「動かないでね、ガクリン」  
「・・・?うん、いいけどなn」「あっ、喋るのもダメ!」  
 疑問を遮った姫乃の言葉に従って、ガクは口を噤んだ。  
 目の前の彼女はむうー、と眉根に皺を寄せて  
何かを考え込むように俯き、その両手は見えない壷でも  
空中で支えているかのような形で突き出されている。  
 何が何だか分からない。丁度日課となっている  
ひめのんの部屋の前廻りをやっている最中にバタンと  
開かれたドアからひめのんが顔を出して、「丁度良かった、  
ガクリン手伝って!」藪から棒になんだろう、でも愛しい  
スウィートハートの願いだから何でも叶えてあげたい。  
何よりひめのんは明神でも同室のエージでもなく俺を  
(彼の脳内からは姫乃の「丁度良かった」という台詞は  
いい具合に消去されている)頼ってきたんだから是非、  
いや絶対にその期待に添いたい。  
 しかしひめのんの意図がつかめない。  
 
初めて部屋の主自身から招かれた室内はいかにも年若い女の子のもので、  
ちっちゃな雑貨やピンク色のものが飾ってあった。そのうち、  
部屋の中のピンク色の大部分を占めているカーペットに二人は  
向かい合うようにして正座していた。膝と膝との間はせいぜい拳一つ分の  
隙間しかなく、触れられないと分かっていても、姫乃のスカートから覗く  
白い膝小僧が自分のそれに掠めはしないかとどきりとした。  
 が、姫乃はそんなガクの心情など全く知らずに平気な顔をして「そのままで」  
と言う。  
 目の前で「むうう」と可愛らしく唸っている姫乃に、ガクはこれは  
今時の女子高生の流行の儀式かなにかなんだろうかと埒もないことを想像する。  
ああ、でもこうやって間近に見るひめのんは良い。とても、良い。  
 触れることは叶わないけれどせめてこの程度の役得は、嬉しい。  
 なんならもうちょっと顔を近づけてもっと傍から・・・と  
身を乗り出しかけたガクの不埒な行動を見透かしたようなタイミングで、  
「よしっ!!」  
と姫乃が声を上げてぱっと目を開いた。僅かに前のめりになっていたガクは  
慌てて姿勢を正し、自分の両膝を掴んだ。  
「ガクリン。手、出して」  
「手?」  
「そう、こう、手のひらを私に向けて。あ、片手だけでいいから」  
 姫乃に言われたとおりに手のひらを、宣誓供述するように上げてみる。  
 すると、姫乃がすいと自分の手を伸ばした。姫乃の行動の意味を悟って  
ガクは微かにビクッとして、反射的に自分の手を戻そうとした。  
「だめ、ガクリン、そのまま」  
 どうして、とガクは思った。もう俺は諦めてしまったのに、諦めきれないのを  
諦めたと思っていたいのに、どうして君から。たとえ他愛ない行動だとしても、俺は。  
 姫乃の細い指先が自分の手のひらを敢え無く通過してしまう様が  
頭の中に思い浮かび、ガクは瞼をきつく閉じた。  
 
その目で見るには残酷すぎる光景だった。  
 が、彼の思いに反する出来事が起こった。  
 手のひらに、とん、と。  
 ありえない感触に、ガクの目が見開かれた。「ああ、良かった。  
ほら、触れたよ!」無邪気に  
笑う姫乃の指先が、彼の手のひらを撫でていた。  
「ガクリンの指って長いね。私の手なんかちっちゃくって」  
 信じられないと凝視するガクに、姫乃は少し照れたようにはにかんで、  
「明神さんに教えてもらったの。私、少しは素質があるみたいだから、  
出来るようになるかもしれないよって」  
 でも本当に出来てよかったー、嬉しい!  
 にこにこと笑う姫乃に、あまりのことに自分の中で  
ぐるぐると渦巻く感情を上手く表情に出せないで  
まだ呆然としているガクは、震えるような小さな声で、  
「俺も、うれしい」と言った。  
 
