「大丈夫か? あともう少しだからな。我慢しろよ、ツキタケ」  
「へっ、これくらいのかすり傷、どうってことねぇよ」  
 
明らかに無理してるとわかる声。実際、当の本人であるツキタケ君は、エージ君の肩を  
借りながら歩いている。脇腹の辺りから滲み出る血が痛々しい。  
ツキタケ君の怪我は、鳥みたいな姿をした悪い霊に負わされたものだ。その霊は今頃、  
ガクリンと戦闘を繰り広げている。下水道の中、あたし達が逃げ出してきたあの場所で。  
そう、あたし、桶川姫乃はいま、エージ君、ツキタケ君、そしてチコちゃんと一緒に、  
ここに来ているはずの明神さんを探しながら、下水道を彷徨っている。  
 
元はと言えば、その鳥の霊に襲われていたのはあたしだった。どういう理由で襲われたの  
かはわからない。連れ去られそうになっていて生きた心地もしなかった時、エージ君が  
ガクリンとツキタケ君を連れて来てくれたのだ、あたしを助ける為に。  
けれど、そのためにツキタケ君は傷ついてしまった。怒りに理性を失ったガクリンのキレ様は  
半端ではなかった。  
あんなに怒ったガクリン、初めて見たな・・・  
ふと、そんな考えが頭をよぎる。あたしが見たことのない彼の素顔、あたしが知らない  
彼の姿を、あの時見たような気がした。  
今にして思えば、あたしはガクリンの事をほとんど知らない。  
あんな調子で戦って、本当に大丈夫かしら? いや、それとももう酷い目にあってるんじゃ・・・  
気がつけば、いつの間にか彼の心配ばかりしてしまっている自分がいる。今はそれどころでは  
ないのに。そう、今はあたし達自身の心配をしなくっちゃ。  
そう思ったとき、エージ君の叫び声が聞こえた。  
 
「明神の気配がする! こっちだ!」  
 
「エージ君!」  
「ああ、もう明神の大体の位置はわかったぜ、ヒメノ。これでやっとひと安心だ」  
 
あと少しだけだから頑張れよ、とツキタケ君を励まして、エージ君はまた歩き出す。  
ツキタケ君にももう、明神さんの居場所は分かっているみたいだ。エージ君に支えられながらも  
しっかりした足取りで歩いている。  
この二人はもう、大丈夫だ。明神さんのところまでたどり着ければ、明神さんが助けてくれる、  
きっと。  
そう思った瞬間、もう一つの心配事の方がまたむくむくと頭をもたげてきた。  
ガクリン、大丈夫かな・・・  
一度考え始めてしまうと、止めることは難しい。ツキタケ君はアニキに任せておけば  
大丈夫だって言ってたけど、本当にそうだろうか?  
あんなに強そうな霊が相手なのだ。ガクリンだって苦戦してるかも知れない。  
そう思うといてもたってもいられなくなってくる。  
 
「ブィ?」  
いつまでも立ち止まったままでいるあたしを不審に思ってか、チコちゃんがあたしの足元に立って  
顔を覗きこんでくる。あたしはしゃがみ込んで、チコちゃんに目線を合わせた。前を歩く二人を  
指差して言う。  
 
「ここからはあの二人についていって。そうしたら明神さんがきっと助けてくれるから」  
 
立ち上がって、チコちゃんの背中をそっと押す仕草をする。  
「ほら、行って」  
 
そして、既にかなり先を歩いている二人に向かって叫んだ。  
 
「ちょっとガクリンの様子見に行ってくるから、みんなは先に行ってて!」  
 
そのまま、今来た道を駆け出す。  
 
「なっ・・・おい待てよ、待ちやがれ、ヒメノ!!!」  
「ねーちゃん!!!」  
 
背後から聞こえるエージ君の怒声。ツキタケ君の声も聞こえる。あたしは振り返ってまた叫んだ。  
 
「大丈夫! ちょっと様子見てくるだけだから、すぐ戻るから!!」  
「ヒメノ! お前一体何考えてんだ!!!」  
 
エージ君、完全に怒ってる。当然だ。みんなあたしを助けに来てくれたのに、そのあたしが  
こうして勝手な行動を起こしてるのだから。  
 
「アニマに喰われても知らねーからな、勝手にしろっ!!!」  
 
ゴメンね、エージ君。でも、やっぱり心配だから・・・  
もう振り返らない。あたしは走り続ける。  
 
春とはいえ、日の当たらない地下の世界は肌寒く、吐く息は白い。けれど走り続けたおかげで  
今はちっとも寒くない。むしろ暑いくらいだ。  
もうすぐ、あの先の角を曲がれば・・・  
走りながらあたしは祈る、どうか間に合いますように、と。何に間に合うのかはよく分からない。  
それどころか、行ったところで自分に何が出来るのかも分からない。でも、走る。  
そういえばもう、すぐ近くまで来ている筈だ。なのに、辺りのこの静けさは何だろう?  
まだ戦っているのなら、物音の一つくらい聞こえたっていい筈なのに。まさか・・・まさか・・・  
湧き上がってくる嫌な予感を必死に打ち消しながら、ただひたすらに走る、角の向こうまで。  
そこに、彼がいた。  
壁に背を向けて座り込み、荒い息をついて天を仰ぐ姿は、間違いなく彼だった。  
辺りに人の姿はなく、あの鳥の霊もいない。  
 
