みつめてナイト

三人の仔猫たち3 

「わかった、必ず行くよ。正午にロムロ坂の喫茶店だね」  
 騎士は裸のままのレズリーの方を見ないで、右手を掲げて開いて振って見せた。  
「ありがとう!」  
 レズリーはそう明るく答えると去り行く騎士の後ろ姿に深々とお辞儀をする。  
「それから、きみたち!早く服を着た方がいいよ!誰が来るかもわからないからね!」  
「はい!」  
 レズリーは少女らしく騎士へ返事をすると、ハンナとロリィの元へ戻っていった。  
(ピコ、俺、鼻血出ちゃいそうだよ……ううっ)  
 稜は空を見上げながら鼻を摘んでいて、少しだけ血が滴ってきている。  
(やれば)  
(おい!)  
(なによッ!)  
(……)  

「ごめん、話し込んじゃったりして。ん、どうした?」  
 レズリーはふたりの様子を見ると、ハンナは不思議そうな顔をしていて、ロリィはぶすっ  
としているのに可笑しさを必死になって堪える。  
「ねえ、レズリー。お兄ちゃんって誰なの?一人っ子だったよね、きみって」  
 ハンナが口を開くと、レズリーは騎士が去って行った方を遠い目をして見ながら言った。  
「ロリィぐらいの時だったかな。もう、むかしのことだよ」  
 その言葉の持つ雰囲気に呑まれて、ハンナはそれ以上なにもレズリーに聞けなくなってしまう。  

「服をさっさと着て帰ろう。家でデッサン選んでやるからさ」  
「う、うん。そうだったよね、行こう。ロリィ……ロ・リ・ィ?」  
 ハンナは下を向いてロリィの顔を覗いてみると、まだぶすっとしていてボソッと小さな声で不満  
そうに呟いた。  
「ロリィの王子さまなのにぃ……!」  
だとさ。ハンナはロリィの可愛らしい頬をむにゅっと両手で抓る。  
「ほら、早く着替えて、レズリー家へ行こうよ!ロリィ!」  
「うああん、ハンナのばかあ!」  
 ロリィは手をばたつかせてハンナの顔を爪でガリッと引っ掻いた。  

「ハンナ、痛くないのか?ちょっと皮が剥けているみたいだけど」  
 三人は服を着て、白い砂浜を歩いていた。  
「だ、だいじょうぶだから……ハハハ」  
「ロリィ、あんまりむちゃしちゃだめだろ」  
「でも……」  
「もう、いいからさ。ロリィも気にしなくていいよ」  
「ハンナ、お姉ちゃん、ごめんなさい……」  
「ハンナ、ちょっとじっとしてな」  
「えっ、なんのこと」  
 レズリーはハンナの顎を右手に持って僅かに上げて、皮の剥けている頬の疵に舌をそっと  
這わした。  
「あっ……」  
「家に帰ったらちゃんと、アルコール消毒してやるから」  
「う、うん……ありがと」  
(いいな、ハンナ……)  

 嫌がっているハンナの頬の傷跡をレズリーがそっと舌を這わして舐め取るのをロリィは  
羨ましそうに、ちょっと淋しそうに見ていた。レズリーは気を逸らしているハンナに少し  
悪戯をし、もう一度だけ舌を押し付けるようにして頬の柔らかい肉が寄るくらいに、くぐっと  
舐めた。  
「ひっ、い、痛いよう!レズリー!」  
 ハンナは拳固を振り上げて、レズリーの頭をかるくぽんと叩くつもりで振り下ろしたのに、  
見切られてかわされてしまう。レズリーがハンナを見て不敵に笑っていた。  
「ああッ!もう!」  
 ハンナが拳固をぶんぶん振り回してレズリーを追いかける。クロッキー帖を小脇に抱えて  
いるのに、レズリーはひょいひょいとかわして、長い金髪を靡かせて砂浜をすたすたと  
駆けていった。  
 ハンナはロリィの所に戻って、淋しそうにしていた美少女の手を取るとぎゅっと握った。  
「ロリィが最初に好きになったのに、ごめんね。ボクもレズリーが好きになっちゃった」  
「ハンナ、お姉ちゃん……ううん、ロリィこそ拗ねてたりしてごめんなさい」  
 そんな素直なロリィを見てハンナは堪らなくなって、力いっぱい抱きしめてしまいたくなる。  
「なにやってんだよ!置いてっちゃうよ!」  
 レズリーがふたりに遠くから声を掛けてくる。ほら、とハンナは握り締めていたロリィの  
小さな手を引っ張る。ロリィもそれに促されて走ろうとした時。  
「おっと、忘れ物、忘れ物」  
 そう言ってハンナはロリィの頬にちゅっと唇を付けて舌をべろんと出して、れろっと舐めた。  
ぞわっとした感触が背筋を駆ける。  
「ひやうっ!もう、ハンナお姉ちゃんッ!」  
 キスされた瞬間、ハンナの温かい気持ちが拡がってロリィの涙腺が全開になりかけたのに、  
また頭から蒸気を噴出した。烈火の如く怒ってロリィが砂浜を駆けてもハンナに追いつく  
訳が無いのに、いつしか嬉しそうにハンナの背中を追い回す。  

