今日は早引けしよう。  
国枝は、午前の実験が終わると決断した。  
理由は体調不良。  
人生で初めての経験だった。  
何かの理由で早退するなど、これまでの国枝の歴史の中には本当に有得ない事だった。  
だから、躊躇した。  
しかし、帰らなければならない。  
対応を誤れば失職どころか起訴される可能性すら存在する。  
あの、なんの融通も利きそうにない純粋培養の御嬢様である西之園萌絵に辱めを与える計画が露呈したら、  
・・・恐らく懲役を覚悟しなければならない。  
今になって国枝は後悔を始めていた。  
一時の激情に振り回されて、ついには人生にピリオドを打とうとしている。  
だが、西之園萌絵に犀川を奪われてしまったら、自分はこれから何を糧に生きてゆけば?  
だからこそ、西之園萌絵を排除しなければならない。  
生存領域の拡大の果てにある境界での摩擦に打ち勝ってこそ種は確立される。  
領域が狭められれば、待っているのは漸減の後の消滅だ。  
こんな所で消される訳には!  
だが、もっとマシな方法は無かったものか・・・  
この永遠のループを繰り返しながら気づいたら国枝は帰宅していた。  
 
国枝が帰宅した同時刻に西之園萌絵も帰宅していた。  
萌絵は早速衣装選びに取り掛かった。  
なにせ尾行という性質上、目立たなければ目立たない程良い。  
だから、いかにも目立たないでしょう、という感じの服装は逆に目立ってしまう。  
ほっかむりをした空巣が存在しないと同義で、全身黒づくめの女も怪しい。  
しかし明度の高い服装は自然と眼についてしまうだろう。  
自分の特徴的な顔(萌絵は自覚していた)は非常にそれだけで目立つ。  
だから化粧も考えなければならない。  
全体的に生気が感じられない疲れた顔を演出出来れば良い。  
服は、三年前に購入した、なんの特徴も無い薄緑のTシャツに普通のジーパン、しかも靴はスニーカーだ。  
こんないい加減で洗練を感じられない服を着るのは初めてだ。  
この薄緑の無地のTシャツが何故今まで残っていたか、不思議でならない。  
多分、別荘に行った時に動きやすいという理由で購入したのだと思う。(結局着なかったが)  
タンスを引っくり返しながらようやく見つけた目立たない服だった。  
それ以外は全てが派手だと萌絵は感じたのだ。  
 
服選びに夢中になり過ぎていたのだろう。  
電話が鳴っているのに気づかなかった。  
急いで電話に出ると叔父からだった。  
叔父はいつもの威厳を保った声と態度を完全に崩していた。  
曰く、明日から急用でイギリスへ飛ばなければならなくなった。  
   相談に乗れなくて済まないが、代りの者をよこすので、よろしく頼む。  
といった内容だった。  
 
「つまり叔父様は、悩める姪を見捨てて仕事に行ってしまうのですね」  
 
と、言ってみたが、叔父はただひたすら低姿勢にしかし有無を言わさぬ口調で詫びるばかりだった。  
帰国は一週間後だという話である。  
県警の要職の人間が緊急で一週間も呼び出される用事とは一体何なのか想像も出来ないが、萌絵にはどうする事も出来なかった。  
これで明日という前提が崩れてしまった。  
叔父には、明日どうしても会って相談したい事がある、とだけ伝えてあるので国枝の名前は出していない。  
もちろん盗撮のとの字も出していなかった。  
この際、今一度電話を掛けて事のあらましを全て伝えてしまおうか、とも考えたが、叔父も一応は警察なので、一度見聞きしてしまったら、  
やはり見逃せないだろう。  
結果国枝が無罪だったとしたら、彼女の経歴に著しい損害を与えてしまう。  
そして、その上司である犀川にも類が及ぶだろう。  
それは要するに犀川の教授への昇進が遅れるという事だ。  
これは萌絵が最も懸念する材料である。  
犯罪者(仮に無罪でも一度でも警察から事情を聴かれるという事態そのもが既に犯罪者としてのレッテルを貼られる)の助手を持つ助教授の教授昇格は、  
絶望的の一言に尽きる。  
 
