Is this a wrong ending?
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水の匂いで目が醒めた。
「………」
瞼を開けると真っ先に視界に飛び込んできたのは、真円を描く黄金色の月だった。
肘をつくとじゃり、と砂の音がして、起こした上体からばたばたと水が落ちた。
ずぶ濡れの身体は重力に忠実でだるく重い。
周りを見回す。どこまでも続くような広い水面に満月が映り込んでいた。
後ろを振り向くと桜並木が満開に咲き誇り、時折温んだ風に花弁を散らしている。
「………春、か」
呟く。投げ出された脚に湖の柔らかな波が打ち寄せて、ぱしゃりと砕ける。
――――帰ってきてしまった。
天を仰いで大きく息をついた。
周りの景色や気温から考えて最低2〜3ヶ月は経っているのだろう――あの日から。
魔女が山ノ神を喚ばんとし、自らが贄となることを決めて異界に渡った、満月の夜。
あの夜足を踏み入れた池とは遥かに大きさの違う水が今眼前に広がるが、その景色は良く似ていた。
同じ満月の合わせ鏡。
はりつめた水面。
そして視た異界の空、そこであったこと――――様々な記憶が去来した。
贄を拒み現世に返した今、羽間の祟り神がどう動くのかも気掛かりだった。
しかし、まずはここから動かなければ始まらない。現在地が何処かもわからないが、とりあえず人を探して――――
「………?」
ふと、湖上の月が揺れた。
顔をあげると、100メートル程先に人影が見えた。
探す手間が省けたようだと思わぬ幸運に立ち上がり、声を掛けようとしたが―――何やら様子がおかしいことに気付いた。
人影は、湖の中へ向かって歩いていたのだ。
しばし足を水につけて躊躇っていたその誰かは、しかし覚悟したかのようにざぶざぶと波を立てて湖の中へ入っていく。
空を再び見上げるが、広がるのは赤とは程遠い漆黒だ。異界ならともかく、ここは現世――――それは確実に異常な行動だった。
「……何を」
思わず立ち上がる。人影は女のようだった。真っ白なワンピースが濡れて華奢な身体に張り付いている。
表情や顔の造作は遠く判別しがたかったが、ぶつりと顎のラインで切られた髪、
痛々しいまでに気高く上げられた横顔はいつか世界史の教科書で見た断頭台に上る女帝を彷彿とさせた。
一種絵画的とさえ言える風景、その崇高さに一瞬歩を止めかけて、―――はっと気付いた。
「木戸、野………?」
憂いを乗せた瞳、通った鼻筋。その顔はよく知ったつくりをしている。
呟くほどの声だったが、少女は静かに振り向いた。
先程より近い距離で見るその顔は紛れもなく木戸野亜紀のもので、しかし彼の知る木戸野亜紀の表情をしていなかった。
息が止まるほどの沈黙ののち、血色のないくちびるがぎこちなく動いた。
う、そ。
現実を拒絶するようなその二文字。
しかし彼が一歩ずつ近づくたびに、パズルのピースを剥がすように彼女の頬から無表情が落ちる。
ぼろぼろと落ちた破片が夢を壊し、彼女の瞳を開かせた。
「……恭の、字?」
ざぶ、波音が止まる。
もう口づけさえ交わせる距離になって、ようやっと彼女が口を開いた。
「……嘘でしょ」
「生憎嘘じゃない」
「…」
「試してみるか」
手を伸ばして頬に触れる。きゅう、と小さく抓ると、かすかな痛覚に唇が震えた。
「なんで………なんで」
「判らん。ただ………帰ってきたことは事実だ」
腫れ物に触るように、頬の上の手に手が重なる。
間近に見る亜紀は美しく化粧していた。長い睫毛、薄くグロスを引いたくちびる。
それだけではない。小さな爪はきちんと整えられ、身につけているものはそれぞれ彼女の気に入りのものであることに気が付いた。
「……死に化粧のつもりで来たのか」
「…………」
亜紀は混乱したように、そしてきまり悪そうに目を逸らした。その肩を引き寄せる。
「…悪いが、ここで見逃すのは倫理的に自殺幇助になりかねん。上がるぞ」
冷えきった身体は小さく震えている。一刻も早くここから出るべきだと腕を取った。
あまりにはかなげに見えるその姿から、抵抗など予想もしなかった。
しかし、
「あんたにはわからない!」
――――――ぱん、と音が響き、一拍遅れて振り払われた手に気付いた。
顔をあげて彼女の表情を確かめる間もなく胸座を掴まれる。蹴り上げられた水が叩き落ちて耳障りな音を立てた。
「あんたはいつもそうやって身勝手だ、正論で私に止めをさしておいて、私をこの世界に縛り付けておいて………!」
激情に裂けんばかりの美しいまなじりが彼を射る。
慟哭に近い悲痛な叫びとは裏腹に力ない拳で薄い胸を叩かれた。
「あんたに分かるの?朝起きるたびに何もかももうないんだって実感させられて、それでも自分が選んだ道だって自分を納得させて、
何度も何度も泣いて泣いて、生きてなんかいたくなくて、でも死ぬこともできなくて………この気持ちがあんたに分かる?
