その匂いが最初に空目の"嗅覚"に触れたのは、ある冬の朝に文芸部室の扉が開いた時だった。
「あ、魔王様おはよー」
「………ああ」
いつも通りやってきた彼が怪訝そうな顔をしたのを見て、入れ違いに部室を出ようとしていた稜子は首をかしげた。
「?どしたの、わたしの顔に何かついてる?」
「いや………日下部、何か香水でもつけているのか?」
「ええ?」
慌てて稜子はふんふんと自分の髪や服の匂いを嗅ぐ。
「別に何も……………何の匂いがするの?」
「………いや」
もう一度鼻を利かせたときには、その香りは霧消していた。
「あ、そういえば昨日シャンプー変えたんだ。それかな」
「そうか、ならいい」
その場はそれで終わった。
だが――――
「これでもう四件目か」
それから約一週間後の金曜の朝、文芸部は珍しく時事ネタで盛り上がっていた。
武巳の広げた新聞の一面に踊るのはおどろおどろしい見出し。
「被害者は全員鋭利な刃物で腹部を刺されており、警察は同一人物の犯行として捜査中…………」
「ああ、それか………」
横から俊也が紙面をのぞきこむ。
「最近羽間市周辺で女子高生が連続不審死してるって事件だよな」
「不審死っつーか殺人だろ、どう見ても」
「いや、それがな」
そこで彼は少しだけ声のトーンを落とした。
「クラスに親が警察関係の奴がいてな…………どうもこの事件、おかしいらしい」
「へ?何が」
「その切り傷ってのが、刺した感じじゃないらしい。こう横に――――」
そう言って俊也はちょうど武士が切腹するようなしぐさをした。
「ええ………ハラキリ?」
「かなり悲惨な状況だったそうだ」
「うわ……………グロっ」
"怪異"だったりして、と武巳が呟いて、なあ陛下、と空目に声をかけた。
「………だとしても現場に行ったわけでもなし、俺の鼻は何の役にも立たん」
それよりは夜道に気をつけた方が賢明だな、とあしらわれ、彼は早々に話の方向を変える。
「稜子ー、夜とか気をつけろよ」
「あのねえ、わたし寮だよ?そんな不審者が出るような道歩かないよ」
「んじゃあやめちゃん…………は大丈夫か、さすがに」
「一番危ないのは亜紀ちゃんだって、ねえ!………亜紀ちゃん?」
「え?」
そう言われ、亜紀がはじめて顔を上げた。彼女らしくもなくどことなくぼうっとしている。
「どしたの?具合悪い?」
「…………いや、ちょっと寝不足なだけ」
「本当?あ、わかった」
稜子が大げさに手をたたく。
「恋煩いでしょ!それでぼーっとしてんだー」
「………何をどう考えたらそうなんの」
「違うの?だってほら、なんか最近亜紀ちゃん服の趣味とか変わったし」
「え?」
亜紀の着ているふんわりとした白いワンピースを引っ張りながら彼女は言った。
「これアースの新作でしょ?前は亜紀ちゃんってジーナとか大人っぽいブランド好きだったじゃん」
白ワンピは乙女の勝負服だもん!と稜子は笑ったが、亜紀は何かまずいことがばれたかの様な顔を一瞬し、視線をさまよわせた。
「………………ばかだね、私だってたまにはこういうの着たくなるの。そもそも男に合わせて服装変えるなんて私はやだね」
「えー?」
「ほら、もう一限目始まるって。行くよ」
つかつかと足音を立てて出ていく彼女を慌てて稜子が追いかけはじめたのを皮切りに、文芸部面々は席を立ち始めた。
――――その時。
「……………………?」
空目の鼻をあの匂いが擽った。
甘く、それでいて動物的な、どろりとした匂い。
「……………」
その匂いは、確実にあの朝より強くなっていた。
「……………………っ」
夕方、無人の女子トイレに、うずくまる人影―――木戸野亜紀の姿があった。
「………何………なの、これ」
猛烈な嘔吐感がせり上がってくる。思わず口元を押さえた。
これは――――これでは、まるで――――
――――ぐぷり。
「!」
ぎくり、と上体を起こす。
何かが身体の中で動いた―――腹の中で。
「……………………嘘、でしょ」
全知識を総動員しても、この状況に合う原因はひとつ。
「そんなわけ……………」
その症状は、
「ねえ」
不意に背後から呼び止められ、空目は振り向いた。
「……………………十叶先輩」
「こんにちは、影の人」
声の主―――魔女・十叶詠子はいつもの透明な笑みを浮かべてそこにいた。
「何の用でしょう」
「うーんとね、割と緊急かな」
ちっとも緊急でない顔で彼女は彼に近づき、手に持っていたものを見せた。
「………これは」
それは、今朝武巳たちが読んでいたのと同じ新聞記事だった。
「ちょっと厄介なことが起きてるの」
「……………これが"怪異"だと?」
「そう」
彼女が世間話に新聞を持ちだすはずがない。空目はすぐに状況を把握した。
