「・・・・美鳥・・・」  
先ほどまで、美鳥が喋っていた一言一言が頭を駆け巡る。  
その言葉全てに、セイジはすでに懐かしみと大切なものを失った悲しさを感じていた。  
「・・・・喉、渇いたな」  
ボソッとつぶやいてヤカンに手を伸ばす。だが掴んだヤカンは異様な軽さだった。  
「・・・くそ」  
舌打ちを一つした後、冷蔵庫へ足を伸ばしたが、そこにも飲み物となるようなモノは何もなかった。  
「なんで何もねーんだよ・・・」  
ぶっきらぼうにズボンのポケットに左手を突っ込む。ポケットの中には何枚かの硬貨が入っていた。  
「・・・気分転換に外にでもでるか・・」  
硬貨の合計金額が120円以上あることを確認し、セイジは居間を出た。  
「・・・・うわっ!!」  
居間を出るなり、いきなり何かにぶつかった。  
ぶつかった相手も派手にコケたようだ。  
廊下の電気は切られており何にぶつかったかはよくわからない。  
「な、な、なんだっ・・!?」  
「・・てて・・いきなりでてくんじゃねーよ・・・」  
ぶつかった相手は凛だった。  
またか、と思った。いつもなら声を張り上げて驚く所だが、セイジは不思議と落ち着いていた。  
 
「いつからいたんだよ?ったく、盗み聞きたぁ悪い趣味だな」  
「眠気が醒めねぇんで、も一度寝ようと思って戻ってきたら、なにやらシンミリした場面だったようでな。  
 空気読んでここで黙っといてやったんだよ!迷惑がらずに感謝してほしいとこだがな」  
「へいへい!わかったよ!今は姉貴の相手する気分じゃねーんだ。ちょっくら出かけてくるよ」  
「美鳥ちゃんの言ったこと、しっかりちゃんと受け止めてやれよ」  
玄関を出ようとしたセイジがチラッと振り返る。  
「お前が言ったように・・・右手にいたころの記憶がなくなるってんなら、あの綾瀬って子のことも忘れるって事だからな。  
 その辺、考えてやれよ」  
「・・・・」  
何も答えずセイジは家を出た。  
凛は一発大きなアクビをかました後、居間に入っていった。  
 
 
すっかり暗くなった夜の道をセイジはゆったりとしたペースで歩いていた。  
自動販売機が家から少々離れた場所にある。そのおかげで気分転換するに丁度いい散歩にもなった。  
空は晴れており、点在する星と白く輝く月が綺麗だった。  
 
 
(そういや・・・綾瀬が今度の日曜どっか行こうって言ってたな・・・。早めに返事しねーとな・・)  
約10分ほど歩いて、ようやく自動販売機にたどり着いた。  
「さぁて何飲むかな・・・」  
清涼飲料水の列を眺めながら、挿入口に小銭を入れる。  
するとコトンと、つり銭口から何故か音が鳴る。  
「・・・ん?」  
投入金額の表示は110円と表示されている。  
「・・・ウソだろ・・・?」  
つり銭口に跳ね返された硬貨を見るとそれは10円玉ではなく5円玉だった。  
5秒ほど自販機の前で立ち尽くすセイジ。すぐ我に帰り、両ポケットに手を突っ込んだが、出てくるのは五円玉と一円玉ばかり。  
財布も持っておらず、万事休すだった。  
「あークソ!ついてねぇな!」  
渋々返却レバーに手を掛けるセイジ。  
「・・はい、10円」  
コトンコトンッとつり銭口にセイジの110円が落ちてきたその時、セイジの目の前に誰かの掌が現れる。  
「・・あ、綾瀬!?」  
掌の主は綾瀬だった。その掌の中央には、ちょこんと一枚の10円玉が乗っかっている。  
「な、なんでここに・・・!?」  
「あら、知らないの?私の家、ここの近くよ?」  
「いや、そうじゃなくってよ・・」  
「ああ・・ちょっとお母さんに買ってきて〜って言われてね。私も喉渇いてたしちょうどいいかなーって」  
「・・あ・・・そう」  
だらんと垂れたセイジの右腕を掴み、その掌に10円玉を置く綾瀬。  
「わ、わりぃな・・」  
「たかが10円くらい別にいいわよ・・でもね、出かけるときくらいサイフ持っときなさいよ?」  
 
つり銭口から110円を取り出し、再び挿入口に入れるセイジ。  
「今日はたまたま忘れてたんだよっ!」  
綾瀬に貰った10円も挿入し、適当なジュースのボタンを購入し、取り出し口から取り出す。  
そこで綾瀬が右手のことに気付いたらしい。  
「そういえば・・・右腕、治ったの?包帯巻いてないけど・・」  
セイジが買ったジュースは炭酸系の飲み物だった。  
カシュッという音を立ててフタが開き、セイジはその飲み物を一気に口に流し込む。  
「ん?ああ、まぁな」  
「ふーん・・・。・・・。・・・で、さぁ」  
「何だ?」  
「日曜日だけど・・・」  
「あぁ・・・シルクランド?だっけか」  
「ミルキーランドよ」  
「そっか。・・・う〜ん」  
少し考え込むセイジ。予定があるとかないとかではなく、心のどこかに美鳥の事が引っかかってしまい、いまひとつ決断に至らない。  
──私が元の身体に戻って、セイジくんに告白したときに、初めて私と綾瀬さんを天秤にかけてください・・・  
美鳥が消える間際、残した言葉。  
「・・・うん、そうだな。・・綾瀬!いけるぞ」  
「そ、そう!じゃあ日曜の朝10時に星河駅で待ってるわね!」  
「おう、じゃあな」  
セイジは既に飲み干した飲み物の空き缶を、すぐそばのゴミ箱にポイッと投げ捨て、帰り道を進みはじめた。  
「明日、遅刻しちゃダメよ!」  
「わぁーってるよ」  
左手で軽く手を振って、セイジは一つ目の角を曲がった。  
「さ、私もさっさと買って帰ろうかしら・・・」  
綾瀬は手際よくお茶とコーヒーを購入し、鼻歌を口ずさみながら、足取り軽く帰路についた。  
 
 
翌日金曜日午前8:10。この日も晴れだった。  
春も訪れ、暖かい陽気は、ぶ厚い冬服をまとうセイジや綾瀬には少々汗ばむような、嫌な陽気に感じられた。  
綾瀬はいつもどおり、椅子に腰掛け、その日の時間割の確認をしている。  
まだ、セイジは来ていない。  
「さっわむっらサァ〜ン!!」  
朝から元気のいい、軽い声が教室に響く。自称沢村の一の子分、宮原オサムだ。  
「・・・あれ?沢村さん、まだ来てないんスかぁ?」  
辺りを見回し、セイジの姿が見えないことに気付いた宮原は、残念そうに声を漏らす。  
「いつもなら、もう来てるハズなんだけどなぁ〜」  
右手で頭をポリポリ掻きながら教室に入る宮原。  
「・・・・」  
ヤンキー歩きでセイジの机に近づく宮原を綾瀬が厳しい目つきで睨む。  
「な、なんだよ、その目はっ!」  
「別に・・・でも毎日毎日沢村沢村って、そんなにアイツの事が好きなの?」  
「そりゃ〜もう!あんたみたいなカタブツさんには分からないよさが、沢村さんにはあるんだよーだ!」  
「あっそ・・。カタブツで悪かったわね。・・・そうね・・金曜日の沢村は、だいたい20分頃に来るわ。  
 それまでその辺で待ってたら?カタブツとお喋りするよりマシでしょ?」  
宮原がキョトンとしている。  
「へぇ〜・・沢村さん、金曜日は少し遅く来るのか・・。知らなかったな・・てか、何であんたがそんなこと・・」  
「べ、別に・・毎日見てるから、脳が勝手に覚えちゃったんじゃない?」  
綾瀬の口調と顔に動揺の色が見えた。宮原は怪訝そうな顔をしている。  
「そ、それとねぇ!一応先輩である私をあんたあんたって呼ぶの、やめてくれない?失礼よ」  
「へいへい!わかりましたよセンパイ!」  
綾瀬に背を向ける宮原。  
「あ〜あ、はやくこねーかなー沢村さん」  
「・・・・」  
そして8:20。綾瀬の言葉どおり、沢村が教室に姿を現した。  
 
「おぉ、ホントに20分に来たよ・・・沢村さ〜ん!!」  
「お〜、宮!朝から元気だな!」  
抱きつかんばかりの勢いで沢村のほうに走っていく宮原。  
・・・が、その宮原を横から突進してきた一人の男が突き飛ばす。  
「はぶっ!!?」  
「た、高見沢!?」  
高見沢に突き飛ばされた宮原は教室の壁にゴツンと豪快に頭をぶつけ、うなだれるように倒れた。  
「さ、さ、さ、さ、さ、沢村くんっ・・・これはっ!?」  
カバンを握っているセイジの右腕を見てガクガクブルブルしている高見沢。  
セイジも高見沢が何に驚いているか勘づき、少し笑みを浮かべながら答えた。  
「あいつなら・・・元の身体に戻ったよ」  
「え〜〜〜〜〜〜〜っ!!」  
鼓膜を突き破らんばかりの高見沢の叫び声。  
「と、ということは、もう右手の美鳥ちゃんには会えないのかいっ!?」  
「あ・・ああ、そうだろう・・・な」  
高見沢のあまりのガクガクぶりにセイジも少し引いた。  
「そ・・・そんな・・・・・」  
腕、足、胴体すべての骨が砕け散ったように崩れ落ちる高見沢。  
「お・・・おい!高見沢!」  
無反応。隣には気を失った宮原。朝から草々たる光景がセイジの視界を埋め尽くした。  
 