………それでも、私はここまでは来た。それが私にできる最後のことだと思ったから。私にはあんたをこっちに繋ぎとめておく程度の価値もなかったんだから」
理解している頭と受け入れられない心が擦れ合う痛みは、日に日に彼女のガラスに罅を入れていったのかもしれない。
一気にまくし立てた彼女の気管は限界を訴え、息を吸った瞬間に激しく咳き込む。
思わず背を摩ると、しばらくの後掠れ切った声が呟いた。
「………でもだめだ、私………楽になりたかった。………楽になりたかったの」
亜紀がずる、と崩れ落ち、巻き込まれるように彼も水中に膝をついた。湖は存外深く、胸まで水が迫る。
支えないとこのまま水底まで墜ちて行ってしまいそうな身体を両腕を回して抱きとめた。
「…悪かった」
選びかねて口をついた言葉は謝罪だった。
先程の印象は嘘ではなかった。彼女は理性の王国の女帝だった。
幸せとイコールでつながることのない正しさの羅列にがりがりと心を削られながら、思い出さえも傅かない孤独な玉座を守る女王。
女帝になることを選んだのは彼女だ。しかし、戴冠式の司祭は彼だった。少なくともここまで彼女を追いこんだのは。
「…………っ…」
ぎゅう、とすがる腕に力が入る。
茨の王冠を取り払うように濡れそぼった髪を撫でると、瞼の押し当てられた肩に湖の水とは違う熱い雫が染みた。
頭を抱えて抱き締めなおすと、逆の腕が薄く浮き出た肋に触れた。少し痩せたのかもしれない。
心身症の痕跡をまざまざと見せつけられ、流石に自らの失策を実感した。彼女を生かすために現世に置いてきたはずが、これでは遅かれ早かれ身が持たなかっただろう。
せめてこれ以上身体が冷えないように、首筋に頬に耳元にと唇をつけながら強く腕の中に閉じ込める。
「………………」
しばらくそうしていると、次第に落ち着きを取り戻したのか震えがおさまる。
それを見て再度岸に上がるよう促すと、今度は素直に従った。
その代わり、強く腕のあたりの服を掴まれる。まるでまた彼が消えてしまうのではないかと恐れるように。
「………お願いがあるの」
「何だ」
「あんたが向こうに行ってから今までのことを教えて」
目の前には桜の木々が誘うように揺れていた。
亜紀は歩を止めない。二人は水辺から離れ、その白い闇の中へ進み続ける。
もう何一つ秘密はなしにして、と絞り出すように彼女は言った。
「全部話して。全部………」
一度だけ湖を振り返り―――彼は口を開いた。
*
目を開けるとそこは山の麓のようだった。
真っ赤な空、枯れ死んだ草木たち――――紛れもない異界の風景。
どこまでも伸びる長い長い石の階段が足元から続いていた。
「………行きましょう」
珍しく、促したのはあやめのほうだった。
「この場所を知っているのか」
「………はい」
目を伏せたまま彼女は言う。きっと、数十年前に彼女が辿った道の前に自分たちはいるのだろう。
「………見た目ほど、長くはありません。上りましょう」
一歩踏み出し、上り始めると、確かにぐんぐんと下は遠ざかっていく。
二人とも無言のまま歩を進めた。
そのうち、風もないのに木々がざわめき始める。新たな生贄の来訪を悦ぶように。
「………あれは」
にわかに夕闇の森の中、かすかな光が現れた。
その明りの正体を確かめようとして――――思わず足を止めかける。
「………」
石畳の先には―――数十人のあやめと同じ赤い服を着た少女たちが、手に手に提灯を持って両脇に並んでいた。
年頃はある程度ばらついているようだが、下は八か九歳、年長でも十三、四は越えないだろう。
整然と一列に立つ彼女たちはみな巫女のように楚々と目を伏せ、表情は読めない。
「………同輩のようだな」
