「お先、ありがと」
「ああ」
お風呂から上がってリビングに入り、声をかけると、恭の字が書き物から顔を上げてこっちを向いた。
何を書いていたのかと尋ねるとひらりとレポートを見せられる。体育の単位稼ぎらしい。
「……気になってたんだけど、恭の字って体育の実技出たことあるの?」
「当然だ」
「嘘、見たことない」
「学期はじめのオリエンテーションは出ているぞ」
………それは実技じゃないだろう。
「……村神じゃないけどあんたの体力が心配だわ」
ため息をついてミニバッグを取り出す。中身は所謂お泊まりセットだ。
こういう間柄になって、彼の家に泊まるようになってから、必然的に持つようになった。
化粧水と乳液を手早くつけて、髪をまとめていたバスタオルをほどく。
そしてもうひとつのボトルをあけ、中身を手のひらの上に出そうとした。
「……それは何だ?」
立ち上った甘い香りに気付いたのか、ふいに彼がまたこちらを向いた。
「これ?流さないトリートメントだけど…」
近づいてきてボトルを私の手から受け取り、軽く鼻を近づける。
「風呂から上がってまたつけるのか?」
「……女子はいろいろと手がかかるんだよ。夏の水泳の後とかは髪軋むし、皆使ってるよ」
「そんなものか」
プールなんか一回も浸かったことがなさそうな顔が言う。
頬にかかる黒髪は何もしていないというのに綺麗な艶をたたえている。
「……羨ましい限りだね」
そういってボトルを取り返そうとすると、手で制された。
「?なに…」
ボトルが傾き、とろ、と彼の手のひらにクリアピンクのジュレが広がる。両手にのばし、その手で私の髪をとった。
「ちょっ、いいよ、自分でやるから……」
「いいから動くな」
するすると指の感触。あっという間に全体に馴染ませていく。存外この男はこういうことに器用だ。
「……何のつもり?」
「気まぐれだ。レポートを書きすぎて指が疲れたのもあるが」
私は指ほぐし要員か、とつっこんでやろうかと思ったけれど、徐々に心地よくなってきてしまった自分がいる。
そういえば、幼い頃母に髪を梳かれるとやたら安心したりした。
「ん……」
思わず目を閉じると、両手の指全体でポニーテールを作るように髪を掻きあげられる。
むきだしになった首筋に突如くちびるをつけられた。
「っ!?」
振り返る。睨み付けるとしれっと相変わらずだな、と言われた。
「お前は首筋が弱い」
「…ちょっと、遊んでるでしょあんた」
「さあな」
ドライヤーのスイッチが入れられる。温風を当てながらわしゃわしゃタオルで拭かれた。本当に子供みたいだ。
半分くらい乾くとまた手櫛が入る。すこし伸びた爪の先が絶妙に皮膚をなぞるのが悔しいけど気持ちいい。
ブラッシングされてる犬や猫はこんな気持ちなのだろうか。
「こんなものか」
そんなふうにしているうちに私の髪は綺麗に乾いていた。ドライヤーのスイッチが切られ、指がするりと抜ける。
すこし名残惜しい、なんて思ってしまう。
「…ありがと」
ちょっと複雑な気持ちで一応お礼。
「さて、木戸野」
「え?」
「物事には対価が付き物だ。特に現代の資本主義社会においてギブアンドテイクは基本だろう?」
そういって恭の字はタオルを拾い上げた。
入れ替わりにお風呂に入るつもりらしい。……まさか。
「乾かせとか言わないでしょうね」
「ボランティアでやっているとは言わなかっただろう?当然の帰結だ」
「…親切の押し売りって言わない、それ」
「悪いがクーリングオフの対象外だな」
口が減らないとはこういうことだ。
悔し紛れにトリートメントのボトルを翳してみる。
「じゃあコレ使ってやるから。甘くて乙女チックなシュガーリィフローラルの香りだけどいい訳ね」
「お前と同じ匂いなら歓迎だな」
………言い返せない。というかさりげなく何言ったこいつ。
頬が知らず熱くなる。
「ああ、だがこの手の香料はつける人間の体質や体温で匂いが変わるからな…」
わざとらしく気付いたふりをして、彼が私の髪に顔を埋めた。
「……だから、本当のお前の匂いはやはりこうしなければ嗅げないな」
あたたかい呼気がうなじをくすぐる。思わずひぁ、と変な声が出そうになる。
「………敏感だな?」
「馬鹿者……っ、さっさとお風呂入んなさいよ!」
叫ぶと不敵に笑われた。
心なしか上機嫌に浴室に向かう後ろ姿を見送る私は、多分耳まで真っ赤だった。