Missing  

 自分が死ぬ、という意識は薄かった。  
 このままいけば、もう二度と誰と会うことも関わることも無く、消えていくことだけは意識していた。  

 夜は暗く、森は黒い。  
 人はおらず、獣すらいない。  
 ふと、亜紀は両腕で自分の体を抱きしめた。  
 雨に湿った体に夜風は冷たかったが、それよりも独りでいることが身に染みた。  

 ここは――木々に囲まれたこの小さな広場に、亜紀は一人ぼっち。  
 死期を悟って住処を離れた猫は、こんな気持ちになるのだろうか。  
 一人になって、本当に一人になって、誰かにそばにいて欲しいと、亜紀は今になって思う。  
 誰かの体温を感じていたいと。  

「現金だよね、人間なんて――」  
 応える相手はいない。  
 下草を踏みしだく足音、押し殺したような獣の吐息――ただ、主を敬うイヌどもが、その周囲を囲むのみ。  
 いつしか一頭が、遠く、低く、哀切に遠吠えを始める。  
 亜紀の――主の寂しさを埋めようとしてか。  
 応えて合わせて、一頭が、また一頭が遠吠えに加わり、場は、気の滅入るような低い音声で埋め尽くされていった。  

 けれど、見えぬイヌ達の合唱を見つめる亜紀の表情に変化は無い。ただ、無表情だ。  

 追従は、嫌いだ。  

 そもそもイヌ達は、亜紀の意を、無意識の欲望をかなえようとするものであり、すなわち、これは自己憐憫に過ぎないのだった。  
 わかってしまえば、それはひどく滑稽なことでもあった。  

 

 イヌガミ達は、亜紀の周りを一定の距離を置いて取り巻いている。  
 その姿は見えない。だがその存在を否定する要素は視覚だけで、下生をかき分けて走る足音や、遠吠え、獣臭、そういったものが、イヌガミ達の存在を裏付けていた。  
 怪異は、それだけの物理的な存在感を備えてそこにあったが、亜紀はそれを、もう恐れはしなかった。恐れていたのは、もっと別の――  

 亜紀は息をついて、背中を木の根元に預けた。  
 もう、いいのだった。  
 自分の生きた痕跡を、一つ残らずあの世に持っていくと決めてしまえば、悩むことは何も無いはずだった。突っ張る相手はもう、ここにはいない。独り、亜紀自身を除けば。  

「もう、いいよ……」  
 声に出していってみる。  
 自然と、口元が綻んだ。  
 儚く、亜紀は笑った。  

「おいで……」  
 まるで現実の犬に対してするように、亜紀はイヌガミを呼んだ。  
 左手を差し伸べる。  
 痒みが――なおも進行している腐敗がその存在を訴えるが、もう、構うつもりはなかった。  

 見えない犬たちは戸惑った気配を見せ、しばらく遠巻きのまま、主をうかがった。  
 やがて、そのうちの一匹が、おずおず、といった調子で亜紀に歩み寄っていく。  
 とさとさと、足跡が草を踏み分けて近寄って来、亜紀は、それを見て微笑んだ。  

 

 赤茶色に汚れた包帯は、乱れ、解けかけていた。犬の鼻面が触れ、さらに捩れて肌が露わになる。  
 ひさびさに外気に触れた左手の甲は、一面、あざになったようにどす黒く変色していた。  
 そこを、熱く、長い舌が舐めあげた。  

 亜紀はわずかに顔をしかめた。  
 しつこく腐敗を訴えていた痒みが、ほんのわずか薄らぐ。  
 けれど、左手は感覚が失せかけていて、亜紀が感じたのは、その、熱だけだった。  
 唾液にまみれ、ぬめった舌が左手を舐め上げるたび、左腕の芯に、熱が篭る。  
 その熱さに、亜紀は総毛だった。  
 ぶじゅ、という音とともに、傷口から膿が溢れ、犬神の輪郭を露わにしながらつたい落ちていく。  

 亜紀はほぅ、と一つ息をつきながら、背中を立ち木にもたれさせた。  
 冷えた体を、その芯を、左手から登ってくる熱が暖めていくように感じる。  
 錯覚かもしれないとは思っていたが、心地よくはあった。  
 左手の惨状から目を離し、木々の隙間から見える、うずまく雲を見上げる。  
 そこには澄んだ夜空など一欠けらも無く、黒い雲がただ垂れ込め、なんの救いも得られずに、亜紀は目を閉じた。