうしたのネス、あたしなにかいけないこと言った?と声をかける。  
 うん、うん、いいんだ気にしないでなんでもないんだ、ちょっと立ちくらみがね  
 顔を上げずそんな風に口走ったが、少年のぼんやりする頭は帽子をかぶってて良かった間抜けな顔を見られずに済む、と明後日なことを考えていた。  
 しばらく二人は無言のまま蹲っていたけれど、一台のバスがトンネルに入ってきてクラクションを鳴らしてくれたおかげで我に返ることに成功した。  
 あー、だいぶ良くなったよ、やっぱり暑いからかな、ポーラも帽子をかぶった方がいいかもね、これから先は砂漠だしテレポートで一気に帰った方がいいんじゃないかなぁ  
 少年は一気に早口でまくし立てるようにして立ち上がり、視線は少女から背けて極めて明るく振舞う。  
 少女はやっぱりあたし何かいけないことを言ったのだわ、と思った。少年に負けぬほどの強いESPを持っている彼女はテレパシーさえ使えるのだ。当然直感も極めて鋭い。  
 しかしネスが何にショックを受けているのかはよく分からなかった。10歳の少女に言葉少ない少年の意図を正確に読み取るだけの人生経験を求めるのは酷である。  
 で、でも、せっかくだから今まで冒険してきた道を辿りながら帰ろうって言い出したのはネスよ  
 だってこんなに暑いんだもの、早く帰った方がいい  
 でも、でも……あたしちっとも暑くなんかないし、まだたくさん歩けるわ  
 少女は顔を背けてゆっくり歩き出す少年に慌てて駆け寄る。  
 日射病になるよ  
 いつも振り向いて笑ってくれるはずの少年は、冷たく短い言葉で返事をした。  
 ネスがヒーリングで治してくれるでしょう?  
 少女は少し足を速めて隣に並んで顔を覗き込んだが、少年は目をあわせない。  
 あんまりPP残ってないんだ、何度も掛けられないよ  
 顔はいつものように笑っているのに、少年は決して少女の顔を見ようとしなかった。  
 じゃあ途中に宿泊所があったわよね、一泊していけばいいわ  
 なんとかこっちを向かせようと少女は思いつく限りとっぴな事を言ってみた。  
 
 せっかく家に帰れるのに一泊するなんてヘンだよ  
 それでも少年は微笑むだけで足を止めさえしない。  
 じゃあ、じゃあ……  
 小さな両手をきゅっと握って少女は大きな瞳を零れるほど見開いて、流れそうになる涙を何とか押し留めて、かすれる声を無理矢理絞り出す。  
 あたしのマジックプリン、さいごのいっこ、あげるから  
 それ、幼稚園子達にあげる分って取っといたんじゃないか、そんなのもらえないよ  
 だってあたし、もっとネスと一緒に居たいんだもの!  
 烏の羽と同じ色のアスファルトに向かって叫ぶように少女が言った。薄暗いトンネルの地面に数滴水の粒が落ちる音が聞こえたような気がして少年は振り返る。  
 ネス、こっち向いて!あたし何か悪いこと言ったなら謝るから!旅の最後がこんなのなんてやだ!  
 少年はそれでも気恥ずかしくて、情けなくて、ついでに自尊心も挫かれて、少女の目を見ることが出来ずにいた。両手で顔を覆ってしまった少女の哀れよりも気に掛かる動かない自分の手足に腹立たしさを覚えながら。  
 もう今までみたいにケンカの翌朝、デザート交換で謝りっこなんてできないのよ!  
 少女の素直さと必死さに少年は少なからず動揺を隠せなかった。それなのに幼い羞恥は砕ける前に傷ついた少年の精一杯の告白を守る為か、いつもの少年らしさを覆い隠す。  
 追い詰められた少年にもう一度はっきり告白しろだなんて、そんな残酷なこと!  
 黙って歩き始めた少年の後ろを、これまた黙って少女がついてゆく。二人とも何も喋らなかったし互いの横に並ぼうともしなかった。いつも通り手を繋ぐなんてとんでもない。  
 ああこんな時にジェフがいてくれたら、きっとネスを難しい言葉で叱ってくれるに違いないわ。そしてプーなら待ってって言えないあたしを意気地なしだなんて笑うに決まってる。  
 少女はついさっき別れた二人のことを思った。心強い仲間、信じられる友達。それぞれの道に歩き出した友人たち。それぞれの未知に立ち向かう同志たち。  
 それなのにあたしときたら……てんで勇気がなくていやになっちゃう。どうしてあんなに優しいネスを怒らせてしまったのかしらバカバカ。内証的になって思考方向が固まってしまった少女は自分を責めるより仕方がなかった。  
 優しすぎる少女には少年の幼稚な傲慢など理解出来る術がない。  
 
