明神が初めて自分の身の上を語った夜、当然と言っては何だかその場の空気は  
ひどく重くてやるせなかった。だから居合わせた誰もがかける言葉を失って、すぐ  
にお開きとなったのだが、何故か姫乃だけは膝に根が生えたように動けなくなっ  
ていた。  
いつも飄々としていて何を考えているのか分からない、けれどいざという時にはこ  
の上なく頼りになるこのアパートの管理人がそんな凄絶極まりない人生を送ってき  
たなんて、想像もしていなかったのだ。  
「…ひめのん」  
部屋の隅で俯いたままの明神は、今夜きっと一人になって色々と考えたいのだろ  
う。こんな風に打ち明けてしまった以上はこれまで取り繕っていた余裕のある大人  
そのものの顔ではいられないかも知れない。そんな危うい雰囲気があった。  
「あの、明神さん…」  
「悪いこと言わないから帰んな」  
「でも、だって…」  
「帰れって、言ってるんだ」  
いつも見せてくれる明るい表情はどこにもなかった。  
このままここにいても、自ら過去を口にすることによってざっくりと開いてしまった明  
神の心の傷が更に開いてしまうだけかも知れない。それは良く分かっていた。な  
のに姫乃は立ち上がることが出来ない。  
このままこの人を放っておいてはいけないと思ったのだ。  
「…私も帰ったら、一人で泣くんでしょう?それって悲し過ぎます」  
今の今まであまりにも大人で決して追いつけないと思っていた人に、ようやく手が  
届きそうな気がした。そんな考えは不謹慎というものだろうか。  
 
「泣きゃあしないよ」  
「そんな気がするだけです」  
不毛な言葉を投げ合う二人を見下ろす三日月が、窓から見えた。真っ白で魔物の  
爪のように尖っている。  
ああ、どうかこの人を哀しみの底に連れて行かないで下さい。そう祈りながら姫乃  
はそろそろと近付いていく。  
何故か気になる。放ってはおけない。そのどちらも今の姫乃にとっては正しい気持  
ちだ。だが、それでいてもっと大きなものが胸の中にある。  
「…私、ずっとここにいますから泣いてもいいですよ。一人でいるよりは多分いいで  
しょう?」  
「…邪魔だと言ったら?」  
「邪魔、なんですか?」  
「いいから帰れってば。もう俺はひめのんの知っている奴じゃないかも知れないん  
だぜ」  
膝を付き合わせるほど近くで、そう言ってのけた明神はそれまで姫乃に見せたこ  
とのない顔をしていた。正直言って心の底から震えるほどだ。それなのに、やはり  
ここから立ち去ってはいけないと心の奥が忠告をするのだ。  
小刻みに震えながら、姫乃はきちんと理解してくれるように一語一語丁寧に言葉  
を発する。  
「私、明神さんに何度も助けられました。明神さんは大人で、私なんか絶対かなわ  
ないほど大人で…それが嫌だったんです。コンプレックスを持ってたんです。でも、  
今日の明神さんならそんな私にも支えられそうかなって、心から思いました。それ  
だけです」  
通じたのだろうか。  
明神は何を 言われたのか分からないような、わずかに猜疑心の混じった目の色  
のまま黙り込んでいる。  
「あの」  
こんな時、何か言うべきなのだろうか。  
 
しばらく沈黙が続いた後、折れたのは明神の方だった。  
「…そんな気を使わなくていいって」  
「私、別に」  
「いいってば」  
そのままばさりと頭を肩口に預けてきた。もたれかかってくるような姿勢に心臓が  
ドキドキと高鳴る。少し足がしびれ板のだが、一瞬にして忘れそうだった。  
「明神、さん…」  
「ひめのん、ごめん。しばらくこうしてる」  
「うん、いいよ」  
きっと、この人の精神は驚くほど子供のままだったのだ。だからわずかな破綻が  
あっただけでもこんなに動揺している。やはり不謹慎なのだろう。手が届かないと  
思っていた人が、案外簡単にこうして側にいることが嬉しい。  
いつかもっと月日が経ったらこんな風ではなく、心から頼ってくれたらいいのに。  
肩に確かな温みを感じながら、姫乃はそうっと髪を撫でた。  
神様、私にこの壊れそうに脆い人を下さい。そんな儚い願い事をしながら。  
 
 
 
オワリ  
 

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