「あぁ〜…、つっかれたなァ…」  
 
 
深夜のうたかた荘。  
明神はぼやきながら、持っていた鍵で玄関の扉を開いた。  
重い音を立てて開いた扉の内は、しんと静まり返っている。  
 
(…もう、こんな時間か。ひめのんは寝たのかな)  
 
住人の霊達に、時間の概念はない。  
しかし生者である姫乃が入居してからは、極力深夜は騒がないようにと言い含めてきた。  
 
 
『ひめのんの、普通の暮らしは邪魔しないように』  
 
 
そう言えば、アズミやエージは勿論のこと、ガクすらもその指示にだけは従っていた。  
まだ幼いアズミは、時折姫乃と一緒に寝たがることもあるようで。  
姫乃も、そんなアズミの要求には快く応じているようだった。  
 
階段に視線を送ってから、管理人室のドアを開ける。  
電気の点いていない部屋には、月明かりが差し込んでいた。  
テーブルに突っ伏している小さな人影に気付き、明神は思わず呟く。  
 
「…ひめのん」  
 
パジャマにカーディガンを羽織った姿で、テーブルに頭を預けて眠っている姫乃。  
そのあどけない寝顔は、規則正しい寝息を立てていた。  
 
「何で、オレの部屋に…?」  
 
ふと、テーブルの上にあるものに気付く。  
お盆に載せられた、ラップを掛けられた食器の数々。  
ちょうど一人分の食事が用意されていた。  
 
(もしかして、オレの分…か?)  
 
食事の用意までして、自分の帰りを待ってくれていた姫乃。  
寝息を立て続ける姫乃の姿を見て、明神は照れ臭そうな笑みを浮かべていた。  
 
 
明かりを点け、上着をハンガーに掛ける。  
急に眩しくなった室内に姫乃は眉をしかめた。  
うっすらと目を開くと、顔を上げてから左右を見回していた。  
 
「…うぅ、ん…?」  
「おはよう、ひめのん」  
「…あ、明神さん。おかえりなさい」  
「ただいま」  
 
明神は窓際に向かうと、開いたままのカーテンを閉める。  
姫乃は顔に付いたテーブルの跡を誤魔化すかのように、頬を拭っていた。  
 
「今日は、お仕事遅かったんだね?」  
「まーな。『仏滅』のはずが『赤口』になっちまってさ」  
「どういうこと?」  
「相手が完全に陰魄になりきれてなかったヤツでさ、意識取り戻させるまでが大変でなぁ」  
「うんうん」  
「でも99%は陰魄になっててな?正気取り戻すまで殴り合いさ」  
「…怪我、しなかった?」  
「大丈夫。心配してくれてありがとな、ひめのん」  
「ううん。明神さんが無事で良かったよ」  
 
心配そうな顔をして明神を見上げる姫乃。  
その頭を、明神は軽く撫でてやる。  
すると姫乃は、嬉しそうにはにかんでいた。  
 
「ところで、何でオレの部屋に?」  
「あのね、今日はスーパーが特売日だったんだ」  
「うん」  
「それでね、沢山買い込んだからつい頑張って料理しちゃって」  
「うんうん」  
「晩御飯作ってたら、作りすぎちゃって…。ほら、明神さんっていつもインスタントばかりだし」  
「…で、わざわざオレの分も作ってくれたのか?」  
「わ、わざわざじゃ、ないよ。料理って、ちょうど一人分作る方がかえって難しいんだ」  
「ふーん?」  
「…本当だよ!?」  
 
顔を赤くして、慌てふためく姫乃。  
その様子を見て明神は小さく笑う。  
すると姫乃はからかわれていると思ったのか、頬を膨らませていた。  
 
「いらないならいいんだよッ!?」  
「いや、いる!いりますッ!久方ぶりのまともな飯ッ!!」  
「うん、じゃあ温めるから待っててね?レンジ借りるよ」  
 
そう言って、立ち上がってお盆を抱える姫乃。  
電子レンジを開くと、中に食器を入れてボタンを押す。  
普段はインスタント食品を温めるだけのレンジの中で回転する食器。  
食器の回る様と、何故かそれを真剣に見守る姫乃の姿とを眺める明神。  
そのあまりに平和な光景は、先程までの「仕事」の疲れや痛みを忘れさせてくれていた。  
 
「はいっ、お待たせ!」  
「これが…女子高生の、手料理…!」  
「大げさだね、明神さん」  
「いやいや、なんか後光すら見えるぞ。…拝んだ方がいい?」  
「だーめっ!冷めない内に早く食べて!!」  
「はいはい、じゃあいただきます」  
「どうぞっ!」  
 
