長い髪を揺らして女がテントの中に入ろうとする。ホルターネックの黒ワンピースに  
スカーレットのボレロを掛けた、上背のあるしなやかな躰つき。  
(なぜ、あなたが……)  
 ここに来るまでの間、擦れ違った人たちは圧する白さ。豊麗な胸元の谷間。  
冷たい美貌に一度は誰もが振り返った。釈然としないものを感じて、それが何なのか  
結局わからないまま曖昧に、街の活気にすぐ呑まれてしまっていた。  
 おんなのボディラインとコーディネイトに貌も記憶に残らなくて、髪の長い女とだけ  
片隅に留めるだけ。  
 入れ違いに赤を基調とした、スクールウェアの娘が出てくる。  
 微かに唇を動かすだけ。  
(悩みごとがあってね)  
(らしくないです。それから、血の匂いは完全に消去してくださらないと困ります)  
(血かい。まあ、今日のところは堪忍しといとくれ。それよりも、憎しみは人に  
染るのかな、お嬢チャン)  
(憎しみ……が人にって)  
(セックスなんかで男に気取られなさんなよ。あんたのお仕事は――)  
(なっ、なにを言っているんですか!)  
(あまいね、お嬢チャンはさ。まあ、わたしには、どうでもいいこと。あんたの好きにおし)  
 発話のない会話が成り立つ。擦れちがいざまライナノールは品物も手渡していた。  
(そろそろだから。伝えたわよ)  
 白い手には似つかわしくない、ワインレッドのネイル。腕がすうっと伸びて、  
人差し指がライズの鴇色の蕾を掠めていった。  
 下唇の厚みよりも、上唇をつんと愛らしく尖らせる少女の蕾。中央の膨らみは  
下唇の合わせから薄く開いてしまっていた。  
(えっ……)  
(ふっ。可愛い子だよ)  
 
 パサッ、とベージュ色のテントの幕が降りて女豹の姿を消すまでのほんの僅かな出来事。  
 混沌がやって来たことをライズ・ハイマーは悟った。  
「ライズ」  
「あっ、こんにちは」  
 呼び止められた明るい声とは対極な蚊が啼くほどの声でぼそぼそと応える。  
「こんにちは。お洋服を買ったの?」  
「そうなの」  
 とつとつと小さく喋って。聞こえにくい声ではあったが、逆に注意して  
聞こうとする分、よく聞き取れるものになる。ソフィア・ロベリンゲはライズに  
クスッと笑って見せた。  
「なにがおかしいの」  
 表情一つ変えないで発話。ソフィアの動揺を利用した。  
「ごめんなさい」  
 見せてと言われたらどうしよう、と緊張が走って思わず包みを後に隠していた。  
 だがソフィアは気まずさを紛らわそうとして言葉を紡いだ。  
「今度は、私も誘ってね」  
「そうするわ。ごめんなさい」  
「ごめんなさいだなんて。そんなんじゃないの。でも、よかったら……」  
 慌てて胸元で両手を動かし、ライズに応えている。ソフィアも赤を基調とした衣服を  
纏ってはいたが私服だった。白い頬が当てられたようにして赧らんでいる。女の子らしい  
仕草をするソフィアをライズはじっと観ていた。  
「またバイトなの?」  
「うん」  
 最初は利用するだけのただの存在という観念しか働きはしなかったが、健気さに打たれ  
感化されつつあった。  
 
「あんまり、無茶しないで」  
 親友ではなかったが、いつかはなれたかもしれないという錯覚があった。一生懸命に  
今日を平和に生きている。すでに戦争状態に静かに取り込まれているということも  
知らないで。  
 それでもソフィアも含めてドルファンの人たちは、現在の生活で手いっぱいなのだと  
知ったふしぎな違和感。  
 はい、と朗らかな声が返って来た。  
「ライズもね」  
「えっ」  
「なんか、無理してそうに見えるから」  
「……私……が?」  
「ごめんなさい。変なこと言ったりして」  
「ううん、いいの。ありがとう」  
 無表情だったガーネットが、やわらかな眼差しにいつしか変わって、気持ちの変化に  
自分でも驚いている。  
 母に抱かれる乳飲み子を眺めているような。ひょっとしたら稚児をゆりかごに寝かしつける  
やさしさみたいなものなのかもしれないとライズは思った。  
 またねと言って仕事場に駆け足で去っていく背を見守りながら、あしたのことを  
ライズは夢見る。  
 錯覚なのだ。母性が目覚めることは、と下唇を強く噛みしめて戒める。  
 存念を晴らす為のかりそめの居場所に暮らすのは――。  
(どうして、私は和んでいるのだ。どうして、どうして!こんなんで……なにが成せる!)  
 時と場合によってはソフィアに剣を振り下ろすこともいとわない。そんな状況が  
起きることを覚悟せねばならない。  
 フェイスラインの内側に掛かるサイドの素直でやわらかな髪が、騒がしい  
風に巻かれて舞った。押える事も忘れ、ソフィアの背が見えなくなるまで暫らく  
その場所にひとり残され、立ち竦んでしまっていた。  
 