それは、どのような影響を萌絵が被るかと言えば、要するに結婚を叔母に認めて貰えないという事である。  
代々、西之園家は社会のヒエラルギの頂点に位置する職業の人間で占められて来た。  
そういった家柄であるので、確かな職についている人間としか婚約は認められない。  
そして、西之園の基準では大学の助教授等論外という態度が支配的だった。  
萌絵は散々叔母に抵抗してきた。  
何故、好き同士の人間が一緒になれないのか?  
叔母は「何も結婚そのもに反対はしていないわ。ただ、犀川先生が教授になれば良いだけの話でしょ」  
と、言われ、萌絵は一言も返せなかった。  
だから犀川には是が非でも教授になって貰わなければならないし、その障害になるものを萌絵は全力で排除しなければならなかった。  
だから、国枝が逮捕されるのは全く好ましくない。  
できれば無実であって欲しい。  
そして、購入者なり脅迫者を叔父に内々に処理して貰いたい。  
そういった複雑で猥雑な事情が交差するが故に萌絵は今日国枝を尾行しなければならなかった。  
それは、明日真実を国枝に叔父の前で語らせる前提事項だったのだが、明日という条件が今崩れ去った。  
勿論、代わりの者に相談する等論外である。  
 
国枝はメールを打っていた。  
とにもかくにも山部に連絡を取らなくてはならない。  
問題を解決する糸口は見つからないが、それでも一人で解決できる事態では無かった。  
共犯者としての山部をいかに巧みに使いこなせるか。  
国枝には荷が重い問題だった。  
一応性的な経験を国枝は持っているが、しかし異常な性的経験は存在しなかった。  
つまり、アブノーマルな行為はした事がなかった。  
ごくごく、正常な性行為の範囲内に国枝の経験は限定されていた。  
だから、山部のその、明らかに異常と断定出来る性欲の保有者を本当に巧みに捌けるか自信が無かった。  
盗撮した写真にしても、最初は何に使用するか全く理解不能だったし、使用方法を知った後でもやはり理解出来なかった。  
嫌悪感が込み上げるだけで、その加工後の写真を見ても、国枝が性的な気分になる事は皆無だった。  
もしも自分があのような写真の中の行為をされたとしたら、つまり山部の満足の行く行為を実際にされたとしたら、  
正気を保てないだろうと思っていた。  
故に西之園萌絵に与える苦痛は想像を絶するだろう。  
全く理解が及ばない位の屈辱とは、想像するだけでおぞましい。  
西之園萌絵が自殺するであろうと考えた経緯もここにある。  
しかし、様々な状況から西之園萌絵を殺す必要は無くなった為、山部は国枝にとって不必要な存在となり、  
そう認識した時点で支配者と被支配者の立場は逆転していた。  
今、国枝にとって有利な点は圧倒的な情報量と、制裁のカードである。  
これは、当初から立場の優位を保障するものだったが、今やその立場さえも失われようとしている。  
出来れば連絡等取りたくは無かった。  
連絡を取るたびに、素材を提供する度に、異常な妄想を永遠と語られてしまうのだ。  
その妄想は聴くたびに国枝を不安にした。  
ここまで、女性を破壊できる人格に、いつのまにか国枝は恐怖していた。  
偶に夢で山部の好きなように陵辱される夢を見る事があった。  
その夢の後の朝は自殺したくなる位に気が滅入る。  
しかし、今は四の五の言っていられる状況ではない。  
メール送信のボタンを押すまで、国枝の胃は痛み続け、これから山部に会わなければならないと考えると、  
更に痛みは増した。  
 
山部はメールを受け取り、なにを今更と思ったが断れなかった。  
国枝からの呼び出しメールを受けて、山部は思案する。  
断れば、恐らく制裁だろう、要するに通報。  
それは避けなければならない。  
何故なら、手元の物がヤバ過ぎるからだ。  
万が一家宅捜索や、身体検査をされて無事でいられるか定かではない。  
正直、盗撮の罪は微罪だと思う、しかし麻薬となると絶対に懲役は避けられそうにない。  
そうなれば、もう再起不能だろう。  
すると、西之園萌絵を犯すことも出来なくなる。  
で、あるがゆえに山部は国枝に逆らえなかった。  
 