「ガクリン!!」  
 
あたしの声に彼が振り向いた。その顔に驚きの表情が広がっていく。  
 
「ひめ・・・のん・・・? ひめのん!」  
 
これまで走り通しだったのが祟ったのかも知れない。痛みを抑えて立ち上がろうとする  
ガクリンに駆け寄った瞬間、あたしは何かに躓いた。  
 
「きゃっ!」  
「ひめのん!」  
 
そして次の瞬間、信じられないことが起こった。  
彼が、ガクリンが、その腕であたしを抱き止めたのだ。決して触れられない筈の、その腕で。  
 
「え・・・?」  
そのまま、彼の胸にきつく抱きすくめられる。  
 
「ガクリン?」  
何が起きているのか理解出来ない。これは現実? それとも・・・  
 
「・・・良かった」  
ふいに彼の囁きが耳元で聞こえて、ビクッとした。同時に首筋の辺りに吐息を感じてゾクッとする。  
 
「オレの大事なスウィートに、怪我がなくて」  
 
それまで意識していなかった、男の人の広い肩や胸の感触に、今更ながら心臓がドキドキしてきて、  
つい言ってしまった。  
 
「や・・・離して!!」  
 
しかし、意に反して、抵抗するあたしの両手は彼の体をすり抜ける。  
「!!!」  
 
これは・・・同じだ、あの時と。  
あたしがあの鳥の霊に捕まった時、あの時も確か、霊の方からだけ私に触れることが出来た。  
普通、霊からあたしに触ったり、あたしから霊に触ったりすることは出来ないのだけれど、  
あの鳥は悪い霊だったからあたしを捕まえることが出来たんだ。  
じゃあ、もしかして・・・もしかしてガクリンは!  
 
「心配しなくていい」  
 
まるであたしの考えを読んだかのようなタイミングで、ガクリンは答えた。  
 
「スイッチが入った時は、いつもこうだから・・・」  
 
彼の腕に抱かれたまま、あたしはうたかた荘で彼と初めて会った時のことを思い出す。  
明神さんと戦っていた、あの時のガクリンの破壊衝動、それは陰魄に近いものであると。  
とすれば、彼から私に触れることが出来るようになったのは、その為・・・?  
 
「もともとオレ自身が陰魄になり得る性質を持っていたのかも知れない・・・  
でも、今はそんなこと、どうだっていい」  
 
いつの間にか、ガクリンの片方の手があたしの髪を撫でていた。  
 
「今だけオレは、ひめのんをこの腕に抱いていられる。だから、ずっとこうしていたい」  
 
その台詞を聞いた瞬間、何故だか急に泣きたくなった。嬉しくない訳じゃない。彼が無事で  
いてくれて本当に嬉しい。でも、こんな時まで・・・  
 
「・・・ひどいよ、ガクリン」  
「え・・・?」  
「・・・どれだけ、心配したと思ってるの」  
 
涙が頬を伝う。あたしの中のいろいろな想いがぐるぐる回ってごっちゃになって、渦を巻く。  
 
「さっきのガクリン、見たことないくらい怒ってたから、無茶するかも知れないって、  
もしかしてもうアイツにやられちゃってたらって・・・それでここまでずっと走ってきたのに。  
今だって、ガクリンが悪い霊になっちゃったらどうしようって・・・なのに・・・  
それなのに・・・っ」  
 
今までの緊張が解けたせいか、言いたいことが次から次へと出てくる。感情のままにただただ  
言葉を投げつけるだけで、自分でも何を言っているのかよく分からない。特に最後の方は  
涙声になってしまい、言葉にすらなっていない有り様だった。  
するとそれまでずっと黙って髪を撫でていたガクリンの手のひらが、突然あたしの頬を包んだ。  
冷たい掌だ・・・  
 
「オレを、心配してくれてたんだね?」  
 
そっとあたしの顔を覗き込んで、優しく涙を拭いながら彼が囁きかける。いつも通りの無表情なのに、  
何故か今はひどく穏やかな顔に見える。  
今この瞬間、あたしはガクリンのことを本当に何も知らなかったんだなと痛切に感じた。  
この人はこんなにも、あたしの知らない表情を隠し持っている・・・  
 