 家の扉を開ける。赤いグローブの手が閂を掛けた。  
 ひとりだけで住むペットも花すらも居ない、殺風景な空間。窓には無地の厚手な  
カーテンが引かれたままに外界を遮断していた。  
 包みをテーブルに置いてティーポットから琥珀の液体をカップに注ぎ口を付ける。  
 ザッという小さな金属音がしていた、渡された包みを一瞥した。中味はおおよその見当がつく。  
調べるほどのものではないと思っていても、緊張の根源を確かめたい。  
 カップを置き、椅子を引いて深く腰掛け、袋をみつめる。ようやく中身を取り出して。  
 それは薄暗い中でも微量の燐光を発する物だった。  
「パターンを変えたのね」  
 掴んだ両手を上下に中空で振って、重さと手触りとを丹念に調べた。  
 ミスリル銀を精製した糸で編まれたボディスーツ。以前の縦糸と横糸の組仕様ではなく、  
蜘蛛の巣を模した円毛を細かく織り込んで重ねて作ってあった。ホルターネックで肘までを  
フォローしているが、股間までで太腿から下は無い。  
「それに軽い」  
 実感が少女のくちびるから洩れる。ライズのなかの闘争本能の血が騒ぎ出す。  
立ち上がってキッチンに向かった。ストッカーからナイフを取り出し、取って返すと  
胴着に片手を置き、テーブルに固定し双眸を一変させた。  
 中空に握り拳を振り上げ、ゴッ!と音を立てて木に刺さったのは刃先だけ。  
 
 
『これよりあなたさまには、蜘蛛になっていただきます』  
『蜘蛛……ですか……』  
『我を殺し、深く静かに潜んで、獲物を仕留めてください』  
 その言葉にガーネットの瞳が咆える。  
『私は皆々と剣を携えて戦いたいのです!剣を!最期の時まで!』  
 早口でまくしたてていた。  
 
『ライズさま』  
『名を呼ぶな!私の名は。私は……。ぜっ、ぜひとも戦列の末席にでも加え下さい、  
お願いいたします』  
 百戦錬磨の騎士であっても、気に圧され凄みにたじろぐ。  
 少女は頭を深く垂れている――。  
『礼節をわきまえず、申し訳ありませんでした』  
 なによりも笑いを失くしてしまった少女の縋りついてきた眼差しが、古老の心を  
鋭く抉っていた。  
『蜘蛛は――』  
『!』  
 繊麗な少女の躰がびくんとした。  
『蜘蛛は糸で絶えず罠を張り巡らせ、標的が紛れ込むのをじっと待っております』  
『なにをおっしゃっているのですか!』  
 鍛錬でも涙すらしたことのない、少女に流れる血が滲んだようなガーネットは仰ぐ。  
『張った糸を喰らい、翌日にまた新たな糸を吐くのです。絶えずそうして、時には  
巨躯のものでも仕留めましょう。わかりますかな。私は家名になど同情して任務を  
与えたつもりはありませんぞ!』  
『拝命いたします』  
『期待しております。サリシュアン』  
『はっ、我が名と命に賭けても』  
 タナトスの如き幽鬼のミーヒルビスの曇りは晴れずに、ただの老人であったことを  
サリシュアンことライズは知らない。  
 自然界の知恵を吸収し、剣撃の耐久に優れた胴着。  
 ライズはもう、本来の明日に棲んでいた。あたら命を粗末にせぬようにとの  
祈りは届かなかった。  
 
 ライナノールはこの占い師が嫌いだった。運命を操るような水晶に、あやかしの手が  
球形を撫でる。発せられる気で素肌にでも触れられたようでそそけだつ。  
 吐瀉しそうにもなった。  
 敵の衝路を予測して側面を突く為に、遠回りを全速力で駆け、フルパワーで  
ぶつかっていって技を繰り出し、限界を超え胃液が口腔内に込み上げる、あの感覚だった。  
唾液もねばっこくなって。  
「さあ、腰掛けスフィアのなかを覗いてごらんなさい」  
 更に突き抜けてしまえば、躰は浮遊感に包まれて意識が跳んでしまう。  
「よす」  
「あなた様に凶兆が迫っていると申し上げてもでしょうか」  
「聞き捨てならんな」  
「事実を言ったまでにございます」  
「事実というか!」  
 疑念の言葉が突いて出た。どれだけ多くの事実があって、操る者たちの真実とやらを  
見せられて来た事か。ライナノールは歯軋りをしていた。  
「好いている男の死を、あなた様が追う、とここに出ておりますが」  
「どういう意味だ!」  
 激昂した。ここで騒ぎは起こしたくないとわかっていても。  
「映っておりますぞ。閃光に包まれて命を落すと」  
 瞬間、スカートの裾をひるがえし白い太腿を晒した。  
「殺」  
 ライナノールは低く唸った。  
「そう、興奮されますと、いくら付け爪といえども本物の方を割られますぞ。  
よろしいのかな。それでも」  
「貴様、単なる繋ぎではないな」  
「ただの占い師にございます」  
 
