西之園萌絵は愕然としていた。  
冷静に、冷静に、先ほどから何度も自分に言い聞かせているが効果は無かった。  
 
なんと国枝は既に帰宅しているという。  
自分の読みが甘かった・・・  
なんという失態を!  
しかし、これは一つの事実を示唆するものであった。  
やはり脅迫者なり、購入者が存在するという査証である。  
そうでなければ、早退などしない。  
明日ネガ(デジカメのチップ)を持ってくるだろう。  
そして、叔父はいない。  
一週間も帰って来ない。  
この間に国枝をどのようにコントロールすれば・・・  
無駄かもしれないが、一応国枝の自宅を張る、もしかしたら未だ出掛けていないかもしれない。  
いや、それは楽観的に過ぎる。  
早退という非常措置をとった以上、確実に接触しているだろう。  
ならば全てが手遅れではないか。  
本来なら今日その対象者の身元を確認して、内々に処理する予定だったのに、最初の失策で早くも敗北しそうである。  
明日、国枝を問い詰めるという手もあるが、叔父がいないのでは、なんとでも言い逃れるだろう。  
仮に偽証をしていても、それを確認する手立てが萌絵には存在しない。  
普通に警察に行っては、実際に盗撮を行ったのが国枝である以上、間違いなく最初に逮捕されるのは国枝だ。  
それでは拙い。  
何故ならば、国立大学の助手が盗撮で逮捕されたとあっては、マスコミが面白おかしく騒ぎ立てるだろう。  
そうなれば最悪で、間違いなく国枝は失職、それはどうでも良いが、犀川にまで累が及ぶ。  
そして、この件を犀川に報告するという事も出来ない選択だった。  
もしも、報告すれば間違いなく犀川は通報する。  
内々に処理はしないだろう、仮に興味は無くても、自分で抱える位なら、警察に任せてしまいそうである。  
そして、萌絵の悩みどころとして、犀川には教授になろうとする意思が極めて微弱であるという事である。  
上昇志向のある人間ならば、部下の失態は出来るだけ隠蔽したい所ではあるが、  
出世に興味のない犀川は、なんの頓着も無しに事態を公にし、公平な処分を望むであろう。  
そんな犀川だからこそ、萌絵は好きなのだが、そんな事になっては結婚は一生無理である。  
 
出来れば犀川には済し崩し的に、教授になってしまう、そんな筋書きが必要である。  
萌絵はそれしか、犀川が教授になる方法は無いと思っていたし、だからこそ何の波風も立ってはならなかった。  
幸い犀川は優秀な研究者であるから実績は実は今でも十分なくらい論文を発表していたし、これからも発表を続けるだろう。  
なにもN大で教授になる必要はないから、時期を見て、他の私大になり、なんなりに教授の肩書きで移ってもらう。  
そうなれば、キャリアも肩書きも十分であるから、間違いなく結婚の妨げにはならないだろう。  
そして、そんな私大のポストなど、西之園家で準備してしまえば良いのだ。  
 
そういった萌絵の深謀遠慮の計画において、国枝は最悪の爆弾だった。  
この問題は絶対に西之園家で解決しなければならない問題である。  
どれだけの犠牲を払ってでも、この問題を内々に処理しなくてはならない。  
国枝のいない研究室を無表情で眺めながら、萌絵は決意を新たにしていた。  
 
国枝はコーヒーを啜っている。  
これから山部に伝える事を反芻しながら、その反応を予想し、対処するプランを幾つか検討し確認していた。  
不安であった。  
なにせ自分はヘマをしでかしたのだ。  
それは打ち消せる事実ではない。  
それをいかに隠蔽し、山部に伝えるか、それが如何に不可抗力であったか、そして事態は少しも危機的ではない、  
という事を納得してもらうのだ。  
山部はまたも黙り込んでしまった国枝を不安そうに見詰めている、そろそろ頃合か・・・  
 
「済まないと思うが・・・」  
 
「はい?」  
 
黙り込んでいた国枝に山部は不安の頂点に達していた。  
いったい何の話なのか。  
国枝が済まないと断る位なので、凄まじい内容である、と推測できるが、それはなんなのか・・・  
 