あやめにちらりと視線を遣ると、彼女はちいさく唇を噛んだ。
「………彼女たちも、多分"供儀"でしょう。………山ノ神は少女がお好みと見えますので」
何かに耐えるように押し殺した声。彼女が口を閉ざすと音は消えた。
顔を上げると、目の前には大きな社があり、ますます多くの少女たちがその下に、階段に、そして観音開きの扉のそばに傅いている。
足を止めると、じゃり、と砂を踏む音を合図にしたかのように少女たちがかすかに顔を上げた。
両脇の二人の手がかかり、扉が開かれる。
その奥に――――――ソレはいた。
子供のような姿に、最初は眷属の少女たちの一人かと思った。しかし、その顔がほの見えた瞬間、悟った。
瞳孔のない、真っ白な瞳が、こちらを見た。
にい、と口元が引き上がる。虫の頭を引きちぎって笑う幼児の笑みだ。
赤子のようで、死人のような生白い手。それが無邪気に伸べられる。
――――――――これが、羽間の隠し神。
取るべきなのだろう、そう判断して一歩近づいた。
しかし、次の瞬間
――――――――その掌がどろりと溶けた。
「………!」
後ずさる間も与えず、突如猛烈な枯草と鉄錆の匂いを含んだ風が吹きあげた。
祟り神の白い瞳が――――いや、並び立つ顔のない少女たちが、社が、木々が、空が、世界全てが怒りに歪む。
欲しいものが手に入らなかった時の子供のようなあさましい癇癪に、幼い声が呪いの言葉を呟き始める。
―――――――いらない、いらない、来た、障りモノが
―――――不適だ、厭わしい、縁が、軛が
――――厭わしい、番が、忌まわしいモノが
――――――――そう、つがいだ。せいのにおいだ。
「やめて!」
あやめが叫んだ。
しかし、逆にそれが引き金になったかのように、少女たちの身体がぶく、と膨らんだ。
彼女たちが持っていた提灯が足元に落ち、鬼火のように一斉に発火する。
ぶじゅぶじゅと赤い布の下から音がして次の瞬間弾け、崩れた"手"が幾筋も幾筋も飛んだ。
「きゃあぁぁっ!」
長い髪を掴まれ悲鳴を上げる彼女を容赦なく手は引きずり倒そうとする。
急に強い眩暈を感じると同時に、足元がぐにゃりと歪んで隣の小柄な体が傾ぐ。
「っ、」
反射的にあやめの腕を掴もうとした瞬間、肩口にどん、と鈍い衝撃を感じた。
振り向くと、びゅるん、と白い手が戻っていくのが見えた。
バランスを崩す彼を見つめる少女たちの口元は引き裂けそうに笑っている。
――せい、セイ
―――生が、歳が、
――――正は、制は、
―――――醒に、声に、
――――――清と、誓と、
―――――――精も、情も、
――――――――世を、性を、
『えにしなきものが、異世のもの』
『つがいは番い、常世の鎖』
足元はもはや底無沼同然にぬかるみ、自分が倒れるのがスローモーションのように分かった。
反転し行く世界で仰いだ赤い空は水底から見上げたかのように波紋を立てて歪み、揺らぎ、
―――――――その後の、記憶はない。
*
「………気がついたらここにいた」
亜紀は顔を上げずに問う。
「………あやめは?」
「判らん」
ただ、状況からしてこちらに返されているかもしれんな、と付け足した。
夜が明けたら状況確認がいるだろう。
「でもなんで………山ノ神はあんたたちを追い返したの?」
「それも不明だ」
そうは言ったものの―――薄々理由には感づいていた。
古より時として生贄には純潔が求められる。特に、羽間の隠し神に捧げられたのは主に年若い少女たちだった。
それに、こちらに返されるときに聞いた詩も―――
「………どうしたの」
「いや」
隣に立つ亜紀を横目で見る。
透けかけた白い衣服に浮き出る背骨の筋や内腿の曲線―――自分はこの少女の身体を知っている。