「戯れをそれ以上言うと、どうなるか」  
 占い師のうなじの中央。盆の窪に柄の先を当てていた。柄は飛び出し式の武器。  
「いかがいたします?」  
「興味ない。自分の未来でも占っていろ」  
 親指を柄の頂に掛ける。  
「己を無心にせねば、水晶は語ってはくれませんので。残念ながら自分には  
響かないのです」  
 ミスリルの針が飛び出し、血を出さずに殺傷できる。傷口においても、あるいは  
刺した針を折ってしまえば返り血で汚すこともない。  
「笑えぬ道理だな」  
 シュッ、と小気味よい音を立て、スカートが翻り太腿の鞘に柄を収めた。  
「ふふふっ」  
「なにがおかしい」  
「さようにござります。人の世は理に叶わぬことばかりで邪に歪んでおります」  
「気に入った」  
 怒りよりも、苛立ち。さだめへの抗い。徐々にさむけが包みはじめていた。  
「受け入れてやる」  
「ありがとうございます」  
「運命を変えることは出来ないのだな」  
 誰かに抱き締めてもらいたい。好いた男にでも顫える躰を抑えて。  
「それはわかりかねます。見たままを言ったまでにございますから。恋の鞘当てと  
命のやり取りの違いは大きいのでございますから」  
「……わたしより先に……なのか……」  
「さようにございます。くれぐれもお気を付けられますよう」  
 
 占い師は慇懃に会釈した。ライナノールは金貨を水晶の傍にばら撒くと席から  
立ち上がる。  
「心しよう」  
「最善を尽くせば、騎士の名誉は救われましょう。ダナンでのご活躍を祈っています」  
 温かい陽光が降り注いでいるというのに、凍えそうな心持ちになって、歯の根が顫え  
カチカチと鳴らしていた。こんなことは初めてだった。求めていたものが失われつつある  
恐怖なのかと反芻する。  
 
 ダナン陥落、その夜のこと。接収した、とある館の寝室で。  
 
 オーク製の革張りの座部の椅子。巨躯の戦士が腰掛けて瞼を閉じていた。  
その前に立っている影がピンを抜いて髪を下ろす。内側に織り畳まれていた髪が  
こぼれて衣擦れの音がする。真紅のボレロがホワイトタイガーの毛皮に落ちる。  
 室内の灯に照らされ動く女の匂いを静かに感じて男の証に血潮を送り込む。  
炎にも誘われて来た舞う蛾たち。  
 両手を後に廻し濃やかな髪を掻き揚げる。真新しいネックハンガーの紐留めに  
指を掛け、戒めを解き放つ。暖色に赤く染まる白雪の肌。二つの剣を風車のように隙無く、  
手数で操るしなやかな腕。  
 そこに纏わり付くのは濃やかな女の命。猫脚の椅子へ腰掛ける男に腋窩を晒しながら、  
見てくれてもいいのに、と少しだけ睨め付けて。  
 愚直なまでに正義が添い遂げられなかった理由のひとつ。おんなの気持ちは変わらずに  
男を追ってきたが、直接にぶつけてきたわけではない。愛妾でもいいからと縋ったわけでもなく。  
 そんな想いの薄皮を剥ぐみたいに白いドレスをおろして、しのぶ気持ちを男の前に晒してゆく。  
戦に赴く為の厳しい鎖帷子も、豊満な乳房を締める巻き布も。  
 腰に巻いた布すらもなかった。  
 長い睫毛は顫えて、切れ長の伏した瞳は涙で潤んでいる。濃密な生と性の狭間。  
 はじまりに――なにを感じて、と二人は探り合う。  
 
 戦士の面影は霧消し、波打っている下腹に情念の毛叢があるだけ。  
 落された白き衣の波紋から素足をそっと上げて甲を伸ばす。膝の皿には無駄な  
肉が寄らない美脚。爪先を下ろす先に今宵だけの妻となるおんな心。背に流れる  
髪が濃やかに揺れ、双臀の柔肉も動いて男のもとへ、ひとつの道を歩く。  
「まだなのか」  
「まだだよ」  
 男の前に立った裸身。たわわな乳房が揺れる様は隠せても、肩が少女の季節に  
破瓜の刻を思い出させ喘いでいた。温かい女の気が、椅子に腰掛ける男に降って来る。  
微香が男の鼻をくすぐっていた。  
「見せてくれないか」  
「まだダメっ!」  
 怒った口調でも口元に微笑が浮かんでいる。ふたりになった時の物静かで低く響く  
やさしい男の声におんながひらいて濡れた。  
「瞼をあけてごらんよ」  
「怒ったのか」  
 男の顔が曇っている、やさしい瞳。抱き締めてやりたいと思う。女は少し  
顔をしかめて見せ、すぐに笑っていた。  
「ううん。いっぱい見てくれていいから」  
 両手で頬を撫でられた男の視線はハッとするおんなのやわらかさから、  
どこからか漂う故郷の香を探し求めていた。胸元から微かに薫る花。  
 鍛え抜かれた肉体でも十分なしなやかさを。まろみある白い乳房の衝撃が男を射た。  
乳房の輪郭から肩に昇る大円筋のラインに、今日こさえた傷痕があった。  
「塞がったのか。もう痛くは――」  
「さわってみて」  
「ああ」  
 男の手が乳房に触れようとした。  
「やさしく扱ってくれたら、血は噴出したりしないから」  
 