 悪い人ではないのだと思う。少々・・・というか、  
かなり思い込みが激しくて、思考が突っ走りやすくて、  
その癖「ガラスのハート」の持ち主なので、浮き沈みが凄い。  
折れ線グラフで示したら、きっと  
凄まじい乱高下を繰り返すだろう。  
 でも、それだけに立ち直りも早くて、つい今さっきまで  
落ち込んで俯いていた顔をぱっと上げて、  
懲りずに「ひめのん」と呼ぶ。熱が篭りすぎて首を傾げたくなるような  
愛の告白というものをしてきたりしょっちゅう後ろを付いてきたり、  
子どもみたいに騒いだり、それで怒ったら部屋の隅っこで青白い  
顔を一層青くさせて項垂れて黄昏たり。  
 怪しげに含み笑いをすることもあれば、たまにとても静かな目をして  
遠くを見つめていたり。  
 自分よりもずっと背が高くて、たぶん年もずっと上なのに。変なの。  
 その仕草や行動から、彼が寂しがりやで大きな動物のように思えて、  
姫乃はガクのことが嫌いではなかった。  
 
「ガクリンの指って長いね。私の手なんかちっちゃくって」  
 ぺたぺたと無造作に触ったり指をなぞったりする私を、  
ガクリンはぼんやりとした顔で見ていた。  
 ビックリしているのか、重なった手を凝視している。  
 あれ、なんか私一人ではしゃいじゃってる。ちょっと恥ずかしいな。  
「明神さんに教えてもらったの。私、少しは素質があるみたいだから、  
出来るようになるかもしれないよって。でも本当に出来てよかったー、  
嬉しい!」  
 一抹の不安も感じただけに嬉しさもひとしおだった。  
これでうたかた荘のみんなと、もっともっと近しくなれた気がした。  
あ、アズミちゃんの絵本も読んであげられるかもしれない。  
明神さんに言いに行こう、一発合格しちゃいましたって。きっと明神さん  
驚くだろうな。エージ君やツキタケ君には最初は  
黙ってていきなり驚かしちゃえ。  
 色んなことを想像して、ニコニコ笑ってしまう。  
 その時、とても小さかったけれど、私の耳に届いた声。  
「俺も、うれしい」  
 目を上げるとガクリンが、とても複雑な、  
たくさんの感情がごっちゃになって、自分でもどうして  
いいのか分からなくなって、途方にくれたような顔をして、笑っていた。  
 
 今まで見たことのないガクの表情に、姫乃の心臓が一度大きく高鳴った。  
 その高鳴りの意味を考える隙を与えず、  
「もっと、触れていいか?」  
「・・・え、ええっ!?」  
 静かな声で、でもかなり問題のある発言に、  
姫乃はつい体ごと後ろに引いてしまった。その距離を一息で詰めて、  
ガクがずいと身を乗り出した。  
「頼むひめのん。オレはもっと実感が欲しい、俺のこの世で一番  
大事なスウィートをもっと強く感じたい!」  
「や、あの、ガクリン?」  
「オレが今日の今日までどんな思いでひめのんの華奢なセーラー服の後姿や  
お風呂上りのほんのり淡く染まった頬のラインを見ていたことか!」  
 傍で聞いている第三者が居たら怒涛の勢いで突っ込みそうな台詞に、  
だが姫乃はうろたえることしかできなかった。  
あわあわとおたついて、  
ガクの勢いに押されるように後退を続け、ついに壁にぶつかってしまった。  
「ふ、ふ、触れるって、具体的に、どーいう?」  
「抱き締めたい」  
 断言された。至極真面目な顔で。  
「それだけでいい。頼む、ひめのん・・・!」  
 眉根を歪め、そのためならば何もかも差し出してもいいと  
いわんばかりの悲愴さを漂わせてガクは肩を落とし頭を下げた。  
その拳は膝の上で堅く握り締められて震えていた。  
「がっ、ガクリン、止めてよ、ねえ!顔上げて!」  
 のろのろと上げられたその翳りのある縋るような眼差しを向けられ、  
姫乃は「うう」と言葉に詰まった。  
(抱き締めるとか、そんな、だって今まで男の人と普通に手も・・・  
繋いだことないのに・・・っ)  
 だが、この状況でガクの願いを撥ね付けてしまったら、  
とても酷いことになってしまうだろうことは  
容易く想像できた。きっとガクの精神状態は  
鍋底のズンドコにまで落ちていってしまうに違いない。ただでさえ  
危ういバランスで成り立っている男なのだから。  
 少女の潔癖さと理性と優しさとがぶつかり合って鎬を削って  
妥協して打開した。  
 暫し口篭って逡巡していた姫乃は、頬を染めてこくりと頷いたのだ。  
 