 ふと少女はクラクラとめまいを覚える。普段なら前を歩く少年に不調を訴えただろうし、普通なら少年が少女の不調に気付かぬことなど絶対になかった。  
 だが哀しいかな、今現在の状況は通常とはかけ離れていて。  
 少女は自分の体調不良を理由に気を惹こうとしているように思われるのはなんだか腑に落ちなかったので、この体調不良は気のせいに違いないと健気な錯覚を起こして処理した。  
 そして無言のまま長い長いトンネルを抜けて、ようやく日差しの中へ出る。  
 太陽はじりじりと二人を灼熱に晒し、容赦なく体温を上昇させる。焼けるようなアスファルトはスニーカーの裏を食べかけのガムみたいに柔らかくして、濃い影を映していた。  
 それでも二人は何一つ喋らずに無言でてくてく歩いてゆく。  
 オレンジの境界線を睨みながら、共有させる言葉も探さず、ただ何かの罰のように歩いている。  
 少年はぐるぐるめぐる少女に投げ掛けたい言葉を頭の中で醗酵させるつもりで、すっかり腐らせていた。何を言いたいのか、何を言えばいいのか、何を言うべきなのか、何を言えるのか……  
 背後で聞き慣れぬ音がしたのはもうじき休憩所にさしかかろうという時だった。小さめの砂袋を放り投げたような、濡れた洗濯物を取り落としたような、そういう耳慣れない音。  
 何の気なしに振り返って少年は声を無くす。  
 ぐったり息も荒く汗だくになった少女が熱いアスファルトに顔を伏すようにして倒れていたのだ。  
 な、なにしてんだよポーラ!  
 返事はない。ただぜぇぜぇと苦しそうな呼吸の音だけが肌を焼く太陽光線の下で跳ねている。  
 少女の半そでの肌が真っ黒な地面に押し付けられて、みる見る赤くなってゆく。少年は一瞬何が起こっているのかが全く理解できなかった。少女がこんな状態になったのを見たことがなかったせいもあるだろう。  
 だが、一番の原因は少年が少女と無言で居たことなどなかったからだ。  
 いくら話しかけても、身体を無理やり起こしても少女は返事をしない。気を失ってるらしかった。  
 
 なんてバカなぼく!ポーラがこんなになるまで気づかなかったなんて!  
 少年は背負っていたバットケースを胸の前に回して、大慌てで少女をおぶって宿泊所に駆け出した。ライフアップやヒーリングを掛けるなんてことさえ思いつかないほど気が動転していたのだ。  
 ああ神様もう絶対に悪さなんかしません、パパやママの言うこともちゃんと聞きます、トレーシーとのままごとだって途中でやめたりしません、だから、だからどうかポーラを助けて!  
 耳元で囁くように聞こえる彼女の荒い息がどんどん小さくなっていくのに、ちっとも楽になったように感じない。まるで消えゆく雪のようにささやかで、儚い呼吸。  
 ああ、ああ。  
 ごめんなさい。  
 ゆるしてください。  
 ぼくは、ぼくは、ただ、恥ずかしくて  
 かおをみるのがこわくて  
 ぼくのことをそんなにすきじゃなかったらどうしようって  
 ジェフやプーやぼくのしらないだれかをぼくよりすきで  
 そいつがぼくよりポーラをすきで……そしたらどうしようって  
 どうしたらいいのかわかんなかったんだ  
 ネスなんかきらいよっていわれるより  
 しらんぷりしたほうがマシだとおもったんだ  
 かなしいこともくるしいこともいっぱいしってるけど  
 ポーラにきらわれるよりかなしくてくるしいことなんかないから  
 だからぼくは、ぼくは、ぼく……  
 少年は少女をおぶって走る。目の前にあるはずの宿泊所に向かって、ぬかるむようなアスファルトを踏みしめながら、止まらない涙とクラクラひどい眩暈をそのままにして。  
 