もう、仕方が無い。  
具体的な実験材料が手に入らない以上、国枝に協力を求めるしかないのだ。  
一瞬、国枝を実験材料にしてしまおうか、とも考えたが、  
男か女かよく解らない国枝を狂わせても、面白くもなんとも無いのだ。  
少なくとも、国枝を犯す勇気は山部には無かった。  
この薬を使った具体的な計画を練り文章の形で仕上げて明日国枝に提出しよう。  
国枝の許可がでたら、正式に発動だ。  
準備は二週間。  
ギリギリの数字だった。  
 
国枝は待ち合わせの場所、山部の自宅の近くにあるファミレスで待っていた。  
国枝は山部を認めると、僅かに顔をあげて存在を示した。  
緊張気味(国枝にはそう見えた)の山部は席につくなり、アイスコーヒーを注文し、「それで・・・」  
と、だけ言って黙ってしまった。  
何故なら国枝が何時にもまして怖そうな顔をして黙っていたからである。  
アイスコーヒーが運ばれてきて、ザーメンマニアである山部はフレッシュを入れることを躊躇ったり、躊躇わなかったりしていて、  
お互いかなりの時間黙ったままで過ごしたが、結局国枝が口火を切った。  
 
「準備は?」  
 
傍から見れば、かなり異様なこのカップルは必要最低限の口数であらゆる事象を説明しようとやっきになっていた。  
だから、会話の断片を拾っても意味が通じない。  
秘密保持は完璧だった。  
 
「半分程度」  
 
「・・・」  
 
「いや、でも、幾つか具体的になりそうで、それで、連絡がとれなかったから」  
 
「どれくらいで?」  
 
「・・・2週間」  
 
「・・・」  
 
「いや、それ以上は早く出来ないし、それが限界で」  
 
「・・・」  
 
「ああ、その、これを書いたんで目を通して欲しいなって・・・」  
 
山部の手にはA4のコピー用紙20枚程度の印刷物が握られていた。  
国枝は受け取ると、表紙には企画書と書いてある。  
黙ったまま、ページをめくった。  
以下は、その大まかな内容である  
 
1.対象:西之園萌絵  
2.目的:脅迫及び性的暴行  
3.方法:薬物を使用  
4.場所:市内の高級ホテル  
5.日時:計画開始から2週間後  
 
薬物に関する補足1  
入手したルートの都合上、薬物の効果を確かめる必要が存在する。  
薬物に関する補足2  
薬物名:「クラック」、非合法薬物  
薬物に関する補足3  
投薬方法:吸引、薬物を気化させる  
薬物に関する補足4  
効果:催淫、強烈な依存症  
薬物に関する補足5  
持続時間:30〜40分  
薬物に関する補足6  
一回の使用量:0.3g  
 
ざっと目を通し、よく出来ている、というのが国枝の評価だった。  
国枝も一時期覚せい剤を手に入れようと、試みた時期があるので、  
既に薬物を手に入れてあるのは素晴らしかった。  
が、問題点はやはり、一度確かめる必要がある点だろう。  
だが、これは国枝に既に腹案があるので問題なかった。  
場所も市内の高級ホテルは極めて誘いやすい。  
ゼミのディスカッションをそのホテルで行うので、西之園萌絵を誘うという方法が考えられる。  
そして、その話を持ち出すのは萌絵の友人の牧野洋子だ。  
何故、関係の無い彼女がそんな話を持ち出すかといえば、牧野洋子に例の薬を試すからだ。  
全てが順調に運べば、容易に萌絵はホテルへとやって来るだろう。  
そして、最も評価できる点は、この計画に関する限り山部の趣味を持ち込まない点だ。  
山部の趣味は次回、つまり西之園萌絵が薬物の奴隷になってから行うらしい。  
もう、その時には既に自分は関与していないので、好きなようにすれば良い。  
国枝は内心OKだった、まさか山部がここまで具体的に考えているとは思いもよらなかった。  
だが、今日山部を呼び出したのは、そんな話をするためではなかった。  
この計画も、結局は水泡に帰す事に今にもなりそうなのである。  
その対策の為に今日の会見を持ったのだ。  
 
「これは評価できる、後は詰めれば問題ない」  
 
心から安堵の溜息を山部は吐いた。  
薬物はひとつの賭けだったが、こうもすんなり受け入れられるとは・・・  
下手したら通報されると思ったが、その時は一蓮托生である。  
 
 

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