「ひめのん!」  
「あ、あの、でもね!」  
 くるりと姫乃はガクに背を向けた。  
「真正面だと、恥ずかしくって、とても出来ないから、だから、背中の  
・・・後ろの方からなら、良いよ」  
 この台詞も、到底向き合った状態で言えるものではなかったから、  
まるで壁に向かって話しかけているようだ。  
 心臓が、これ以上動くと破裂してしまうのではないかというほど、  
ひっきりなしに打ち付けている。  
 脈打つ音が耳に煩い。  
 ぎゅっと黙って体を強張らせている姫乃の後ろから、  
ふわりと微かな重みが圧し掛かった。二本の腕が交差して  
腰周りに巻きつき、背中に感じるのは多分ガクの胸板だ。  
引き寄せられるように抱きすくめられ、密着した体勢から、  
ガクの息遣いまで聞こえるような錯覚に陥る。  
(どうしよう、ドキドキしすぎて死んじゃいそう)  
 力づくではない、壊れ物を扱うような優しい抱擁だった。  
(手とか、腕、やっぱり長い・・・ガクリン細いのに、  
私の体がすっぽり入っちゃってる・・・)  
 男の人なんだ、と姫乃は今更ながらに実感して赤面した。  
骨張った指や布地越しにも分かる堅い体つきが、  
今まではお互いを見て、喋ることが出来ても、接触することが  
不可能だったことで、どこか男性そのものとして  
意識することに曖昧だった部分を、実体を感じることで思い知らされた。  
 それはまたガクにとっても、いや元から痛切に  
願っていたガクだからこそ、腕の中の姫乃で息づく感触に  
歓喜を噛み締めずにいられなかった。  
 簡単に抱き締めることの出来る細腰、俯いて恥らう首筋はさらりと  
艶やかな黒髪が流れて、白い項が  
垣間見えていた。  
 そのコントラストに、ガクの男としての欲望が堪らなく刺激される。  
 見て欲しいと思い、触りたいと願い、抱き締めたいと懇願すれば、  
次々に求めるものが大きく、歯止めが効かなくなってゆく。  
どうしようもなく肥大していく。  
 
 唐突に項の部分にガクの鼻梁が擦り付けられ、  
予想外の場所の接触に、姫乃は思わず「ぁっ」と声を  
上げた。反射的に後ろを振り向こうとしたが、  
体に回されたガクの腕で動きが阻まれた。精々、ガクの  
黒い前髪しか視界に入らない。  
「ゴメン、ひめのん」  
「え、え?」  
「スイッチ入った」  
「なん・・・」  
 のこと、と訊ねようとした姫乃は、盆の窪に触れた感触に  
ビクッと体を竦めた。ガクの舌がそこを舐めたのだ。  
「やだ、ガクリン離してっ」  
「絶対痛い事はしないから」  
 ちゅ、と薄い皮膚に口づけされる。もがいて腕を振り解こうとしても、  
二本の腕はビクともしなかった。  
それどころか、益々強くガクの体に背中が押し付けられている。  
「ダメだよガクリン、こんなの・・・やだっ!」  
 姫乃は嘘つきと詰った。  
 暴れる姫乃を無視し、ガクの片手がシャツの裾を手繰って  
服の中へ潜り込んだ。すべすべした腹部を  
撫で上げた手は、ブラジャーごと姫乃の片方の乳房を掴んだ。  
「ひめのんの心臓の音が伝わってくるよ」   
 ドクドクと、子鼠のようにけたたましく脈打つ振動を  
一瞬たりとも逃すまいとするように、ガクの掌に  
力が篭った。死者の魄に、生きている証そのものの場所を掴まれ、  
姫乃は言葉を失くす。  
 恐怖を感じるより先に気が付いたのだ。ガクの手が、  
小さく震えていることに。  
「この音ごと君が好きだ。愛してる、ひめのん」  
 
