山を広く覆う空は、紅から藍色をにじませ、やがて深い紺碧へと変わっていった。  
日が落ちてなお、運営を始めたばかりのたたら場ではちらちらと炎がゆれ、煙が立ち昇っ  
ている。それを、上郭から見つめる女がいた。名はエボシ。まことの名は明かさぬ。  
 隼のようなするどい瞳と通った鼻梁は聡明さを宿し、茜の口紅に金扇子柄の袴は、  
彼女が決して下賎の民ではないことをうかがわせる。  
 数十人の男たちと数人の遊女の娘たちではじめた、はぐれ者たちの理想の村落づくりは、  
今や見る見るうちにその人口を増やし――主に非人や売られた娘によって構成されていた  
――山の一角にそびえる鉄の砦として、将軍や幕府をも警戒させる共同体となっていた。  
 将軍も獣神たちも、このたたら場を陥落させようと、さらに武将たちは、この森から  
たくさんの砂鉄が採れることを知り、土地を手に入れようと、虎視眈々と狙っている。  
しかし、実際はまだ製鉄技術はおぼつかず、自衛するだけの武器も兵力もない。これだけ  
一手に敵を背負い、侍たちが攻め込んできたら、また、猪たちが山犬と組みでもして挙隊  
したら、ひとたまりもない。  
 唐傘連とやらの連中は、本当に交渉どおりに石火矢を使える警護隊と、製鉄に長けた  
たたら者をよこしてくれるのだろうか。取り引きどおり、森のシシ神を殺しさえすれば、  
本当に奴らの言うように獣どもは力を失うのだろうか。  
 これは、自分が造りたかった村なのだろうか。ふと自分の選択に迷いを感じ、下の屋根  
屋根をぬって響く、コーン、コーンという金属を鍛える涼しげな音に耳を傾けた。  
「いかん、立ち去れ!」突然、下郭からゴンザの太い怒声が上ってきた。  
外がにわかに騒がしくなった。  
 
「ここは通さんぞ!あっ、貴様!大変です、エボシ様!」  
 ばっ、と戸を開け、見下ろした。「どうした!」  
「何者か、男が入ってきました!申し訳ない、止めたのですが…!」  
そう言いながらゴンザは男を追いかけ、刀を抜いたまま梯子を上ってくる。男は黒っぽい  
頭巾で顔が見えず、ぼろぼろに擦り切れた蓑を背負っており、浮浪者のように見えた。  
エボシもすぐに小刀を取り、向き直ったところで止まった。その大柄な男がすでに自分の  
目の前に立ち、ゴンザの刀を奪って、逆にそれをゴンザの喉元に突きつけていたのだ。  
よほど闘いに慣れているのか、男は冷静だった。エボシ様…と苦渋でつぶやくゴンザに  
無言のままあごで降りるよう指示し、エボシに顔を向けた。エボシはとっさに小刀を振り  
下ろしたが、男は空いていた左手でいともたやすくその腕をつかんだ。物怪のような  
凄まじい力にたじろいだが、ふと目を移すと、その手の甲は火傷の跡で筋状につっぱり、  
皮膚はただれて赤く腫れていた。  
 驚き、即座にもう一度男の目を見た。エボシは言葉を失った。  
「お前…」  
ゴンザは、あっけに取られたようにエボシを見ている。頭巾からのぞく男の目を見て、  
エボシは信じられないというように首を振った。  
「まさか、お前が…」  
エボシはゴンザを引き取らせ、男を上郭に入れた。男は無言のまま会釈し、エボシが戸を  
閉めるのを待ってから頭巾を外した。  
 もう間違いはなかった。男は、大名の娘から転落して浮浪児となり、中国に売られ、  
娼館で遊女として働かされていた少女時代のエボシを買い、自らの船に住まわせ、海賊と  
しての武術、窃盗術、貿易術、そして火薬の扱い方を教えた倭寇の頭目にして、エボシの  
夫であった。  
 
