犀川の研究室は常に冷房が効いていた。
西之園萌絵を始めとする女性陣には寒いくらいだった。
だから、萌絵は研究室に来る時は薄着を一枚羽織っていた。
そして、薄着を羽織るのは冷房の為だけではなかった。
最近、工学部に盗撮魔が出没している、という噂があった為、なるべく肌の露出を避けたかったからだ。
それにしても不可解だった、少なくとも萌絵には動機が特定できなかった。
盗撮という行為の性質上、リスクを多大に背負うのだが、そのリスクに見合う見返りが全く不明であった。
女性の肌を露出させる面積が増大する要因があるのならば理解できなくも(したくも無いが)ないが、
少なくとも萌絵達にそのような要因は皆無だった。
萌絵達は私服で講義を受け、設計の実習をこなし、生協で食事をして、
また講義を受けるという極めて安定的な(退屈とも言う)サイクルを繰り返しているだけであるから、余計に不可思議だった。
そういった日常的な風景を写し(それもリスクの高い方法で)どのような利益があるのだろうか?
考えられる可能性としては、盗撮の対象は学生でなく講義の内容、実は風景を撮りたかった、盗撮では無く卒業アルバムに使用する写真を撮っている・・・etc
そして、全てに反論が可能であり、萌絵は先ほどから黙り込んで九月の残暑の厳しい夏空を見上げていた。
最大の問題は、一体誰が盗撮魔の存在に気が付いたか、という事だった。
盗撮という位なので盗撮者自身の隠蔽は最大の懸案事項であるし、その点になんらかの解決を見出していなければ盗撮という行為は成立しない。
余程盗撮者は間が抜けていたのか、とんでもない失策をしない限り発見はされない筈なのに、
何時の間にか盗撮魔は存在する事になっていて萌絵自身も影響を受けている。
多分、最初は洋子、友人の牧野洋子から訊いたのだろう。
こういった人々の噂に関して萌絵は全く興味が無かった。
そして牧野洋子は目敏かった。
この愛すべき友人は、萌絵が尋ねもしない事を、止め処なく喋り続け、その中の話題の一つに盗撮魔が挙げられ、無意識に萌絵は記憶していたのだろう。
さもなくば、講義室全体から発せられる取り留めのない雑談(そういった話を萌絵は大まかに把握していた)の中で最も語られる話だからだろう。
なんにせよ自分の許可なく写真を撮り続けられるという行為は少なからず不愉快であったし、そういった事に何気なく影響を受けている自分が物凄く嫌だった。
しかし、こういった不愉快を日常の中に埋没させるスピードを上げる事がどうやら大人への道らしいし、
自分に今一番必要なのは不必要な程の忍耐力であった。
その事を例の妃真加島の事件で痛感した。
西之園萌絵がそのような取り留めのない無駄な時間を過ごしていると、犀川のいない研究室に国枝桃子が入って来た。
何時ものように動作ひとつひとつに無駄がなく、動作する芸術といった感じである。
「あのね、君。少しは自分自身の姿勢を確認した方がいい。」
国枝が指摘したのは西之園萌絵のパイプ椅子から両足を投げ出し、眠そうな顔で窓を見上げている態勢であった。
西之園萌絵の執事(!!)諏訪野がこの状態を見たら、三時間の説教では済まなさそうである。
「あ、国枝先生・・・」
国枝は自分のデスクに腰を降ろし、キーボードを叩き始めた。
萌絵は急いで姿勢を立て直し、表情を引き締め、自分自身の迂闊さを猛省し、退出しようとした。(戦略的撤退というやつだ)
こんな姿を一度見られては、居た堪れなくて研究室には居れないし、第一国枝と二人きりの部屋等拷問に等しい。
何せ一度仕事を始めた国枝は滅多な事では口を訊かない、下手をすれば犀川が会話を試みても失敗する。(犀川が話し掛ける事も皆無であるのだが)
で、あるので一年生の萌絵には国枝と二人きりという空間は全くの無意味な空間なのである。
それなのに、
「ところで」
「はい?」
国枝が自分から口を訊いた・・・
西之園萌絵の内部ではこの有り得ない事態に対して、幾つ物プランが検討された。
キーボードを凄まじい速度で叩きながら無表情な口を国枝は開いた。
「君は来週は何か予定はある?」
「来週ですか、いえ、特にありません。」
精一杯の気力を振り絞って答える。
その間にも萌絵の内側では、この予想外の出来事の着地点を模索していた。