 まるでガク自身が痛みを感じているような、その絞り出すような声に、  
何故か姫乃の体から力が抜けた。  
「何百回でも言う。これだけは嘘じゃない、信じてくれなくていい、  
そんな虫のいいことは言わない」  
 でも、とガクは続けた。  
「せめて今だけオレを」  
 埋め火のような、翳りのある熱を帯びた声が縋りつく。  
姫乃は唇を結んで、何かに耐えようとした。  
 可哀想だとか、同情とか、そういう感情ではない。それどころか  
今この状況下、本当は嫌悪さえ浮かんでいいはずなのに、それなのに、  
どうして、どうしてこんなに遣る瀬無く切ないのか。  
 まるでガクの掌から、自分の心臓に、彼の感情を注ぎ込まれたかのようだ。  
 後ろから両腕で頑なに縛めているのは彼自身なのに、その声はまるきり  
反対に、姫乃に「抱き締めて欲しい」と願っているように聞こえた。  
 ふっと抵抗を止めた姫乃に気づき、ガクが「・・・ひめのん?」と  
おずおずと声をかけた。  
「狡いよ、ガクリン」  
 狡い、と姫乃は繰り返した。嫌いといえたらどんなに楽か。初めて  
感じる心の疼きに姫乃は顔を歪めた。こんな複雑でドロドロした感情、  
さっきまで全く知らなかったのに、まるで嵐のように掻き乱されて、  
熱くて冷たい尖ったものが芽生えて根づいてしまった。  
 今はもう、この両腕を振り切っても、逃げ出すことなく、  
留まり続けてしまうだろう。  
「―――――――――さっき言ったの、もっかい言って」  
「愛してる」  
 ガクは即答した。  
「違う、その、もっと前」  
「もっと前・・・?」  
「痛く、しないって」  
 背中越しにもガクの驚きが伝わった。  
 それならいいよ、と。  
 耳朶を赤くして、項まで染めて小さく呟くのを、ガクは信じられない  
面持ちで聞いた。  
「ひめのん」  
 真っ赤になって俯いたまま、姫乃は返事をしなかった。ガクは  
それが返事だと受け取った。  
 自分もまた言葉が見つからなかった。崖っぷちに立たされた自分は  
強く突き放されて、落ちてしまって然るべきなのに、  
手を掴んで引き戻してくれたのだ。「ありがとう」というのも「嬉しいよ」という  
のもそぐわない気がした。この気持ちを喜びを表す言葉など存在しない。  
 だからただ彼女の黒髪に顔を埋め、瞼を強く瞑って、生きて  
そして死んでからのこの年月初めて神と  
やらに心の底から感謝した。  
 
「大事にする。絶対」   
 きつく抱き締めていた腕を少し緩めた。華奢な姫乃の体に  
負担を強いていることに今更思い至ったのだ。囲い込んだ体は  
本当に細くて小さくて柔らかくて、温かい。  
恐る恐るその柔らかさを再確認し、同時に触れるということの怖さが  
ちらりとガクの頭を掠めた。  
 シャツのボタンをガクの手がゆっくり一つずつ外していく。  
その動作を姫乃は息が詰まる思いで見つめた。前の開いたシャツの襟が  
大きく開き、黒髪を掻き分けた耳から首筋のラインを  
ガクの唇がまさぐる。こそばゆいような気持ちいいような  
何ともいえない感触に姫乃は戸惑った。  
 と、もう片方の、姫乃の乳房を触っていたガクの手が動き、  
ブラジャーを胸元にグイと引き上げた。  
 隠されていた肌に空気が触れ、その膨らみはガクの目に触れてはいないが、  
姫乃は恥ずかしくてシャツの前を掻き合わせようとした。  
 それより早く、姫乃のそれより大きな掌が瑞々しい乳房に被さった。  
 すっぽりと収まってしまう大きさのそれは、滑らかで柔らかく、  
白い肌の中でつんと尖った先端がぽつんと紅い。  
 さっきとは違い、直に触れている手は柔らかさを楽しむように  
やわやわと揉んだ。まだ未成熟な乳房を、骨張った長い指が  
揉んで形を変えるのを見せ付けられて、姫乃の呼吸が乱れる。  
頬だけじゃなく、  
全身が熱を帯びていく。  
「すごく柔らかい・・・気持ちいいよひめのん」  
 耳元で囁かれる言葉にカッと全身の血が燃える。  
「そっ、そ、ゆうこと、いわないで」  
「どうして」  
「は・・・はずかしいから」  
「でも、勿体無い」  
 きゅ、と固く立ち上がった乳首を摘まれて姫乃の体が震えた。  
痛みではない何かが甘く疼く。同時に  
項から首筋にかけてをつうと舐められて、二箇所からの責め手に  
桜色の唇から和えかな声が漏れた。  
「触るだけじゃ勿体無くて、耳でも目でも、オレの全部で  
ひめのんを感じ取りたい」  
 

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