「残念ながら素材の供給が不可能になった」  
 
「・・・はあ、あの、いやそれは」  
 
「原因は収集が発覚しそうになった、そうである以上、続ける訳にはいかない」  
 
「まあ、これから本人を手に入れる訳ですから、いいですけど、でも」  
 
「そこで、今までの素材を回収する」  
 
「!?」  
 
「万が一発覚して君に類が及ぶのは忍びない、だから私が管理する」  
 
「そ、そんな事」  
 
「時間が無い、君には辛いだろうが今は私に従ってくれ」  
 
「・・・」  
 
「・・・」  
 
「・・・なんで」  
 
「・・・」  
 
「なんで発覚なんてするんだ!!どんなヘマをしたのか知らないが、そんな事は関係ないだろう、  
 だいたいなんだってそれで素材も回収されなくちゃならないんだ!」  
 
「・・・話をきいていたか?」  
 
「なんの話だよ、あんたなんの説明もしていないじゃないか」  
 
「対象が、完全に意識している。私の方法に誤りがあった、それは認める、そして当局が動く可能性がある、  
 その動きに君を巻き込みたくない」  
 
「・・・」  
 
「僕を売るつもりか?」  
 
「・・・」  
 
「そうだろ、僕を売るつもりなんだ!当局だって?冗談じゃない、いったいなんでそんな事になってるんだ、ふざけんなよ!」  
 
「落ち着け、君を売りつもりは無い」  
 
「解かるもんか!」  
 
「だが、家宅捜索が行われ証拠が残っていれば君は挙げられる。」  
 
「・・・あんたが、証拠を回収してその足で警察に行くかもしれないじゃないか」  
 
「そうなれば私も挙げられる、なにせ現行だからな、だから私を信用して欲しい」  
 
「・・・」  
 
「時間が無い、今すぐ素材を私の所に持ってきて、余分なモノ全て処分するんだ。」  
 
「、それは、この企画書もか・・・」  
 
「それに、物も隠蔽する必要がある、その方法は私に腹案がある、基本的に両者の協力がこの事態を切り抜ける為に必要だ」  
 
「・・・」  
 
「素材を持って来て欲しい」  
 
「・・・ああ」  
 
山部は頷くと店から出て行った。  
なんとか素材は確保出来そうだ。  
だが、素材があってどうするというのだ?  
結局警察には偽証をしなければならない。  
いくばか、時間が稼げるだろうが、ただそれだけだ。  
いずれ偽証が発覚するだろう、その場合はどのように切り抜ければ・・・  
やはり、山部はその段階で売らざるを得ないだろう。  
幸い、麻薬を彼は持っている。  
その麻薬自体を握ってしまえば、こちらの強力なカードになるだろう。  
麻薬が発覚したくなければ、盗撮で出頭させるという筋書きである。  
これは極めて有効なプランに思えた。  
それならば八方丸く納まる。  
しかも、この麻薬は彼の友人の自家精製だという。  
効果の程は疑わしいが、それはこれら実験する。  
この実験が上手く行けば、全てが上手く行く。  
実験が成功した段階で、それは本物の麻薬となり山部に対してのカードを確保できる。  
実験が成功すれば修正無しに企画書を実行出来る。  
ようやく道が見えてきた、国枝は十数時間ぶりの安堵感に包まれていた。  
 
取りあえず、国枝に電話をしなくてはならない・・・  
西之園萌絵は悩んでいた。  
しかし、今日この事態を知らせる必要があるだろうか。  
明日になっても良いのではないか・・・  
だが、国枝が真実脅迫されてたとしたら、明日通報する事を前提に話を進めているかもしれない。  
そうなっては国枝が危険だ。  
明日叔父はいないのだ。  
だから通報はありえないのだ。  
だが、(有り得ない事だが)国枝が積極的な加害者だった場合、この情報はただ国枝を有利にするだけである。  
明日、叔父がいないと通報できない不自然さを国枝はどのように受け止めるだろう。  
可能性が無いとも言い切れない、なにせ萌絵には情報が足りなさ過ぎた。  
だから、先ほどから電話の前に立ちすくんで、受話器を上げたり下げたりしていた。  
なんとかマスコミを押さえれないものか・・・  
マスコミさえ押さえてしまえばどうにでもなるのだが、生憎そういったコネクションは存在しなかった。  
金を使うにしても、何処に使えば良いか解からなかった。  
そして下手に金を使ってしまっては、逆に足元を見られるし、こちらの弱みをさらけ出す事にもなる。  
必要とあらば、かなりの金額を用意できるが、それは有り得ないオプションだった。  
だが、今回の件は色々と入用になる筈であるから今から用意しなければならない。  
どこかで、誰かを買収する事になるだろう。  
そんな事は絶対にしたくは無いが、これも全ては犀川の為と思えば、散財も萌絵にとっては惜しくなかった。  
さしあたって、重要な問題は明日の件をどのように国枝に伝えるか、である。  
ここまで悩むような事態に陥ったのは、生まれてはじめてである。  
 