 国境沿いの山岳都市ダナンに火蓋は切って落され、数日で戦闘の決着をみたが  
最後の最後に不思議なことが起こった。  
曇天だった空が渦を巻いて裂けて、天使の光りが地上に舞い降り、八騎将たちを  
求めるように高速で移動し光跡を描いていった。  
『うろたえるな。勝機は我らにあり!退いてはならん!退くでない!』  
 戦場に怒号が響き渡った。異変にいち早く気づいたライナノールは小隊を他の  
騎将に着くよう合流の指示を出して単独で動く。  
光りはヴァルファバラリアンとプロキアの混合軍の兵たちを眩惑するのではなく、  
なにかを探ろうとして個々の心に介入してきていた。  
抜けた光りは収斂してボランキオの振った槍斧に宿って更に耀き、きりもみし  
天上に昇って傘を描いて拡散した。  
『ちくしょう』  
遊ぶように意識に入り込んでくる。緊張を解き放てと戦意を削られた。  
プロキアの兵は崩れとなり、傭兵部隊のヴァルファバラリアンだけが凌いだ。  
紛れも無い幻術と誰もが解釈した。  
たとえ八騎将が指揮しているとはいえ、ドルファンの攻勢に圧され、対する戦意を  
喪失した精鋭では意味が無かった。  
『しまった』  
 背を取られた瞬間、黒い影が動いた。敵の飛沫を顔に掛けた。  
『なにをしている、貴様!らしくないぞ!』  
 噴水のように血が、その中からしゃがれた女の声がボランキオの耳に聞こえた。  
 振り下ろされた剣を受け、もう一方の剣で敵の兵の喉を一気に突く。八騎将の武器の  
大半は鎧ごと打ち砕くものとされている。男が操るものだからだ。  
 
『かたじけない』  
 女であるライナノールは男を越えることをせず、しなやかさを武器に、二剣での  
一撃必中を狙っていった。  
『やはり、らしくない!』  
 軟骨が砕けた鈍い音。手ごたえを得た瞬間に次の動きをする。瞬く間にあたりは血の海と化した。  
『今は俺から離れるな。危険だ』  
 ボランキオの肩を掴もうとするのを振りほどいた。  
『うれしいことを言ってくれるよ』  
『ばかやろう。堪えろと言ってるんだ。踏み留まれ』  
『ふん。そうもいってられないのさっ』  
 柄を握った拳でボランキオの胸を叩いてから。  
 両手を翼のように拡げて、二つの剣を高速で回転させていった。必殺剣は晒した  
瞬間から技ではなくなる。無限に繰り出せる連続技ではなく、いつしか隙が  
生じてしまうもの。  
 いつしか、内側に綺麗に折り畳んでいた髪がほとけ、散って。  
『でぃやあぁああぁぁぁぁっ!』  
 残存するドルファン兵の魔法でガードされた矢が雨あられとなり降り注いできた。  
ライナノールは髪を振り乱し鬼神の如きに剣を振い舞う。身のこなしは氷炎。  
『わたしに心は無いっ!運があったら、また逢おう』  
 圧倒的な優位を敷きながら、傭兵騎士団ヴァルファバラリアンは一瞬にして  
劣勢に転じる苦汁を舐めさせられた。  
 女騎将ライナノールはなりふり構わずに剣を構えた。  
『なにをする』  
『うるさいっ。だまれ』  
 
 気を剣に収斂させ必殺剣・二刀氷炎斬を繰り出しドルファン兵に挑んでいったが、  
最後の小隊には肩で烈しく息をしながら対峙し力尽きて倒れる。  
 間一髪、槍斧が剣撃を受け、倒れ込んだライナノールの命をボランキオが救っていた。  
『だいじょうぶか。おい、返事をしろ!』  
『うるさいなぁ……。かすり傷だ』  
『手を動かせ』  
『これでいいのか』  
 天上に向け、手を掲げて動かしてみせた。  
『雲が裂けて、まぶしいな』  
『傷はないみたいだな』  
『あたりまえだ。おまえはどうなのだ』  
 抱きかかえられた返り血を浴びた躰を起こそうと動いた。  
『動くな』  
 男には妻子がいた。少し、身をゆだねて。  
『気持ちいいな。極楽だ』  
『おい』  
『頭が重いのだ。酒に酔ったみたで、こうしていてもふわふわする。だが』  
 抱きかかえようとするのを突き飛ばしたものの、ライナノールは譫妄に憑かれて、  
泥にみじめに転げていった。ボランキオはすぐに追って足頸を捕まえる。  
『よせっ、よしてくれ。こんな姿は兵には見せられない』  
 今日明日死ぬものではないが、八騎将の必殺剣は命を削って繰り出すものだった。  
『構うものか』  
『わたしが困る。困るのだ。だから……』  
 四つん這いになった鎧のおんなの臀を巨躯の騎士が追っていた。  
 
『すまぬ』  
『いや……、言いすぎた。赦せ』  
 四つん這いのまま、顔を捻って男を待つ。ライナノールの媚態とも取れなくもなかった。  
いつもとは違う右を髪が隠し、左眼がいっぱいに見開かれていた。  
『なら、肩にだけでも掴まれ。それなら、よかろう』  
『あっ、ありがとう……』  
 また躰が浮遊する感覚に包まれた。地から這い上がるみたく立ち上がって、よろよろと  
ボランキオに寄り添いながら暫らく歩く。意識が遠のいて足が縺れる。  
 心配そうに覗いて来る。からかってみたくなった。  
『わたしは、おまえが好きだ』  
『……』  
『この気持ちは……どうすることもできない』  
『わかっていた。ほかした俺を赦してくれ』  
『素で応えるのか。想いに応えてくれないとわかっていたから』  
 深入りしすぎた。  
『俺は』  
『おまえに罪は無い。だが、仲間を失う以上におまえを失うことは耐えられなかった。  
一度きりでいいから……抱いてくれないか』  
 最後の言葉にライナノールは惨めなくらい女の気持ちを込めてしまっていた。  
応えてくれるはずがないと、判っていたから踏み込んだ。  
 ホワイトタイガーの毛皮に仰向けになり、深く奥へ肉棒を受け入れようと両脚を掲げ、  
ボランキオが両足を踏ん張って膣内を衝きあげてくる映像が見えた。  
『……わかった』  
『えっ』  
 