 長い間頭巾を被ったままだったため、べたついた頭髪は頭にへばりつき、髭も伸び放題、  
頬がこけていることに気づくのにも時間がかかるほど汚れていた。  
「天下の賊の頭が、様ないな」エボシは驚きをもって口を開いた。「まずは身体を洗ったら  
どうだ。ひどい匂いがするぞ」  
男は大人しく従った。酒豪で、いつも赤ら顔で女たちをはべらせ、金品を強奪しては強か  
に笑い声を響かせていた勇壮な海の男は今、乞食のごとく汚れた身体にぼろ布をまとい、  
それを取りさった無防備な体を、風呂桶の中に収めていた。エボシは中に湯を沸かし、久々  
の風呂で目を閉じ天を仰いでいる夫の髪を洗ってやった。水音と、外から響く金属音だけ  
が、上郭の静寂を破っていた。しばしの沈黙の後、エボシが先に口を開いた。  
「…なぜ生きていた」  
男は、桶の中で少し身体を動かした。「おれは不死身だからさ」そして、ふっと笑みを浮か  
べた。「笑止、わかっていた。お前が油をしこたま隠していたことぐらいな。逃げたいのな  
らば逃げればよい。そう思って止めなかった。ただ、おれは死に急ぐ気はねえ」  
一つ一つ思い出すように言葉をつなげる男の低い声は、とても穏やかだった。以前よりも  
ずっと痩せてはいるが、盛り上がるほどだった筋肉はまだ男の身体に残っていた。数々の  
闘いを経験した証は、体中に切り傷として残っている。以前見たとき新しかった傷は、  
ふさがって古傷となっている。それだけの歳月を離れて過ごし、このような形で再会する  
とは夢にも思わずにいた。船に火を放って逃げ出した夜、男も賊仲間も確実に死んだと  
思っていたのに。黙って髪を洗うエボシに、しばらくして男は言った。  
「お前の手が触るのも久方ぶりだ。もう手触りも忘れちまってたよ」  
エボシは思わず髪から手を離した。再び、外の音が鮮明にきこえ始める。  
 
 ばきばきと男が鳴らしている首を見る。初めて男が遊郭を訪れた夜、エボシはこの首と  
肩を揉みほぐした。思い出したくもない少女時代が、男を見ていると蘇ってくる。  
「もうよい、服を着ろ」エボシは傍らに置いておいた薄手の着物を手渡し、浴室を出た。  
壁にもたれかかり、大きくため息をついた。残酷だ。なぜ、忘れた頃に思い出というもの  
は引き戻されるのだろうか。エボシは、今男の髪を洗っていた自らの手を見つめた。  
少しして、男が出てきた。大柄な体にエボシの渡した着物は合わず、大きな手足が突き  
出して不恰好に見えた。それを見てエボシはふっと笑い、「それでは小さいな」立とう  
としたが、「いや、これでいい」男が引き止めた。「おれには充分だ」  
来た時よりも大分軽い足取りで茣蓙に座り、飄々とした様子でエボシを見やった。  
「なんだ」ずっとこちらを見るエボシに、不審そうに眉をゆがめた。  
倭寇でいる間、男は他の女を侍らせ豪遊し、女のエボシに危険な仕事をさせもした。  
遊里から抜け出させたとはいえ、実質的には乱暴に扱われる仕女のようなものだった。  
それでも、エボシは持ち前の賢さで火薬技術を習得し、男たちの中で気丈に渡り合うだけ  
の度胸を身につけたのだ。あれだけの仕打ちをしておいて、よくも抜け抜けと現れるもの  
だ。そう思いながらも、エボシはぞんざいに髪を結う男に懐かしさを感じずにいられなか  
った。あの頃は、荒っぽく扱われてはいたが食べ物と寝床は与えられ、それなりに保護  
されているという安心感があった。今は違う。配下が食べていけるかどうかはすべて自分  
にかかっており、いつ何時襲われるやも知れず、この先永劫、平安にこの場所で暮らし  
てゆけるという保証はない。不安定な心持でいた時に、男が現れた。  
ふと、エボシはこの不安をぶちまけてしまいたいという不思議な気持ちに駆られた。  
しかしそれは思い留まり、別のことを考えた。そもそも、なぜ男は突然やってきたの  
だろうか。  
 