目の前に並べられた、姫乃の手料理。  
温め直されたそれは、どれも温かみのある湯気を立てていた。  
色気のない、しかし素朴な優しさに溢れた料理の数々。  
インスタント食品を温めたのとは、全く違うものだった。  
小鉢に盛られた肉じゃがに箸を伸ばす。  
 
 
「…………。」  
 
 
何故かは分からない。  
遠い昔の、記憶。  
幼い頃に死に別れてしまった、両親との温かくて幸せな『記憶』。  
そんなおぼろげな記憶を呼び起こされ、明神は箸を止めていた。  
親戚中をたらい回しにされていた頃、手料理を食べたこともあった。  
でもそれは、とても冷たい食事だった。  
 
師匠との食事に至っては、論外。  
ああでも、あの頃初めて「誰かと一緒に楽しく飯を食う」事を知ったんだっけな。  
お世辞にも美味いとは言えない食事だったけど、それでも幸せではあったんだ。  
 
 
「…明神さん?」  
 
我に返ると、姫乃が怪訝そうな顔で明神を見つめていた。  
 
「もしかして、美味しくなかった…?」  
「いや、いやいや。美味いよ」  
「本当に?」  
「ああ。こんな飯食ったの久しぶりだからさ」  
 
そう言って、料理を口に運ぶ明神。  
その食べっぷりを見て明神の言葉に嘘がないことを知り、安心したような表情を浮かべる姫乃。  
両手で頬杖をついて、食事を続ける明神を嬉しそうに見ていた。  
 
「…お母さんがね」  
「うん?」  
「作ってくれてた肉じゃがは、白滝が入ってたんだ」  
「…これは、入ってないよな?」  
「うん。作ってる途中で思い出したからね、今回は無しなの」  
「そっか。オレは食べたこと無いなぁ。美味いのか?」  
「すっごく美味しいよ!じゃあ今度作ってあげるよ」  
「本当か?」  
「うん!」  
 
「それとね、お味噌汁の具って何が好き?」  
「味噌汁の?うーん…」  
「今日のは大根と油揚げなんだけどね、明神さんは何が好きかなと思って」  
「…わかめと豆腐、かな」  
「あ、定番だよねぇ。次の参考にするよ!」  
「また何か作ってくれるのか?」  
「うん!たまにはね」  
「毎日でも大歓迎なんだけどなぁ」  
「だーめ!大人なんだから自分でちゃんとしようよ」  
「インスタントは合理的だろ?大人だ大人」  
「不健康だよ!ちゃんとした食事もしないと駄目だよ!?」  
 
そんな他愛もない会話をしながらの食事。  
ごく普通の、平和な光景。  
明神は、あっという間に姫乃の料理を平らげていた。  
 
「あー、美味かった!ごちそーさん!」  
「食べるの早かったね」  
「まぁな。疲れて帰ってきた所に美味い飯があるっていいよなぁ」  
「気に入ってくれたなら良かったよ。また作ってあげるね!」  
「ああ、本当にありがとな」  
 
「…じゃ、片付けようかな」  
「オレは風呂入ってくるかなぁ」  
「あ、もうお湯がぬるくなってると思うから、沸かし直した方がいいよ」  
「分かった。ひめのんも、もう寝るんだぞ」  
「…うん」  
 
お盆を抱えた姫乃と共に廊下に出ると、管理人室の明かりを消す。  
おやすみ、と言葉を交わしてから廊下で別れた。  
 
(…本当に、いつ以来だろうな。あんな飯食えたの)  
 
階段を上がる姫乃の足音を背に、明神はふとそんなことを考えていた。  
悪くない。それどころかむしろ、いい。  
「また作ってあげるね」という言葉を思い出し、明神は笑みを浮かべていた。  
 
 
 
 
「…ん?」  
 
風呂から上がって部屋に向かうと、管理人室に明かりが点いていた。  
 
「あれ?さっき消したはずなのにな…」  
 
小声で呟きながら、ノブに手を掛ける。  
部屋の中でテーブルに向かって、姫乃が座り込んでいた。  
明神の存在に気付き、顔を上げる。  
その瞳には、僅かに不安げな感情が滲んでいた。  
 