 

 三人はレズリーの家に着くと、躰に残る疲れや潮の香りを洗い流そうとして、真っ先に  
バスルームへと向ったものの、バスタブへ湯を張る間に服を脱がしあって互いの躰を愛撫しだす。  
さすがにこうまでなると、ロリィはぐったりとしてしまう。ああっと叫んで糸の切れたマリオネットの  
ようになる。  
 レズリーはやや大きめのバスタブに総身をゆったりと伸ばしきって湯舟に使っていた。  
その豊かで綺麗な乳房には、ロリィが背中を預けてうとうとしている。ハンナはバスタブの縁に  
手を掛けて、もう一方の手にタオルを掴んでロリィの顔をそっと拭いてやっていた。  
「ううん……」  
 ハンナは湯にゆらぐロリィの裸身を見た。華奢な躰とまだ無毛といっていい女の命に今までの自分を重ね  
まだ変ってしまうのだろうかと思うのだった。そんなハンナにレズリーはロリィのお腹の前で組んでいた手を解いて  
水の滴る手をハンナの顔に添えて自分の方を向かせて……ベーゼを贈る。  
「あっ……」  
 瞬きをしている間にハンナはレズリーに唇を奪われる。  
(ボク、もっと変っちゃいそうだよ……レズリー。こんなになっちゃって、ボクいいのかなあ)  
 ハンナはスポーツをこよなく愛していたこともあって、欲望に対して奥手だった。レズリーの  
手解きで躰の奥が濡れて、愛され歓喜してゆく自分が何から解放されて飛翔していくのが実際  
よくわかっていない。それはまだ恋を知ったばかりの少女だったから。単純なことなのに。  
(ねえ、レズリー……きみはどうして、そんなに先を歩いているの?ボク、追いつきたいよ、レズリー)  
「あっ、あ〜っ!」  
 ロリィが目を醒まして湯舟を波立たせ、レズリーを向いて跨ぐ格好となって彼女の頬に口吻を  
する。ロリィはレズリーに恋をしてハンナのちょっと先を走っていて、ハンナはレズリーに唇を奪われ、  
眦から歓びの涙を流していた。そして三人は今日出会った騎士のことが少しだけ気になり始めている。  
王子様、覗き魔……お兄ちゃん、波の立っていない湖水に波紋が拡がってゆくように。  

 
 

 三人の娘たちはレズリーのアトリエにいた。テーブルにレズリーが持ち出してきたデッサンを  
拡げて、ハンナとロリィは目元を赧く染めてもじもじとしている。ロリィはレズリーのモデルとなって  
久しいが、ハンナには昨日の話だ。  
「どれがいい、ハンナ?」  
 レズリーが羞ずかしそうにしているハンナの顔を覗き込んでくる。ハンナがピンで描かれている  
物はまだ無い。ロリィと絡み合ったものばかりで、ハンナがこれっと言うのには気後れしてしまう絵  
ばかりだった。  
「やっぱり、やめとくよ……残念だけれど」  
「どうして、ハンナお姉ちゃん」  
 ロリィがすかさずハンナに尋ねる。  
「裸だから飾れないし、もし見つかったりしたら大変だろなあって思ってさ」  
「あっ……」  
 ロリィもそのことに気が付いて小さな声で叫んでいた。  
「なんなら、いま描いてあげようか?ヌードじゃない奴を」  
「えっ?ほんとにいいの」  
「ああ、かまわないよ。ベッドに腰掛けなよ」  
「ありがとう」  
 ハンナが嬉しそうに声をあげベッドに腰を下ろす。それから、もうひとつお願いがあるのだけれど  
と、手を合わせて拝むようにレズリーに頼み込む。  
「ロリィといっしょに描いてもらいたいんだ。ダメかなあ……」  
「かまわないよ」  
 ハンナは嬉しそうに、レズリーの傍に立っていたロリィをベッドに腰掛けさせ傍にいっしょに  
座った。レズリーはイーゼルを持ち出してきて、そこにクロッキー帖を立て掛ける。  

「ロリィもいっしょのでいいか?」  
イーゼルから顔を出してロリィを見た。  
「ロリィのもいっしょに描いてくれるの」  
「ああ、その方が手っ取り早いし、それとも一人の方がいいか?」  
「ううん、ハンナお姉ちゃんといっしょのがいい!」  
 傍で、にま〜っとハンナの顔が綻ぶ。  
「ちょっと時間かかるけど」  
「ええっ!」  
 ハンナがあからさまに嫌な声をあげたので、横のロリィが拳固でハンナの頭をポカッ!と叩いた。  
「こら、なにすんだよ!」  
 ハンナもロリィにやり返す。  
「こら、じっとしてろってば!」  
 レズリーがハンナとロリィに注意するとふたりはすぐにお澄まし顔になる。そして、ロリィが  
ぽつりと呟いた。  
「レズリーお姉ちゃんもいっしょだといいなあ」  
「ボクもそう思う」  
 画紙を滑らせる手を止めて、レズリーがふたりに尋ねる。  
「出来なくは無いけれど、そんなんでいいのか?」  
「うん、それがいい!」  
 ハンナとロリィが同時に声をあげた。  
「時間掛かるよ」  
「いいよ、待ってるから」  
 出来上がった奴に後で書き込んで渡すからとレズリーに言いなおされて、ハンナとロリィは  
満面の笑顔になっていた。きっとその絵が永遠の輝きを放つ宝物になるだろうと信じて。  