授業中。高見沢はまだ魂の抜け殻状態で机にへばりついている。  
宮原は保健室へ運ばれた。宮原自身も、何が起こったかわかっていなかったので、豪快にコケたということにしておいた。  
綾瀬は授業中、相変わらずのマジメっぷりで、話しかけてくることすらなかった。  
「ふぁ〜あ・・・」  
暇な授業時間を、ただひたすらアクビを繰り返し過ごした。  
休み時間になるたびに綾瀬がマジメに授業を受けろと説教してきたが、既に授業内容はサッパリ分からないところまで進んでいたので、どうしようもなかった。  
「ふぁ〜ぁ・・」  
何度目のアクビだろう。そんなことを考えながら、フイに綾瀬のほうを見る。  
(・・・しっかしコイツが俺のことを好きだったなんてなー・・。ちょっと前までは思いもしなかったぞ・・  
 ずっとアタックしてきたって言ってたけど・・・全然気付かなかったぜ・・)  
綾瀬は黒板とノートを交互に見つめながら、シャープペンシルを白い紙の上に滑らせる。  
セイジが自分の事を見ていることにも気付いていないようだ。  
(今、ちゃんと見ると結構かわいい顔してるし、胸もデケーし・・なんでだろうな。)  
ふと先日のことがセイジの頭をよぎる。自宅で交わした、あの交わり。  
肌を密着させ、汗をかき、お互いの存在を確かめ合うように、激しく淫らに行った、あの交わり。  
(あぁ〜っ!いきなり何考えてんだ俺・・・)  
抑えようとしても抑えがきかない。最初はボンヤリとした幻影でしかなかった、あの時の映像が、次第に鮮明に甦る。  
すると当然、股間も疼きだす。  
(や、やべっ・・・)  
自分の下半身に視線をやるとズボンのチャックの部分が随分盛んな状態になっている。  
まずい。見られたら、まず間違いなく気付かれる。  
 
「・・・〜!」  
なんとか膨らんでる部分だけは隠そうと、両脚を巧みに動かし、隆起している自分のものを押さえ込むセイジ。  
だが周りから見れば、その動きの方が奇妙に見えた。そして隣にいる綾瀬も、先ほどまでボケーっとしていたセイジが  
、突然モソモソ動き出したのに気付き、セイジに視線を向ける。  
「・・・?突然動き出して・・なにやってんの?あんた」  
「えっ!?」  
モゾモゾさせていた足をピタッと止める。内股になっていて非常にキモイ。  
「・・・・・ね、眠くならねーように身体動かしただけだよ!」  
「ふ〜ん・・・」  
ジロジロとセイジの身体を見る綾瀬。  
「何よ、その足・・気持ち悪いわね・・」  
「い、いや!ノビしようと思ってな!ほら、ノビしようとすっと内股になるだろ?」  
「はぁ?・・・もう、わけわかんないこと言ってないで!ちゃんと授業受けなさいよ?」  
綾瀬はなかば呆れ顔で黒板のほうに向き直る。  
(た、助かった・・コイツに授業中あんなことなってるの気付かれたら、何言われるかわからねぇ・・・)  
セイジのムスコはまだ収まらない。これだけ慌てふためけば普通ションボリしてしまうのだが。  
(クソ・・・とっとと縮まれよ・・)  
セイジは両手の平を机にベッタリ付着させ、何も書いていない、ただ広げているだけの白紙のノートを凝視する。  
(縮め・・おさまれ・・・)  
見事な集中力で、なんとかモノを押さえ込むことに成功したセイジ。  
しばらくぶりの達成感がセイジの心を満たした。  
この時限の授業中は、もう綾瀬のほうを見ることもせず、ムスコが再び暴れだすこともなかった。  
 
「ねえ!いつまで寝てんの!?」  
「ぬおえっ!?」  
綾瀬の高い声と、頭への一撃で目が覚める。  
思わず居眠りをしていたようだ。既に休み時間に入っているようで、教室はザワザワ騒がしくなっていた。  
「い、いきなり叫ぶなよ・・びっくりするじゃねーか」  
「もう!一体何度言わせるのよ!ちゃんと授業受けなきゃダメだって!」  
綾瀬は相当頭に来ているようだ。セイジとしては、正直勉強については放っておいて欲しいのだが。  
「だぁってよー!もはや先公どもが何について喋ってるのかもほとんどわかんねーし・・」  
「はぁ〜・・。ねぇ沢村・・・あなた・・ちゃんと上にあがれるの・・?」  
「なにぃ?」  
「上にあがる」とは3年生になれるのか?と聞いているんだろう。  
確かに出席日数もヤバイし、成績もコレだ。単位がもらえるかどうか、際どいところである。  
「来週の終わり頃から、学年末の試験があるわ。・・ちゃんと勉強してるんでしょうね?」  
「・・・・・・・」  
ハァと落胆の溜息を漏らす綾瀬。  
セイジは綾瀬のほうを見なかった。さっきのようになっては困るからだ。  
「週末の遊園地・・・やめにする?」  
「な、なんでそうなんだよ!?」  
思わず語気を荒げ、綾瀬のほうに向き直るセイジ。  
「だって・・一時の遊びより・・そっちのほうが大事よ」  
「だけどよ!お前、楽しみにしてたんだろ?俺の成績のことなんて気にせずにドーンと遊ぼうぜ!」  
「でも!そのせいでアンタが3年にあがれなかったら、それこそ悔いが残るわよ!」  
綾瀬の表情は怒ったような表情ではない。不安そうな、落ち込んだ顔。  
綾瀬は本当に心から俺のことを考えてくれているんだろう。セイジはそう思った。  
 
「私は、ずっとあんたと一緒にいたいの!あんたが落第して私だけがあがるなんて、そんなのイヤ!」  
「・・・・・・」  
「遊園地は3年になってからでも行けるわ。でも、あんたがあがるための勉強は今しかできないのよ・・?」  
「でもよ・・。・・・・わかったよ。・・・ごめんな」  
「・・・」  
綾瀬の表情は晴れなかった。綾瀬だって一緒に遊びたい気持ちは山々だ。  
ただそこをなんとか抑えて、セイジのためを思って、勉強することを薦めた。  
「・・・ホントわりぃな。俺が馬鹿なせいで・・」  
「うぅん。いいのよ。そのオバカさんを好きなったのは、私なんだから・・。」  
軽く首を横に振って微かに笑ってみせる綾瀬。  
ちょうどそこで次の授業の開始を告げる、チャイムが鳴った。  
「さ!気ぃ取り直して授業よ!授業!」  
パンと一つ手を叩き合わせ、席に着く綾瀬。  
セイジも軽く笑って、席に着いた。高見沢はまだ机に張り付いている。  
 
美鳥が言った、自分が「卑怯」である、という言葉。  
その意味をセイジは理解できていなかった。  
だが、先ほどの綾瀬とのやり取りで、少しだけわかったような気がした。  
美鳥はずっと俺と一身同体だった。だから、普段の生活も、どこかへ出掛けるときも、滅多にしない勉強時にも、 
そして寝る時も、ずっと一緒に過ごしていた。  
ただそれは、美鳥自身が努力して掴んだものじゃなく、彼女が何もしないままに手に入れた、「最高の偶然」と「最高の幸せ」だった。  
そしてその「偶然」を手に入れられないどころか、必然にして気付いていいはずの、積極的なアプローチを繰り返していた綾瀬に、全く幸せが訪れない。  
もちろん綾瀬はセイジとは別の身体を持っているため、美鳥のように何時も一緒いることもできない。  
美鳥は、逃げてばかりいたくせに「幸せ」を手に入れている自分が許せなかったのだろう。  
(なるほどな・・・)  
こんなことを考え始めたのは数分前。机にはたったの二行、黒板の内容を写したノートが広がっている。  
(そういや美鳥の奴・・・ちゃんと元の身体に戻れたのかな・・・)  
窓の外に目をやってみる。今日も空は水色に晴れている───  
 
 
──  
「じゃあ・・来週から学校へ行くのね?」  
「・・・はい、お母さん。体調も問題ないですし・・・今日にでも行きたい気分です」  
星河の街外れに聳え立つ巨大な豪邸、春日野邸。  
その一室で一組の親子が、紅茶を啜りながら、静かに会話を交わしていた。  
 
「もう突然眠ってしまったりしないわよね?・・・美鳥」  
母の頬には涙の跡が残っていた。つい先ほどだった。愛する娘が、長い長い眠りから目覚めたのは。  
娘の方はすっきりした穏やかな表情で、少し前まで原因不明の病に倒れていたとは思えない体調のよさだった。  
顔色も非常にいい。  
「迷惑かけてごめんなさい、お母さん。でも、もう大丈夫・・。なんでかはわからないけど・・何か私の中で、スッキリした感じがあるの」  
「・・・?」  
「何も覚えてないんだけどね・・でも、何か・・私の中で何かが弾けたっていうか・・」  
豊かに変化するその表情も、どれも明るく美しい、健全で可愛い女の子の表情ばかりだった。  
母は安心した。過去に二度目覚めた時。そのときの表情は、何かに追われているわけでもないのに、追い詰められた  
極度の緊張、焦り、不安、それらすべてが一緒になったような、見ているのも辛い表情だった。  
それ比べて、今の娘を見ると、安心せずにはいられなかった。  
「美鳥・・・もうどこにもいかないでね」  
「はいっ、お母さん。・・・・それとね、お母さん」  
少し顔を赤くして、少し顔をうつむける美鳥。  
「どうしたの美鳥?何かお母さんに相談でもあるの?」  
ちょっとモジモジした後、美鳥が口を開く。顔を真っ赤にして。  
「私・・告白しようかなって思ってるんです。・・・沢村・・沢村正治君に」  
このとき母は確信した。この子は成長した、と。  
「そう・・。・・・あ、そう言えば沢村くん・・だっけ?その子・・・一度うちに来たのよ」  
「えっ!?」  
反射的に顔をあげる美鳥。  
「耕太くんに紹介されたらしくてね・・美鳥、あなたのために来てくれたのよ」  
「本当・・・?」  
「ええ、本当よ」  
嬉しいのだろう。自然と笑みがこぼれる。顔の赤みはさらに増して、瞳はキラキラ輝いている。  
 
「そ、それで!?セイジくんは・・・セイジくんは何か言ってましたかっ!?」  
早口になって、遥に迫る美鳥。  
「ちょっと!落ち着きなさい、美鳥・・」  
ハッと口を覆い椅子に戻る美鳥。遥もニコニコしながら紅茶を啜る。  
「あの時はねぇ・・・あの時は・・・。・・・。・・・。」  
しまった、と思った。絶対に言えるはずがない。  
沢村正治くんは美鳥の裸を眺めていました、だなんて。  
「ええっとねぇ・・・その・・・」  
「その・・?その・・・?」  
「は、早く目覚めるといいですねって言っていたわね!」  
「ホント!?ホントお母さん!」  
「え、ええ・・・ホントよ」  
遥は心の中でゴメンナサイと謝った。  
「やっぱり・・勇気を持って告白してみることにします!」  
「あらあら・・大した成長ね、美鳥。少し前までは話しかけることもできなかったんでしょう?」  
遥は三度紅茶のカップを手に取る。  
「はい・・。でも、今なら言える気がするんです・・。」  
「そこらへんが成長して、目覚めたのかしらね?」  
「だと、うれしいです」  
フフッと笑って、美鳥も再び紅茶を手に取った。それからしばらく親子の楽しい会話は続いていった。  
美鳥の話によると、告白は学校に復帰する月曜日の放課後にするそうだ。  
遥は母として、できる限りの応援しよう。そう思った───  
 