「…ひめのん?」  
「あ、明神さん」  
「どうしたんだ?何か用事でもあったか?」  
「………うん」  
「…明日じゃ、駄目なのか?」  
 
明神の問い掛けに、姫乃は黙ったままこくりと頷く。  
少し躊躇うような様子を見せたが、おずおずと口を開いた。  
 
 
「…今日、一緒に寝てほしいんだけど。駄目…かなぁ」  
「……………」  
「明神さん…?」  
 
不安げに潤んだ瞳で、明神を見上げる姫乃。  
一方の明神は、あまりに突拍子もない言葉に呆気に取られた表情をしていた。  
 
「あー…、ごめん。良く聞こえなかったんで、も一回言ってくんないかな」  
 
今のは聞き間違いだ。そうに違いない。  
引き攣った笑顔を浮かべながら、明神は姫乃に問い掛ける。  
しかし、その期待は易々と打ち砕かれてしまった。  
 
 
「…一緒に、寝て…ほしいの」  
「………………」  
 
 
強力な陰魄の一撃よりも、ずっと強力な女子高生の一撃を受けて、明神は呆然としていた。  
いや、陰魄相手の方がずっとマシだぞこりゃあ…。  
顔に血が昇っていくのを実感しながら、明神は心の中で呟いていた。  
 
「…あのなぁ、ひめのん」  
「…うん」  
「いくらひめのんの頼みでも、それは駄目だぞ」  
「どうして…?」  
 
そう言って、小首を傾げる。  
その仕草を見て、姫乃に「そんな気」は無いことを察した明神。  
純粋で不安げな眼差しを向けられ、思わずたじろぐ。  
 
「…どうしてって、そりゃそうだろ。女の子が男と一緒に寝たいなんて言っちゃ駄目だ」  
「そっかぁ。そうだよね…」  
 
 
(本当に意味、分かってんのか?)  
 
 
姫乃の様子は、断られて残念そうにしか見えなかった。  
それ以上のことを、考えているようには思えない。  
自分だけが変に意識しているのかと思うと、明神は気恥ずかしさを覚えていた。  
 
「うーん、あのね」  
「…ん?」  
「今日、明神さんの帰り、遅かったでしょ」  
「ああ、…そうだな」  
「私が遅い遅いってうるさかったから、エージ君に叱られちゃって」  
「うん」  
「いつものことだから、心配すんな!って言われて。アズミちゃんも一緒になって言ってくれてね…?」  
「…うん」  
「だけど、私は何だか、どうしても心配になっちゃって」  
 
 
−みんな『居る』けど、『触れない』から。  
 
 
「………あ」  
「…あははは。心配性過ぎるよね、私」  
「ひめのん…」  
 
ほんの僅か、瞳に滲んだ涙を明神は見逃せなかった。  
姫乃は、心細かったのだ。  
誰かに縋りたいのに、それが出来る相手は居ない。  
 
やけに帰りの遅い明神。  
夕飯を作ったから、食べて欲しいと思って待っているのに、いつまでも戻らない。  
もしかしたら、これまでの『ひとり』だった頃のことを思い出したのかもしれない。  
明神は、気付かなかったとはいえ姫乃を傷付けていたことを悔いた。  
 
「変なこと言っちゃって、ごめんね?…うん、じゃあ、もう寝るね…」  
「ひめのん。ちょっと待て」  
「……?」  
 
立ち上がろうとした姫乃を制して、明神は姫乃の元へと歩み寄る。  
涙を滲ませながら、きょとんとした表情を浮かべる姫乃の真後ろに座り込む。  
 
「…え?」  
 
そしてそのまま、姫乃を身体ごと抱き寄せるようにして腕を回した。  
驚いたように、姫乃の身体が小さく跳ねる。  
 
「…明神、さん?」  
「ひめのんの」  
「…?」  
「気の済むまで、一緒に居てやるから」  
「え…」  
「だから、ちゃんと自分の部屋で寝るんだぞ?」  
「…うん!」  
 
自分の前に回された明神の腕に、そっと手を伸ばす。  
触れた腕や、背中から伝わる明神の体温が心地良かった。  
 
「…ありがと。明神さん」  
「どういたしまして」  
 
 
 
静かな室内に、時計の音が響いていた。  
自分の腕の中にすっぽりと収まる、姫乃の華奢で小さい身体。  
その体温や、髪から漂うシャンプーの香り。  
 
(あったけぇ…)  
 
「…明神さんって、やっぱり身体大きいよね」  
「そうか?」  
「うん。何て言うのかな、…お父さんって、こんな感じなのかなって」  
「お父さん、なぁ…」  
「…駄目?」  
「いいや」  
「…えへへ」  
 
嬉しそうに微笑むと、姫乃はゆっくりと明神に背中を預ける。  
明神の肩に頭を乗せると、甘えるように頬をすり寄せていた。  
 
「…お父さんとはね」  
「うん?」  
「一緒に過ごしたことって、ほとんど無いの」  
「…そっか」  
「たまに田舎のおじいちゃん家に来ても、挨拶に顔を見せるだけでね」  
「…うん」  
「頭撫でてくれたりとか、抱っこしてくれたりすることも無くて」  
「………」  
「お父さんっていうより、知らないおじさんって感じだったなぁ…」  
 