取りあえず、今日の所は連絡はしない。  
散々悩んだ末萌絵は決断した。  
情報が全く無い以上、迂闊に動けない。  
尾行が失敗した以上、何も確認できないのだ。  
そして、真実国枝が脅迫者と対峙していた場合は自分の家に国枝を匿えば問題ない。  
大学には有給をとって貰おう。  
それならば一週間で事は解決する。  
問題は国枝が積極的な加害者であった場合だ。  
要するに購入者がいた場合である。  
こちらの問題も検討しなければならない。  
その場合、どのような措置が考えられるか、  
通報しない事を前提とした交渉は足元を見られ過ぎるだろう。  
下手したら、こちらの弱みを握られてしまう。  
通報を前提とした、交渉が必要だ。  
その場合、色々と話し合う事もあるだろうが、出来るだけ穏便に解決する為、口で脅迫しつつ条件で緩和するのだ。  
具体的には、国枝は大学を自主的に辞め、他の大学及び研究機関に移ってもらう。  
その受け皿を西之園家で用意する、そして謝罪と賠償を求める。  
謝罪は国枝と購入者にしてもらえば良いが、賠償は購入者に負わせる。  
そして、二度とこのような行為をしないという覚書を交わす。  
最終的な事態の収拾方法としてはコレが妥当だと萌絵は考えていた。  
具体的な対策が纏って良かった。  
絶対に犀川先生を教授にするのだ。  
その為の障害は私が全て排除してやる。  
萌絵は湧き上がる高揚感に支配されていた。  
 
国枝は刻一刻と迫ってくる対峙の時間に身も心も擦り減らしていた。  
ここから先は修羅の道だ  
ついに一線を越えるのだ。  
警察相手に偽証を行わなければならないのだ。  
一応プランと、手元に証拠があるとはいえ、緊張することに変わりはなかった。  
研究室で待ち合わせて、それから愛知県警へ行く事になっている。  
時間に厳格な国枝は30分前に研究室に到着していて西之園萌絵を待っていた。  
今日は土曜日であるので、一応大学は休みだ。  
犀川は出張であるし、休みの日に出てくる学生もいない為、研究室には国枝しかいない。  
静まり返った研究室で国枝は思い出す。  
今日は出張であるが、犀川は休日でも関わりなく研究室に出勤している。  
むしろ、彼の場合こういった休みの日の方が仕事がはかどるらしいのだ。  
規程に忠実な国枝は一応休日は出勤しなかった。  
実は規定は言い訳で、休日は西之園萌絵と犀川の二人きりのため、国枝は居た堪れなくて出勤できないのだ。  
以前は西之園萌絵が登場する以前は当然のように国枝も休日出勤していた。  
しかし、西之園萌絵登場以降は何かと理由をつけて休日にも研究室にやって来て、犀川を独占し始めた。  
そして、なまじ三人だと(これは国枝の意識だけだが)辛いものがあるので、徐々に国枝は休日出勤から足が遠のいた。  
 
休日の度に、二人が研究室で交わす会話を想像しては身を切り裂く思いを味わっている。  
そのように、自分も積極的に動ければ良いのだが、いかんせん自分のキャラクタではないし、  
しかしこのままでは本当に手遅れになる。  
そのジレンマを意識するたび酷い鬱状態になる。  
最近ではそうでもないが、以前はホントに酷かった。  
まさに西之園萌絵は疫病神である。  
でも、それも後少しの努力と弛まざる実行力に支えられた行動が解決してくれる。  
西之園萌絵を絶対に排除し、穏やかな研究室を取り戻すのだ。  
手段は選ばない。  
国枝は、これからの数時間に対しての覚悟を決めた。  
一度覚悟してしまうと、不思議なもので緊張は感じられなくなり、むしろ対決を望むような高揚感に包まれる。  
精神的には全く申し分ない。  
肉体的には一睡もしていないが、今は興奮が全身を包むおかげで体は軽く感じられる。  
ベストコンディションである。  
早く来ないものか、と待ちわびている自分が子供みたいで愉快だった。  
 
西之園萌絵は全身を緊張させて研究室に向かっていた。  
これから国枝に今日叔父は会えない事を伝える。  
そして一瞬も気を抜かず国枝の表情を観察する。  
脅迫されていれば一瞬恐怖の色が浮かぶだろう、狼狽の表情だ。  
脅迫でなければ、瞬間、歓喜の色及び安堵の笑みが浮かぶだろう。  
その一瞬の表情を見逃してはならない。  
ここが最大の正念場だ。  
そして、その後のリアクションひとつひとつも見逃せない。  
全身で相手の反応を確かめ、今後の材料にするのだ。  
そして、今日会えなかった事を謝り、そして危険だから家に来ないかと誘う。  
誘いにすぐ乗れば国枝は白。  
誘いに消極的だったり、断った場合は黒だろう。  
出来れば白であって欲しい、黒ならは面倒な事が待ち受けている。  
いずれにせよ、今日は正念場なのだ。  
萌絵は全身の緊張をなんとか解さなければ、自然な演技が出来ないと頭では分かっているつもりだが、そう簡単に緊張は解けなかった。  
 
