国枝は抱えた問題の大きさに愕然とした。
まさか、あの場面で泣ける程自分は狡猾であったのか、という事実にも驚かされはしたが、
それよりなにより、事態は極めて複雑の一途を辿っていた。
西之園萌絵は完全に自分の証言を信じ切っていた、
いや彼女自身が立てた仮説に満足していた。
唐突に脅迫という単語が飛び出してきて、国枝は小躍りしたい気分だった。
後は、トントン拍子で相手の話しに合わせて嘘を重ねるだけだった。
国枝自身は、「そう。」とか「そういうこと」や、時々頷くだけだった。
そうすれば西之園萌絵が勝手に仮説を膨らませて行き、10分後には、いかにもありそうなストーリーが出来上がっていた。
問題は、そんな所にあるのではない。
問題の核心は、そのありそうなストーリーを西之園萌絵の叔父、愛知県警の重役に洗いざらい話さなければならないという事だった。
放って置いたら今すぐにでも飛んで行きそうな萌絵を国枝はなんとか思い留まらせなければならなかった。
出来るだけ不自然でない動機をつけて萌絵を納得させなければならない。
そうしなければ、この小娘の事だ、あっという間に矛盾に気付き自分は破綻するだろう。
だが、そんな国枝の苦悩も知らず、既に西之園萌絵はバッグから携帯電話を取り出して愛知県警を呼び出していた。
その姿を認めた瞬間、国枝の強靭な胃は、
金属で切り裂かれたかと思うほどの激痛が走った。
タフである筈の心臓も鼓動は早まり、心拍音が耳の中でやけに大きく鳴り響いていた。
今までの人生でここまでの危機を感じた事は無かった。
前代未聞の事態に対し、明晰で有る筈の頭脳も完全に機能不全を起こしていた。
この場で萌絵を殴り倒さない理性は未だ残っていたものの、それすらも今は怪しかった。
やがて萌絵は電話を終えた。
アドレナリンを限界まで放出していた国枝は、その会話をロクに聴いていなかった。
で、あるので萌絵の顔が何故曇っているか解らなかった。
「叔父様は今日は不在だそうです、でも、安心して下さい国枝先生。地元の警察署に被害届けを提出しましょう。
そして今日は私の家に泊まって下さい。大学に居れば昼間は安心ですけど、
犯人を抑えるまでは私の家に泊まってください、そうでないと先生が危険すぎます。」
「いや、あの、それは、」
「国枝先生、どうか遠慮なさらないで、私必ず国枝先生を守り通してみせますから!
明日になれば叔父にも連絡がつきます、そうすれば何を差し置いても迅速に処理してくれる筈です、
ですから今日は私の家に泊まって下さい」
このクソガキが!!
と、一瞬怒鳴りそうになったが寸での所で思い留まる。
一体何を勘違いしたらそんな結論に到達するのだろう・・・
一応脅迫者は適当な偽名をつかった架空の人物にしたてあげてあるが、いっそ山部を売るべきだったと今は後悔している。
国枝の最後の良心が山部を売る事を拒否したのだ、
いや、山部ならば近すぎて売るのにもリスクが多過ぎる、というのが本音だ。
しかし、今は判断ミスだったと嘆いてみても遅かった。
確かに遅かったが、
泣き言を言っている場合ではない、なんとか西之園萌絵を説得するのだ。
要するに、事の一部でも萌絵に露呈したら自分はおしまいだ。
今になって山部を売らなくて良かったと思う。
なんの打ち合わせもしていないのだ、下手に売ったら自分も道連れであろう。
しかし、これで山部を使うことは完全に叶わなくなった。
近すぎる人間を使うわけにはいかない、リスクが大きすぎる。
なにせ同じ大学にいるのだ、どんな拍子で情報が漏れるか解ったものではない。
それに素材も供給出来ないので、早晩管理は出来なくなる。
仮に切り捨てるにしても、あの異常性欲の塊をどのように処分するのか、目処も立たない。
が、そんな事よりも目先の問題である、今日警察に行ってはお終いだ。
あるはずもない事件について語らなければならないなんて、それは偽証罪ではないか・・・
そして、今日をなんとか乗り切っても明日になれば、萌絵の叔父に会わなければならない!
なんというジレンマであろうか。
国枝はこの時はっきりと、ようやく認識した。
これからの一言一句全てが、人生を左右する。
そしてこの事態を切り抜け、計画を達成したならば、犀川との平穏な研究室での生活が戻ってくるのだ。
そう、穏やかな二人きりの研究室が戻ってくるのだ。
その為には、是が非でも萌絵を説得しなければ・・・
全身から噴出す冷や汗に耐えながら国枝は口を開いた。
「そのね、気持ちは頂くけど、しかし、今日警察に行く必要が?