 
 ……やあ、目が覚めたかね……  
 目の前はまっくらで何も見えない。ぼんやり聞こえる誰かの声はひそひそしてて聞き取りにくかった。  
 ……店の前で倒れたから……何事かと思ったよ……  
 声を出そうにも喉が枯れてて引きつった吃音しか出ない。  
 ……女の子は熱射病だし、きみは日射病だし、いったいどうしてあんな暑い昼間に道路を歩いてたんだい?  
 ためしに身体を動かそうとして、声の主に止められた。  
 ……ああだめだめ、もうすこしじっとしてなさい、わたしは医者やヒーラーじゃないからすぐには治せないんだ。  
 少年はそれでも引きつる声を絞り出すようにポーラは、ぼくの背負ってた女の子は無事ですかと訊ねた。  
 ……こことは別の部屋に居るよ、君の方が先に目を覚ましたけど心配ない、たくさん水を飲ませたし、じきに目を覚ますさ。  
 ほっと身体の変な緊張が解けて少年はベッドに深く沈んだような気がした。冷たいガラスのコップが手の甲に当たる。  
 ……さあ君も水をたくさん飲んでおくれ。まったく、バスに乗らないでここを越えようなんて無茶な子供たちだ。  
 目に当てていた温もった濡れタオルが枕元に落ちても、目の前はやっぱり暗かった。もう夜になっていたみたい。コップを受け取り、慎重に全部飲み干したらきれいなガラスのピッチャーを持ったおじさんが又注いでくれた。  
 ノルマは3杯だよ、さあ飲んで飲んで。  
 3杯なんて足りないくらいだと言わんばかりに少年はごくごく喉を鳴らして飲み干す。その飲みっぷりときたらビールの大好きなおじさんが惚れ惚れするくらいだった。  
 君は将来いい酒飲みになるよ!  
 そんな言葉もそっちのけで少年はピッチャーの水を全て飲んでしまった。  
 
 何か忘れ物かい?それとも落し物か?  
 ぼんやり窓の外の入り組んだ岩山、その向こうの砂漠を眺める少年にドラッグストアの店主が声をかけた。  
 ううん、べつに  
 あの子に会いに行かないのかい?まだ目は覚めてないがね。  
 ……合わす顔がないんだ。ぼくが気づかなくて二人とも死んじゃうかもしれなかったなんて……  
 ぎりり、奥歯を小さく鳴らした少年に男は売り上げ記帳の手を休めずに言った。  
 いい男つーのはな、女の子を守らなくちゃいけねーんだ。いい男になりたいなら間違ったことをカッコ悪いって心底悔しがればいい。そしたらな、いい女は許してくれるんだよ。  
 忘れ物なら取りに帰れ、落し物なら拾いに戻れ。ただいつ行ってもそこにあると思うなよボーズ。店主が売上帳をパタンと閉じてにやりと笑った。  
 おれはもう家に帰るが、お前たちはここに泊まっていっていいからな。朝出かけるなら宿泊料金はテーブルの上に置いといてくれ。持ち合わせがなけりゃ今度寄った時でいい。なぁに、行き倒れを助けるのは俺の趣味だ。  
 ドアの向こうに消えてゆく男に声をかけようとして、少年は言葉に詰まった。男が振り向きざまに一言要らぬことを言ったから。  
 いいかボーズ、いい男ってのは女がやだっつったらやめる度量が必要なんだぜ。むりやりエッチなことしちゃいかんぞ。  
 茶目っ気たっぷりにバチーンとウインクを残して男は足早に外に停めてあった車に乗り込み、夕焼けが消えて久しい夜のハイウェイに溶けていった。  
 少年はどう返事をするべきなのかに迷った上に、顔がなんだか青ざめるやら赤くなるやらで変な気分になる。  
 …………なんてこった、ポーラとふたりっきりじゃないか……  
 背中のあたりがむずむず痒くて、少年はトレードマークの帽子を顔に当ててベッドの上を転がりまわる。あんまり激しくばたばたするもんだからベッドから落ちてしまった。  
 