 

「ねえ、どこに行くの?」  
「女の子とのデートに甲冑に帯刀はないだろ」  
「でも戦時下で、命の次に大切な商売道具よ」  
「御説ごもっとも」  
「もう、茶化さないで!」  
「わかってるって」  
東洋人の傭兵巫女奈 稜は訓練所を早めに出ると、宿屋に立ち寄り軽装にと着替える。宿屋を  
出ると甲冑を装備している時はわからなかったが、五月の陽射しとそよぐ風が心地よく素肌を  
やさしく撫でてゆく。戦争はあってもちゃんと季節は巡ってくる。目を細めて天上の青と流れる雲  
を眺める。  
「ピタピタ」  
 妖精のピコが羽ばたきながら稜の頬を両手でせわしなくいらう。  
「ええい!なにすんだよ!」  
 手で顔の前の虫を払うかのように振った。ピコは難なくそれをかわして舌をべえっと出している。  
「浮かれているからよッ!」  
「いいじゃないか、今日ぐらい。ひょっとしてやきもち焼いているのか、ピコ?」  
「なにが焼餅よ!なにが今日ぐらいよ!人が心配してあげているのにいッ!」  
 昨日、女の子たちが開放的になって海に、その自然に抱かれていたのを思い出す。覗きと  
間違われて頬を気の強そうな娘に叩かれたけれど、五月の昼の海に来てみたいと思わなければ  
そんな出会いも無かったわけだ。  
「ただの覗きよ。鼻血たら〜なくせに」  
「わかった!もう行かねえよ!」  
「うそッ!?」  
「うそだよ」  
 城の城壁の廻りを抜けて、常人には姿の見えない妖精に追いかけられ駆けてゆく男の姿があった。  

 

ドルファン城の庭園ともいうべき国立公園を抜けロムロ坂に辿り着く頃には、稜は息を切らして  
額にはうっすらと汗を掻いていた。  
「そんなんだと、戦場でやられるんだからね」  
「ほ、ほっとけ……はあ、はあ……でも、ピコってなんで疲れないの……?」  
「えっ、そ、それは妖精だからじゃない!」  
「なに慌てているんだよ、バカ」  
「バ、バカはあんたでしょ!」  
 喫茶店の扉を開けて空いているテーブルを見つけてさっさと席に着いた。正午にという約束  
だったが、かなり早く来てしまった。  
「何になさいますか?」  
 赤い制服のポニーテールの女の子が尋ねる。  
「では、熱い玉露でも所望しようかの」  
(ばか)  
「あっ!」  
「えっ、ああッ!」  
 ウエーターの娘が声をあげる。稜もそれに気が付いて彼女の顔を見た。濡れていない艶やかで  
煌くような金髪に、それを後ろに纏め、そしてなによりも……。  
「あの時のスッポンポンの女の子!」  
(……)  
 昼近いこともあって、満員ではなかったが客は割りといた。その全員が素頓狂な声に一斉にふたり  
の方を見る。ウエーターの女の子は真っ赤になって俯いてしまうかと思いきや、毅然としていた。  
「ご、ごめん……へんなこと言っちゃって」  
「別にいいですよ。ほんとのことだから。でも早く来てくれたんですね、ありがとう」  
「ハハハ、成り行きで早く来たようなものだから」  
 赤い女の子はぺこりと頭を下げると戻っていった。  
「ちょ、ちょっときみ!」  
(ハハハハハ、よ!)  

暫らくしてまた赤い制服を着たウエートレスがやって来て、コーヒーを差し出した。  
「もうちょっと待っていて。すぐに交代になるからさ」  
「あ……俺、コーヒー頼んでないけど」  
「それ、わたしのおごりだから。ぎょくろなんてのは無いさ」  
 彼女の営業用の顔から、力の抜けた素の表情が覗いて可笑しそうにしている。  
「またあとで。帰ったりしちゃ、やだからね」  
 そう言うと、また仕事へと戻っていった。  
(稜が女の子ほっぽって帰るわけないのにぃ)  
「げほっ、げほっ」  
 飲んでいたコーヒーに男はむせ返る。コーヒーを飲み干した頃に私服に着替えた彼女が  
現れる。赤の袖なしのワンピースにネイビーのベストを羽織って、細い首には紐状の緋色の  
首飾りが巻かれている。そして、束ねられていた腰までも流れるプラチナブロンドは解放されて  
溜息が出るほどの煌きを放ちながら、ゆったりとしたウェーブを描いていた。稜はカップを口に  
付けたままで向かいの席に座ったドルファン学園に通う高等部の女学生の姿を凝視していた。  
「ねえ、どうしたの?あなた固まっているわ」  
 笑いも混じって声が顫えている。稜はテーブルにカップを置いて彼女に言った。  
「あ、ああ……月並みな言い方だけど綺麗だなって……見とれちゃってたんだ」  
「ホント、月並み……」  
(な、なに!この女ッ!)  
(ピコ、見てみろよ!目元赧くしちゃったりして、かわいい……ば、ばかって言わんでいいぞ)  
「まだ名前言ってなかったね。わたしレズリー。レズリー・ロピカーナ。この前はいきなり叩いたりして  
本当にごめんなさい」  
 レズリーが改めて頭を下げて謝罪した。  
(い、いかん……また鼻血が出ちゃいそうだよ、ピコ)  

