※作中の絵は実在します、結構怖い絵なので検索注意 
※自サイトに掲載したものです 
 
 
死と乙女  
 
 
進学校である聖学付属でも、一応申し訳程度の芸術科目はある。 
但し試験はもってのほか、実技に対してレポートの量が圧倒的に多いという状況が実情で、 
さらに提出さえすれば単位は安泰なので、授業時間はエスケープを決め込んで自習、 
家でレポートを書くといった者も多い。 
 
「……また気味の悪い絵を選んだもんだね」 
 
そして例に漏れず持ち帰り組だった亜紀は、放課後立ち寄った空目宅のリビングで、 
課題として示された一枚の絵画のプリントを前に眉をひそめた。 
 
「エゴン・シーレの『死と乙女』か」 
 
右に同じく空目も―――しかしこちらはやや面倒そうな表情でため息をつく。 
 
「これについて語れ、で400埋めるのはきつい気がするんだけど… 
そもそもあんまり長く見ていたい絵じゃないね」 
 
薄っぺらい紙の上に描かれているのは、抱き合う男女である。 
 
しかし濁ったような色調と折れそうな線の中、男はまるで髑髏のごとく描写され、 
女も生気なく不気味なほど細い腕をその背に回している。 
 
画面に映るのは退廃的な耽美さというより、恐れ。 
そして、わけもなく悲しくなるような悲愴感だ。 
 
「確かにその通りだな」 
 
それを拾い上げて彼も呟いた。 
 
「この絵から純粋に感じる感想はそんなものだろう。 
他に書けるとすればシーレの作風全体を踏まえて 
作者の個人的事情に立ち入るくらいしかない」 
 
亜紀はうんざりした。 
いちいちそこまで調べなくてはならないのだろうか。 
 
「が……おそらくそこは本筋ではない。出題意図は読める」 
「どんな?」 
 
顔を上げると空目は机に肘をつき、指を軽く組む。 
魔王陛下の講義の始まりだ。 
 
「ヨーロッパには元々『メメント・モリ』、つまり死を想えという言葉が表すように 
いずれ来る死を意識して日々を生きよという思想があった。 
『死と乙女』というモチーフは将来ある乙女が死神に無情にも命を奪われる、 
というあたりがその思想にうってつけだったんだろう…… 
絵画のみならず音楽や詩に於いてもよく主題にされている」 
 
確かに、よく聞くタイトルではあった。 
なるほどね、とうなずくと彼は続ける。 
 
「だが、後世になると抵抗する若き乙女を死神が蹂躙する、 
という所に焦点が当てられ、恋愛的、官能的な描き方をされることが多くなった。 
この絵はその時代のものだろう」 
 
宗教性から人間主義へとの変化が大きなポイントだろうな、と彼は言う。 
 
「つまり世界史に絡めようとしているわけだ。 
だからそのあたりの背景知識を適当に入れて書けば400字くらい大したことはない」 
「………うちの学校らしいね」 
 
了解してペンを取る。裏をメモに使おうと、もう一度絵のプリントを手にした。 
 
「………抗う乙女と、蹂躙する死神…」 
 
しかし――――そこで、ふと思った。 
 
この絵はまるで逆に見える。 
死神が乙女を捕らえているのではない。乙女が死神にすがりついているのだ。 
 
死神は優しく彼女の頭を抱きながらもう片手ではその肩を押し戻している。 
ここから先には連れてゆけないのだと、拒むように。 
 
「…………」 
 
おいていかれるかなしみ――― 
画面に漂う悲壮感の正体は、本当はそれではないのか。 
彼女には切実な心当たりがあった。 
 
 
ふいに目の奥がじん、と疼いて、ペンが止まる。慌てて席を立った。 
 
「どうした」 
「…お茶いれてくる」 
 
ごまかしにキッチンへ向かい、熱い紅茶を淹れる。 
大きくため息をついた。 
 
―――――あれはまるで、私だ… 
 
この世ならぬ者に恋した愚かしい乙女。 
泣いて懇願しても、いつか彼は遠く遠く去ってしまう。 
 
ぎゅ、とくちびるを噛み、頭を振ってリビングへ戻った。 
カップを前に置き、亜紀は魔王陛下と呼ばれる男の後ろ姿を見つめる。 
このうつくしい死神もいつか彼女の肩を突き放して、ひとり異界へと去ってしまうだろう。 
 
そう思わせるだけの孤高がその背にはあって、瞬間思わず後ろから抱きついていた。 
 
「……急に何だ」 
「…………」 
 
理由を言えば彼は鼻先であしらうだろう。 
だけど、必ずその日が来ると、予感などよりもっと強いものは彼女に教える。 
 
――――この世でずっと共に歩むことが許されないのなら。 
 
「ねぇ、一つだけ約束して」 
「………何を?」 
「もし三途の川ってのがあったとして、私が死んでそこに行ったら、私を背負って川を渡って」 
 
――――女は純潔を捧げた相手に背負われて三途の川を渡る。 
 
思わずそんなくだらない伝承を頼みにしたくなる。 
 
全く脈絡のない発言だったが、空目は何かに気付いたように亜紀を見上げた。 
 
「…そのくらいの責任は取ってくれてもいいでしょ」 
 
ごまかすように笑ってみせた。本当は泣きたかった。 
 
多分そんな場所はない。 
あったとしても、彼はそこに行くことなく、永遠に赤い空の下で生きていくのだろう。 
 
それでもすがりつくよすがが欲しかった。 
あの絵の乙女が必死に死神の背に回した、痛々しく細った腕のごとく。 
 
「…あまり急流だと自信がないが」 
 
馬鹿馬鹿しい約束だと一蹴されるかと思ったが、空目は意外なほど真剣に答えた。 
多分、彼も知っているから。 
 
「…約束しよう」 
 
ふざけたように、それでいて大真面目に小指がからむ。 
ぎゅっと肩にほほを押し付けた。骨の感触さえ伝わるほどの薄い肩。 
最期はこのいとしい身体に身を預けられる、そう思えば心は少し慰められた。 
 
―――――ああ、私はいつからこんなに弱くなってしまったのだろう。 
 
睫毛の先に小さな水滴が跳ねる。 
振り向いた死神の手はあの絵のように、彼女の頭を優しく抱いた。 
 

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