ふと、思うことがある。  
代々受け継がれてきた師匠たちの名を貰い受けることは、とても名誉なことだ。  
けれど、どんなに近くに居ても、どんなに長い時間を共に過ごしても、“名前”を呼んでもらえないと、自分を自分として見てもらえていないような感覚に陥る。  
 
この感情を一言で表すなら、きっと「寂しい」が合っているのだろう。  
 
同じ、名を貰い受ける前から見知っている相手でも、一人は昔と変わらない呼び名で、やけにテンション高く関わってくる。  
けれどもう一人からは、“名前”を呼ばれた覚えがない。  
それをいつから「寂しい」と感じるようになったのかは定かではないが、いつの間にか、そうなっていた。  
昔は「おい」とか「なあ」とか曖昧に声をかけられ、今となっては師から譲られたものでもない、ただの……  
 
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「おい、水(バ)」  
 
火神楽正宗が呼び掛けたそれはただの属性、それも女である湟神澪としては何としても連呼されたくない、一番嫌な響きの音だった。  
 
「……なんだ」  
 
とりあえず指されたのだから返事はしてやる、そんな澪の眉間には、くっきりとシワが刻まれていた。  
きっと、いや間違いなく、正宗に悪気はない。  
それは一応理解しているものの、やりようのない怒りは治まらず、手にしていた長ドスを壁に叩きつけた。  
 
「何だ、落ち着け水(バ)」  
「まだ言うか!」  
 
修行の思い出が詰まった道場の壁に、またひとつ、傷が刻まれた。  
 
「だから何がだ、水(バ)!」  
 
何が起こったのか理解できない正宗の口からは、なおもその音が発せられる。  
一度気にしてしまうとそればかりが耳につき、気が長いほうでない澪の怒りは簡単に振り切れてしまった。  
 
「大人しく座れ火神楽!その首叩き落として……っ!!?」  
 
暴れる澪を止めようとした正宗の手が、突撃を受け止めたその瞬間、乳房を鷲掴みにしてしまう。  
触れる、なんて生易しいものでなく、掌はしっかりとそれを掴み込んでいた。  
 
一瞬何が起こったのかわからず、お互いそのまま硬直し、少し間を置いてやっと手が離れた。  
 
(ああ、これは本気で首もろとも……)  
 
叩き斬られる覚悟で思わず目を閉じたものの、少し間を置いても、正宗の身には何も起こらない。  
違和感を覚えて目を開けると、澪は両腕で胸を隠し、赤らめた頬を見られまいと必死に俯き込んでいる。  
垂れる髪の隙間から見える瞳は、うっすらと潤んでいるようにさえ見えた。  
 
「おい、」  
「………」  
「おい、水(バ)」  
「……っ!」  
 
呼び掛けた瞬間顔が上げられ、瞳がこちらへ向けられた。恐らく、睨みつけられたのだろう。  
何も言わず、真っ赤に染まった頬と潤んだ瞳を向けられるだけで、どう扱えばいいのか全く想像もつかない。  
荒くれ者の澪が見せた突然の女らしい仕草には、戸惑いしか起こらなかった。  
 
「……」  
 
よくわからないが、とりあえず、何かが気に入らないのだろう。  
自分の呼び方がマズいのだとは思ってもいない正宗には、その程度しか理解できなかった。  
気にくわないことがあるなら、はっきり言えばいいだろうに、ぐっと口をつぐんだまま睨みつけるだけで何も言う様子はない。  
 
(ああもう、どうしろってんだ)  
 
「女の子を怒らせちゃったら、キスでご機嫌とり♪とか良いよねー」  
いつだったかこの場所で、修行休みにアイスクリームを頬張りながら、白髪のグラサンがそんなことをほざいていたか。  
きっとあいつの頭の中では、この湟神澪の姿が浮かんでいたに違いない。  
怒らせようものならすぐに手や足が飛んでくるというのに、そんな手段が通用するものか。しようものなら逆に、殴る蹴るの話では済まないだろうに……そう思いながら、口のふちにクリームを垂らしながらヘラヘラと妄想に浸っているあいつの話を聞き流していたのだった。  
 
淡い恋心なんて簡単に蹴散らしてくれる、それが湟神澪という女だ。  
そう思うことにして、もう何年が過ぎていただろう。  
 
(ご機嫌取り、ねぇ……)  
 
気づくと、コートを掴み寄せ、噛みしめられた唇へ無理矢理自分のそれを押しつけていた。  
 
(……あ、)  
 
一瞬我に返った時には、もう手遅れだった。  
下唇はしっかりと噛み込まれていて皮膚の感触しかないものの、わずかに触れた上唇は薄いながらも柔らかく、しっとりとしている。  
 