 レズリー・ロピカーナが頭を下げた時の白い首筋と胸に稜は正直どきっとしていた。少女というよりも  
その色香は紛れもなく女そのものだった。  
「ねえ、これから月の塔へ行ってみない!ねえ、いいでしょう!」 
「え、ああ……。べつに構わないけど」  
「決まりね。じゃあ、行きましょう。ねえ、なにしているの?」 
「いや、お金をだそうとしているんだけど」  
「わたしの驕りよ。ほら、行きましょう」 
「おい、あんまり引っ張るなって」  
 レズリーは嬉しそうに稜の手を引っ張って喫茶店を後にして、先頭を風を切って彼を引っ張っていく。  
後ろを向いて、なんども彼の方を見て微笑んでいた。  
(なに、でれでれしてるのよ!)  
「しょうがないだろ。こんな美人なんだしさ」   
「なんか、言った?」 
「う、うん。君は綺麗だなって」  
 レズリーのプラチナブロンドは陽光に煌き、その綺麗な髪をふわっと舞わして、また振り返る。  
「ふふっ、ならお父さんとお母さんに感謝しなくちゃね」 
「おもしろいこと言うな、きみは」  
「どうして。だってそれなら、わたしが綺麗なんじゃなくて、みんな両親から受け継いだものだからね」  
「ふうん、なんかいいなそれ」  
「なにが?」  
「好きなんだね」 
「嫌いな人なんているのかしら」  
 レズリーは両親のことを自分のことよりも自慢げに話して笑っていた。  
「ねえ、あなたは傭兵なのよね」 
「ああ。そうだけど、それが?」  
 ふたりは銀月の塔の前に辿り着いていた。レズリーは稜の手を引っ張って塔へと駆け上がっていった。  
「ほら、早くってば」  
 ハンナのような溌剌さとロリィのような甘えっぷりで、東洋からはるばるやって来た男を翻弄する。  
「このやろ!」   
彼はレズリーの躰を軽々と抱き上げると、ダッシュを仕掛ける。   
「きゃあっ!」  

稜はレズリーの躰を横抱きにして階段を駆け上がるも、流石に上階につく頃には荒い息を付いて  
いた。  
「ねえ、だいじょうぶなの?」 
「あ、ああ……これでも、戦士だぜ」 
「ねえ、もういいから降ろして」  
「すまない」  
 胃液が込み上げて来ていた。彼の身体つきは鎧を着ていないときは戦士には程遠い。ガタイが  
大きいわけでもなく、ズボンに紐状のレザーベルトを巻いて、薄いシャツを纏っているあか抜けない  
若者だった。それでも、レズリーは彼に抱かれた時、戦士であることを確信しないではいられなかった。  
(ほんとにバカなんだから……。単純って言った方がいいかもね)とピコがぼやく。  
「うう…気持ち悪りぃ」  
「見てよ!綺麗でしょ!これが、ドルファンのほんとうの美しさよ!」  
「どれどれ、ほんとだ。綺麗だなあ!」  
 塔の展望台で吹く風に乱れる髪を耳後ろに掻きあげながらレズリーは、ドルファンの景色を眺める  
稜の横顔をそれとはなしに見ていた。  
「お兄ちゃん……」  
(ねえ、稜。彼女、あなたのこと見てるよ) 
 「ん……?」  
 そう言って横のレズリーを見た時、レズリーが動いて唇を寄せてきた。予想だにしなかったことに、  
稜は目をいっぱいに見開いて、この少女の顔を見ていた。稜の歯とレズリーの歯がカツンとぶち  
あたったキッス。稜はびっくりして目を丸くしているだけだったが、彼女はまだ瞼を閉じてキスを  
している。稜がそこに見たものは、眦に光る雫だった。  
(だめだよ、へんなことしちゃあ!)  
このまま彼女の肩を抱いてキスを続けていいものか稜はどうしてよいものか迷っていた。  