 
──  
(勉強するっつったが・・基本も何もわかってねー俺が、どうやってしろってんだ・・・?)  
綾瀬が、自分の気持ちを押し殺して、ああいう風に言ってくれた以上、セイジとしても、その思いに答えたいのだが  
勉強の仕方がわからない。困った。  
(こういうときに美鳥がいればな・・・まぁそんなこと言っても仕方ねぇ・・どうするかな)  
また授業そっちのけでセイジは考え込み始めた。  
(姉貴に聞くか・・・?いやいや、何考えてんだ俺。アレに聞いて分かるはずもないし、逆に混乱させられる・・)  
うぅんと唸る。すでにシャープペンシルは机の上に転がってしまっている。  
(高見沢も勉強はスカスカそうだな・・。槙葉・・改造されそうで怖いな、もう美鳥いねぇし、俺自体には興味ないみたいだし・・。宮原・・話にならんだろうな・・  
 第一後輩に聞くなんてできるか!・・・やっぱ綾瀬しかいねぇか・・。でもなぁ・・またさっきみてーに変な気起こしたらなぁ・・)  
先ほどの授業のときと同じように綾瀬のほうを眺めてみる。  
綾瀬も先ほどと同じようにシャープペンシルを紙上に滑らせ、黒板の内容をきっちり写している。  
(いや・・待てよ)  
セイジはふと思った。  
(学校でこそ、そういうことを考えるのはヤベーかもしんねぇが・・家でなら・・・別に悪くねぇんじゃねぇか・・?)  
一度煩悩に火が点ると、それは物凄い勢いで広がっていく。  
(綾瀬だって俺のこと好きである以上、俺の家に来たり、一緒に勉強したりするのは大歓迎だろーし・・・もし流れが作れたら  
 そういうことも・・・)  
悶々とした空気がセイジを包む。表情は変わらないが、体温は上昇している。  
(それを今日すりゃ遊園地だって行けるかもしれねぇ!一石二鳥・・いや三鳥はあるぜ。あったまいいな、俺!)  
久々に自分自身を褒め称えた。近頃の自分は、自分でも情けなくなるようなことばかりしていた。  
(おっしゃ。そうと決まれば速攻、次の休み時間だな!)  
ヘヘヘと白い歯を覗かせながら笑うセイジ。  
「・・・・?」  
また妙な行動を起こしているセイジを、綾瀬は不思議そうな表情で伺っていた。  
 
「え?勉強会?」  
「そーそー!今さら基本からって言われてもよくわかんねーし・・他に教えてもらえるような奴もいないしよ!」  
次の授業が別の教室の為、教室を出て廊下を二人並んで歩くセイジと綾瀬。  
やたら明るい口調でセイジが綾瀬を口説いて(?)いる。  
「・・・・怪しいわね。何よその表情、いやらしい!」  
見抜かれた。セイジの演技は大根だった。  
「なっ!なんだよ!そんなんじゃねーよ!」  
「ちゃんとマジメにするんでしょうね?ていうかいつするのよ?」  
「今日だよ今日!思い立ったらすぐ行動だぜ?」  
「今日!?」  
二人の会話は傍から見ると本当に仲のいいカップルの会話に見えた。  
二人の後方では綾瀬の友人がニヤニヤしながら、その光景を眺めている。  
「今日やっちまえば明後日の遊園地だって行けるかもしんねーぞ!」  
「えっ・・」  
流石にコレは綾瀬にも効いたようだ。綾瀬のの脳内に一片の迷いが生じる。  
「とにかく綾瀬の力が必要なんだよ!な?頼むって・・!」  
綾瀬が歩くのをやめる。1秒ほどうつむいて─  
「・・・んもう!仕方ないわね!でもね、少しでも変なことしたら、すぐ帰るからね!」  
「オッケーオッケー!じゃ今日の放課後にでも頼むわ!」  
フンッとセイジをつっぱねて一人早歩きで先に進んでいく綾瀬。  
その綾瀬に妙な笑みを浮かべた女友達が数人寄り付いてきていた。  
そしてその後はあまり話もせず、放課後を迎えた。高見沢は結局最後まで机にへばりついていた。  
 
 
暑い。まだ春なのになんて暑さだろう。  
夕陽が直接肌に差し込む。ちょっと肌に悪いかもしれない。  
黒く厚い制服の中はかなりの汗が滲んでいる。  
「暑いわね・・まだ3月なのに・・」  
並んで隣を歩く、沢村正治に話しかける。  
「そうか?そんな言うほどじゃねーと思うけどな」  
「そうかしら・・・」  
身体が熱い。やっぱり好きな男の家に行くということで、無意識にもかなり興奮してるのかもしれない。  
さらには二日前のアレだ。昨日の晩もあの時のことを思い出して、かなり淫らな夜を過ごした。  
我ながら少し恥ずかしかった。  
「さぁて、着いたぞ」  
ガチャリとカギを開き扉が開く。  
外に比べ、屋内は少しだけ涼しく感じた。  
玄関に入ると男物の靴のほかに、女物の靴も目に付いた。  
「ゲッ・・また姉貴いるのかよ・・。ったくまた寝てるのか・・?」  
「あ、お姉さんの靴なの・・・これ」  
靴を脱いで廊下にあがる。床のヒンヤリした感触が気持ちよかった。  
「おい?姉貴〜?どこにいんだぁーっ?」  
居間にまっすぐ進むセイジ。綾瀬も小走りで沢村の後を追う。  
「あれ?・・居間にもいねぇな・・どこにいんだ?」  
「二階じゃないの?」  
「二階なぁ・・普段姉貴は二階にあまりいねーんだが・・」  
不思議そうに頭を掻くセイジ。・・と、いきなり二人の背後から腕が伸びてくる。  
 
「あたしゃここにいるぞ?」  
「どわっ!」  
「きゃぁっ!!」  
腕の一本はセイジの股間。もう一本は綾瀬の胸に伸びてきた。  
「な、なにすん・・」  
「いやぁ〜〜〜〜っ!!」  
威勢よく振り返り、いきなり現れた凛に掴みかかろうとするセイジだが、それより早く隣の女の拳が凛の顔めがけて猛進していく。  
「ぬぉっ!?」  
その拳のあまりのスピードに、流石の凛も避けることができず、ゴリッという鈍い音とともに綾瀬の拳が凛の頬にめり込む。  
そのまま凛の身体は跳ね上がり、宙を舞い、小テーブルを巻き込んで、派手に倒れた。  
実際一瞬の出来事だったのだが、宙を舞う凛の姿が、セイジにはえらくスローモーションに写っていた。  
 
 
 
「いてて・・・しっかし、いい拳してんなぁ。貴子ちゃん」  
赤く腫れ上がった頬を擦りながら、胡坐をかいて座っている凛。  
小テーブルを挟んで向かい側にセイジと綾瀬が座っている。綾瀬はゴメンナサイゴメンナサイと頭を下げている。  
「ははは、いいってことよ。これくらい族同志の殴り合いで慣れっこだっての」  
「ぞ、族・・・ですか?」  
綾瀬は凛が昔、暴走族の頭首だったことを知らない。  
凛が得意気な笑みを浮かべて、話し始める。  
「へへっ、あれは3年前の─」  
「昔話はいいっての!俺たちゃ勉強しに来たんだよ!」  
凛の言葉を思いっきり遮る。  
セイジは直感で「殴られる!」と感じ、身体に力を込める。が、セイジの直感は見事に外れた。  
 
「・・・べ、勉強ぉ?お前がぁ?」  
素っ頓狂な裏声をだす凛。  
「・・・頭のネジ逝ったか?」  
セイジの頭に手を伸ばし、ユサユサ横に振る凛。  
「逝ってねーよ!もうすぐ試験だって綾瀬がウルセーからな、仕方なく・・」  
「な、何よそれ!誘ったのアンタじゃない!」  
「ほ〜、セイジ、オメーから誘ったのか」  
「・・・ん、ま、まぁ・・な」  
ニヤリと笑う凛。これ以上色々言われたり、ちょっかい出されるのも嫌なので、セイジはさっさとその場から退散することにした。  
凛と綾瀬を二人きりにさせるのも危険な匂いがしたが。  
「じゃあ、俺は部屋の片付けしてくっから。しばらくここで待っててくれや」  
「へいへい」  
「姉貴じゃねーっての!ったく・・」  
ブツブツ言いながら居間を出るセイジ。  
綾瀬は少し笑っていた。凛も相変わらずのニヤつきっぷりだった。  
「はぁ〜〜〜アイツが勉強かぁ〜。貴子ちゃんのおかげだなぁ、お手柄だぞぉ?」  
「いえ・・・そんな・・」  
二日前に会ったときの、凛のインパクトが強烈すぎたため、綾瀬も凛の前ではかなり大人しくなってしまう。  
「・・・で、なんでだ?」  
少し目を細めて綾瀬を見る凛。  
「な・・・なにがですか・・?」  
「フフフン・・何って・・な・ん・でセイジを好きになったんだよっ・・?」  
「えぇっ・・そ、それは・・」  
「なぁなぁなんでだよ?あーんな不良のガキ、好きなる奴なんざ、そーはいねーぞ?」  
サッと一瞬にして綾瀬の隣へ移動する凛。  
「な、なんていうか・・その・・・」  
「ん〜?はっきり言ってくれよ〜。」  
グイグイと凛は綾瀬に身体を擦り付ける。綾瀬は肩を縮めて凛から顔を背けている。  
 