(こいつでも、リップなんか塗るのか)  
 
頭の中はやけに冷静で、そんなことを考えながら少し角度を変え、上唇へのキスを続けていた。  
 
突然のことに驚き、言葉をなくした澪は、硬直したまま動く気配がない。  
いつの間にか下唇を噛んでいた力も抜け、正宗の前に無防備に唇をさらけ出していた。  
 
 
「…………おい」  
 
しばらく間を置いて、先に言葉を発したのは正宗のほうだった。  
 
「抵抗するとか、殴るとか……ねぇのかよ」  
 
そう言葉をかけられ、やっとこちら側へ意識を戻したらしい澪は、みるみるうちに顔を赤らめた。  
……が、手足が飛んでくるようなことはなかった。  
 
「な…、ななな、何をするんだ!お前、自分が何をしたかわかってるのか!?」  
 
湯気が出そうなほど耳や首まで真っ赤にして、発音もままならないその様子が、少し面白くもあり、少し、可愛らしく見えた。  
 
「ああ、キスだろう?」  
「キっ、キスだろう?じゃない!」  
「じゃあ何だっていうんだ」  
 
ずい、と顔を近づければ、ビクリと身体を揺らして急に黙ってしまう。  
 
「お……女に……」  
 
俯き加減に顔を背け、ぼそりと呟かれた。  
 
「……女にとって一回がどれだけ特別か、お前みたいな奴に解るものか」  
 
お前みたいな奴に、という言葉がどういう意味で言われたのか、少し気にかかった。  
誰とでも簡単にするのだろう、ということなのか、ただ単にキスされたことを怒っているのか。  
前者なら、失礼な話だ。  
今の今まで誰とも何もなかったと言えばそれは嘘になる。けれど、何の想いも持たない相手とできるものでないというのは、男でも女でも変わらないだろうに。  
 
「………」  
 
そのまま何も言わなくなってしまった澪の顔を覗き込むようにして、唇をすくい上げた。  
 
「一回じゃなくせばいい」  
「……は、…?」  
「文句は聞かん」  
 
合わせる唇の隙間から聞こえた疑問の音は無視して、やわらかなその場所への愛撫を続ける。  
少しだけ開かれたその間へ舌先を差し入れると、驚いたように目が見開かれた。  
 
「んっ、んう……!」  
 
息苦しそうに声を漏らしながら、けれど抵抗する様子はなく、二の腕を掴む指先に力が込められた。  
添えられた掌は、しっとりと湿りを帯びている。  
 
「…ふあ……」  
 
唇をなぞれば身体は小刻みに震え、舌先を吸うと、びくりと跳ねる。  
そんな澪の反応に気分が良くなっていたとき、ふと、ことの始まりを思い出した。  
 
「なあ」  
 
唇を頬へ、耳元へとずらしながら呼び掛けると、一段と大きく身体が跳ねた。  
 
「なん……っ…」  
「さっき怒ってただろ、あれ何だ?」  
 
耳朶に口付けながら聞くと、うるさい、と腕が叩かれた。  
何を怒っていたのか問われたのが気に入らないのか、耳元で喋るなということなのかはわからない。  
 
「何か、悪いことでもしたか?」  
「……今も、な」  
「意味がわからん」  
 
耳の溝に舌を這わせると、小さく喘ぎが漏れた。  
腕を掴む手には痛いほど力が込められ、伸びかけた爪が皮膚にいくつもの痕を刻んでいく。  
腕に、背中にゆっくりと手を這わせると、どこを触っても甘い吐息が漏らされた。  
 
「………名前、だ…」  
 
喘ぎ混じりに、そう一言だけ呟かれる。  
 
「名前?」  
「……っ…」  
 
(ああ、そういうことか。なんだ)  
 
しばらく間を置いて、やっと理解できた。  
 
湟神は師から代々受け継がれてきたもの、誰か別の人間を呼んでいるような気分になった。  
だから、呼ばなかった。  
 
澪と呼ぶのは、なんというか、昔からもう一人が嬉しそうに呼んでいる画が頭にあって、どうも気分が乗らなかった。  
呼ぶには少し照れくささもあったし、そう呼ぶほど深く関わっているわけでもなかった。  
だから、呼ばなかった。  
 
「なら、何て呼べばいいんだ」  
「っ、だから、そこで……!」  
 
耳への口付けを続けながら問うと、また身体が跳ねた。  
 
どんな顔をしているのか、見るとおさまりがつかなくなるだろう。  
今はまだ、見ないでおこう。  
そう思い、首筋に唇を寄せたまま、気持ちを鎮めるように軽く笑った。  
 
 
「お前が呼んだら、考えてもいい」  
 
 
end.  
 

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