ピコの稜を諌めようとする声が頭のなかで鳴り響いてくる。しかし、それにも勝る勢いでレズリーは  
稜に仕掛けて少女らしくないその躰と豊満な乳房を押し付け、けしかけるように迫ってくる。  
レズリーは濡れた唇を薄くひらいて、舌で稜の口周りをくまなく舐めまわし始めた。 
上唇を舐めて下唇にも廻り、歯茎にさえも舌がせわしなく動き廻る。なにかの隙間を埋めようとしているかのようにレズリーは堰を切ったように烈しく感情が動いていて稜の唇が開くと、すかさず口腔へと侵入してきた。  
さらに手を返して下から擦るようにペニスにふれ、レズリーのしなやかな手はレザーベルトを外しに掛かる。  
「お兄ちゃん、好き……!」  
 それは、ロリィの言葉ではなく、紛れもなくレズリーの口から発せられた言葉だった。レズリーはそう  
言いながら、稜のズボンを引き摺り下ろし始めると、稜ももはや限界で少女の頬を挟むと唇を開いて  
本格的に舌を入れて生温かい唾液を絡めあう。  
「んんっ、んん……」  
 レズリーのくぐもった声があがる。稜とレズリーの躰は人気の無い銀月の塔で妖しくお互いを弄りあう。  
稜の手がロングスカートに潜らせ内腿をあわいへと滑らせていくと、甲に濡れる恥毛がふれていた。  
「キ、キライにならないで……。お兄ちゃん」  
 稜にはレズリーの印象に卑猥さは感じていなかった。戦場を転々としてきた者ならわかる、切ない心  
を感じられないではいられなかった。否、戦場に男を送り出した恋人が帰還兵を迎える、そんな  
イメージがこの少女レズリーに重なっていた。稜自信の気持ちも帰還兵そのものに重なっていた。  
 レズリーは赤い上着を捲くられブラを押し上げられて、豊満で白いバストが跳ねるようにこぼれ落ちる。  
その柔らかい乳房に稜の唇が這っていった。いくら美乳とはいえ、成熟した女性のものとは違う少女  
らしさの危うさらしきものを内包していて、男としての支配欲みたいなものが込み上げてくる。海から  
人魚姫のように裸身を晒してあがってきたレズリーのヴィジョンが稜のペニスを痛いほどに硬くさせていた。  

「ああっ、いい、お兄ちゃん……。おかえりなさい、おかえりなさい……」  
 レズリーは背を展望台の柵に持たれかけ、腕を後ろに廻してそれを快美に跳ばされないようにと  
しっかりと握り締めていた。青空のブルーに衣服から覗く真っ白な乳房に太腿が稜を烈しく駆り立てる。  
「レズリー、きみが欲しい」  
 柵に背を預けて、腕を後ろに廻してしがみ付いているレズリーは目元を赧く染めて、こくんと頷いていた。  
その胸元には赫い紐が首に巻かれ、シルバーのクルスのチョーカーが喘ぐたびに陽射しに煌く。  
まるで、銀月の塔に囚われた人魚姫のようだと稜は思う。稜はズボンを下ろすと、腰に巻かれた布を  
手早く解いた。滾りきった肉棒が外気にぷるんと晒され、それを御すように手を添え、亀頭をレズリーの  
狭穴へとあてがった。レズリーの胸は烈しく高鳴っていた。哀しい約束が果たされるとき。  

『お兄ちゃんが還ってきたら、わたしをお嫁さんにして。約束よ』  

 それは、レズリーがずっと抱えてきた呪縛だった。戦闘ノイローゼといっても差し支えないものなの  
かもしれない。稜のペニスがレズリーの膣内へと侵入していった。レズリーに三人で戯れたような快美  
はなく、美貌が苦痛に歪んでいた。  
「あううっ」  
「初めてなの?」  
「やめないで、お兄ちゃん!わたし、約束を守りたいの!いかないで!」  
(稜、この娘なんだか変だよ……)  

「後悔しない?」  
(稜!) ピコが叫んでいた……。  
「もう後悔はしたくないの!」  
「痛いかもしれないけれど、我慢できる」  
 レズリーは稜に向ってこくんと頷いていた。頬にふれた手の親指が涙をそっと拭うと太腿を抱えられて  
硬いペニスが裂くような痛みとともに押し入ってきた。そしてレズリーの尖りが稜の肌で押しつぶさた。  

 

「たまには、いいだろう?」  
「でも、お姉ちゃんどこに行ったのかな……」  
「ロリィ、付いて行って邪魔するつもりだったりのか」  
「ち、ちがうもん」  
「あううっ、ああ……」  
 ふたりにとって聞き覚えのある閨声が銀月の塔の上から聞えてきた。いつになく烈しいその声に  
ハンナの顔はみるみる赧に染まっていった。  
「ハンナ、お姉ちゃん。痛いよ。ねえ、お姉ちゃん」  
 ハンナはそびえたつ銀月の塔を見上げるが、涙で霞んで見えなくなっていった。  
「帰ろう、ロリィ」  
「う、うん……」  

 レズリーの膣内で稜のもたらした量感の圧倒は快美の兆しを見せていた。強いものに縋りたいという  
願望、過去からの訪問者、それとも快美に躰が慣れていたから。レズリーは稜のペニスで掻き回され  
引き摺られて大きな波に呑まれていった。その女の悦びの喚きはハンナとロリィの耳にも風に乗って  
届いていた。  

 

 稜とレズリーは崩れ堕ちてもまだお互いを抱きしめ合っている。  
「まだ、行かないで、お兄ちゃん」  
 レズリーの荒い息とともに、言葉が洩れる。  
「レズリー、俺はきみのお兄ちゃんじゃないよ」  
「ちがう、わたしのお兄ちゃんだもん」  
 嗚咽も混じった声が耳元で聞えて、熱い頬をレズリーは擦り付けていた。  
「わたしのお家に来て、いっぱい、いっぱい抱きしめて。ねえ、お兄ちゃん」  
(稜、この娘、本当に変だよ。病院に連れて行った方がいいんじゃないのかな)  
「黙れ、ピコ」  
「ごめんなさい、ごめんなさい!お兄ちゃん、わたしのことを嫌いにならないでいて!」  
「ちがうよ、きみのことなんかじゃない!俺は海で逢った時から好きだったよ」  
「ほんと!信じていいの!お兄ちゃん!」  
「ああ、好きだよ」  
「ありがとう、お兄ちゃん」  
 稜はレズリーの唇にそっと口吻をした。レズリーは哀しみの涙の雨に咲く紫陽花の華だった。  