「こっち向いて!・・別になにも言ったりしねーよ」  
「あ・・あの・・き、きっかけは・・助けてもらったんです・・その・・私が不良に囲まれてピンチだったところを」  
舌がうまく回っていない。口調もかなり慌てていて、落ち着きがまったくない。  
「ほぉ?助けてもらった。アイツが人助けってか。そーだな、アイツ妙なとこだけカッコよくキメるからな」  
「そ、それで・・その後、沢村くんが・・他の不良たちとは違うって事に気付いて・・それからは・・もう・・」  
「もう一直線か」  
「は、はい・・」  
顔を紅潮させて、うつむく綾瀬。  
「もー!照れんなって貴子ちゃん!女が男にホレるなんて大体みんなそんなもんさ!」  
綾瀬の背中をポンポンッと叩く凛。綾瀬が少しだけ顔をあげる。  
「あたしだってそうさ!久の奴、今どこにいんのかねぇ?」  
「久さんって・・言うんですか・・お姉さんの恋人・・」  
「ああ。トレジャーハンターやっててな。今も地球のどこかで妙な宝、探してると思うぞ」  
「へぇ・・・」  
少し綾瀬の緊張が解けた。だが、まだまだ硬い。いつもの綾瀬の気丈さはそこにはない。  
「あたしも一緒に宝探ししてやってもいいんだけどなー。やっぱ日本がいいっつーか、ほっとけないモンがあるっつーか」  
「・・・・・・」  
綾瀬がふと何か思う。その僅かな表情の変化を凛が見逃すはずがなかった。  
「何だ?何か気になることでもあっか?」  
「あ、いえ、なんでもないです・・」  
「うっそだぁー!彼氏の姉に隠し事はダメだぞ、貴子ちゃん」  
綾瀬の頬を指で突っつく。綾瀬はとても迷惑そうな顔をしている。  
「ほれ、言ってみ!」  
フゥと溜息をつく。多分凛をこのまま振り切ることは無理だろう。  
綾瀬はそう感じた。だからもう思い切って話してみよう。案外そうすれば気も合うかもしれない。  
「その・・ほっとけないものって・・沢村くんの事なんじゃないかなっって・・一瞬思って・・」  
「・・・・」  
 
「・・・・・・・」  
「・・・・・・・プッ、ブハハハハハ!そうか・・そうだったのかもな!」  
ホッとした。一瞬機嫌を損ねてしまったかと思った。  
「じゃあ、もう安心してあたしゃ久んとこにいけるな」  
「えっ?」  
スッと立ち上がる凛。  
「貴子ちゃんはしっかりしてそうだ!安心してセイジを任せられるよ」  
「そっ!そんな!私そんな偉い人なんかじゃっ・・!」  
両手を前に突き出しワタワタさせながら凛の言ったことを否定する綾瀬。  
凛は笑っている。いやらしい笑みではなく、優しさのこもった、いい笑顔だ。  
「お〜い、綾瀬ぇ。準備できたぞぉ」  
閉められた扉の向こうからセイジの声がかかる。  
「あ、い、今行くわ!じゃ、じゃあお姉さん・・」  
「おう。しっかり勉強してこいよ〜」  
ニコニコ笑いながら手を振る凛。  
綾瀬が居間を出て、居間は凛だけが一人残って佇んでいた。  
(大人の勉強もな〜ってか、ははは)  
優しい笑みからいやらしい笑みに戻り、再び腰を降ろす凛。  
「ふー・・。・・セイジはどうすんのかねぇ。美鳥ちゃんか貴子ちゃん・・まーこれからも、外からじっくり見させてもらうとすっか・・」  
天井を見上げる凛。この居間の上はセイジの部屋になっている。  
 
「なによ、かなり散らかってるじゃない」  
「これでも大分片付けたほうなんだよ!」  
足元に気を配りながら机にたどり着く。机の上だけはきれいになっていた。  
「・・で?何からやるのよ?」  
椅子は二つ用意してあった。この辺はぬかりない。  
その椅子に腰掛け、自分のカバンから一通りの教科書を取り出す綾瀬。  
「ん〜そだな・・とりあえず数学かな」  
「一番時間かかる教科ね・・。気合入れなさいよ?」  
「おうよ」  
数学と書かれた教科書を取り出し4ページを開く。  
長い長い綾瀬の特別補習が始まった。  
───  
─────で、2時間後  
「だ〜か〜らっ!そうじゃなくて!これはここにかけるの!あ〜違うってば!」  
「だー!わかんねー!!」  
現在10ページ。2時間で6ページしか進まなかった。  
「はぁ・・重傷だとは思ってたけど・・ここまでとはね・・」  
「わるかったなーアホでよー」  
セイジより綾瀬のほうが疲れてしまっている。喉もからっからに渇いてしまった。  
「お茶・・飲んできていい?」  
「ん?ああ・・いや、俺が取ってくるよ。ちょっと身体も動かしてぇしな・・」  
「そう。じゃあお願いするわ」  
勢いよく席を立ち、ノビをしてから部屋を出るセイジ。  
つかのまの静寂が部屋を包む。  
二階の部屋は少し蒸し暑いが、外に比べれば幾分マシだった。  
制服のままだが、特に不便を感じない。  
「・・・・」  
部屋をグルリと見回す綾瀬。セイジの部屋は至って普通の男の部屋だった。  
ただ随所に愛川翔のポスターが貼ってあったりした。  
「・・・・男子って・・引き出しの中とかにエッチな本隠してたりするのよね・・」  
一瞬「何考えてるんだ」と思ったが、結局そっち方向への好奇心が勝ってしまった。  
 
「ちょ、ちょっと探してみようかしら・・・今後の研究のためにも・・」  
なにやら下がガタガタ騒がしい。セイジと凛がモメているんだろうか。  
だがセイジが帰ってくるのに時間がかかるのは、綾瀬にとっては好都合。  
静かにそぉっと綾瀬は引き出しに手をかけ、ゆっくり開いた。  
「・・・・ないわね。流石にこんな単純なところには隠さないのね・・」  
椅子から離れ、ベッドへ向かう。ベッドの裏というのも有名な隠し場所だ。  
しかしこの部屋をいくら探しても、Hな本はでてこない。そう、美鳥がすべて捨ててしまったからだ。  
綾瀬はそんなこと知るはずもないので、一通り隠してそうな場所を探してみる。  
「・・・・ない・・・わね。」  
実際の男ってのはこういうモンなのだろうか。それとももっと高度な隠し場所があるのか?  
そんなことを考えていた綾瀬の目に、ベッド横の小さな引き出しが写った。  
「・・・あんな小さな引き出しに入ってるとは思わないけど・・」  
口ではそう言いながらも、自然と手が伸びていく。カタリと音を立てて開く引き出し。  
すると中に一冊の小さな手記のようなものが入っていた。となりに小さなサイズの鉛筆も転がっている。  
「・・・・何かしら、これ・・アイツ、日記なんて書いてるのかしら・・?」  
そこで綾瀬は我に返る。人の部屋を散々捜索し、明らかにプライベートに関わる物を発見し、それを覗こうとしている。  
間違いなく犯罪ではないか。  
(ダ、ダメよ貴子!こんなのストーカーまがいの行為よ!・・で、でも気になるっ!無茶苦茶気になるわっ!)  
下はまだドタドタ物音がしている。綾瀬の中でのモラルが好奇心によって崩れていく。  
またその手記のような物にも、内容が見たくなる、妙な魅力があったのかもしれない。  
「す、少しだけ・・1ページくらいならいいわよね・・?」  
苦笑いを浮かべて、ゆっくりと表紙をめくる。  
 
[11月7日 日曜日 今日はセイジくんに薦められて、気分は乗らなかったけど私の家に行きました]  
いきなり違和感を感じる文章だった。  
「沢村が書いたんじゃあ・・ない・・?」  
[驚きました。私は二日前からベッドで眠っていて、目覚めなくなってしまったらしいです。そのあと、セイジくんが色々試してくれましたけど  
 結局、元に戻ることも、お母さんに今の状況のことを話すこともできませんでした。ごめんなさい、セイジくん・・。それともうひとつ、ショックな出来事が起きました。  
 セイジくんに私のハダカを見られてしまいました。もうお嫁にいけません・・。とにかく明日は初めての学校。頑張っていきましょう!ファイトッ!]  
「・・?・・??・・・・???」  
意味不明のワケワカランだった。まず文章の構成から考えるにセイジが書いたものではない。  
しかも文章の書き方から見て、書いたのは女性。  
「元カノか何か・・かな?・・・でも眠ってるとか・・元に戻るとか・・なんなの?一体・・」  
「おーい、茶〜入ったぞ〜」  
「!!」  
いきなりセイジが部屋に戻った。綾瀬は慌てて持っていた日記を背中に隠す。  
「何してんだ・・?お前・・」  
「い、いえなんでもないわよ!さ、続きしましょ!続き!」  
咄嗟に日記をベッドの向こう側に放り投げ、綾瀬は椅子に戻る。  
幸運にもセイジはそれに気付かなかった。  
 
「・・で、ね・・ここは・・こう・・」  
「お、おう・・で、ここはど、うすんだ・・?」  
「え・・?そこは・・ね・・こうやっ・・っ・・て・・ん・・」  
机に戻って数十分。明らかに綾瀬とセイジの様子がおかしかった。  
机の隅っこに置いてある、飲み干したお茶のコップ。  
(な・・何・・さっきから・・なんか身体が火照って熱い・・。あぁもう・・なによこの変な気分は・・勉強に集中できないじゃない・・)  
(クソ・・なんだぁ?身体が熱いし、妙に・・興奮してるような・・ったく、俺の身体に何が起こってやがんだ・・・?)  
二人ともかなり体温が上昇していた。気温のせいなんかではない。もう陽は沈みかけているし、元からこの部屋は特に暑くはなかった。  
「だから・・ここはこうなるのよ・・・って聞いてるの・・?」  
綾瀬が生暖かく赤に染まった、その顔をセイジに向ける。  
「た、たりめーだろっ・・!」  
セイジの顔も赤く染まっている。血が体中を駆け巡り、脳内のあらゆる煩悩を活性化させている。  
セイジのソレは素直にその反応を形で示す。  
(あ〜・・ヤベッ!なんでこんないきなり・・・ん?・・・)  
セイジの視線に空になったコップが目に入る。  
あのコップに注いだお茶は、冷蔵庫に入っていたヤカンから注いだモノだ。  
しかしイマイチ冷えておらず、冷凍庫から氷を取り出し、コップに加えた。  
セイジは疑問に感じた。自分は冷蔵庫にヤカンを入れた覚えはない。  
というか今日の朝の時点でヤカンが空になっており、登校路の途中にある自動販売機でペットボトルのお茶を購入したのだった。  
・・ということは姉の凛が自分の登校中に茶を沸かし、冷蔵庫に入れたことになる。  
(まさか・・・姉貴のヤツ、この茶に変な細工を・・?)  
先ほど下に降りた際に、寝転がっていた凛を踏みつけてしまい、喧嘩になった。  
その後、お茶をコップに注いでこの部屋に戻ったが、お茶を注ぐ際には、特にイチャモンをつけてくることはなかった。  
 
