身体が熱い。  
「っ………」  
乾いた唇で浅く呼吸を繰り返す。先程までの"症状"はおさまりつつあったが、今度はまるで火に焼かれるような熱さが亜紀を襲った。  
いっそ気を失ってしまいたい―――――だがそれは許されない。  
「いいか、よく聞け」  
半ば抱えられる様にして空目の家の玄関をくぐり、寝室までたどり着いたところで身体を支えきれなくなった。  
へたり込む亜紀の肩を支えながら彼は"犯人"を告発する。  
「お前を襲っているのは、いわゆる夢魔というやつだ」  
「……………む、ま?」  
薄く眼を開け、苦しい息の下訊き返すと、頷きが返される。  
「ああ。英名はインキュバス。キリスト教における下級悪魔の一種とされている……特質は、睡眠中の女性を襲い精液を注ぎ込み、悪魔の子を妊娠させること」  
これが今回の"怪異"が取っている形だ、と彼は言った。  
「もっと早く気付くべきだった。匂いはあった………だが薄すぎた」  
そう、最初は本当にかすかだった。それもこの悪魔の正体を知れば納得がいく。  
―――――――敵は彼女の胎内にいたのだから。  
「今朝近藤たちが読んでいた新聞の事件、あれがこの"怪異"の仕業だとすれば、お前の中の”夢魔”も遅くないうちに――――出てくる」  
――――死んだ少女たちの腹は大きく引き裂かれていた。  
あれは、夢魔が胎内から肉を食い破って……………  
「…………私も、」  
背筋に氷の欠片を滑り落とされたような気がした。  
「お前の症状から見てもうあまり時間はない。………考えたが、方法は一つしかない」  
珍しく歯切れの悪い言い方だった。亜紀は思わず顔を上げた。  
「私は………どうしたらいいの」  
「………夢魔に顕現される条件を崩せば"物語"は成り立たなくなる。条件は三つ」  
物語に感染していること、女性であること――――  
『いわゆる邪説だけどね、キリストの父親は"夢魔"って言われてるんだよ』  
去り際に詠子が言った台詞。  
『つまり、夢魔は汚れなき乙女がお好みなの』  
変えられる条件はひとつ。  
 
………処女であること、だけ。  
 
「…………俺は手詰まりだ。決断はお前に任せる」  
「………………」  
亜紀はただ瞬きもせずに彼を見上げた。  
「生物学的には俺はお前を『助ける』ことは出来る。だが人間としての尊厳は別だ」  
その口調は落ち着いていた。だが、それは内心の葛藤を否定するものではなかった。  
一人の少女の心の前では、彼もまた一人の少年でしかないのだから。  
「お前の理性が、精神と生命の兼ね合いにおいて最も合理的だと考える判断が、正解だ」  
返す言葉は出てこない。  
このまま腹を食い破られて死ぬのか、それとも…………  
 
「……………恭の字」  
 
しばらくの後、亜紀は肩を支える手に額を押しつけて、呟いた。  
 
「抱いて」  
 
「それが、私の理性の答えだから」  
 
死への恐怖があった。理不尽さへの怒りがあった。  
生きるための判断だ。  
でも、一つだけ嘘をついた。  
 
「………済まん」  
 
力を抜くと、自然に彼の腕に落ちる格好になる。  
抱きしめられているのだ、と感じたとき、不思議と恐怖は消えた。  
 
「これから何が起こっても、それはお前の責任ではない、いいな」  
 
恋人の抱擁ではないと分かっていても、初めて知った想い人の体温が亜紀を慰めた。  
理性の導きではない。  
――――夢魔よりも淫蕩に彼女を唆したのは、恋だった。  
 
目を閉じて、自分からも腕を回す。  
こんな状況じゃなくて、本当にこの男に愛されて抱かれるのならどんなによかったろう―――――  
そう考えるとじわりと涙が滲みそうになって、一層強く瞼を閉じた。  
(馬鹿だね…………私は)  
こんな"怪異"でもない限り、そんなことはあり得ないと分かっていた。  
愛などどこにもないと知っていて、手段だと理解していてこの道を選んだ自分を亜紀は自嘲した。  
――――それでも。  
 
寝台へ運ばれる。電気が消される。  
黒に近いダークグレイのカーテンが閉められ、部屋は闇に沈む。  
暗がりに慣れない目には互いの姿は輪郭程度にしか見えない。それでよかった。  
再び閉じた瞼の裏に、白い天井だけがやけに高く焼きつく。  
「………手術台の上にでもいる気分、だね」  
せめてもの強がりに軽口をたたいた。  
「医療行為、みたいなもんだと思ってるから、私は大丈夫」  
「…………木戸野」  
うっすらと汗の浮かんだ額を空目の手のひらが拭う。  
村神あたりが少し捻れば折れてしまいそうな身体のくせに、男子に相応しい広い掌。  
「安心させる材料になるかは分からんが、基本程度の知識はある」  
日下部に山と少女漫画を押しつけられたこともあるしな、と呟いた。  
冗談返しのつもりだったのかもしれない。  
「甘ったるい話ばっか…だったでしょ、稜子のことだから」  
「ああ」  
せめて、ハーレクインロマンスのように抱いて。  
馬鹿馬鹿しいくらいに優しく、恋人同士のような錯覚をするくらいに。  
「木戸野」  
再び名を呼ばれる。目が合う。  
決意を示すように見つめ返すと、頭を抱かれ、くちびるにくちびるが重ねられた。  
―――――正真正銘のファースト・キス。  
もはや退けないのだと、その感触が教えた。  
 