 

  銀月の塔の出来事をハンナとロリィは見ていた。著しい変化が現れたのはハンナの方だった。  
「ハンナ、これ出来たよ」  
「ボク、もういらない。きみももうボクに関わらないでよ」  
「とりあえず、渡しておくよ。そのあと捨てるなり燃やすなり好きにしてくれ」  
 レズリーがハンナの机に丸めたクロッキーの画紙をそっと置いた。  
「要らないって言ってんだろ!」  
 机からレズリーは画紙を払い除ける。  
「目の前でやることはないだろ!」  
「レズリーはずるいよ!ボクを引き摺り込んどいて、あんなものを見せ付けるだなんて!」  
「見たのか……」 
「だったら、どうするんだ!」 
「……」  
「黙ってないで答えろよ!」  
 教室はふたりの喧嘩で騒然となっていた。リンダも遠巻きにハンナの豹変ぶりを心配そうに見守っていた。  
ふたりの喧嘩を止めに入ったのは、ロリィだった。  
「お姉ちゃん、もうやめて!こんなことはやめてよ!」  
 ハンナはレズリーにぷいっと背を向けると教室を出て行った。  
「お姉ちゃん……」 「ロリィ、これ」 「わたしも要らないから」 「そうか」  
 レズリーはしゃがみこんで、ハンナの分の絵を淋しそうに拾うと教室を出て行った。ロリィはレズリーを  
追って廊下で呼び止める。  
「お姉ちゃんは王子様が好きなの?」  
「ごめん、自分でもよくわからないんだ……」  
「お姉ちゃん」  

 

 銀月の塔の出来事の後で、レズリーは自宅でも稜に抱かれた。そして彼に告白をして大声で  
彼の胸で泣いて安らぎの眠りに付いた。そんなことは初めてだった。甘えたことが自分を貶めたような  
感覚に捉われそうで嫌悪してみたり、それでいて両親のいない淋しさを虚勢で凌いできた自分が  
本当に正しかったのかという想いが渦巻いていた。  

「ロリィ、わたしね、あんたぐらいのときに好きな人がいたの」  
「うん」  
「その人は絵が好きだったんだ。だから、わたしも追いつこうと思って絵を始めたの」  
「王子様」  
「わかんない、もっと小さかったかもしれない……」  
 レズリーは嗚咽すると手で口を押さえていた。  
「お姉ちゃん、もういいから」  
 レズリーは烈しく頭を振ると顔をあげて話しを続ける。  
「突然、お兄ちゃんがいなくなったの。突然よ。目の前に黒い大きな壁が立ち塞がったみたいで  
怖くてどうしょうもなかった」  
「う、うん……」  
「あとで聞いたんだけれどね、お兄ちゃん志願兵になったの」  
「戦争で亡くなったの?」  
「ち、ちがうのよ!戦闘訓練中の事故で死んでしまったの!お兄ちゃん、絵があんなに好きで  
やさしかったのに、わたしを守るっていつからか口癖みたいになってた。わたし、なんのことか  
全然わかってなかったの!ロリィ、わたしお兄ちゃんの貌も思い出せないの!」  
 レズリーは蹲って泣き崩れた。  
「お姉ちゃん、泣かないで。わたし、絵を要らないって言ったけど、ハンナお姉ちゃんといっしょに  
貰いに行くから。いつか、きっと行くから捨てないでいて!おねがい!」  

 それからというものハンナはレズリーの存在を無視し続け、ロリィはふたりの関係に小さな心を痛め  
ていた。ハンナはひとが変ってしまったように鍛錬に打ち込むようになっていった。それこそ、雨の日も。  
そんなハンナをレズリーは毎日遠くから見守るようにして眺めていたが、もはや限界だった。  
レズリーが濡れたハンナに傘をさす。射された傘を弾き飛ばすハンナだった。  
「そんなに、わたしのことがキライなんだ。ごめん、もうこないから」  
「待って!」 
「なに……」 
「傘、忘れているよ」 
「いいよ、ハンナにあげる。躰、大切にしてよ」  
 レズリーはそれだけ言うとハンナに背を向けてトラックを去っていった。  
「ボクは雨の日だってトレーニングを休んだりしないよ。そうしないと、リンダにもきみにもボクは  
追いつけないんだ!」  
 そう天上に向って叫ぶと、うな垂れて拳をぎゅっと握り締め、髪もぐっしょりと濡れて雫がフィールドに  
落ちていた。涙といっしょに。そしてハンナは再び雨のトラックを走り出す。レズリーが置いていった  
開いたままトラックに転がる傘もささずに、走って、走って、いつか追いついてみせるとレズリーに  
誓約(ちかい)を立てる。でも脚がもつれ、よろめいてトラックに崩れた。ハンナは四肢を伸ばして  
暫らく雨に打たれる。  
「さむい、さむいよ……」  
 ハンナは雨のトラックに胎児のように躰をまるめて、腕を廻すと自分を抱きしめて眠りに堕ちていった。  
「ボクはいまでもきみのことが好きなんだ……」  