(・・・怪しいな)  
スッとセイジが席を立つ。  
「ちょっと?・・どこいくの・・っ?」  
綾瀬の一言一言がセイジの脳を刺激し、身体に伝わっていく。  
声が色っぽくなっているため、余計に威力が増している。  
「コップ直してくる」  
「そう・・」  
隅っこに置かれていた二つのコップを手に取り、部屋を出る。  
頭がクラクラする。階段を降りるのにも苦労しそうだ。  
 
 
部屋に一人となった綾瀬の息が、かなり荒くなっていた。  
吐き出される息は、とても熱く、息に含まれる水分もかなり多い。  
(なんで・・なんでこんなっ・・何か・・変なものでも食べたかしらっ・・?)  
何かを考えようとしても、すぐに甘い恍惚とした快感のようなものに押しつぶされる。  
(身体の変なトコがムズムズする・・・触りたい・・け、けどここは沢村の家・・それに沢村に見られたりしたら・・)  
心ではそう思っていても、身体が言うことを聞かない。  
 
制服の上からではあるが、軽く胸元を擦ってみる。  
それだけで身体かピクリと反応し、額に快感の汗が浮かぶ。  
(何やってるの貴子・・・でも、手が勝手に・・服の上から触ってるだけなのに・・なんでこんなに・・)  
ダメ・ダメ・ダメ。自分に言い聞かせる。けれど身体は聞く耳を持たない。  
擦るだけでなく、握り、揉み、弄る。次第に制服の中に入り込んで、汗ばんでじっとりとした地肌に触れる。  
今までしてきた自慰とは比べ物にならない、快感が綾瀬の身体と心を襲う。  
「・・っ・・!」  
声はダメ。絶対にだしちゃいけない。セイジはまだ帰ってこない。やめなきゃやめなきゃ・・必死に自分を抑えようとするが、むなしい建前の抵抗だった。  
「はぁ・・ぁぁ・・ぁあぁ・・・!」  
力ない声が喉から漏れる。指はさらに敏感な所を蝕んでいく。  
だらしなく涎を垂らし、力ない表情をしながら、自分は何をしているんだろう・・そう思いつつ綾瀬は自分の身体を漁り続けた。  
 
 
 
「・・・・・」  
居間に下りたセイジは唖然としていた。誰もいない。  
小テーブルの上に一枚の紙が置いてある。  
[若い二人でオアツイ夜を過ごせよ! 凛]  
文末にハートマークなんぞつけてやがる。セイジは確信した。  
絶対お茶に凛が何かを仕掛けている。元々熱くなっていたセイジの頭がさらに熱くなる。  
「クソッ!!・・そうだ姉貴のケータイに・・一言いってやらねぇと気がすまねぇ・・!!」  
廊下に戻り、電話の受話器をとる。すぐそばのメモ帳に書いてある、凛の携帯番号のボタンを押す。  
「・・・・」  
プルルルル・・・プルルル・・・二度ほどコールが鳴っても出ない。  
「やっぱでねぇか・・・卑怯な奴だぜ・・ったく」  
早くも諦めて受話器を置こうとするセイジ。だが、そこでコールが鳴り止む。  
 
「沢村凛だ。誰だ?」  
セイジは一瞬焦った。出るわけがない。そう思っていてダメ元でかけていた電話だった。  
「・・姉貴!!テメー・・」  
「おぉ〜セイジか!すまんなぁ、あたし誰も登録してないモンで全部非通知なんだよ!」  
「んなこたどーでもいい!テメェ・・あのお茶に何の細工しやがった・・・!?」  
怒気を全面に押し出して話すセイジ。電話の先の凛の顔はうかがえないが、いつもどおりニヤけたツラをしているのだろう。  
「あ〜〜・・・どうだ?効果でてきたか?」  
「やっぱテメェか!!ふざけたことしやがって・・!」  
「なーに別に毒薬じゃねーんだからよ!アタシが久とヤる時、気分出すために飲む薬まぜただけだ!  
 ほどよく興奮していい感じだろ?それともガキにはまだ早かったか?」  
ハハハと笑い飛ばしながら喋る凛。セイジはやり場のない怒りに震えていた。  
「俺らは勉強するためにココ来てんだぞ?それを・・」  
「いいじゃねーか。愛の勉強ってよ。んー、そだな、大体飲んで1,2時間でピークがくるぞ」  
「フザケんな!!」  
「まぁ始まったモンは仕方ねぇだろ?やることやっちまえよ。お前もそういう気、なかったワケじゃねーだろ?」  
「んだと!?」  
勢いよく反論したが、思えばそういう気持ちもあった気がする。  
「お?図星か?そうだろ。ま、お前らは若い!その若さで色々突っ走れ!じゃあな」  
「あ!おい待てよ!」  
「ああそうだ。冷蔵庫の奥にローション入ってるぞ?冷たくてキモチイーから使ってみたらどうだ?」  
「なっ・・何言ってやがる!!」  
ブツリとそこで電話が切れた。凛の方から電話を切ったらしい。  
「ったく・・なんなんだあの馬鹿は・・・」  
渋々受話器を置いて階段を上る。凛との会話で熱くなっていた脳が、また性的な方向で活発になっていく。  
 
 
下着の中に指を這わせる。淫らに濡れた自分のそれ。  
中指と人差し指を巧みに使って、自らを快感の沼へ引き込んでいく。  
「うぅっ・・!く・・・っ!」  
一瞬だけ理性が戻り、腕を引き抜く。  
目の前に戻った自分の指に、透明のねばっこい液体が糸を引いて、滴っている。  
「・・・・」  
うつろな目で、辺りを見回す。  
ふと、階段から足音が聞こえてくる。  
「・・・!沢村っ・・!」  
サッと体勢を立て直し、筆記用具を整理する。  
ほどなくして部屋にセイジが戻ってきた。  
「・・わり、遅くなった」  
「・・べ、別にいいわよ」  
制服の端で指についた粘液を拭き取る。表情を厳しくして、シャープペンシルを手に取る。  
ここで崩れるわけにはいかない。  
「さ、早く続きするわよ。あまり夜遅くになるのもあれだし・・」  
「そうだな。頼むぜ」  
時間は8時半。ちょうど二日前、この辺りからあの交わりが始まった。  
「・・因数分解のことは大体わかったわよね。次は二次方程式だけど・・」  
「・・・うぅん・・」  
自慰の効果もあってか、先ほどまでよりは身体も熱くない。  
心のほうも正気を大分取り戻した。大丈夫。このままいけば失態を晒すことはない。  
「これをこっちに移項して、それによってこれはマイナスになるから・・・」  
綾瀬はセイジも自分と同じような事態に陥っていることを知らないのだろう。  
セイジの脳を、綾瀬の一言一言が刺激しているなど毛頭思っていない。  
「ホラ!ボーっとしてないで!ちゃんと聞いてる!?」  
「お、おうよ」  
そのまま30分、1時間と時は過ぎていった。  
そして凛が言っていたピークが訪れる。  
 
「お、おいどうした綾瀬!?大丈夫かっ!?」  
先に綾瀬がピークを迎えた。それも突然に。  
苦しそうに歯を食いしばり、左手は制服の襟元を強く握り、右手に握られたシャープペンシルもプルプルと震えている。  
「・・・はっ・・ぁっ・・」  
口から漏れる淫らで艶美な甘い声。セイジも気付いた。これが凛の言っていた”ピーク”だ。  
「な、なんか飲むか?冷たいモンもってくっか!?」  
「身体が熱いの・・なんで・・なんっで・・なのっ・・?」  
震えながら綾瀬が問う。  
「・・・・」  
言えない。姉貴が妙なモンを混ぜたなんて言えない。  
「身体のあちこちが・・・変なものでも・・食べたかなっ・・?」  
ペンを置き、微かに笑ってみせる綾瀬。  
「待ってろ!今、冷たいモン持ってきてやっからな!」  
急ぎ部屋を出るセイジ。勢いよく階段を降りたら、足を踏み外しそうになった。  
「えーと、このヤカン以外で・・」  
冷蔵庫を開き、中を見渡す。  
ひんやりと冷たい風がセイジの顔にかかる。  
「・・・ローション以外ねーのかよ!」  
冷蔵庫の奥にポツンと置いてあるローション。  
それ以外に液体と呼べる代物は入っていなかった。牛乳すらなかった。  
「・・くそ、俺までなんか・・」  
頭がモヤモヤし始めた。お茶を飲んだ直後のような感覚が甦ってくる。  
「・・・うし」  
嫌な感覚を気合で押さえ込む。急ぎ水道水をコップに注ぎ、階段を上るセイジ。  
部屋に戻って思った。この部屋だけ少し暑くなっている。  
 
「悪い。冷えたのなかったわ。水道水だが・・我慢してくれ」  
「う、うん・・」  
両手でそっとコップをとり、水を口に運ぶ綾瀬。  
「・・・ぷはっ」  
半分ほど飲んで、一度机にコップを戻す。  
「ふぅ・・・」  
相変わらず顔は真っ赤だが、状態は少し落ち着いたようだ。  
セイジもホッとする。  
「・・もう少しもらうわね・・」  
今度は片手でコップを取って口に運ぶ。  
透明なコップなため、綾瀬の中に水が入り込んでいく様がくっきり見える。  
興奮状態にあるセイジの脳は、その光景を見るだけで活性化していく。  
「・・生ぬるいけど・・まあ、少しは落ち着いたかな・・」  
水を飲み干しコップを再び机に戻す。カタンと渇いた音が部屋に響く。  
「勉強・・できるか?」  
「ちょっとまだ無理かも・・」  
椅子の背もたれにもたれかかって、大きく息を吐く綾瀬。  
セイジもその隣の椅子に腰掛ける。  
「それにしても・・なんでこんなに変な気分に・・」  
「さぁな・・俺もちょっとヤベー状態なんだぜ・・」  
「そうなの?」  
やはり綾瀬はセイジが自分と同じような状況にあることを知らなかった。  
ウーンと考え込む綾瀬。しかしすぐ投げ出したように声をあげる。  
「あーダメ!やっぱ何も考えらんない!」  
椅子から立ち上がり、パン!と両手で自分の頬を叩く綾瀬。  
「ちょっと休憩しましょ!」  
 