そう思った瞬間、何かが自分の中でかすかに動いた。
「………今度はこちらの番だ。ここは何処なのか、そしてなぜお前が此処にいたのか聞きたい」
その正体を呑み込んで尋ねる。
「………ここは私の家の近く。転校先のね」
地名を告げられ、羽間からの距離に驚いた。
桜並木が途切れ、数段の階段を上ると広い道路に出た。深夜のためか通る車一つない。
彼女が指差す先には小さなアパートが見えた。そこが彼女の現在の家だという。
「………理由は」
「別に計画してたわけじゃないよ。私だってこの地獄で生きてくつもりだったんだから」
でも、そう呟いて口を閉じる。無言が続くうちに、ドアの前までたどり着いた。
鍵もいれずにノブを回すとあっけなく扉は開く。彼を招き入れ、静かに振り向いた。
「………呼ばれた気がしたって言ったら、笑う?」
そう言ってかなしげに微笑んだ彼女は、ぞっとするほど美しかった。
くら、と眩暈を感じる。
冷えた肌の内側で赤く熔けた焔がちろちろと蠢くのが分かった。
それを鎮めるために、もしくは伝えるために、頬を捕らえて深く深く口づけた。
*
浴室になだれ込めばどうすべきかは何もかも分かっていた。
濡れた衣服を引き剥がし合いながら荒々しく唇を重ねた。熱いシャワーの雨が降って二人を平等に濡らしていく。
砂のついた髪を洗ってやろうとして、今更だな、と思いながら尋ねた。
「髪……切ったのか」
「そう。ベタでしょ………失恋したら髪を切るなんてね」
自嘲気味に笑いながら、短くなった髪を摘まんで俯く彼女を抱き寄せて泡で包む。
「それでも私、頑張ったんだよ………何もかも忘れて、人に紛れようと思った。なのにこのざま」
結局馬鹿者は私だよね、そう言って亜紀は小さく拳を握りしめた。
髪の泡を落としながら、肩に頭を預けさせる。彼女の自傷を止める、いかなる言葉より有効な手段を今の彼は知っていた。
「いつになったら私、強くなれるのかな……」
答えず、身体に手を滑らせる。撫でるように全身を洗う。
濡れた皮膚感覚に、官能の波が少しずつ寄せてくる。切なげに眉を寄せて亜紀が上目づかいに彼を見る。
溺れてしまえとばかりに口づけると、躊躇うようなしぐさを見せる。
それさえも忘れさせるように歯列を割って舌を入れ、上顎の内側を先端で擦った。
「………っ、ふぅ、っ」
小さく声が漏れる。上唇を吸い、下唇を舐め、さらに煽っていく。
鼻の先を軽く合わせ、頬を寄せると、おずおずと自分からも唇を重ねてきた。
「っ………」
ちゅ、と口端を吸われ、軽い痛みにいつの間にか唇を切っていたことに気付いた。
微かな血の味、仔猫のように傷口を舐めてくる彼女がいとおしい。
ぴちゃぴちゃと淫靡な音が響く。
ふと目が合い、恥じらったように逸らされた。
「………ねぇ………」
息継ぎのために一度唇を離すと、ひとり言のように呟く声が落ちてくる。
言いかけて噤んだ口を開かせようと頬を撫でると、しばらく迷っていたが、
ふいに堪えきれなくなったように抱きつかれた。
「………もう、どこへも行かないで………」
ひどく幼く聞こえる声色。
裏腹に艶めいた呼吸音。
「………三度目の正直、とは行かなかったからな」
じわじわと胸のあたりに滲みていく温度は焦燥感にも似ている。
肌と肌を合わせ、縺れあうたびに彼女の声が熱を帯びていく。
本能的に柔らかな感触を求め、円みを帯びた肩から鎖骨を辿って胸に手を添えた。
「ひっ………ぁ、う」
手のひらの中央をぷくりと硬くなったつぼみが突く。
持ち上げるように愛撫すると華奢な身体の中で豊かにふくらんだ胸はアンバランスなほどの重量感を伝えた。
尖った爪の先で小さく頂点を引っ掻くと、押し殺した声を上げ背を反らした。狭いバスルームで二人の身体がぎこちなくも密に絡み合う。