 レズリーが自宅に着くと軒下で稜が待っていた。彼女は彼の胸で大声で泣き、稜のことが本当に  
好きだということを確信していた。  

 

 ハンナが目を醒ました場所はリンダ・ザクロイドの寝室の天蓋のあるふかふかのベッドのうえだった。  
「目が醒めたようね。起きられるかしら」  
 リンダがベッドに腰掛けて、ハンナの様子を窺っている。  
「う、うん……」 
「あら、素直なのね」 
「ありがとう」  
 ハンナはすぐに状況を理解していた。どういうわけかリンダに助けられたみたいだということを。  
「べつに礼を言うことなんかなくってよ。マイライバルが手負いではわたしのプライドが許さないもの」  
「……」  
 ハンナは俯いていて、いまにも泣きそうだった。なんとか気力を振り絞ってのっそりと重い躰を起こそうとした。  
「あっ」  
「ずぶ濡れだったから仕方が無かったのよ」  
 パサッと布が落ちてシェイプアップされた乳房が現れていた。ハンナは裸だった。  
「はい、これ。熱いからゆっくり飲んでね」  
 リンダはハンナの手に薄っすらと湯気の上がるホットミルクを握らせる。  
「わ、わたしが拭いたから、しんぱいはないわよ……」 「えっ?」  
 カップに唇を近づけて、ふーふーとしていたハンナはしどろもどろになって喋るリンダを見る。  
「だ、だって……仕方がなかったのよ」 
「すけべ」  
 リンダはハンナに切り返すことなく顔を赧く染めて固まっていた。ハンナは飲み干したカップを  
置くとリンダの両手を握り締める。  
「うそだよ。あんまり悔しかったから、からかったんだよ」  
 正直には嬉しかったと言ったほうが正確だったかもしれない。ハンナの瞳は潤んでいてその  
気持ちはリンダにも伝わったようだ。  
「あなたの肌はわたししか見ていないから……。い、イヤでしょうけど」  
「もういいから、リンダ。ねえ、おねがいがあるんだ」  
「なにかしら?ザクロイド財閥の財力をもってすれば」  
 なら、レズリーとの仲を元に戻してと叫びたくなる。  
「あなたの胸をボクにかしてくれないかな」  
「わたしの?」 
「そう、リンダのむね」 
「い、いいわよ。それぐらいなら」  
 ハンナは裸でリンダに仔猫のように擦り寄っていってゆくと、彼女のやわらかい胸にゆっくりと顔を  
埋めて、背中に腕を廻して抱きつくと、秘所を隠すようにして太腿を閉じてカモシカのような綺麗な脚を折りたたんでいた。  
「ありがとう、リンダ」  
「だから、感謝なんかしなくとも」  
「もうわかったから、だまってリンダ」  
 リンダの手がとまどいながらも、ハンナの顫える背中をぎこちなく撫でていた。  
「もうだめよ、無茶なんかしたら……いつも、元気なお猿さんでなくちゃ張り合いが無いわ」  
 ハンナは埋めた顔をゆっくりと振っていた。裸のランナーはリンダに抱きしめられただけで、その後はふたりの間にはなにもなかった。そしてリンダの服を借りて馬車でフェンネル地区の自宅まで送られただけ。  
「まちなさい、ハンナ!」  
 ハンナは振り向くと、リンダが馬車から降りて彼女に傘を差し出した。  
「あなたの大切な物でしょ」  
 ハンナはそれをリンダから受け取ると彼女に宣言する。  
「今度は負けないから。ボクは雨の日だって走るよ!それじゃないときみにも勝てないんだ!」  
 その日からレズリーの背中を追ってハンナは走りこんでいった。或る雨の日、トラックにリンダが立ち寄るとハンナが走っていた。  
「お嬢様、ドレスの裾が汚れてしまいます」  
「おだまりなさい」  
「申し訳ありません」  
 トラックでは、あの日のレズリーの傘をさしながらひとり走っているハンナの姿があった。  

 

 稜との関係が深まっていくと、レズリーに遠慮するようになってロリィも疎遠になっていた。その日、  
家に帰ると部屋にはロリィがいたのでレズリーは驚く。もっと驚いたのはロリィの方だったかもしれない。  
部屋を見上げると壁にびっしりと貼られていたのはハンナのトレーニングに励むベストプロポーションだった。  
「ハンナにいっちゃだめ?」  
「だめだよ」  
「どうして」  
「ハンナはいまいっしょうけんめいだからだよ。わかる?」  
「うん……」  
「お姉ちゃん、わたしも仲間に入れて」  
「ロリィ……!」  

 ハンナは二年目の時はいい線までいったが、結局は勝てなかった。しかし、三年目にしてリンダに  
勝てたのには訳があった。レズリーがバイトのときロリィに連れられて合鍵で部屋の絵を見せられた  
からだった。  