明日、その愛知県警に行けば問題ないのでは?」
この一言を考え出すのに、所要した時間は3秒程度だが国枝は3時間を経験したかと思う位に憔悴していた。
「・・・その通りです、国枝先生、あの私冷静ではありませんでしたね・・・」
内心では大きく安堵の溜息が漏れた。
とりあえず納得してくれた・・・
それもこれも萌絵の提案が甘かったせいだが、なんとか救われた。
取りあえず20時間程度の時間を確保した。
この時間内に色々と解決しなければならない。
国枝の復活した頭脳は音をたてて回転した。
ところが、
「あの、国枝先生。」
「・・・何?」
回転し始めた思考のベクトルはまたもや現実世界に戻された、
その悪魔的な唇からどんな非常識な言葉が発せられるか気が気ではない。
正直自分がこのまま正気を保てるか大いに疑問であった。
「その、すいませんでした、私出過ぎたマネを・・・」
「いや、私がキミに迷惑をかけたのは事実だから」
「でも、それは・・・」
「すまないね、キミには本当に迷惑をかけた。決着は私がつける。
でも、その前にキミには謝罪しなければ」
「いえ、そんな、もういいんです。ネガも全部処分しましたから、ですから気になさらないで下さい、あ、そうだ。出来れば今まで撮った分も全部持って来て下さいませんか?国枝先生は未だ、そのネガとかその一式を持っていますか?」
「ああ、」
「では、明日叔父の所に参りましょう。その時持ってきて下さい、お願いします。
それでは私は講義がありますので。」
西之園萌絵は優雅にお辞儀をすると去って行った。
僅か20分の出来事である。
結局、国枝自身が決着するという提案はスルーされた。
まさか呼び止めるわけにもいかず呆然と見送るしかなかった。
そういえば、未だ研究室を開けて居ない。
どうすれば・・・
今までのネガは全て山部が醜悪な目的の為に持っている。
これから山部の所へ行くしか・・・
しかし、この事をどうやって山部に説明するのだ、
まさか洗いざらい話すわけにも行かないだろう。
いや、問題はそんな所には存在しない!!
問題は明日をどう乗り切るか、だ・・・
国枝には少しも具体案が浮かばなかった。
西之園萌絵は小躍りしていた。
はっきりとおかしいと感じたのは国枝が警察に今日行く事を拒んだ瞬間だった。
だから、こそ強引に引けたのだ。
これなら仮に国枝が偽証していても叔父にその偽証を話さざるを得なくなる。
そして、国枝は何気なく自分で決着をつけるという事を言っていたが、
その時点で萌絵の猜疑心は頂点に達したのだ。
普通脅されているのならば、そして国枝にとってあそこまで不味い状況ならば間違いなく自分の提案に藁をも縋る気持ちで賛同するだろう。
難色を示す時点で不自然なのだ。
よくよく考えてみれば、国枝は具体的な事を極力避けるように証言していた。
振り返ればそうなのである。
私が勝手に物語を作ったと言っても差し障り無い。
ここまで考えた時点で萌絵は国枝の偽証を確信していた。
問題は、(これは当初からの疑問ではあったが)国枝は裸体を撮影していないという。
これは疑いの無い事象である。
萌絵は自宅以外では決して裸体を晒した事は無い。
だからこその疑問である。
では、何故私の大学での、それもごく普通の日常の写真が必要なのだろう?
何も裸体で無いと価値が無いと言う訳ではないが(近頃の私はどうかしている)それは盗撮というリスクに見合う行為なのか?
それこそ、国枝が脅迫されていると考えた根拠の一つだったのだ。
もしも、脅迫者がでっちあげだったとして、国枝は何を目的にそんなツマらない写真を収集し続けたのか?
もしかして私の写真を購入する人間がいて、
国枝は副収入を得る為に写真を撮り続けたのか?
筋が通りそうで通らなかった。
国枝は金銭には全く困っていないだろう、いや、それも仮説に過ぎないが、
金に目が眩んで、というのは国枝の場合動機になりえない、と思う。
金額にもよるだろうが、得る物と失う物を量ればどちらが懸命であるか位判断出来るだろう。
そして、それは他でもない国枝なのであるから。
それ以外の人間なら金というのは強力な動機になりうるが、国枝では・・・
こう考えていくと行き詰る。
ここまで考えると国枝はやはり脅迫されているのだろうか、と、ちらりと考えてしまう。
それ程不自然なのだ。
だからこそ提案したのだ。
明日ネガを全て持って来るようにと。
そして今日は尾行する。
国枝が真っ直ぐマンションに帰れば偽証は確定だ。
脅迫者が存在するのなら、
当然そういったもの一式全てを脅迫者が持っていて当然だからだ。
そして、なんらかの行動に出る、つまり国枝のマンション以外に行く。
それならば、黒幕がはっきりするというものだ。
その黒幕が購入者か脅迫者か・・・
それは明日国枝を問い詰めれば良いのだ。
萌絵は妃真加島の事件以来の興奮を感じていた。