「儚い。こんなにも」  
「きれい」  
「ああ」  
 騎士として認めてもらうために必要以上に男であり、おんなを使えるだけ利用し  
続けた女。きまぐれがライナノールに湧き起こった。  
「ねえ、ボランキオ。オナニーをしてみせて」  
「なんだと」  
 騎士として認めてもらうために必要以上に男であり、おんなを使えるだけ使って  
利用し上り詰めた女。  
「男として屈辱かしら?」  
 守るべきものがあればこそ、張り詰めた日々に身を置くことで恋情をも押さえ込む。  
攻撃性すら薄めてしまうから、それは仲間の死に直結した。  
 感情を持て余して――今。  
「私は男たちにしてみせて来たわ。できないのね、あなたは男だから」  
「する、しよう。俺の手淫をおまえにみせてやる」  
「うれしいわ」  
 静かに狂う。  
 ライナノールの発話がどこまでほんきなのかと疑っていると。  
 白い裸身をくねらせ、両腕が水平に伸びて両肘を顔の傍で突き立て後頭部で  
両手を組んだ。髪を掴んで両手を掲げ舞った。クロスハンドさせ手を強張らせ、腹部を  
赤い爪で掻き毟ってみせる。白に十本の赫いラインが交叉し、丸い肩を窄め猫背になって  
上目遣いに睨んだ。  
 ボランキオのペニスが跳ねてビクビクと痙攣した。  
「こういうことをして、あなたを追って来た」  
 
くなくなと臀を振って縦溝の窪みが揺らいだ。みだれた掛かる髪の向こう側に、  
双眸をいっぱいにして頤を引く。クロスハンドを解いた手は乳房を互い違いに  
回転させ捏ねた。  
乳暈は傘となって艶を醸し、乳首を尖らせていった。唇を大きくひらいて  
赫い口腔を見せて、舌先で上唇をなぞりながら、ホワイトタイガーの毛皮に両膝を付いて  
腰を沈めた。  
「してみせて」  
 浅黒い肌。陰毛から突き出るように生える肉棒の色は更にこゆく。  
しかし、この余興からか肉茎の硬さは、一旦は引きかけていた。  
ライナノールは臀を掲げるように浮かせ、両肩を前のめりにして両手を付いた。  
拡げられたボランキオの股間の淡い近くに貌は迫る。  
「はやくうっ、してっ。ボランキオ!」  
 ボランキオの股間から発するぬくい気が、ライナノールの上気した貌を撫でる。  
応えてみだらな熱い吐息を男性器に吹き掛けていた。  
 ボランキオのなかで意識が弾けとんだ。ライナノールの醜悪な態度。それとも、肌。  
瞳、髪、乳房。  
 長い髪が収斂されて、背骨の窪みに流れていた。喘ぐ蒼い肩にも流れてはいたが  
隠すまでには至っていなかった。  
 トリガーが何だったのかも。雁頸を親指で押さえ、肉茎を包み込んで血流を止めた。  
上下に鼓舞するようにゆっくりと下腹に、下にと振ってから天井を向けて扱き出す。  
張り詰めてらてらに絖る尖端。  
 ライナノールの瞳は妖女になって惚けた。  
「観ろっ!俺を!」  
 暗い肉欲に、瞳には怒気が宿る。光りと闇が烈しくせめぎ合い。  
 
 脛を右手の指頭が羽を掃くように駆け上がって、膝頭をそっと撫で廻し。  
「みてる、みているわっ」  
 内腿へと愛撫は伸びていった。  
 女の赫い唇がボランキオの怒張に近づくが、白い歯を見せて威嚇しては遠去る。  
ボランキオも寄せ付けまいとするかのように、ピッチを上げて、声にならない声で  
呻き出し、筋肉の下腹が烈しく波打つ。  
「射精す。射精てやる!」  
 ライナノールの乳房の揺れもせわしく、動悸が烈しく鳴る。  
「掛けてっ、ボランキオ。私に掛けてっ」  
 考える暇などなく、呑まれていった。臀を踵に付けて、鈴口が開くのを待った。  
ライナノールの瞳に張っていた涙があふれ出た時、眼球に白濁を撃ち込まれる。  
夥しい量の精液がライナノールへ掛かる。  
 掛かるというより、弾で顔を叩かれるに近い感覚に痺れ恍惚となっていった。  
鼻梁に。鼻翼を拡げて昂ぶりを見せる小鼻。喘ぐ唇にも白濁は注がれて頤から滴っていた。  
「はっ、はあ、はあ、どっ、どうしてだ」  
 ボランキオの手が穢した女の貌に触れようとした。長い髪にはなめくじが這ったあとみたく  
しつこく絡み付いて性臭を放つ。  
 ライナノールは滲みるのも気にせずに瞳を向ける。  
「憎くなった。だから、そう扱って欲しくなった。それだけだ」  
 