「いた、い………やぁ」
指をとられ、ちゅ、と口に含まれた。付け根まで舌を伸ばし愛撫する様はさながら口淫のようで、ぞくぞくと快感が手首を伝う。
人差し指、中指、荒い呼吸をしながら小さな歯で爪を噛み切られる。
口を開かせ、舌の上に乗った貝殻草の花弁のような爪の欠片を親指の腹で取り除くと、閉じられない口から唾液と喃語のような音が零れた。
手を離すと力なく壁に凭れて喘ぎ交じりの息をつく。
ガラスのケモノと呼ばれた気高い少女の乱れた姿に湧く劣情に、それを所有欲と定義した持論が少なくとも一面では正しかったと確認した。
「………流すぞ?」
シャワーノズルを手に取り、彼女に向ける。敏感になった肉体がどんな反応を起こすかを分かった上で。
亜紀は逃れようとしたが、肩を押し付けられその抵抗は叶わない。
「ひ………っ、いやああぁあぁ――――っ!」
強すぎる刺激に、彼女は悲鳴に近い声をあげてびくびくと震えた。
さらに追い立てるように痛々しいほどふくらんだ胸の頂点に、柔らかく白い腹部に、そして腿の間の疼く秘所に水流を当てる。
頭を左右に振ってもがく様子が嗜虐心と庇護欲を同時にそそる。
水を止めて抱きしめてやると、しがみついてぼろぼろと涙をこぼした。
「も………いや、やめて………こんなの、」
「……悪かった。なら…お前の好きなようにしよう」
ああ、自分はおかしいのかもしれない、妙に冷静に思った。
夢魔の夜は彼女を助けるという意思が彼を動かしたのだし、その後に抱いた感情さえ理性の定義と統制の域を出なかった。
少なくとも自ら論じたような暴走性や中毒性に冒されることはなかったのだ。
「………どうして欲しい?」
「分かってる、くせに………」
涙目でにらむ瞳、また新たにこぼれた雫を舐めとる。
「言葉にして貰わない分には理解しようがないな……済まんな、察しが悪くて」
それが、今はどうだ?
異界へ行ったものは何かをなくすことも多いが、持ち帰ることも多いという。
今回、自分は十数年前に喪った感情を持ち帰ってしまったのかもしれない。
だがそれは、お伽噺の多くがそうであるように、おぞましい化け物を内に呑み込んだパンドラの箱だった。
この自分でも制御できない欲求は、その箱から出てきたものなのだろうか。
或いは気付いていなかっただけで、大きな葛篭を選んだ舌切雀の老婆のように
欠けた心の底に元々強欲が潜んでいたのかもしれない。
「……ベッド、…連れてって………」
羞恥に耐えながら自分を閉じ込める腕に縋り懇願する姿の愛らしいこと。
密かな満足を覚え、殊更優しく髪を撫でてから扉を開けた。
*
バスルームを出てから薬を含ませ、それが効くまでの間身体や髪を乾かす。
それを口実にじわじわと追い詰めていくと、柔らかな布が敏感な部分に擦れる度に滲んだ声で啼く。
「んっ………んぅ」
耐えきれずに身を捩るのに気づかぬふりをする。
自責を止めさせるための行為だったはずなのに、もっと乱れさせたいという思いは最早自己目的化している。
腕に肩にしがみつかれ、いやいやをするように左右に振る頭が胸に押しつけられる。
時計の針を振り向きざまに確かめ、互いの限界を認めて身体を離した。
寝台へと手を取ると、たてないと震える声が呟いた。
「…掴まれ」
腰を支えて立たせると、ふらふらと二、三歩足を進める。
しかし長くはない目的地までの距離を、寸前にまで高められていた官能は待てない。
ふと足が縺れた瞬間、電流に打たれたようにびくんと震え、泣き出しそうな声を上げた。
「ひっ………あぁ、っ!」
不本意に迎えた絶頂に力を失いぺたんと座りこんでしまう。
横に膝をついて抱きしめ、落ち着くのを待った。