 そして月日は流れプロキアの突き付けた咽喉元の剣であったヴァルファバラハリアンの軍は退け  
たことで傭兵の役目は終わった。 
レズリーの自宅のドアをハンナはけたたましくノックしていた。  
レズリーがようやくドアから顔を出した。  
「ハンナ……!」  
「レズリー、泣いていたの……。彼、今日、出立するんだろ。だったら見送りに行こう!」  
「哀しくなるからダメ」  
「後悔したくなかったんじゃないのか!」  
「どうしてそれを・・・、ロリィからね」  
「そんなことは、どうでもいいよ!いっしょに連れてって、てお願いしなよ!」  
「でも」  
「好きな男にぐらいは、甘えていっぱい迷惑かけりゃいいんだよ!ボクと行こう!」  
「もう、遅いよ」  
「間に合わせればいいさ」  

 

港にはロリィだけが見送りに来ていた。  
「わたしはおにいちゃんが好き」  
「ありがとう、ロリィ」  
そう言って唇にやさしくキスをする。ロリィは笑っているのに瞳からは涙がポロポロと落ちていた。  
笑顔で王子さまを見送ろうとしたのに涙が後から後から溢れてくる。  
「ロリィはきっと素敵なレディになるよ」  
 ロリィの涙の笑顔が稜に判りすぎるほどにそれを実感させていた。  
「うん、きっとなるから、またドルファンに来てね。約束」  
「ああ・・・きっと来るよ」  
 稜は小指を差し出す。  
「なあに?」  
 ロリィが嬉しそうに笑っている。  
「東洋のおまじない。ねがいが叶うかもしれないよ」  
「ほんと」  
「さあ、どうかな。ためしてみよう」  
「うん」  
 ロリィの小指と稜の小指が絡み合う。でも、ロリィは稜が二度と帰ってこないような気がしていた。  
だから泣かないで笑顔で送ろうとしていたのだ。そんな予感がそこはかとあった。涙は枯れることなくロリィの  
頬を濡らしていた。やがて出航の合図の銅鑼が鳴って船はゆっくりと離れていった。  
  灯台のところにはハンナがいて、何かを叫んでいる。  
「バッカヤロー、二度とくるな!」  
(ひどいね)  
「それぐらいのことを俺は彼女にしたんだよ」  
(ねえ、みてみて!)  
 塔の陰からレズリーが姿を見せていた。レズリーが必死になって大声で叫んでいた。  
「いかないで! わたしをひとりぼっちにしないで!」  
 そう泣きながら大声で叫んでいる。  
(稜、どうするの?)  
「どうしたらいい?」  
(ばか、決まってんじゃん!)  
「だよな」  
(飛び込んじゃえ!)  
「ハンナ、クロッキー帖、父さんと母さんに必ず渡して。それから、渡したい物もそこにあるから!」  
「わかってるよ。早く行きなよ。いってらっしゃい!」  
 リンダから情報は教えられていた。ロリィに話した時は、ハンナお姉ちゃんがレズリーお姉ちゃんを  
説得してと言われた。強情なレズリーだから、ぎりぎりに賭けることにしていたのだ。ハンナの大博打。  

「もう間に合わないよ!」  
「そんなこと聞いてんじゃないよ!好きなのか、嫌いなのか、どっちなんだよ!」  
「ありがとういってくる!ロリィにもありがとうって言って!」  
 そう言うとレズリーは裸になって海に飛び込んで泳いでいった。その時点でデッキ上は大騒ぎに  
なっていた。稜も飛び込んでしまい、船は停船してやんややんやの大騒ぎとなる。  

  そして、ハンナとロリィは主の居なくなった部屋を訪れた。レズリーの部屋にはトラックで走るハンナの  
ベストフォームが描かれていて、部屋中にびっしりと貼られていた。ハンナはそれを見て口を押さえる。  
「ハンナお姉ちゃんへの贈り物だって言ってたよ。大切にしてって」 
「う、うん……」  
 その絵には、自分がなにかに打ち込んでいたときの情熱が満ち溢れていた。ハンナの声はうわずって、  
ロリィを抱き寄せるとふたりして声をあげて泣いていた。気持ちが落ち着いた頃、レズリーの言っていた  
引き出しから、わたしの宝物と描かれたクロッキー帖を出して開いてみた。そこにはレズリーの両親の姿が  
描かれていて、たぶん一人暮らしになってから描き溜めたものだろうと思われる。そして最後の方には  
三人がベッドに楽しそうに腰掛けている絵が描かれていいて、色あせても永遠に輝き続けるであろう  
思い出がそこにはあった。  
「レズリーお姉ちゃん、もう帰ってこないのかな……」  
「そんなわけないだろ、いつかきっと還って来るよ。レズリーはきっと帰ってくるよ!」  
「うん!そうだよね!わたしたちが、待っていれば帰ってくるよね!」  

 後部デッキでは、生まれたままの姿のまま黒い大きなマントに包まれて、遥か彼方に  
見えなくなってしまったドルファンをレズリーはじっと見つめていた。  
「いつか、帰ってこれるよ」  
 レズリーは顔を捻じって彼の顔を見つめる。  
「おねがい、キスして」  
 唇が近づいて、レズリーは腕を後ろに廻して彼の濡れた髪を弄った。  

 

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