「…………」  
 
 
身体を預ける姫乃を、そっと抱きしめる。  
そして肩に預けられた頭を、優しく撫でてやった。  
 
「明神さん…」  
「オレも、父親がどういうモンかなんて覚えてないけどさ」  
「うん…」  
「オレで良けりゃ、代わりになってやるよ。ほら、保護者代わりだしな。一応」  
「………ありがとう」  
 
返事の代わりに、明神は再び姫乃の頭を撫でてやった。  
さらりとした姫乃の髪の感触が、掌に心地良い。  
その感触を楽しむように、幾度となく頭を撫でる。  
心の底から安心しきったような、姫乃の吐息と体温が明神へと伝わっていた。  
 
 
 
 
 
 
(…参ったな。ひめのんにこんなこと言ったら、デコピン100回じゃ済まねーよな)  
 
しばらくの間、他愛もない会話を交わしたり。  
あるいは無言のまま身体を寄せ合っていた。  
 
(…ヤりたくなってきた、なんてなぁ)  
 
安心しきっている姫乃の様子は、とても無防備で。  
明神の体温を背に、心地良さそうに身体を預けていた。  
 
(…フツーに考えて駄目だろ。いや犯罪だろ。しっかりしろオレ…!)  
 
今の姫乃は、自分に父親の姿を重ねている。  
幼い頃から、充分な愛情を与えられなかった少女。  
だからこそ、少しでもそれを求めたいと思うその純粋な気持ちは良く理解出来ていた。  
 
(あーくそ、やばいな。どんだけ女に飢えてんだって話だよ)  
 
いくら煩悩を振り払おうとも、一度意識してしまってはもう遅い。  
男ってヤツは、本当に単純な生き物だ。  
腕の中にある、無防備で華奢な「女」の身体。  
シャンプーの甘い香りだとか、パジャマの襟元から覗く真っ白な肌だとか。  
ずっと縁の無かった代物を前に、本能が理性を捨てろと囁きかける。  
 
 
ああ、男ってヤツは、本当に単純な生き物だ。  
欲求に素直すぎるくらいに、素直な生き物だ。  
 
 
さっき姫乃の手料理を食べて、空腹が満たされた。  
眠気なら、こんな状況のせいで完全に吹っ飛んだ。  
性欲だけが、満たされない。  
おまけに今日は、仕事で疲れきっている。  
正常な判断も、既に出来なくなりつつあった。  
 
ふと、視線を下方へと落とす。  
目の前には、姫乃の白い首筋が覗いていた。  
長い髪に隠され、姫乃の顔は見えない。  
 
華奢な首筋。  
その奥に僅かに覗く胸元。  
滑らかそうな肌に、目を奪われる。  
 
(女子高生相手に欲情するなんて…。情けねーな、オレ…)  
 
そんな思いとは裏腹に、目の前の白い肌を見ているだけで不埒な妄想が頭を支配する。  
もしも触れたら、姫乃はどんな反応を見せるんだろう。  
「明神さんのエッチ!」とでも言って、ビンタでもしてくるだろうか。  
いっそ、そうなってくれれば自分の煩悩も粉々に砕け散ってくれるかもしれない。  
 
 
(…ごめんな、ひめのん。出来心だ、出来心)  
 
 
今の自分には、そのくらいの手痛い罰こそが相応しい。  
何故なら、もうこれ以上の我慢は出来そうに無いからだ。  
 
 
「………」  
 
無言のまま、姫乃の首筋に顔を近付ける。  
規則的な呼吸音。  
もしかしたら眠っているのかもしれない。  
それならそれで、オレの布団に寝かせてオレは畳で寝ればいいだけの話だ。  
 
だから。  
だから、ちょっとだけ。  
 
 
−ちゅ。  
 
 
「やぁ…ッ!」  
「…!!?」  
 
首筋に、軽く音を立てて口付けを落とした。  
そうしたら驚いた姫乃が、反射的に声を上げた。  
 
あんな、色っぽい声で…!  
 
最も予想外の反応。  
絶対に出るとは思ってもみなかった、艶を帯びた姫乃の声。  
明神の理性は、ガラガラと音を立てて崩れ去っていった。  
 
「あーもう、びっくりしたぁ…!」  
「…………」  
「どうしたの、明神さん?」  
 
 
ごめん。  
本当にごめんな、ひめのん。  
後でデコピン1000発でも往復ビンタでも、何でも好きなようにしていーから。  
今だけは、許してくれ…!  
 
明神は、心の中で勝手な断罪の台詞を呟くと。  
それを最後に、理性を保つことを完全に放棄した。  
姫乃の身体にしっかりと手を回し、その身体を抱き締める。  
そして再び、その首筋に口付けを落としていた。  
 

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