「はぁ、はぁ………っ」
瞳を覗きこむと、恥ずかしさに耐えきれないのか逸らされた。
少しずつ身体をずらし、ようやく寝台の脇まで連れ込む。
タイミングを合わせて狭いシングルベッドに倒れこむと、布団にしみ込んだ甘い香りが立ち上った。
「………木戸野の匂いがする」
「やっ……」
余裕はなかったが、血の通う肉体のかたちをなぞりたくて、唇を、舌を這わせる。
瞼に口づけ、耳を甘噛みし、首筋を舐め、乳房を吸う。
ただ、欲しかった。
義務でもなく、手段でもなく、自らの欲望で彼女を抱いているのだ。
そのことを自覚した瞬間、熱情が加速する。
「脚………開けるか」
俯いて両手で顔を覆った彼女の脚はぴったりと閉じられ小刻みに震えている。
どうすればいいか手に取るように示す自分の本能に従い、呼気を含んだ声で囁く。
「木戸野、………はいりたい」
まるでその一言が魔法の呪文ででもあるかのように、拒んでいた力が抜ける。
腿の間に身体を滑り込ませ、親指で花芯を押し捏ねながら十分すぎるほど濡れ切った入口に押し入った。
「あっ……やぁんっ……!」
「………ん………」
ぎゅう、と即座に締め付けられる。きついことに変わりはないが、同時に蕩けるように柔らかく熱い。
純白よりは薄紅が似合う、男を知った身体の感触。
引き上げて腿の上に乗せる形にすると、より深く繋がる感触に息を詰める。
「っぁ、んっ、ぃぅ……」
切なげにキスを強請られて応えてやると、目元に安堵の色が差した。
そのまま動かずにいるとこちらの頭を細い腕が抱きしめる。
柔らかな胸に頬を埋め背を撫でた。
パンドラの箱はまだ閉じない。さらに求めさせたくて、両手を握り合ったまま後ろに倒れこんだ。
「ひぁ………っ!?」
何を求められているのか悟り、動揺する腰を押さえて突きあげる。
親指で腹部をかるく押すと、感じるのか締め付けが強くなった。促して自分から腰を揺らさせる。
「っあ………きもち、い、」
自分も同じ快楽を得ていることを教えたくて、時折身体の横につかれる手に触れると、
そのうち甘い息を漏らしながら上半身をかしがせる。
顔にかかる長い前髪を不器用に手のひらでかきわけられ、やわらかくくちびるを重ねられた。
行為に相応しくないほど、優しくてうつくしいくちづけ。
「………木戸、野?」
彼からの口づけに対する返しではない、純粋な亜紀からのキスは初めてだった。驚いて見つめ返す。
「……恭の字、すき………大好き」
また涙をこぼしそうな顔で、そのくせ何か真剣な話のように真っ直ぐに目を見て、彼女は言った。
「ずっとそう言いたかった。あの夜、言いたかった……の」
必死に手を取って絞り出すその様子が何故か、死にゆこうとするものを説得するさまに見えて。
……ああ。
妙に納得した。そうだ、あの時、きっと確かに自分は彼女を呼んだのだ。
だから。
「やっと、やっといえた――」
頬を撫でられる。んっ、と小さな声を漏らして身体をずらされた。
そこからまた生まれる快感に、愛も欲望も一緒くたのまま、二人で高みを目指す。
不慣れな動きも溢れる蜜が円滑に塗り替えていく。水音が響く中、大きな大きな波が来る。
「くっん、ぁああぁっっ!」
「………っ、」
彼女の絶頂を避けきれず、抑えていた欲望を吐き出す。
一滴残さず飲み込もうとするように顫動するナカを感じながら、くったりと倒れこんだ上半身を抱きとめる。
余韻のあまりの強さに荒く呼吸を繰り返すと頬ずりされた。仔猫の感触。
撫でてやろうとすると、意外にも微笑まれた。
「……ぁ、は…かわい」
「………お前」
余裕のなさを指摘され、いとおしさがサディスティックな感情に取って代わられる。