 ゴン、と地面にキスをしてようやく正気に返る。  
 ――――……一人で悶えてる場合じゃないか……  
 ぎゅっと帽子を被りなおして、少年は立ち上がった。窓の外からは虫の音しか聞こえない。ランプを片手にドアを開ける。そっと足音を忍ばせて、キシキシ悲鳴を上げる床板にびくつきながら、他にもう一枚しかないドアの前まで来た。  
 ノブをそっと握って回す。  
 窓が一つだけあって、その前に真っ白シーツのベッドがあって、そこに金色の髪の女の子が眠っていた。  
 窓から降り注ぐ月の光に照らされた頬は少し青白くて、少年はなんだか心臓の奥のあたりがしくりと痛んだ。まつげもきれいな金色なのに、なんだかひどく悲しそうに見える。  
 ドアを音のしないように閉じて、少女を見下ろすように枕元に佇んだ。  
 傍で見る少女はやっぱり整った顔をしているのに悲しそうで、言いようがないほど胸が苦しかった。涙が出そうになるのをなんとか我慢して、声が出ないようにごめんね、と言った。  
 腕でごしごし目を擦って深呼吸をして、もう一度少女の顔を覗き込む。なんだか笑っているようにも見えた。  
 瞬きを忘れた少年が  
 ふらふら吸い寄せられたのは  
 シュークリームとマシュマロしか食べたことなさそうな  
 さくらんぼみたいなくちびる。  
 そこに少年は自分の唇を重ねてみたいという衝動に駆られた。ただ漠然とそうしろと頭の中で何かが言うのだ。  
 こんな、疲れて寝てる女の子に、そんな、はしたない  
 そんなこと思うより先にキスをしていた。  
 柔らかく暖かい女の子のくちびる。  
 だいすきなポーラのくちびる。  
 
 ……ぼくって、ちょっと、へんなのかも  
 ぽやんぽやんした頭で帽子のつばをぎゅっと握って顔まで下ろした。なんだかとても恥ずかしくて幸せだったけど、胸の中がもやもやした。少年がもう少し大人になったら、その感情に罪悪感という名前があることを知るだろう。  
 そして罪悪感がカッコ悪い自分を止められなかった悔恨から生まれることも。  
 涙が出そうに唇がわなわな震えるのに、なんだか泣くのは違うような気がした。或いは泣いてはいけないような気さえ。  
 少年はぎゅっとこぶしを作って少女に頭を下げ、月光に照らされて輝く少女を背にドアへ向かった。この部屋に居てはならないと、頭の中で最高にかっこわるい彼自身が大声を上げたから。  
 ドアのノブに手をかけてそっと回す。音がしないようにドアを閉めた。胸に詰まっていた空気がようやく溶け出したようにぐったりと、少年は枷が付いたようにずるずる重い足取りで元居た部屋に戻る。  
 ベッドに顔を突っ伏して体中の力を抜くと、急に心臓がどきどきと早鐘のようにうるさく鳴りだした。  
 なんて、なんてことを!眠ってる、それも、ぼくのせいで気を失った女の子に!ああかみさまぼくは悪い子です!  
 がくがく膝が震える。どうしょうもなくいやな汗が吹き出す。少年は恐ろしくて恐ろしくてシーツを頭から被って無理やり目を閉じ、頭の中を真っ白にして眠った。  
 あたまのなかがポーラのことでいっぱい  
 胸が痛くて苦しいのに、考えるのはふかふかやわらかいポーラの唇のことばっかり  
 ぼくどうなっちゃうんだろう  
 なんでこうなちゃったんだろう!  
 少年がもう少し大人になって今日のことを思い出したとき、初めて女の子を好きになるなんて怖いことばっかりだったと懐かしく思うだろう。未知なる胸の痛みも見知らぬ身体の震えも、恐ろしくも愛しい遠い日の花火と感慨耽るに違いない。  
 だが、この道を振り返るにはまだ時間と距離が必要だった。永く遠い道程が。  
 