 潜伏する以前のこと。ライズに言い放った言葉を思い出していた。  
 
 宿営地のテントで女は臀を掴まれ揺さぶられていた。  
 わたしを穢せ。もっと犯してくれ。  
 頭を落としてうなじを晒し、たとえ歯を食いしばっていても、打ち付けられる  
ペニスの衝撃に頤を突き出した。  
 
「だから、なぜなんだ」  
 
(どうして、そんなことをいう)  
「この躰が嫌いになった」  
 叶わないからだ。  
 して欲しいのか、淫売。  
 してくれ。たのむ。もっと。  
 腰を打ち付け肉を叩く乾いた音と女の喚きが起こった。  
 肉の繋がりを眺めようと、肩に頤を付けて顔を捻っていた。見えるわけなどないのに。  
 もっとだ、もっと、もっと。臀を振れ!  
 男は膣内を抉って肉棒をズウンと沈めると大臀筋をきゅっと引き締める。  
 腰をぎりきり引いて弛緩させ底に響くような強さで突く。  
 顔が振られ女の長い髪が肌を掃く。  
 掛かる髪をうるさそうに振っていたら、男の手が伸びてきて耳を晒す。  
 大きな手が頬を撫でるようにして捉まえ、舌が絡み合って唾液が混じる。  
 はっ、はあっ、ああっ。  
 手をついていられなくなった女はテーブルにしがみ付くように崩れ、さらに  
衝きあげられて歔く。強姦しているような凄まじさに蕩けて堕ちる。あとに生れるのは  
虚無と知りつつも。  
 
「この躰がぁぁぁ……」  
 
『サリシュアンなどとおだてられ、お高く留まってさ』  
『私は皆と同じです』  
『ほんとにそう思うのかい、お嬢チャン』  
『はい』  
『女が情報を集めるってことはね、どういうことか……あきれたね。話している  
こっちがアホらしくなるよ』  
 
 ボランキオが跪くライナノールに腰掛けた椅子から降りていって強く抱き締めた。  
「離せ」  
「嫌だ」  
 
「離せ、ボランキオ!」  
 乳房が厚い胸板で拉げライナノールの臀が浮いて、下腹に爆ぜた肉棒の裏筋が圧される。  
気持ちが掻き毟られていた。  
「離しはしない!」  
 暴れ、縺れて、顔を振りたて、ホワイトタイガーの毛皮に沈まされた。すかさず、  
大きな手が前髪を掻き揚げて飛沫の掛かっていない額を押さえ込んで唇を奪う。  
「んっ、んんっ」  
 歯を剥いて唇を咬んだ。精液の苦味に鉄の味が拡がる。痛みを受容して口吻を  
尚も続ける男。舌先がチロチロと唇を掃いた。白い頤に赫い血が滴りホワイトタイガーの  
毛皮に滲ませる。ようやく咬む力をほといて、唇が離れた。  
「おまえは勝手な奴だ。捨てたなら、犯すみたいにしてくれたらいい」  
「約束がちがう」  
 唇から血の雫が落ちて、ライナノールの顔に掛かった。  
「約束などしていない」  
「その方が楽なんだ。さあ」  
 両太腿を拡げた。  
「……」  
「どうした。挿入てくれたらいい」  
 額から手は滑って頭を抱くように、肩肘を付いて腰を浮かせる。硬くなった  
ペニスを握ってライナノールの秘園に向けた。花唇を張った亀頭が体液を掬ってなぞる。  
「んっ、はあ、ああ」  
「おれの所為か」  
 ひくつく秘孔に尖端をあてがった。  
「そっ、そんなことはない」  
「抱いてやる。壊れるくらいに」  
 
「ああ。壊してくれ。なにもかんがえられないくらい」  
「来い」  
胎児になって女は両脛を掲げた。深くボランキオを膣内に受け入れるため。  
「自分から告白したことを後悔している」  
「なら、後悔はさせない。俺がこうしたいんだ。慰めているわけじゃない。俺を」  
「なんだ」  
「受け入れろ」  
女を抱いて転がる。ライナノールはボランキオの胸に両手を付いて力を入れた。  
「力を抜け。ここは俺とおまえだけだ。鎧なんか着るな」  
動こうとした女の頸を掴み、双臀を大きな手で包み引き付けた。  
「うっ、ああっ、なぜ……」  
「だから、このままでいいんだ。俺を感じていろ。力を捨てろ」  
 世を憎む力を捨て切れるのか……。  
「わっ、わたしは。……わかったわ」  
 女は男の胸にだかれてだらりとし、軟体動物のようになった。  
「それでいい」  
「……」  
「それで」  
 
 
何度か射精していることもあったが、今度はゆっくりと時間を掛けていた。  
仰向けに寝ている男。女が男の傍に寄って逸物を指に絡め取って反り返させる。  
片手では陰嚢を包んで揉む。  
鍛えられた腹部に肘を付いて。女は浮いた臀に指の寵愛を受けていた。  
垂れる長い髪をうるさそうに振っても、流れて赤い唇に纏わりつく。  
 
