間もなく酉の刻。夕日が今、消えようとしている。  
全く情けない話である、とお雪は思った。  
歳三に初めて抱かれてから数日が経った。  
今まで、歳三との逢瀬は幾度かあったものの初めての触れ合いにお雪の心は振え、そして体は熱くなった。  
そんな体に梅雨から夏への季節の変化はあまり良くなかったらしい。  
お雪は数日前から体調を崩し、昨晩からついには寝込んでしまった。  
ただの風邪であることは明らかであったが、一人で暮らすお雪にとって、ただの風邪も大変なことである。  
(風邪なんて久しぶり…。)と、お雪はくらくらする頭で思う。  
(こんな日には、歳三様に会いに来てほしくない。)  
お雪は歳三と会う日はできる限り綺麗にしていた。  
と、言っても歳三は「何日の何時に来る」とお雪に約束することは決してなかったので、  
いつも小綺麗にしておかなければならなかった。  
 
歳三のために無理をしているわけではない。  
お雪はただ、歳三の前では女でいたかったのだ。  
歳三は今、公用で江戸にいるという。とりあえず、今晩やってくることはないだろう。  
お雪は安心して、眠りにつこうと思ったが、その一方で歳三に会えない寂しさもつのる。  
(早く帰ってきてほしい…)  
そう思って、お雪は静かに目を閉じた。数分後、お雪の意識は無くなっていた。  
次にお雪が目を覚ましたのは子の刻だった。  
高熱にうなされこわい夢を見た。どんな夢だったかは覚えていない。  
お雪の目には、ただ暗闇が広がっていた。  
時々この闇に吸い込まれそうになるような気がする。  
お雪は自分が決して弱いとは思っていない。  
しかし、歳三に出会ってから期待している自分がいる。  
期待してはいけない関係だということはわかっているのに、止められない。  
(やっぱり、会いたい。)  
 
お雪は再び目を閉じた。一筋の涙がお雪の顔に跡をつける。  
その瞬間、ガラリと表の木戸が開く音がした。  
お雪は驚き、体を硬直させた。  
(こんな夜中に…。訪ねてくる人なんていないのに…。)  
泥棒か、それとも…という最悪の事態も考えた。  
しかし、その泥棒はパタパタと足音を鳴らし真っ直ぐにお雪が横になっている部屋へ向かっている。  
お雪は布団をぎゅっと掴み、息を殺した。  
(恐い…。歳三様…!)  
足音はついに止まり、泥棒はお雪の部屋の襖をガラッと開けた。  
お雪はその音と同時に布団の中へ潜り込んだ。  
・・・・・・・。  
 
「お雪さん。」  
泥棒は聞き覚えのある低い声を出した。と、いうよりこの声の主は泥棒ではない。  
お雪はゆっくりと布団から顔を出し、その男の方を見た。  
あたりは真っ暗で、その男のかたちがぼんやり浮かんでいるだけである。  
男は近付いた。動くたびに「ぽちゃん」と水の音がする。  
男はお雪が寝ている布団のすぐ脇に座り、手に持っている水の入った桶を床に置いた。  
「とし…ぞうさ…ま?」  
歳三は「あぁ、」などと言いながら桶の中から手ぬぐいを取り出し、  
ぎゅっと絞ってお雪の白い額にそっと乗っけた。  
「どうして?」  
お雪がうつろな瞳で尋ねる。  
「本当は今晩も泊まり、明日の昼に京に戻るつもりだったが帰ってきてしまった。  
しかし、今日のうちに帰ってきて正しかったようだ。」  
歳三は流れるように言ってからお雪の冷たい手を握った。  
「お土産を…。たたみいわしを早く渡したくて直接ここに来たのだが、  
時分どきだというのに煙がのぼっていなかったので不審に思い、中に入ってしまった。  
そうすると、お雪さんが寝ていて…。」  
すまなかった、と素直に謝った。  
 
時分どき、といったら今からもう何時間も経っている。  
「ずっと、ここにいたのですか?」  
「いいや。旅の荷物を置くために一度屯所に帰った。ここに戻ったのはそれからだ。」  
(なぜ、この男はわざわざ戻ってきたのか。女の看病なんて放っておけばいいのに。)  
「すぐにお戻りくださいまし!」  
土方歳三は常に隊務に追われている。お雪はそんなことくらい百も承知である。  
自分の看病で時間を無駄にしている場合ではないのだ。  
お雪は歳三を追い返すために体を起こそうとした。しかし、歳三はすぐにお雪を制止した。  
「寝ていないと駄目だ。熱もあるのだから。」  
歳三はゆっくりとお雪の熱くなった頬を撫でる。  
お雪はその手に触れられるたび、泣きそうになってしまう。  
「優しいのですね。」  
お雪がそう言うと、歳三は驚いて、「やめてくれ」と顔を崩す。  
 
お雪の頬を撫でていた歳三の手はお雪の髪を撫で始めた。  
ただ、愛おしかった。江戸にいた時も、幾度となくお雪を想った。  
お雪は歳三の優しい手の動きにすっかり甘えるしかなくなっている。  
暗闇にも目が慣れ始め、お互いの顔がよく見える。  
お雪の顔は熱のせいか紅潮し、また瞳は潤んでいた。  
歳三の心は揺れた。  
弱ったお雪を歳三は(抱きたい)と思ったのである。  
が、相手は病人だ。こんな時に戯れたらよけいに体を壊すだろう。  
「ごめんなさい。」  
突然お雪が呟いたので歳三はハッと理性を取り戻した。  
「私はあなたを知らないうちに求めている。」  
歳三はこの言葉を理解できない。  
「私は重荷でしょう…?」  
お雪は静かに歳三から顔を背けた。手ぬぐいが落ちる。  
お雪は小さく泣いている。  
その瞬間、歳三の欲望のたがが外れた。  
髪を撫でていた手でお雪の小さな顎を取り、  
顔を元の位置に戻すと、二人の唇を重ね合わせた。  
 
 

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