「休憩・・?」  
こんな時に休憩を取るのはマズイ。勉強に集中して、気が変な方向に向かないようにしたほうがいいんじゃないか、とセイジは思った。  
「頭が混乱してて数学なんかできっこないわ!こういうときは気分転換よ」  
幾分綾瀬の口調に余裕ができている。ピークはもう過ぎたのだろうか。  
そしてまだセイジにピークは訪れていない。セイジは少し怖がっていた。  
先ほどの綾瀬の豹変っぷりを見ると、自分がピークを迎えたとき、どうなるのか。  
それを考えると、不安でならなかった。  
綾瀬に視線を向けず、色々考え込むセイジ。  
「ねぇ!あんたの中学時代のアルバムとかないの?」  
「え?」  
振り返ると、綾瀬が本棚に向かって手を伸ばしている。  
「か、勝手に触んなよ・・!」  
立ち上がり、綾瀬に詰め寄る。  
「なによ?何か見られたらマズイものでもあるわけ?あ、まさかやらしい本なんか置いてたり・・」  
「んなもんねーよ!」  
綾瀬は本棚に積まれた漫画や雑誌に手を伸ばしている。  
「だから触んなって!」  
その手を掴み、グイッと引き戻すセイジ。  
綾瀬は怪訝そうな顔をしている。  
「中学時代のアルバムだな?ちょっと待ってろ」  
綾瀬の前に立ちふさがり、本棚をあさり始めるセイジ。  
「んもう・・。そんな本見なくても、あんたには私がいるじゃないの・・」  
「!?」  
すぐそばにいるセイジにも聞こえないような小さな声で綾瀬が呟く。  
ただ、セイジはそれをはっきりと聞き取っていた。  
(な、何言ってんだコイツ・・。本気か?)  
セイジは聞こえていないフリをして、本棚を探り続ける。  
綾瀬は軽く息を吐いて、ベッドに座り込んだ。  
「お〜、あったあった」  
少しホコリを被っている。それを手で払いベッドに座る綾瀬に差し出す。  
「・・・」  
 
集合写真のセイジは今とほとんど変わらない。いや、少しだけ華奢だろうか。  
それでも他の生徒と比べると、随分ゴツイ。  
「あんまガッコー自体行ってなかったからな。あんま写ってねーぞ」  
「・・・」  
ペラペラと順調にページをめくっていく。確かにほとんど写っていない。というか今のところ集合写真以外全く写っていない。  
「・・・あ」  
一つ、ページの端だが、はっきりとセイジの姿が映っている写真があった。  
同じように頭を金に染めた連中と一緒にじゃれあっている。  
そののどかな写真に、思わず微笑を浮かべる綾瀬。  
「・・・ん?集合写真以外で俺、写ってたか?」  
「・・?写ってるわよ、ホラここ・・」  
ベッドには座らず、上から覗き込むセイジ。確かに写っていた。  
「おわ、気付かなかったな・・んなとこに写ってたか」  
「こんな楽しそうな顔して、無邪気なモンね」  
「・・・」  
その後のページにセイジは写っていなかった。パタンと閉じてペッドの上にアルバムを置く。  
「機会があったら私のも今度見せてあげるわ!」  
「お、おう・・」  
「ふぅ・・まだ、ちょっと熱いわね・・ほんと・・なんでかしら?」  
「さぁな・・」  
しばしの沈黙が部屋を包む。  
部屋の中は少し湿っている。机の上には二冊のノートと空のコップ。  
床はやや散らかり気味。ベッドの上には卒業アルバム。  
「あんた・・変わったわよね」  
 
「え?」  
沈黙を破って、綾瀬が口を開く。  
「昔のあんたってさ・・ほんと救いようがなくて、馬鹿で暴力ばっかで・・ほんと嫌いだったわ」  
「・・・ケッ」  
「でもさ・・私を助けてくれて、その後宮原くんを助けて・・そこあたりから今に至るまで・・元々私が勘違いしてた部分もあるんだろうけど  
 、かなり優しくなった印象があるわ・・」  
「・・・」  
美鳥の影響。真っ先にセイジの頭にそれが浮かんだ。  
美鳥がいた頃には気付かなかったが、やはりアイツの存在は自分にとっても大きかったんだろう。セイジはそう思った。  
「今じゃ私にとってなくちゃならない存在になってる・・不思議ね」  
「・・・」  
「何か言いなさいよ。私ばっかり喋ってちゃ、つまんないじゃない」  
「わ、わりぃ」  
そうは言っても何を喋っていいのかわからない。  
まだ綾瀬は勉強に戻れないようだし、自分のピークもまだ訪れない・・と思った、その時  
「・・!!」  
急に、足元から沸き立つように、体中の血液の温度が上がる。  
「・・?どうかした?」  
セイジの顔が強張り体中に力がこもる。来た。来てしまった。  
「・・・ぬお・・」  
咄嗟に綾瀬に背を向け、うずくまる。  
「ちょっと?沢村!?大丈夫!?」  
綾瀬が立ち上がり、セイジに駆け寄る。  
 
「・・・・綾瀬っ・・」  
「うわ・・熱い・・。まさかあんたも・・」  
セイジの額に手をあてがう。驚くほどに熱くなっている。  
「綾瀬・・綾瀬・・っ・・!」  
離れろ。そう言いたいが、言葉がでない。  
理性がどんどん崩れていく。セイジの目には野性の血がたぎり始めている。  
「・・・!」  
その目に己の身の危険を感じた綾瀬は、額に当てた手の平を離そうとする・・が、セイジの右手がそれを許さない。  
「ちょ・・やっ!離し・・」  
なんとかその手を振り解こうとする綾瀬だが、彼女とセイジの力の差など歴然。  
時折発動する魔のアッパーも炸裂しそうにない。  
「落ち着いてっ!水・・持ってこようか?」  
セイジの思考回路はすでに半壊している。  
セイジの表情に、怯えを感じながらも、綾瀬は必死にセイジを落ち着けようとする。  
だが、その行動や表情の変化、声など全てがセイジの欲情を駆り立てることにしかならない。  
渾身の力で手を解こうとするが、綾瀬が力を込めれば込めるほど、セイジがそれを上回る力で握り締める。  
「痛っ・・!ちょっと・・いい加減に・・!」  
目つきを厳しくしてセイジを睨む。が、セイジの血走った狂気の目に簡単に押し返されてしまう。  
「ひっ・・」  
セイジが立ち上がる、綾瀬は震えながらセイジを見ている。  
「・・綾瀬っ!!」  
「きゃっ!」  
掴んでいた右手を思いっきり引き寄せるセイジ。  
綾瀬はバランスを崩し、半ば倒れ気味にセイジの懐に飛び込む。  
そのままセイジは綾瀬を抱き上げ、ベッドへと進んでいく。  
 
「いやぁっ!・・やめて・・っ」  
ベッドに放り出された綾瀬口調も言葉も弱々しい。  
ピークは脱したものの、まだまだ綾瀬だって薬の影響を受けている。  
それが原因かもしれない。  
「・・・綾瀬っ・・」  
セイジは先ほどからまともに言葉を話していない。綾瀬綾瀬と名前ばかりを連呼している。  
「沢村・・」  
その綾瀬の顎をクイッと上に向けて、セイジの大きな口が綾瀬の小さく閉じた唇を塞いだ。  
 
 
 
「んん・・・んんっ!」  
乱暴に身体を押さえつけ、服を引き剥がそうとするセイジ。  
唇は塞がれたまま、綾瀬はろくな抵抗もできないでいる。  
黒い冬服が捲り上げられ、白のカッターシャツが露になる。  
そのシャツすら、セイジの右手に巻き込まれ、紅く染まった素肌が顔を覗かせている。  
そのわずかな隙間から左手を浸入させ、汗が滲むその肌の上に吸い付いていく。  
「んむぅっ・・!!ん・・んん・・」  
綾瀬の抵抗が微々たるものへと成り下がる。眉をピクピク反応させて、必死に何かに耐えようとしているようにも見える。  
だが、そんなことをしている間にも、セイジの腕はどんどん綾瀬の身体を蝕んでいく。  
「はふっ・・!」  
ようやく唇が開放される、お互いの唇の間に一本の糸が引いている。  
「いいか・・?やっていいか・・?」  
久々にまともな言葉をセイジが喋る。  
綾瀬は返事をせずにソッポを向く。  
 
「なぁ?どうなんだよ?お前だって・・こうなってんだろ・・?」  
「・・・・」  
顔を背けたまま否定も肯定もしない。  
身体は既にノリに乗っている。けども、こんな形で愛を育むなんていうのは綾瀬にとって不本意なモノなのだ。  
「じゃ、いくぜ!」  
「・・!ちょ・・やっ!」  
厚い制服を引き剥がし、カッターシャツに手をかける。  
「・・・ふんっ!」  
「きゃあっ!」  
ブチブチブチっと鈍い音を立てて、小さなボタンが部屋に舞う。  
センターラインで破かれた白いシャツから、二日前にたんと味わった、あの柔らかなモノが姿を覗かせる。  
「へ・・へへ・・」  
薄ら笑いを浮かべ、舌なめずりをするセイジ。  
右手を一度握ってから開き、仰向けになっても尚、形を崩さないその胸を、下からグッと揉みあげる。  
「ううっ・・はぁっ・・」  
なんとかセイジの腕を引き離そうとする綾瀬だが、その手に力が全く入らない。  
口から出るのは強気な言葉ではなく淫らな喘ぎばかり。  
表情も次第に艶美に、甘くなり、ついには観念してしまう。  
スッと身体の力を抜き、全てをセイジに任せてしまった。  
「ブラなんて邪魔だよなっ・・!」  
乱暴に強引に白の下着も引き剥がす。豊かな胸のきめ細かな肌が小さく波打つ。  
その頂点にある、小さな突起は、固くしこっている。  
バランスの悪い体勢を立て直し、丁度綾瀬にまたがる形になるセイジ。  
綾瀬はセイジの顔を一切見ようとせず、口は小さく瞑ってベッドに寝転がっている。  
もう手を使ってセイジを引き離そうとしたりはしていない。  
「固くなってんじゃねぇか・・・なぁ?」  
両胸のソレを指でつまみ、いじくりまわす。  
綾瀬の表情が歪むが、口は堅く閉じたまま。そのせいで鼻息が荒くなり、その音は微かにセイジの耳にも届く。  
「おいおいまだ固くなってくぞ?」  
「・・・うっ・・あぁっ」  
身をよじる。小さな手の平はベッドのシーツをギュッと握っている。  
そうやって綾瀬は何かに耐えるように、悶え苦しんでいる。  
 