 
 逞しく膨れ上がった茎は大きな筒状になって女の性欲を掻き立てる。  
「すまない」  
「わたしには、これがないと生きてはいけないんです」  
 ほつれ毛を咥えながら艶然として男を見て、張り切って宝玉のような耀きを放つ尖端に  
ひらいた唇を少し被せた。女の舌先がやさしく鈴口をくすぐり巨躯の戦士はらしくない  
呻きを発する。無上の悦びが女の背を駆けた。ぬるぬるとした雫があふれている。  
 
高台にある墓地にまでも、騒々しい帆船の鐘の音が風に乗って流れてきた。  
 
「とうとうなんですね」  
 港の方を見下ろして、ぽつりと呟く。昨晩のセックスが重たかった。  
クレアはヤングの腕の中で愛しき獣になって求め求められ、奪い奪い合った  
甘い蜜の刻に酔いしれはしたけれど。  
腕枕を戻して寝ているベッドから抜け出していた。窓から朝陽が昇るのをじっと見ていた。  
その気分は墓地にまで引き摺るまいと決めていたのに。  
「……」  
「ごめんなさい」  
「ひとはいつか死ぬものだよ」  
 クレアの祈りを捧げていた、ほとかれた迷いの手をしっかりと握りしめる。言葉は尖って  
握り締められているのも忘れるくらいの衝撃で身を包んだ。  
「そっ、そんなこといわないでっ!」  
 弓なりだった穏やかな眉はみるみる吊り上がって相は険しくなり、すり抜けた右手が  
ヤングの厚い胸板をドンと叩く。両肩を鷲掴まれたが、一瞬で力は霧消する。ドンドンと  
クレアは叩き続けた。  
 
「最後まで、ちゃんと聞いてほしい!わたしが死ぬ時は、よぼよぼの爺さんに  
なってからだ。曾孫たちと、かわいい婆さんに見守られながらだよ」  
クレアの瞳に張っていた涙が一気にあふれかえった。  
「ばっ、ばかぁぁぁ」  
 肌と肌で語り合って確かめたはずなのに、込み上げる不安。  
「なっ、泣かすつもりはなかった。すまない」  
「ばか、ばか、ばかぁ」  
 朝からの緊張が解き放たれる。クレアは抱きしめられ声音がくぐもった。  
「赦さないから。ぜったいに。絶対、ちゃんと元気で居てくれなきゃ、赦さない。  
赦さないんだからぁぁぁ、ああ……」  
 
 
 舟が輸送船に近づく。タラップが降ろされて、数名の入国管理官が乗船する。  
「劣悪だわ。こんな者たちで何が出来るというの。先の戦だって」  
「ミューさん。聞こえてしまいます」  
「ひやかしで来る連中ばかりよ」  
「ヤング教官に掛かれば安心です」  
「でも、要領を得ないのよね。あの噂」  
「きっとヤングさんが兵たちに幻術を教授されたんですよ」  
「まさか」  
 補佐役の娘の言葉を流しながら聞いていたミューは、船の隅にひとりでいる男を  
観ていた。  
「みなさん、手続きを迅速に済ませるために協力をお願いします」  
「ねえ、あそこの隅に居る男」  
「ミューさん、お仕事。お仕事ですよ」  
「あーはいはい」  
「ぞんざいな、言葉遣いはおやめください。部下たちに見くびられますから」  
「知識があるってのはやりづらいからね。だから、そこそこ力のある傭兵でって  
ことなんだろうけどさ」  
「もう」  
 
「……」  
「ミューさん。ミューさん、いかがされました?」  
「今、なにか見えなかったか」  
「なにかって」  
「きらきら光ったような。燐光なのか……」  
「どこに。どこですか?」  
「だから、あの男の廻りだよ」  
「ほんとですか」  
「ほら、また光った」  
「光ってなんかいませんよ」  
「光っただろ。見たよな」  
「お仕事です!」  
「わかったよ……。おっかしいなぁ……」  
 
 入港した輸送船が桟橋に接岸された。ぞろぞろと傭兵たちが下船してきた。  
 ドルファンは南端の小国。国境を挟み三国と対峙していた。  
その三国も頭上を大国に圧されるようにあり、微妙な位置、力関係にあった。  
内陸のプロキア国は左右を挟まれ、そのどちらの国も航路を有していた。  
航路が喉から手が出るほど必要だった。  
 海に近い小国ドルファンとの戦いを御しやすいとしたのだった。  
 だがドルファンはプロキア動向をかねてより潜伏させていた、何世代にも渡っての  
仕込み――間諜によりいち早く察知していた。  
 対立が決定的となったのは、プロキアが名うての傭兵騎士団ヴァルファバラリアンを  
召抱えたことにあった。  
 状況は動いて、国境沿いの都市ダナンを陥落させられはしたが、ドルファンは  
あきらめてはいなかった。  
 