「………あんたが言うなら本物か」
「勿論。でね、これはちょっと危ないの」
愛らしくさえあるほほえみで詠子は続ける。
「普段だったら謎解きはあなたの役目なんだけど…この物語は、毒にしかならないから。早く止めなきゃなって」
「簡潔に説明して頂けますか」
すると、彼女は提げていた小さなポシェットから赤い小瓶を取り出し、彼の手をとってのその中身を少量つけた。
「この匂い、知ってるでしょう?」
それは――――間違いなくあの"匂い"だった。
甘く、動物的で、そして――――官能を呼び覚ますような、危険な香り。
「……………これはね、ムスクの香り。日本語だと麝香っていって、古来には媚薬とされていた」
「この香りがその事件と何の関係がある」
「話は最後まで聞いて?…………一説には、ある悪魔が現れた後に残る香りとされている」
そこで、はっと気がついた。
ムスクの香り。
腹を裂かれた死体たち。
被害者は少女だけ。
そして、脳裏に蘇った、その悪魔の名―――――
「ねぇ、あなたの周りにいるでしょう」
おなかのおおきな、女の子が。
今朝、亜紀があのワンピースの下に隠していたのは―――――
「……………………」
さすがの空目も、戦慄した。
「頭のいい影の人なら、ここまで言えばわかるよね?」
「あんたは…………」
「今なら命は救えるよ?ココロはわからないけど」
でも、死んじゃうよりはいいよねぇ、と彼女は笑う。
「いち女の子として助言すると、今回のことはあなただけで解決してあげるのがいいんじゃないかなあ………
彼女のことはわたしも気に入っているし、助けてあげたいのは山々だけど」
聞きながら彼の頭脳はありとあらゆる方法をはじき出す。しかし、どれも端から不可能の上書きがされていく。
「救えるのはあなただけだよ」
現時点で実行可能な方法はひとつ。
「だって、あなたは男の子だから」
そう言って、魔女は聖母のように目を細めた。
「あれ、亜紀ちゃんは?」
「あ、あの………」
放課後、部室に戻った稜子に訊かれ、あやめは慌てた。
「えっと、風邪っぽいって早退されました」
「風邪?そういえば朝ヘンだったよね………インフルじゃないといいけど」
「今はやってるもんな…………そういえば陛下もいないし」
「えっと、今日は何か用事があられるみたいで」
内心冷や汗ものだ。嘘は得意ではない。
だが、こうしなければ。
「へー、じゃああやめちゃんフリー?」
「あっ、はい」
「あ、じゃあいっしょに買い物行こうよ!わたしもアースの新作見たくなっちゃった」
「え、そんなことしていいのかよ」
「い、行きたいです!」
珍しく声をあげたあやめに武巳が驚いた顔をした。が、すぐに生来の能天気さで笑って俊也を呼ぶ。
「よっしゃ、じゃあ村神もいこーぜ!」
「はあ、なんで俺が?」
「いいじゃん、みんな一緒のほうが楽しいよ!」
その様子を横目で見て、あやめは小さく息をついた。
今回のことにはむろんあやめも気づいていた。
だが、いったい何が元凶なのか、どういうことが起きようとしているのかは全く分からなかった。
そもそも、あの"匂い"も、今日になって急に濃度をましたのだ。彼女に何かができるわけはなかった。
『あやめ、今日は学校にいるか、誰かの家に行っていろ』
ただ、空目のその言葉から、何かが危ないことはひしひしと感じていた。
――――――――だから、どうか。
あやめはぎゅっと目を閉じ、祈った。
「っ、く、はぁ…………」
校門を出たところで、亜紀の視界は揺らぎ始めた。
急激な貧血のように頭がくらくらする。どう考えてもおかしい。
「病院………」
ことの始まりは先週だった。順調だった月経周期が突然乱れた。
そこから少しずつ症状が進行し、今ではこの状態だ。
―――――ぐぷり、
また腹の中で何かがうごめく。
たった半日の間に腹部は大きく腫れあがっていた。
「なんで………」
何も心当たりはなかった。強いて言えば――――奇妙な夢を見た、そのくらいだ。
(想像妊娠?まさか…………)
そう、いくらあの夢がリアルだったからといって――――
とりあえず、今はどうにか病院まで行かなくては。
タクシーでも何とか呼べないか、と周りを見回したとき、不意に腕を掴まれた。
「!」
振り返ると、黒い色が目に飛び込んできた。
「……………恭の、字?」
「木戸野、」
亜紀は心中歯噛みした。今一番会いたくない人物だった。
「木戸野、話がある」
「ごめん、私いま具合、悪いんだ………後に、してくれない?」
必死に気力を振り絞り、それだけを言う。
だが、腕をつかむ力は緩まなかった。
「分かっている。だから一緒に来い」
「え?」
「このままでは、お前の命が危ない」
ぞっとするほど真剣な瞳が、彼女を捕らえた。