「嬉しいよ、ひめのん」  
 
また、抱きしめられた。掠れるような囁き。今度は私の髪を手で梳き始める。柔らかさを  
確かめるように、何度も、何度も。  
頭皮を直に伝う繊細な指先の動き、頭髪越しに撫でられるのとは違うその感触に、あたしの中の  
何かが怪しくざわめき始める。嫌な気分ではない、むしろ心地良くすらある。気がつけば自然と、  
彼の胸に体重を預けてしまっていた。  
 
やだ・・・これじゃまるで抱き合っているみたい・・・  
ぼんやりと、そんなことを考える。頭の中が霞みがかってるような感じ。先程までの感情の乱れは  
嘘のように消え、今はただ、この時間が少しでも長く続くようにと願っている。  
・・・あたし、どうしちゃったのかな。  
ガクリンがこうしてあたしを愛してくれているように、あたしも彼のことが好きなのだろうか?  
分からない。そうかも知れないし、そうじゃないかも知れない。でも、とりあえず今は、  
この感覚に身を委ねていたい。もっと触れて欲しい。  
そう思った瞬間、  
 
「・・・そろそろ時間切れか」  
そう言ってガクリンがあたしの髪から手を離す。その意味するところを瞬時に悟って、  
あたしは顔を上げた。  
 
「ガクリン・・・ねぇ、もしかして、陽魂に戻っちゃうの?」  
わかってはいても、縋りつくような目で見上げてしまう。少し驚いたような表情のガクリン。  
きっとあたしの顔は、彼の瞳にはものすごく滑稽な表情に映っていることだろう。  
 
「そんな顔しないで・・・」  
ガクリンの声に、突然恥ずかしさが舞い戻ってくる。顔が真っ赤になるのを感じて慌てて  
目を逸らした瞬間、彼の掌が私の頬を再び包み込んだ。いきおい、見つめ合ってしまう。  
 
「オレも、止められなくなる」  
囁きが熱を帯びる。彼の顔がすっと近づいてきて、僅かに傾いだ。  
 
「・・・すまない、ひめのん」  
 
唇が、触れた。  
あっと思う間もなく、舌でこじ開けられた。そのまま強引に内部まで侵入され、絡め取られる。  
そのねっとりとした感触に、あたしの中でざわめいていたあの感覚が一気に溶け出して洪水となり、  
頭の中を痺れさせる。  
 
「んんっ・・・!」  
 
めくるめく快感。唇からなだれ込むそのあまりに強烈な、けれどもこの上なく甘美な衝撃に、  
意識が朦朧とする。足も腰も力が抜けてしまい、体の重心がきちんと定まらない。ともすれば  
地面にへたり込みそうになるのを、なんとか踏みとどまっている。  
体が熱い。  
このまま、溶けてしまいたい・・・  
 
いったいどのくらいの間、こうして舌を絡めあっていたのだろう。ガクリンの唇がようやく離れた。  
あたしは壁に寄りかかって息をつく。体の熱が、徐々に収まっていくのがわかる。  
 
「苦しくない? 大丈夫?」  
 
愛おしさと気遣いの入り混じった瞳で、ガクリンがあたしのことを見つめていた。けれどもう、  
抱きしめてこようとはしない。ただ、あたしのそばに立ち尽くすだけだ、いつものように。  
きっと、陽魂に戻ってしまったのだろう。今更ながらに、触れ合えないことの切なさを感じる。  
こんな辛さを、あたしの知らないところで、今までずっと、ひとりで抱えてきたのだろうか?  
初めて、彼を抱きしめたい、と思った。  
もちろん、そんなことが出来ないのは分かっていても。  
 
その時、遠くから声が聞こえて、反射的にあたしはそっちの方を見た。  
 
「おおーい、ヒメノぉー! どこだぁー! ガクもいるなら返事しろぉー!!」  
 
エージ君だ!  
すぐ戻るからと言い置いてきたのをすっかり忘れていた。きっとすごく怒っているに違いない。  
そういえばツキタケ君はどうしたろうか? あの時、エージ君にもツキタケ君にも、  
明神さんの居場所は分かっているみたいだった。すぐ近くだとも言っていた。  
チコちゃんと一緒に、明神さんのところにたどり着けていたらいいのだけれど。  
そう思いながらふとガクリンを見ると、無表情な顔に青筋を立て、拳を握りしめていた。  
 
「あんのバカザル、オレとスウィートの時間を邪魔しやがって・・・絞め殺してやる!」  
 
・・・  
ああ。  
なんだか、一瞬のうちに日常が戻ってきたみたいだ。  
この様子では、二人を引き合わせたら大変なことになるに違いない。  
でも、その時はその時だ。まずは、エージ君に謝らなきゃ。あとそれと、ガクリンが  
エージ君を怒ったりしないよう、ひとこと言い添えておかないと。  
あたしはガクリンの方に向き直ると、とびきりの笑顔でこう言った。  
 
「ガクリン、エージ君を怒っちゃダメだよ、心配して探しに来てくれたんだから」  
 
そしてあたしは、エージ君の声のする方向に向かって駆け出していった。  
 
Fin  
 

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