「・・へ・・へへ・・」  
セイジの言動、表情などは、先ほどまでと比較するとマシに見えるが、まだ正気を取り戻しきれていないように見える。  
少なくとも二日前のあの時に比べて、天と地ほどとは言わないが、それに匹敵するような差が感じられる。  
「デカイ癖に敏感なんだなっ・・いい身体だぜ、ったく・・!さぁて、こっちはどうなってんだろーな!?」  
尖った突起を指で一度弾いた後、腹部をつたって秘裂へと伸びてゆく。  
「くっ・・ぅ・・あああっ!」  
先頭を走る指が割れ目に達した瞬間、綾瀬は思わず口を大きく開いて声をあげる。  
「うわ・・ビショビショのグチャグチャじゃねぇか・・」  
「やだっ・・やめてっ・・!おかしくなるっ・・!やぁぁっ・・!」  
急に激しく抗う綾瀬。  
ただセイジが綾瀬の言うことを聞くはずもない。  
美鳥がいなくなり、両手が自由に使える。左手で抗う綾瀬の腕に対処し、右手で綾瀬の秘部を犯してゆく。  
秘部に手を伸ばした時点で、すでに馬乗りのような状態ではなくなっている。  
「んぁぁっ!ひゃぁ・・っ!」  
淫らで温かい蜜は、耐えることなく次々と滲み出してくる。  
綾瀬は何度も身をよじりながら、襲ってくる快感から逃れようとしている。  
「お前、前の時もココ触った途端に騒ぎ出したよな。ココ、そんなにいいのか?」  
「う・・ぅぅんっ!そん・・なのしらない・・いぃっ!」  
自分の手で髪を掻き回す綾瀬。目尻に少し涙が浮かんでいる。何故涙が浮かんだかは、綾瀬自身もわかっていない。  
制服のスカートはまだ着用したままだ。そのスカートにも、じんわりと湿り気が滲み出してきている。  
「はぁっ・・!ふぁぁっ・・気持ちいいっ・・!」  
「まだまだっ・・!」  
ここまで濡れていれば膣内に入れることも容易いだろう。  
そう思い、セイジは人差し指をクイッと立て、綾瀬の体内に通ずる穴にそっとあてがい、一気に押し込んだ。  
案の定、綾瀬の穴はセイジの指をすんなりと受け入れた。  
「指、入ったぞ?」  
「え・・?あっ・・うん・・」  
「動かすぞ?」  
「・・・っ・・!」  
前後上下に徐々に早く、膣内を掻き回すように指を動かす。  
クチュクチュと淫らな液が音を鳴らし、場の雰囲気を更に盛り上げる。  
 
「くっ・・うっ・・ダメっ・・!」  
緩みきっていた綾瀬の穴がキュッと締まる。  
「イきそうか?」  
「あぅんっ・・抜いてっ・・!ダメだってばっ・・!」  
「誰が抜くかよっ・・!」  
「あ・・あっ・・あっ・・あぁ〜〜っ!」  
甲高いながらも透きとおった声が響いた。  
 
 
 
その後も二人は、お互いに何をやっているのかもわからないような、壊れた時間を淫らに過ごした。  
セイジは綾瀬の身体の至る所を貪り尽くし、そのセイジの狂気交じりの想いを、綾瀬も精一杯に受け止めた。  
2時間もすると、流石に身体の熱も冷め始め、互いに徐々に冷静さを取り戻していった。  
しかしその時にはすでに事を終えて、二人ベッドで寄り添って寝転んでいた。  
勉強をするはずだったのにどうしてこうなったのだろう─  
綾瀬は幾度となくそれを考えた。だが、答えがでるはずもなく結局「まぁいいか」で済ますことにした。  
それより数ページしか進めることができなかった、勉強内容の方が気になった。  
セイジは隣で寝息を立てている。今、何時なんだろう?  
考えたら裸で二人寄り添って布団に潜るなんてことも、超赤裸々淫乱カップル極まりない事態だ。  
いつしかの雪山でこんなことを考えたような気もするが、なかったことにした。  
 
「・・・・」  
セイジに気付かれないよう、そっと布団をでる。  
辺りを見回し、部屋の隅っこに放り投げられた下着を手に取る。  
・・・が、それに触れた瞬間、ダメだと思った。  
とてももう一度はけるような状態じゃない。  
「・・・恥ずかしいわ・・」  
パンティ以外の全ての衣服をまとめ、廊下に誰もいないことを確認し、素早く一階に移動する。  
「バスタオル一枚借りるくらい・・・別にいいわよね・・?」  
そう軽く呟いてタオルを掴む。それで胸から腰まで、覆い隠し、再び二階へと戻っていく。  
部屋を出た時には気付かなかったが、やはりこの部屋には少し熱気が残っている。  
「さて・・どうしようかしら・・」  
ふと髪の毛に手をかける。サラサラした気持ちいい感触のだったのだが、途中でヌルッとした嫌な感触に変わる。  
「何これ・・?まさか・・」  
掌を見ると、半透明の妙な液体がついている。  
その匂いは、なんともいえないアレな匂いだった。  
「・・・・シャワー浴びよっと!」  
その嫌な液体をバスタオルで拭き取って、部屋をでようとする。  
「・・・ついでにアレも洗おうかしら。・・・シャワー借りるわよ?沢村」  
他の衣服とは隔離しておいた、濡れた下着を手にとって、再度階段を降りていった。  
部屋はセイジ一人が、静かに寝息を立てている。  
 
 
「ふぅっ・・・」  
蛇口を捻る。心地よく熱い、爽快なシャワーが身体の汗と異物を洗い流していく。  
毎朝、毎晩のコレがとても気持ちいい。  
「これからどうしようかな・・・」  
セイジを無理に起こしてでも勉強を続けるべきだろうか。  
第一、今だいたい何時頃なのだろうか。また親に連絡していない。  
お母さんは桧山状態じゃないか。  
とりあえずシャワーを終えたら家に電話すべきだなぁ・・、そう思った。  
「そうそう・・・これを忘れちゃいけないわよね・・」  
湯船の端にかけておいた濡れた下着を、何か汚いものでも触れるかのように摘む。  
「我ながら恥ずかしいわ・・・こんなの」  
シャワー片手に力強く洗う。あまり長く洗うことはぜず、簡潔に済ませた。  
再びソレを湯船の端に戻し、もう一度立ち上がる。  
「あ〜、スッキリしたわ」  
シャワーを止めて、顔を素早く左右に振って水気を払う。  
洗った下着も忘れずに持ち、浴場を出た。  
スッと涼しい空気が、裸の綾瀬を包み込む。  
「タオルタオルっと・・」  
先ほどまで身につけていたタオルを手に取り、一通り濡れた部分を拭く。  
その後、胸の辺りで身体を覆い隠すように巻きつけるのだが、そこでふと動きが止まる。  
(胸、また少し大きくなったかな・・。沢村は胸大きい人の方が好きみたいだからいいんだけど・・。  
 男に揉まれると大きくなるなんて言うしね、ははは・・・・はぁ・・)  
溜息ひとつついた後、廊下に出る。すると視界に電話機が見える。  
裸足のまま、そこまで歩き受話器を取る。  
すると小さなディスプレイに[3月12日22:45]と表示されている。  
やはり思った以上に時間が過ぎていた。いつもより早いペースでダイヤルを押し、  
指を細かく上下に動かしながら応答を待つ。  
 
(・・・マズイわ・・久々にお母さんのカミナリ聞くかも・・)  
─ガチャリ  
来た。  
「はい綾瀬です」  
「・・!あ、お、お母さん・・?貴子だけど・・・」  
10秒ほどの沈黙。綾瀬貴子人生最凶の10秒間だった。  
「貴子・・心配したのよ?・・・警察に連絡しようかとも思ったのよ・・?」  
カミナリではなかったが、優しい綾瀬がカミナリ以上に沈むリアクションだった。  
「ご、ごめん・・友達の家で勉強してたら・・つい・・忘れちゃって・・」  
「ついじゃないわよ・・。・・・・まぁ過ぎたこと言っても仕方ないわ。で?どうするの?今日」  
「え・・?」  
「家に帰ってくるのかって聞いてるの!もうこんな時間だし・・帰ってくるとしたら一人はやめときなさい」  
「あ・・それはまだ決めてないけど・・」  
「今からお友達と相談しなさい。決まったらもう一度電話しなさい。もし帰るんだったら、お父さんあたりに迎えにいってもらうから」  
「えっ・・お父さん・・?」  
「当然でしょ?夜中に女が一人で歩くのは危険でしょ?」  
「あ・・うん・・そう・・ね」  
「じゃ、またね。なるべく早くしなさいよ」  
「うん・・」  
母が電話を切ったのを確認して、綾瀬も受話器を置く。  
(お父さんか・・参ったわね・・・)  
別に父が頑固親父だとかそういうわけではない。・・が、やはり深夜に同級生の男の子の家にいるとなれば、流石にマズイというわけだ。  
ぼんやり立ち尽くしていると、台所のほうから音が聞こえる。  
「・・・?」  
タオルが落ちないよう、手を添えながら台所へ向かう。  
途中でスリッパも履いた。  
「沢村・・!起きたの・・・」  
 