「おれはお前に惚れているよ、今も変わらねえ」男はきっぱり言った。さすがに、エボシ  
もこれには言葉を返すことができなかった。  
「松浦あたりでくすぶっていた。体がただれちまったからな。そのうち、遊女やら下人集  
めて村まとめている女がいるって耳にはさんでな、すぐにお前だとわかった」男は外を見  
た。「あちこち転々としてよ、やっと見つけた。お前、すごい物造っちまったんだなあ」  
男の声が大きくなった。と、ゴンザが急に戸を開けた。その手は、腰の刀にかかっている。  
「ゴンザ」エボシが声をかけた。「よいのだ。少し二人で話がしたい」  
「しかし…」ゴンザはいぶかしげに男を見たが、憮然として頭を下げ、戸を閉めた。  
「権左衛門か。奴はおれに気づかぬのか」男は外を見たまま、嘲笑気味に言った。ゴンザ  
は、エボシに付いて船を出た、男の配下であった。  
「最近、自分でもようわからぬのだ。私の作りたかった村は、このように煙にいぶされ、  
獣や侍どもに敵を作ってしまうような砦なのかと」エボシが、外を見下ろしたまま小さな  
声で言った。青い月と赤い炎は、ちらちらときらめきながらその形のいい鼻梁を交互に  
照らしている。「これだけの人間をまとめる力が、私にはないのかも知れぬ」  
「いつになく情けのねえことをいうもんだ。上に立つ醍醐味がまだわからねえか」向き直  
り、男が返した。「お前がいい頭目かどうか、連中を見りゃわかる。奴ら、おれを止めよう  
と必死だった。お前を守るためだ。わかるだろう、お前は自分の信じる通りやりゃいい」  
 ふと、エボシは顔を上げた。その表情がほんの一瞬柔らいだ。  
「それにしても、美しくなったもんだなあ」男はさらに続けて言い、笑った。倭寇時代も  
エボシにたまに見せた、柔和な笑顔だ。やせて肉が落ち、すっきりとした輪郭の浮き出て  
骨ばった顔を見つめ、エボシは言った。  
「私がお前を憎んでいると思っているか」  
 
男が、眉を不思議そうにひそめた。エボシはそれを確認し、続けた。  
「お前への気持ちはおかしなものだ、言葉にできぬ。賊をやらされたことは思い起こせば  
腹も立つし恐怖も蘇ってくるが、遊郭から出してくれたことには感謝している」  
エボシは凛と微笑み、少し考えて付け加えた。  
「だが、お前はやはり嫌いだ」  
「まったく、大した女だよ、お前は」男は呆れたように笑った。「殺しても死なねえ感じが  
するよ、そういう所はおれに似たな」男とエボシは真っ直ぐ向き合った。「追っ手がかかっ  
た。おれはここから逃げて、北へ行く。やっぱりおれには海だ。海で商売するしかおれに  
は能がねえ。でかい計画がある。海で一旗あげてやんだ。エボシ」  
男は一歩歩み寄った。「…一緒にやらねえか」  
「…そういう謀か、ここへ来たのは」エボシは驚きながらも冷静に答えた。  
「おれは本気だ。お前は頭がいい。組めば一人でやるよりずっとうまくいく」  
エボシは決然と首を振った。「私は行かぬ。ここに皆を残してはゆけぬ。いい村を築き上げ  
たら、ここに骨を埋めるつもりだ」  
「いいか、おれはお前のまことの名も知らねえ。それでもお前に頼んでいるんだ」  
「ここは離れぬ」  
「お前が必要なのだ」  
「私は行かぬ」  
「どうしてもか」  
「どうしてもだ」  
「みじんも揺るぎないか」  
「揺るがぬ」エボシは真っ直ぐ言い放った。  
「…そうか」男とエボシは、今や手と手が触れ合うほどに近づいていた。  
 