 少女が目を覚ましたのは明け方のとても早い時間だった。身体を起こして窓の外を見ると、黄土色の景色にはベールをかけたように霧が立ち込めており、幻想的でさえあった。  
 あら、あたしったらなんでこんなとこで寝てるのかしら?  
 きょろきょろ辺りを見回すと、ネスに買って貰った一撃必殺のさいこうのフライパンが入り口付近のスツールに立てかけてある。  
 宿屋…にしてはネスがいないし、一体どこよここは  
 ベッドから降りてフライパンを掴み、一応何が起こっても大丈夫なように慎重な足取りでドアから出る。どうやら砂漠の宿泊所のようだ。自分の出たとドアとは別のドアがもう一枚あって、少女は無言でそのドアを開ける。  
 部屋にあるのはシーツがぐちゃぐちゃになった簡易ベッドと事務用の机、それからたくさんの書類が差してあるマガジンラックと粗末な本棚だけだった。少女はまたドアを閉めようとして、ふと不審に思った。  
 ……なんでベッドだけあんなにぐちゃぐちゃなのかしら  
 そっとベッドに近づいてシーツをめくると、青いつばの赤い帽子を片手に握って苦悩を一身に抱えたような顔をした少年が猫みたいに身体を丸めて眠っていた。  
 なんだ、ちゃんといるじゃない  
 安心してシーツを掛けなおそうと持ち上げようとしたとき、途切れた少年の声が聞こえた。  
 ………………ポー…ラ……ごめんね…………  
 少女は不意にぎくりと全身に電気が走ったような衝撃を覚え、一時停止した。何とか動かせるのは視線だけで、必死に声の主にピントを合わせてそちらに目をやる。  
 苦悩のしわを眉間に寄せた少年の硬く閉じられた瞼から、銀色に光るしずくがぽたりぽたりと垂れていた。  
 あたし、いまここに居ちゃいけない!  
 少女はもう大慌てで、それでも音を立てないよう細心の注意を払いながらシーツを掛けなおしてドアから出て行こうとドアの方を向いた。  
 ――――――――ガタン!  
 
 音がひどく大きく響いた。  
 何かが落下したような乾いた音。  
 ゆっくりゆっくり、何かを確かめるように少女は振り向く。  
 薄暗い部屋にぽっかり浮いてるみたいな白いシーツの上に、ぼんやりした顔の少年が座っていた。足元に落ちているのは彼のポケットに入ってた大地のコイン。  
 ……やあ…元気になったんだね  
 えっええ、そう、元気よ、もうすっかり、平気  
 どくんどくんと心臓が戦慄する。ごくんと大きくつばを飲む音は彼に聞こえてしまったかしら?  
 よかった。心配したんだ。ごめんね、ぼく、意地悪したんじゃないんだよ  
 …………うん。わかってる  
 ほんと?ぼくが黙ってたのもなんでか分かってる?  
 うん、なにかあたしいけないことを言ったのね。気づかなくてごめんなさい  
 ちがうよ  
 ……ちがうの?  
 少女は訝しげに首をひねり、沈黙した。  
 ぼくポーラのこと好きなんだ  
 言ってしまった、と頭の中では情報がめちゃくちゃに交錯するのに、不思議と心臓は穏やかで少年は自分の身体のちぐはぐさを観察できるほど、ある意味では冷静だった。  
 たったこれだけの、簡単なことだったのに。なにも二人で行き倒れになるほどのことじゃなかったのに、どうしてぼくは素直になれなかったんだろう。自分の気持ちが相手に伝わるってすてきなことだ。それを受け止めてもらえるならもっとすてきなんだけれど。  
 少年はぼんやりそんなあさってなことを考えて、呼吸を整えた。  
 ゆっくり自分の出す言葉を吟味しながら間違いのないように唇に乗せる。  
 ポーラがぼくのことジェフやプーとは違ってて好きで居てくれるならうれしいって、そう言いたかったんだ  
 