台所に着くと、そこには先ほどまでぐっすり眠っていた沢村正治がいた。  
なにやらヤカンの中身を流し台に捨てているようだ。  
「うわ・・!なんつーカッコしてんだよ綾瀬!・・シャワーでも浴びてたのか?」  
「え、あ・・そうよ!あんたが私の身体に変なモンつけるから・・・」  
セイジも既に薬の効果は切れているようだった。しっかり衣服も身にまとっている。  
「なぁ、お前。これからどうすんだ?今から帰るのか?」  
綾瀬より先にセイジのほうが、その話題を持ち出した。  
「うーん・・・よかったら・・泊めてもらいたいんだけど・・」  
やっぱりな、といった表情を見せるセイジ。別に嫌というワケではなさそうだが。  
「別にいいぞ。・・ていうか服着ろよ!姉貴のでも借りてよぉ」  
「そ、そうね!ど、どこにあるんだっけ?」  
「俺の隣の部屋だ。まぁテキトーに選んでくれや」  
「うん、じゃあそうさせてもらうわね!あ!あとお母さんに友達の家に泊めてもらうって連絡するから・・電話かして!」  
「おう」  
お互いさっきの狂った時間は気にしないことにした。  
まぁ別にカップルなんだしええじゃないか─というワケだ。  
ただセイジは少し美鳥に申し訳ない気がしてならなかった。事が終わった後に、痛感する。  
やっちゃいけない・・わかってはいるのだが。・・。・・というか今回は姉貴のバカのせいでやったようなモンだ。  
もう絶対しねぇ。心に誓うセイジだった。  
 
「・・・ハァ?」  
「何よその顔。」  
「今から勉強だとぉ!?」  
自室に戻ったセイジと綾瀬。既にベッドに潜り込もうとしていたセイジを綾瀬が引きずり出す。  
「当然じゃない。私、今日はそのために来たのよ!エッチなことだけして寝ようなんて甘いわ!」  
「んだよ〜せっかく気持ちよく寝ようと思ってたのによ〜〜」  
「はいはい、さっさと椅子に座る!」  
口を尖らせダダをこねるセイジ。そのセイジを目で一喝し、閉じていた教科書を開く。  
「なんてったってまだちょっとしか進んでないわ!徹夜してでも・・やるわよ!」  
「はぁ〜〜〜〜・・・?」  
パン!と自分の頬をたたき、気合を入れる綾瀬。  
セイジもダレた顔をしながら、ゆっくりと教科書に視線を向けた。  
 
 
 
大きな大きな春日野邸が、空から降り注ぐ朝の光を全身に浴びている。  
その大きな屋敷の小さな窓から、一人の少女が外を眺めている。  
この一家の一人娘、春日野美鳥。  
一日前、原因不明の永い眠りから目覚めたその少女。  
顔色も、体調も実にいい。窓から見える、木々や鳥を眺めていると、自然と笑みが浮かんでしまう。  
心も清らかに、輝いている。こんな気持ちは、16年の人生で初めてかもしれない。  
「お嬢様」  
ふと少女の部屋の扉が開く。開いた主は、全身全霊で少女を慕う、メイドの牧絵さんだ。  
「牧絵さん!・・・どうかしたんですか?」  
「いえ・・朝のご挨拶を」  
「あ・・・どうもありがとうございます!いつも迷惑かけてばかりですみません・・」  
「いいんですよ、お嬢様!これが私の仕事ですし、私はお嬢様が好きですから!目覚められた時、どれだけ嬉しかったか・・」  
慌てて頭を下げる美鳥に、微笑みかける牧絵。  
「牧絵さん・・ありがとうございますっ・・」  
「これからも何か用があれば、なんなりと申しつけください。この牧絵、命を賭してでもお嬢様に─」  
「命を賭してだなんて・・」  
片手でガッツポーズをしてみせる牧絵。美鳥は少し笑って、再び外を眺める。  
「・・・じゃあ、早速ひとつ・・・お願いしていいですか?」  
「はい!どうぞ!」  
「私と一緒に・・・お散歩してください。天気もいいですし、外に出てみたいです!」  
「喜んで!では、着替えてきます!お嬢様はこの部屋でお待ちください」  
「はい!」  
少し駆け足で部屋を出る牧絵。本当に嬉しそうだ。  
自分は人に恵まれている─美鳥はつくづくそう思った。  
 
「温かいですね」  
「はい。最近はずっとこんな感じですよ」  
ふたり並んで、のんびりと歩く美鳥と牧絵。  
何の目的もなく歩いているわけではなく、美鳥が「行きたい」とある場所へと向かっている。  
河原や海辺のような、歩いていて気持ちいい場所でもなく、単なる細い住宅街の道。  
この先に、美鳥の求める、あるモノが存在している。  
「行きたい場所って、どこなんですか?」  
「ふふふ、それは着いてからのお楽しみです!キレイですよっ!」  
「きれい・・?」  
「ふふふ・・・」  
求める場所まで、あと少し。綺麗に咲き誇る、あの「桜」まで─  
 
 
 
息をきらせながら、走って走って走りに走る二人の若者。  
昨日の晩には徹夜してでも、と気合を入れて勉強に臨んだはずが、いつの間にか二人とも熟睡してしまった。  
それどころか思いっきり寝坊をかましてしまい、二人して学校へと走るハメになった。  
本来土曜日なので学校は休みのはずなのだが、今日は前々から準備していた「卒業生を送る会」の日なのだ。  
「どぉして起こしてくれなかったのよ!!」  
「俺だって眠かったんだよ!!」  
既に登校する生徒もいない通学路を、激しく罵りあいながら突き進む。  
「どーしてそうマヌケなのよ!!」  
「あのなー!!人に問題やっとけって言って、数分後に机にべったり張り付いて寝てたの誰だよ!!」  
「寝たのは悪かったけど!そこで起こしてくれりゃよかったじゃない!」  
「うっ・・」  
校舎が見えてきた。だが、ここからが長い。  
学校で定められた通学路では、ここから校庭を迂回して行かなければならない。  
「おい!こっちだ綾瀬!こっちの裏道使ったほうが早い!」  
「え?・・そ、そうなの?」  
昔は遅刻ギリギリをついたり、遅刻したり、そんな毎日だった。  
だからどこをどう進めばより早いか、それは脳に叩き込まれている。  
そして見つけ出した最良の道。「桜」の裏道。  
 
 
 
「ストップ!」  
順調に歩を進めていた美鳥と牧絵。だが突然、美鳥が曲がり角の手前でピタリと止まる。  
「・・?どうかしましたか、お嬢様」  
「ここを曲がったところに、私が見たかったものがあるんです」  
「!そうですか!では、早速!」  
牧絵が美鳥の手を握って角を曲がる。  
「・・・これは・・」  
コンクリートの高い丘。その頂上に一本、堂々と聳え立つ桜の木。  
無数の花びらを纏い、微かな風が吹くごとに、少しずつそれを散らしている。  
「綺麗ですよね・・。私、この木を見ると心が落ち着くんです」  
「これは・・桜田門高校の桜・・ですか」  
「はい」  
美鳥がこの桜を知ったきっかけは、沢村正治。彼の存在だ。  
彼の姿を追って、この校舎に近づく。しかし過去の自分は、彼を目の前にすると身体が固まってしまい、言葉がでなくなってしまう。  
そして何もできず逃げるように立ち去って、最後にここで息をつく。  
見上げたそこに立っていたのが、この桜。当時はこの綺麗な花を纏っていなかった。  
ただ、それでも何故か心が落ち着いたし、何より春になったその時、この桜がどれだけ美しくなるのか、それが楽しみだった。  
そして期待を裏切らず、この桜は優雅に花を咲かせている。美鳥は素直に感動した。  
「こんなところにこんな桜があったなんて・・知りませんでした」  
「実は私も咲いてるのを見るのははじめてなんですけどね・・えへへ」  
「それにしても今日は土曜日ですよね?授業はお休みのはずですが・・校舎の中が騒がしいですね」  
「そういえばそうですねー。何かあるのかな?」  
二人が桜の木から視線をそらした、その時だった。  
 
 
 
なんだかんだでこの裏道も長い。距離的には確かに短い感じだが、上り坂だ。  
走りにくい靴で、セイジの自宅から全速力で走ってきた綾瀬の足が、次第に遅くなっていく。  
「はぁっ・・はぁっ・・ちょっ・・ちょっと待って・・」  
綾瀬とセイジの距離が少し開く。  
「あと少しだ!ほれ、つかまれ!」  
セイジが右手を差し出し、綾瀬もソレをギュッと握る。  
地面に散った桜の花びらが落ちている。左手に桜田門の象徴とされる桜の木が現れる。  
ふとそこでセイジが右の曲がり角に視線を向けた。  
 
───────  
 
一瞬の遭遇。美鳥とセイジ、双方の視界に写ったお互いの姿。  
一瞬。一瞬だった。その一瞬の後、風、ひとつの風がフワリと強く、吹いた気がした。  
そして気がつけば、美鳥は桜に背を向け、来た道を戻ろうとしていた。  
「お嬢様!?どうしたんですか?まさかお体のほうが!?」  
「い、いえ違います!い、家に帰りましょう!はやく!!」  
沢村正治に会った。それだけじゃない。彼の手を握っていた一人の女性。  
彼女の存在が、美鳥のこの行動を起こさせたのか。  
「え・・ええ・・?」  
牧絵の手を思いっきり引っ張って、来た道を戻る。  
数秒としない間に、二人から桜は見えなくなった。  
 
 
 
全速力のセイジの足に急ブレーキがかかる。  
「きゃっ!!」  
突然すぎるブレーキに、綾瀬は対応しきれずセイジの身体にぶつかる。  
セイジの胴体に思いっきり顔をぶつける綾瀬。  
「いったぁ・・・。ちょっと!いきなり何止まって・・」  
セイジが目を見開いて、直前に通り過ぎた小さなT字交差点を見つめている。  
「・・・わりぃ、ちょっと先いっててくれ」  
セイジがその交差点に向かって歩き始める。  
「えぇっ?何行ってんのよ!遅刻するわよ!?」  
「大丈夫だ!ぜってぇ間に合わすから!」  
遅刻リミット五分前を示す予鈴が鳴り響く。そのおかげで少ししか離れていないのに会話ができない。  
「・・・〜!!絶対遅刻しちゃダメよ!!」  
綾瀬が再び走り始める。疲労でスピードはなかったが、すぐそばで曲がったので、すぐに見えなくなった。  
そしてセイジが歩調を速める。  
(まだはっきりとした答えはだせちゃいねぇ・・・だけど・・挨拶ぐれぇはしてやらねーと・・!  
 俺は・・お前のこと知ってるってことぐらいは言ってやらねーと・・!)  
少ない脳みそで、色々な事を考えながら走った。  
「美鳥!」  
一瞬の再会。すでにその場所に美鳥の姿はなかった。  
誰もいない、細い道だけが写っていた。  
一通り、あたりを探してみるが、見つからない。一瞬、一瞬だけの再会だった。  
 

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