繋がったまま一気に体勢を逆転させた。
「っきゃ………っ!?」
「悪いが………お前ほどじゃないぞ?」
男性的と言う言葉とは程遠い自分の身体でも、彼女との差異は歴然だ。細い手首を打ちとめる程度の力はある。
押さえ込んだ位置から思い切り奥を狙ってやると、ぐじゅ、と濡れた音がして二人分の体液が結合部から滴る。
思い出させてやるのだ。誰が彼女を女にしたかを。
足りない、もっと欲しい、そして、欲されたい。
「あっ…やああん…もう…くうぅっ…あっ!」
両腕両脚を必死に伸ばし、組み、抱きついてくる亜紀に、ふと昔の事を思い出した。
授業の課題で出された死と乙女の絵画に、自らを重ねて泣いていた彼女のことを。
死神に恋した乙女は去り行く彼を止められず崩れ折れるのみ――――その結末を、彼もまた自覚していた。
だが、と内心自嘲した。
現実はこの様だ。死神は乙女を突き放せなかったではないか。
それどころか、この少女は文字通りその肉体を以て彼を生の世界に引きずり込んだのだ。
「やぁぁっ!!ぁ、ぁあ、あ、っあ!」
激しくなる動きにひときわ高い声が上がる。
彼女の何が自分の褪せた情動をも突き動かすのかは分からない。
泣きじゃくる姿はこんなにも無力で、自分でもどうしようもないのだろう痙攣に、
ただ耐えることしかできない存在なのに。
欲しくて堪らない。追い詰めて追い詰めて、頭の頂点から爪先まで、喰らい尽くしたいほどの衝動。
どちらが相手を強く欲したのか、今となっては分からないし、もうどうでもよかった。
もう一度奥まで。その奥の奥の、心まで貫くように。
「あっ、だっ、だめ……もぅ…っ……っも、っぁああぁぁっ!!」
「………く、っ」
ホワイトアウトと、間違いなく経験を越える衝撃にも似た快楽。
しかしそれはなぜか、安堵に似ていた。
―――――――隣に倒れ込むと、亜紀がうすく目を開けてこちらを見た。
涙のあとの残る頬、潤んだ瞳、あどけなく開かれたくちびる。
うっすらと浮かんだ汗すら官能を誘う凄艶な表情だった。
「………木戸野…お前」
思わず口を開く。上手く声が出ないことに気付く。
「…今、恐ろしく艶めかしい顔……してるぞ」
「……っ、あんただって」
真っ赤になりながらも反論された。
成程今の己もひどい顔をしているに違いない、頬は酷く熱く呼気も乱れたままで、強張った手は握り合った指も解けない。
答えずただ見つめていると、しばらくして大きく息をついて亜紀が言った。
「魔王陛下のポーカーフェイスがこんなふうに崩れる日を見るとはね……」
ひょっとしたら、世界って明日あたり終わるんじゃない?と
甘い時間はお終いとばかりにいつもの毒舌が振る舞われた。
ため息をついてみせる。その耳の赤さが引いていないのも知っていたが。
「……近藤といいお前といい、俺を一体何だと思ってるんだ」
「とりあえずあんたは自分の渾名の由来をよく考えたほうがいいね」
複雑な気分で口を閉じる。横目同士の視線が合う。
泣き笑いのような表情で、亜紀は腕を広げた。
「……お帰りなさいませ、わが君」
生なる地獄の玉座へ。
冗談めいた台詞が擽ったかったのか、すぐにその表情ははにかんだ微笑みに彩られる。
その様は庇護欲をかきたてる少女のものでもあり、また美しく気高い王妃の姿にも見えた。
「……ああ」
埋めた首筋、広がる髪の匂いは温度を伴って甘く染み込む。
枯草と鉄錆の香りはもう思い出せないかもしれない、そんな気がした。
…………………
※本作中で山ノ神を処女(童貞か)厨・ロリコンとする記述があったことをお詫びいたします
※捏造設定・キャラ崩壊・文体の中二っぷりは仕様ですご寛恕を
みなさんには今までお世話になりました。ありがとうございました。