 それが言えなくて、他の言葉もみんな逃げちゃって、喋れなかったから苦しかったんだ。  
 だからポーラは何も謝ることなんてないんだよ、少年がゆっくりそんなことを寝起きの声で言うものだから、少女はその場で立ち尽くして俯いたまま動かない。  
 ――――――ごめんなさい、あたし、そんなこと、ちっとも気付かなくて  
 震える声で少女がようやく搾り出した言葉は、動揺と混乱と混沌を形にしたみたいに少年を絶望的な気持ちにした。  
 けれど少年はその絶望に飲み込まれはせず、溜息さえ吸い込んで気持ちを立て直す。  
 ううん、こっちこそごめん、急にこんな事言っちゃってさ  
 なんだろう、とっても悲しいのにちっとも情けなくなんかないや。少年はスックリと立ち上がって俯いたまま動かない少女の頭をポンポンと撫でた。  
 さあうちへかえろう、パパやママがきっと君を心配してる。PPも満タンになったしテレポートでひとっとびだ!  
 少年はポケットから少し多目のお金を出してテーブルの上に置き、お礼の手紙をその上にかぶせて風で飛ばないようにコップで重石をした。  
 朝もやのハイウエイは雲の中に居るように頼りない軌跡を描いていたけれど、ひんやりする空気が気持ちよかった。少年は軽く屈伸などをして身体を伸ばすと少女に手を伸ばして言った。  
 さあ、手をつなごう  
 微笑む少年の顔はちょっぴり照れくさそうだったけれどきりっとかっこよくて、少女はなんだか泣きそうになる。  
 ねえネス、こんな霧の中を走るなんて危ないわ。霧が晴れるまで……自転車でいかない?  
 ようやく少女がともすれば尻すぼみに消えていきそうな声を奮い立たせてそんな提案をした。少年はちょっと面食らっていたけれど、悪巧みをするような顔をしていいよ、二人乗りは違反だけどねと笑い声を上げた。  
 ベルを二度チリンチリンと鳴らし、二人乗りの自転車は出足こそフラついたがゆっくり進みだした。くすくす笑う二人の声が朝もやの中に融けている。  
 すごい、空に浮かんでるみたい!二人は歓声を上げハイウェイを走ってゆく。  
 
 自転車に乗って ペダルをこいで ハンドル切って  
 まちじゅう乗り回せ(チリン) 右手でベル鳴らせ(チリンチリン)  
 とばせ!とばせ! 何も怖くない 車もよけていく とばせ!とばせ!  
 自転車はすてき サドルにすわり 遠くへ行こう  
 響くよベルの音(チリン) 口笛吹いていけ(チリンチリン)  
 はしれ!はしれ! 初めて走る道 始めて見る景色 はしれ!はしれ!  
 
 ねえネス  
 なに、ポーラ  
 楽しいねえ  
 うん、楽しい  
 弾む息が面白くて少年はどんどん速くペダルを漕いだ。背中に抜けて行く風はまだ冷たかったけれど、少女が腰に腕を回してしっかりしがみ付いていたのでぱかぽか温かで嬉しかった。  
 流れていく風景がトンネルに入っても面白かったし、不思議にいろんなことを自然に話せた。  
 今までの冒険のこと、楽しかったこと、苦しかったこと  
 困ったこと、辛かったこと、悲しかったこと、嬉しかったこと  
 お互いの知らない友達のこと、話す機会のなかった家族のこと  
 隠れ家に隠してあるひみつの宝物のこと、誰にも内緒の自分の夢のこと  
 見て、ネス!空が赤色!  
 すごい朝焼け!初めて見た!  
 雲が鮮やかなばら色、空は見事なぶどう色に染まり、遠くの山が金色に輝いていた。大地は一面色とりどりの光るドレスをまとっていて、どんな美術品でも勝てない美しさに二人は言葉を失う。  
 高い空の向こうには白い月がまだ残ったままで、光が鈍くなった明星もかろうじて見えた。空は宇宙の色をほんの少し残して太陽を迎えている。朝がこうして来ることを二人は知らなかったので、世界の神秘に触れたような気がした。  
 