「脱げるか」  
「へい、き」  
震える指でカーディガンのボタンをはずす。  
続いて前開きのワンピースに手をかけたが、思うように指が動かない。見かねた空目が手を貸した。  
手早く肩から布を落とすと、下着のホックを外す。  
ぷちん、という音に亜紀は小さく身を震わせた。  
「………後はなんとか、するから」  
視線を逸らして自らも襟元を緩め始めた彼の配慮を受け取り、力の入らない手で布団を引き上げる。  
その陰で思い切って残りの衣類を脱ぎ、上着でくるんでベッドサイドに落とした。  
そのまま次の行動の取り方も分からず布にくるまって固まっていると、後ろから腕を回された。  
「っ………く、」  
肌と肌が触れ合うだけでぞくぞくと何かが這い上がってくる。  
思わず力が抜けた瞬間、位置を入れ替えられ、覆い被さるように再び口づけられた。  
「んぅっ」  
確実に先程のものとは違う。歯列を割って温かな舌が咥内をかき回す。  
………………ちゅ、くちゅ、  
味わうような、撫でるような、 いつくしむようでいて淫靡なキス。  
息継ぎのタイミングを計りかねて金魚のように口をぱくぱくとあけると、自分のものとは思えない淫らな声が漏れた。  
髪を束ねていたシュシュが外される。頭の下に手が入り、栗色がかった猫っ毛を梳いた。  
「あっ…はっ…んっ」  
おかしい。キスだけでこんなに感じてしまうなんて。  
これが夢魔の力なのか―――――それとも、彼女の持つ生来の資質か。  
首筋から背骨に伝わる快感に身を反らすと、白い喉を舐めあげられた。  
意に反して嬌声を上げようとする口元を必死に両手でふさぐ。  
幼子にするように優しい手櫛の動きに反して、まるでその柔肌を捕食するかのように唇は下がっていく。  
「ん、…………んんぅ、ふぅ、」  
二の腕の内側を、鎖骨の下を、かと思えば耳たぶをきゅうと吸い上げられ、息が上がる。  
「手を離せ」  
ふるふると首を振ると、耳元で宥めるように囁かれた。  
「誰にも聞こえやしない。後がきつくなるぞ」  
そう言われたが、どうしても嫌だった。これ以上無様な姿を晒すのは瀕死のプライドがかたくなに拒んだ。  
「………木戸野」  
目元にかかる乱れた前髪を掻きあげられ、額を合わせられた。間近に覗く眼はかすかに濡れて潤んだ光を湛えている。  
聞き分けのない子供にするように頬をすり寄せ、そのまま首筋をたどって肩に歯を立てられた。  
「っ……………………!」  
その一挙一動にびくびくと身体を震わせながらも、頑固に手を離さない亜紀を見て、次の手が打たれる。  
 
「んっ……………!?」  
手のひらが頭の後ろからするりと抜け出て、やわらかい胸のふくらみに添えられる。  
確かめるように強弱をつけ、外縁を押し揉みながら、時折すこし伸びた爪の先が色づいた突起をかすめた。  
それでも亜紀は耐えた。恥じらいと背徳観が快楽の解放を妨げていた。  
しかし、それにもやがて限界が来る。  
 
「……ん、」  
「ひっ、ぅ、うぁ、あ………っ!?」  
 
どろどろに濡れた舌先が頂点を捕らえる。ざらついた感覚に、眼の奥がぱちんっと爆ぜた。  
柔らかくて熱いものが、ぴちゃ、と音を立てながらそこに吸い付いてこね回している。  
息ができない、耳の奥が痛い、神経の密集した個所が、過剰な感覚の洪水に悲鳴を上げる。  
ぞくぞくする、思わず手が離れる。閉じていられない口元から唾液が垂れた。  
呼吸がどんどん浅くなり、激しくなって、頭がわんわんする。それなのに声が止まらない。  
「……うあっ……あはぁ……はあっ!」  
喉が引きつった音を立てる。不意に唇を塞がれた。  
「んっ、んっ」  
苦しさに涙がボロボロとこぼれる。背中をさすられ、くちびるを離しては重ねてを繰り返される。  
「大きく息をしろ、過呼吸になる」  
跳ねそうになる身体をぎゅっと抱かれて、宥められた。  
落ち着き始めたところで、また愛撫され、限界に達すると緩められる。  
そのうちに少しずつ身体が波を捕らえられるようになってきた。  
それと同時に――――胎の中の魔物もうごめき始める。  
 
「………あ…ぅあ、きょ…の、じ、」  
「ああ」  
 
空目と密着した皮膚の中、膨れ上がった子宮の中で、なにか熱いものがどろどろととぐろを巻いている。  
コツコツと内部から外を目指すそのなにかとは裏腹に、二脚の間は既に大量の蜜をこぼして侵入者を待ち望んでいた。  
 
 

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