「あとちょっとですね、ミューさん」  
「がんばりましょう」  
「はい」  
 ダークブルーの制服と帽子には一種独特の威圧感が漂っている。  
それを緩和させていたのが山吹色のスカーフだった。イエローゴールドの  
ラインも手伝ってか、コントラストから胸元にマリーゴールドを咲かせている。  
ダークブルーも鮮やかなロイヤルブルーに変えられ映えた。  
「ほんと、まるで移民船団とかですよ。病気とか大丈夫なんですよね」  
 ドルファン港には5隻の船が停泊していた。  
一隻の乗員を三十人に絞り、傭兵を二百五十人ほど乗船させてドルファンに着いた。  
中には三百人を詰め込む船もあった。  
 軍艦もいくつかをかり出され、予定が遅れなければ、明日にも新たな傭兵が  
搬入されることになっていた。  
「心配性ね。あなたって」  
 王立病院に勤務する医師、看護婦たちの何人かもかり出されて、ここ数日は港に  
詰めていた。テントでは野戦病院さながらに動いていたがピンキッシュな装いから  
華やいだ雰囲気を醸していた。  
「だって、敵は伝染病なりなんてオチじゃ泣くにも泣けませんからね」  
「ほんと」  
「ねっ」  
「あいつ、なにやってんのかしら……」  
「あいつ?」  
「また光った……」  
「まだいっているんですか」  
「おい、なにやってんだよ。早く飯を食わせろよ」  
 順番を待っている傭兵が語気を荒げた。  
 
「あっ、はい。どうもすみません、たいへん失礼をしました。この書類のここと  
ここにですね記入してと、拇印をここに……って。ミューさん!  
ロアナ、ミューさんを止めて!」  
「えっ、はっ、はい」  
 それに女性管理官の登用も。加えてミューの髪は赤毛。しかし、必ずしも  
事はいい方に転がるとは限らない。  
 ミューは席を立つと船の隅でじっとしている男に向かって歩き始めた。  
「すぐに戻るから」  
 手を後ろに低くやって掌を見せた。  
「でも」  
 おろおろしているロアナを見向きもせずに、手を下ろすとせっかちにツカツカと  
男に歩み寄っていった。  
「ちょっと、あなた」  
 剣だと遠くからミューが認めていたのは別物で、紫の布で包まれた細長い物を  
抱くようにして男は寝ていた。剣は腰と背に帯刀してある。  
「なんなんだ、この男は……。ったく、あなた。ちょっと起きなさい」  
 躰を揺すろうと手が伸びて、包みに触れそうになった時だった。包みを抱えていた  
男の手がぶれて見えた。  
 その瞬間、鞘から刃は抜かれていて、ミューの手頸のすんでの所で止まる。  
「さわるな、赤毛」  
 無感情な声で威嚇は感じられなかったが、ミューは恐怖に縛られてしまった。  
「なっ、なにをするのよ」  
 発話できた。怖さから、それもできるかどうかミューには心配だった。  
「……」  
 
「応えなさい。あなたはこのドルファンになにをしに来たの。それに、わたしは  
入国管理官です。さっさとあちらの方で手続きを取ってくれなければ――」  
「生きるためだ」  
「かっこいいですね」  
 ミューの背から声が掛かったが、振り返るわけにはいかなかった。緊張を解けない。  
まだ視線を外さない。外せなかった。  
 死神の眼差しが一点を見据えていたから。  
「ところで、その剣を鞘に収めてくれないかしら」  
 男の方から瞼を閉じてカシャンと音を立てる。男が視線を外したというのにぞっとした。  
手を狙ったのではなく頸だったと眼でわかった。  
 ようやく後にいる部下を見ることができた。  
「ロアナ、済んだの」  
「はい、もうぜんぶです。あとは、この方だけです」  
「そう」  
 デスクの方では書類を纏めて整理している。船員たちはデスクの幾つかを抱えて  
しまおうとしていた。  
 ミューは呼吸を整えながら視線を男に戻した。動悸が治まらない。  
 その中からロアナをやったクレールが駆け寄って。  
「だいじょうぶですか、ミューさん」  
 ミューの二の腕を掴む。  
「おおげさね。でも、ありがとう」  
「すみません。ミューさん……これを」  
 手にミューの顫えをはっきりと感じ取っていた。  
 ミューは寄ってきたクレールから書類を受け取り男に手渡す。  
「これに記入して。もう、あなただけですよ」  
「すまなかった」  
 
「それから、武器は下船したあとすぐに兵に預けてもらいます。宿舎に行く前に  
訓練場に寄ってください」  
「ふざけるな」  
 クレールの止めようとした手を弾いて男の頬をミューは叩いていた。プライドが  
ぶつかって突出し、閃光を放つ。  
「武勲をあげれば、それなりの礼節を持ってドルファンは接するでしょう。  
しかし、あなたは傭兵です。分をわきまえてもらわねば困ります」  
「やっ、やりすぎです、ミューさん……」  
 クレールは右手の甲を口に当てる。脚がガクガクと顫えた。  
「揉め事は困るの。特にあなたみたいな人……」  
「確かにやりすぎだったな」  
 男の頬が赤くなっていた。  
「あなたなら……」  
 部下の手前、避けれたでしょう、という言葉を咄嗟に濁してしまった。  
「気が済んだろ」  
 男は荷物を持つと立ち上がってミューの肩をぽんと叩いた。棒立ちになったロアナとクレールの  
間を通り抜け、デスクにいる管理官に書類を手渡し下船していった。  
 三人の入国管理官は呆気にとられていた。  
「ミューさん、わたしたちもそろそろ」  
 ロアナがやっと声を搾り出して凍えた時が動いた。  
「さっき、あの男の言葉をかっこいいって言ってたわね」  
「はい。すみませんでした。軽率だったと思います」  
「わかっているならいいわ」  
「はい」  
「でも、そんなんじゃないのよ。あの言葉、ちょっと気になって」  
 

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