「別れだな」エボシが言い、手を差し伸べた。男も手を出し、その手を取った。  
と、男はそのままエボシを引き寄せ、きつく抱き締めた。苦しい、と声にならずつぶや  
き、エボシは腕の中で目を閉じた。久々に聞く、男の鼓動。やがて男は力を緩め、エボシ  
を解放した。それでも手を取ったまま、エボシは口を開いた。  
「今夜会えてよかった」男の、引きつった手の甲を指で感じる。  
「すぐに発つのか」手の甲に目を落とし、言った。  
「いや」と男が言い、エボシは顔を上げて目を合わせた。それが、無言の合意だった。  
男はエボシの唇に自分のそれを重ね、再び自分の方へ抱き寄せた。幾重にも重なるエボシ  
の着物をもどかしげに、しかし大切そうに剥ぎ取り、エボシも男の薄い着物をゆっくり解  
いた。その、火傷だらけの醜い背中に指を這わせ、唇をつけた。エボシが、普段厚い衣と  
羽織で隠している体の輪郭を人に見せるのは久々だった。男の元から逃げ出して以来、  
人前で裸体をさらしたことはないのだ。最後に肌着を解きながら、男は唇をつけたまま  
エボシを床に寝かせ、自分もその上に覆い被さった。女の肩からゆっくりと手をすべらせ、  
膝を懐かしい手付きで押し広げる。その体は滑らかで、しっかりとした女のそれだった。  
熱くも冷たくもなく、ただしんしんと、生きて呼吸をしていた。  
これが最後だ。二人ともよくわかっていた。久々の体は処女のように抵抗があり、男の  
脳裏にはエボシを自分の八幡船に初めて妻として招き入れた夜が思い起こされていた。  
 エボシは目を閉じ、男の背中にしっかり腕を回す。腰が動かされるたび、それに反応し  
て腕の力を強める。無理矢理体を捧げることを強要されていた昔とは違う。初めて、男と  
体を重ねることを心地よいと感じていた。あの頃の思い出が、はらはらと風に乗って舞い  
込んでは吹き去っていく火の粉と共に流れていく。あごをあげ、顔を上に向けて男に見え  
ないように、エボシの頬をただ一滴の涙が伝った。  
 最後に男は外で果て、エボシの上に被さったまま見つめ合った。エボシに聞こえるのは、  
二人の呼吸と、鉄を鍛える金属音だ。  
 
「おれはおれの道を行く。お前はお前の道だ」男が耳元で言った。いよいよ本当にこれで  
決別だ。ふとそう思い、エボシは自分でも驚くことを口走っていた。  
「…ここに留まらぬか」  
男は小さく笑った。「やめとけよ」そしてエボシから離れ、着物を羽織った。エボシも、  
断られることは重々承知であった。衣服を身につけ、何かが自身の中で決定的に変わる  
のを感じた。靄が晴れ、行く道が明瞭に見えた気分だ。己の信ずるままに決めればよい。  
たたら場を発つ時、男はエボシに食べ物を包むよう頼んだ。エボシは米を渡し、言った。  
「直に唐傘連がやって来る。奴らはお前を知っているやも知れぬな」  
「わかった、忠告承る」米を受け取り、男はうなずいた。  
「では、達者で」男はエボシの手を握り、エボシもうなずいた。  
「お前も、健やかで」男はすっと手を離し、振り向かずに上郭を出て行った。エボシの教  
えた裏階段を下り、隠し扉から出て行き、二度と戻らない。  
 翌朝、唐傘連はたたら場に到着し、神殺しの計画は着実に進められていった。エボシは  
女丈夫らしく決然とその指揮を取り、ついにシシ神を討ち取り、自らは右腕を失った。  
しかしその影に、彼女の迷いを晴らした男がいたことは、誰も知らない。  
 

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