入学式の日には満開だった桜も、一週間で呆気なく散ってしまった。  
まだ新しい制服に慣れているとは言えない、どこか気恥ずかしいようなくすぐったい  
気持ちでいる姫乃にとっては、一番ダイレクトに時の流れを自覚させてくれるものだ  
ったのだが、今はもういつもの通学路も青々とした葉桜並木になっている。  
慌しいなりに何とか無事に過ぎた一週間を振り返り、姫乃は安堵とまだ心の底に  
残っている不安が入り混じった溜息をついた。  
「これからやってけるのかなあ…」  
生まれた時から馴染んでいる故郷とは何もかもが違う。ここは都会なのだ。うっかり  
すれば方向音痴な為にどこまでも彷徨ってしまいそうな現代の大迷路。そこで何と  
か暮らしていかなければいけないのは、姫乃としても相当なプレッシャーだった。  
「来年、桜が見られるまで大丈夫かなあ」  
まだ慣れたとはいえない環境で、しかも進学して新しい高校で、そんな日々は当初  
思ったよりも大変だったのだ。不安に駆られてもおかしくはない。  
「ひーめのん」  
うだうだとそんなことを考えていると、突然背後から呑気な声が聞こえてきた。反射  
的に振り返ってみると、うたかた荘管理人でもある明神が近くのコンビニの袋を下げ  
て歩いてきていた。  
偶然かち合ってしまった。  
「あ、明神さん…」  
「あれ。そうか、もう学校終わる時間だったんだな。もう迷わなくなった?」  
「は、はい。おかげ様で」  
「あっはっはっは」  
何がおかしいのか常にサングラスをかけているこの男はあっけらかんと笑った。  
いつも飄々としながらも霊が見えたりその霊と除霊をしたりバトルをしたりといった  
姫乃にはまだ理解の範疇を超えていることをあっさりとやってのける男だ。笑いの  
ツボが人と違ったりするのも当然だろう。  
ついつい雰囲気負けしてそんな呑気なことを考えてしまう。  
 
「何がおかしいんですか」  
ぷーっと頬を膨らませながら怒った顔をすると、笑い転げていた明神はすぐに真顔  
になってサングラスを指でくいっと上げた。  
「だって、ひめのん入学式の次の日から逆方向に行ってたし」  
「…あ」  
そうだった。  
入学式はまだ緊張していたし道も地図を見ながら完璧に憶えていた。まあ、明神  
とその他の数名が乱入もしたりしたし、どさくさもあってせっかく憶えた道順は当日  
のうちに忘れてしまっていたのだ。  
お陰で、次の日はうろうろと迷いながら登校する羽目になった。  
「迷ってるの知ってたら教えて下さい」  
「だってさ、毎日通う道だから、自分で覚えるのがひめのんの為だと思って」  
大人の意見で、正論ではある。  
「…まあ、そうですけどね」  
そんな風に厳しくされたから、ようやく道を憶えた訳だしと姫乃はどこかまだ納得  
出来ていない部分を呑み込んだ。  
「まあまあ、ようやく高校にはなれてきたみたいだね。これでも食べて元気出しな  
って。ほれ、ポリフェノール」  
「…?」  
がさごそとコンビニの袋の底から出してきたものを放られて、慌てて受け取る。手  
の中にあったのは板チョコだった。  
「明神さん、これ…」  
「まあ、いいってこと。うだうだ考えるより、甘いものが一番て」  
「…うん」  
コンビニの袋の中には、今夜の晩酌用の缶ビールが二缶と何かおつまみのよう  
なものが見えた。それが少し意外な気がした。  
この人でもお酒は飲むんだ。不思議と新鮮な驚きがあった。どこか呆けた顔をし  
ていたに違いない。先を歩こうとしていた明神が悪戯っぽく笑った。  
「…何、腹減ってるの?おつまみはやんないよ。あと二・三年は待ちなさい」  
「べ、つに…飲みたい訳じゃないもんっ」  
 
一体何をそんなにむきになっているのだろう。  
自分でも分からなかった。  
ただ、何だかいつも守ってくれている明神のことがもっと知りたい。そんな乙女な  
気持ちになっていたのだ。けれど、姫乃が大人になるまではまだまだ長い時間  
がかかる。それが決定的な壁に思えてしまったのだ。  
「んー…」  
明神は何か考えている。  
すっかり葉桜になった並木の途中で立ち止まっている二人を、通りすがりの生  
徒たちは何事かとじろじろと見て行った。  
「ひめのん」  
ちょいちょいと指で招かれ、一体何なのだと近付いていった姫乃は声も出せなく  
なった。前後の脈絡もなくキスされている。よりにもよってファーストキスだという  
のに。頭が混乱して、何を考えていいのか分からない。  
「…?」  
「大人ぶりたいなら、これぐらいで我慢しときなさい」  
それなのに、明神は冷静にそれだけ言うとまた飄々と歩き出した。  
「ちょちょちょっと、明神さんっ!」  
「んー、何?柿の種ぐらいならやるけど」  
「いりませんっ、そんなことよりもっ!」  
はっきり言って、まだ姫乃は混乱している。言ってやりたいことも色々ある。なの  
に何の考えもなさそうに呑気な顔をしている明神を見ていると、こんなことは何  
でもないような気がしてきていた。  
「…柿の種は、いいんですね」  
「うん。それぐらいは」  
「じゃあ、頂きますね。何だかまだ緊張しているからお腹空いちゃってるかも」  
周囲に誰もいないのをいいことに、学生カバンをぶんぶんと振り回しながら、空  
元気を出して姫乃は笑って見せた。あれはきっと何かの間違い。明神さんはそ  
んなことをする人じゃない。  
無理にでもそう思わなければ、さっきまでの先行き不安な学生生活をまた悩み  
そうになる。  
でも、私負けないできっと頑張るからね。  
花を見られるのはあと一年先の、緑一色の葉桜並木を見上げながら、姫乃は  
Vサインをして見せた。  
 
 
 
                     オワリ  
 

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