 がたがた自転車の前かごに入れたバットとフライパンが鳴る。悪路、坂、洞窟だってなんのその。  
 自転車が小石や穴や小さな崖に躓くたびに、揺れるポーラの身体がぎゅっと強くしがみついて来るのがたまらなく心地よかった。ささやかな胸の柔らかさに顔が自然とにやけてしまう。  
 ね、ねえ、なんかわざと悪い道選んで走ってない?  
 喋っちゃダメだよ、舌噛むから  
 そっけなく平気な口調でそんな事を言いながらも、背中に感じる女の子の身体の柔らかさというものにどきどきしていた。  
 ごめんね、ぎゅってして、苦しい?  
 少女が無意識に力を込めていることに気づいて少年を気遣い言葉をかけたが、少年はあんまりうきうきしすぎていらないことまで口走った。  
 ううん、おっぱい当たってきもちい……  
 はっと気づいた時には既に遅い。後ろの少女はじっと黙っている。  
 やっそうじゃなくって!あのっ気持ちいいってのは本当なんだけどその、えー、なんだ、あー……  
 おろおろ弁明しようとする少年の背中からじとーっとした声で少女がボソリと呟いた。  
 ……ネスのえっち。  
 ちちちちちがうよっ!いや、違わないけど…そうじゃなく!あーえー!だからっわざとじゃないんだってば!  
 あんまり必死に弁解するネスが可笑しくて少女は声を上げて笑った。その笑い声に少年は歪んだ困り顔のままではあったがほっと胸をなでおろす。  
 話す事は尽きなかったけれどとても喋りきれなかった。野を越え山を越え谷を越え、いつの間にか太陽は高く昇っていて、二人はぐうぐう鳴るおなかを抱えて忍び笑いをした。  
 もうテレポートで帰ろうよ、ぼくおなか空いちゃった  
 うん、あたしも喋り過ぎて喉が渇いちゃったわ  
 自転車から降りて二人は隣に並ばず、向かい合わせで互いの右手と左手の指に触れた。人差し指と中指が触れてたまらなくドキドキする。どうしたらいいのか分からないほど頬が染まっていた。  
 あたしαの方が好き。βだと目が回るもの  
 よしきた、じゃああの一番遠い木を目印に走るよ  
 二人は呼吸を整えて遠い針葉樹を見据え、全く同じタイミングで走り出した。草が足元で鳴っている。  
 
 
 少女の住む家の前でテレポート・アウトして、それから二人はちょっと黙ってしまった。  
 ……明日でも明後日でも、いつでも会いに来て。あたし毎日クッキー作って待ってる  
 ――――――いいの?ぼく、遊びに来ていいの?  
 ええきっと会いに来てちょうだい、約束よ。破ったらPKファイヤーの刑なんだから  
 ははは、と乾いた笑いをして少年は視線を逸らした。ばつが悪そうに唇の端を引きつらせつつ。  
 手紙も毎日書くわ、それからネスが好きなハンバーグの練習もする  
 ……嬉しい  
 ネスが買ってくれたリボン、大切にするわ  
 ……うん  
 それから、それから……  
 少年は少女が手を離さずに熱のこもった目で必死に何かを訴えようとしている様子が不思議だった。  
 あたし……今はネスにどう返事をしていいのか分からないけど  
 少年ははっとして少女の目を見た。真っ直ぐで曇りのない強い目だった。  
 もっと時間を貰えるなら、きっと今の気持ちを言葉にしてみせるわ  
 だから今は態度で示すだけで我慢してくれる?少女はそう言って両手の指を絡め、少年の手を封じてから少年のほっぺたにキスをした。  
 やわっこい少女の唇がほっぺたから離れて、きょとんとした少年はするりと身体を離した少女を見ていた。  
 自転車で迎えに来て!きっとあたしを迎えに来て!  
 照れくさそうに微笑む少女が玄関の扉を開けようとノブに手を掛けようとした瞬間、フランクリンバッチでさえぶっ壊れてしまいそうなイナズマが少年の身体を貫いたような気がして、少年は少女の手を掴んで家の影に引っ張っていった。  
 ちょっなっ……!ね、ネス!?  
 驚いて声を上げる少女の身体を強く抱きしめて、言葉なんか要らない、と言った。  
 少女はうん、と短く返事をして少年の肩に顔を埋めてちょっとだけ泣いた。  
 きっと迎えに来るから、それまで待っていて  
 囁くように呟いた少年が少女の唇に一度だけキスをして身体を離し、何も言わずに全力疾走でオネットの方角へ消えていくのを少女は真っ赤な顔でいつまでも見つめていた。  
 
 

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