研究室をノックして入る。  
中から国枝の返事が聞こえた。  
国枝が心持緊張した表情で待っていた。  
 
「西之園です、遅れました」  
 
「いや、」  
 
「国枝先生、大変申し訳ございません。先ほど連絡がありまして、  
叔父は急な用事で出張されました。」  
 
さあ、ここだ、と思い国枝を見つめた。  
 
「・・・」  
 
なんて事だ、その表情は些かの変化も認められない。  
 
「海外に出張されたようで、一週間は戻ってこれないようです、大変申し訳ございません・・・」  
 
「・・・」  
 
萌絵は焦っていた、まさかここまでポーカーフェイスを保てるとは想像外であった。  
こうなってはカードを切るしかない。  
 
「それで、その、国枝先生、一週間の間どうか私の家に泊まって下さい。一週間も国枝先生を危険に晒す訳には行きません」  
 
「・・・ああ」  
 
国枝は眉間に皴を寄せ、言い放った  
 
「ところで、」  
 
「はい、」  
 
「なんで、君の叔父さんが居ないといけないんだ?」  
 
「・・・」  
 
今度は萌絵が黙る事になった。  
 
「警察に行けば良いじゃないか、その、普通に所轄の警察署に・・・」  
 
「それは」  
 
「それにね、私は危険でもなんでもないんだ。」  
 
「でもそれは」  
 
「幾ら私が脅迫されていると言っても私は既に警察に行くことに決めている。  
 君に対して犯罪行為を行ったのは私である以上私がけじめを付けなければならないだろう」  
 
「でも、国枝先生は」  
 
「もういいよ、加害者にここまで気を使う被害者も珍しいな。その気持ちは受け取って置く。  
 これは元のデータの入ったチップだ、君が処分するといい。」  
 
「先生・・・」  
 
「君は私にどうして欲しいんだ?」  
 
「一週間待って下さい」  
 
「・・・何故?」  
 
「今、当局に行けば先生があらぬ誤解を受けます、先生もまた被害者である以上この件でキャリアに傷をつける必要は・・・」  
 
「だからと言って君の叔父さんがどうにか出来るものでもないだろう」  
 
「出来ます、だから一週間待って下さい。」  
 
「・・・」  
 
「お願いです国枝先生」  
 
「・・・」  
 
国枝はこの展開を全く予想していなかった、色々な言葉が自分の口から滑り出たが、どれもこれも思いつきの言葉で深い意味はない。  
が、冷静に考えてみると何故彼女の叔父がこの件にこうも必要なのだろう。  
国枝には分からなかったが、自分の方が少し形勢が有利である事は理解していた。  
である故、受けるか受けないか、が今後の成行きに多大な影響を与えるだろう。  
しかし答えは決まっていた。  
今は時間が欲しい。  
なんといっても一週間の時間は貴重すぎる。  
企画書は二週間となっているが、なんとか一週間で片を付けなければならない。  
 
「・・・解った、色々とすまない」  
 
「先生、ありがとうございます」  
 
なんという迂闊な展開なのだ!  
西之園萌絵は酷く後悔していた。  
何故国枝に主導権を奪われているのだ!  
国枝なら完全なポーカーフェイスを装える可能性を何故無視していたのだ・・・  
不信感を与えてしまった、疑念も与えてしまった。  
叔父が必要である理由が犀川の将来を懸念する事であるとはまさか国枝も感づかないであろうが、切り出し方が悪かった。  
しかも、自分が何故か頼み込まなければならなかった。  
完全に敗北している。  
よくよく考えてみれば、国枝の事なので身辺に危険など存在しないだろう。  
だったら何故脅迫されているのだ?  
やはり積極的な加害者なのか?  
では、何故あれほど積極的に警察に行きたがるのか?  
けじめを付けると言っていたが、どのように付けるのか?  
解らない事だらけだ。  
しかし、客観的な事実として、国枝は自宅に来る事を経緯はどうあれ拒否した。  
そして、今日警察に行かず、萌絵の提案を条件をつけずに呑んだ。  
やはり積極的な加害者なのか?  
判断の材料が未だに欠けていた、こんな筈では無かったのに。  
萌絵は生まれて始めての無残な敗北に完全に打ちのめされていた。  
 

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