少し早歩き、数秒で目的の場所に到着。  
長い髪に黒くて四角い眼鏡。  
全体的に白を貴重とした服に、短いスカート。  
そんな格好をした一人の女性は、一枚の扉を目の前に、不敵で嫌な笑みを浮かべている。  
ガタッ!と音を立てるほど、勢いよくドアの取っ手を掴み、毟り取るほどの力で開く。  
大きな音を立て、扉は開いた。部屋の中は薄暗く、やや荒々しいいびきが部屋中に響いている。  
「・・・ったく、こんだけ音立ててもおきねーか・・」  
腰に手を当てながら、散らかり気味な部屋をベッドに向かってまっすぐ進む。  
ベッドでは金髪の青年が大きく口を開きながら寝息を立てている。  
その青年の右手でひっそりと小さな小さな少女が静かに寝息を立てている。  
「オメーにはコイツがいるだろーが・・・何やってんだよ、ったく」  
一つ舌打ちをした後、部屋の明かりを灯す。だが、青年はまだ起きる素振りを見せない。  
だが、右手の少女が眉をピクッと反応し、次第に細く小さな腕や、その腕よりさらに小さい指を動かし始める。  
「お?先に美鳥ちゃんのお目覚めか」  
「んん・・」  
小さなあくびを浮かべる美鳥。少しだけネグセができている。  
ぼ〜んやりと辺りを見回しながら、ゆっくり起き上がる。  
「ふぁぁ・・・セイジく〜ん・・朝ですよー」  
凛の存在に気付かず、セイジが被っている着布団を持ち上げる美鳥。  
「おーい!美鳥ちゃん!」  
ビクッと美鳥が反応し、思わず掴んでいた布団を放してしまう。  
布団は再び沢村の胴体に覆いかぶさった。  
 
「お、お姉さん!?」  
慌てて振り返る美鳥。その勢いでセイジの右腕が激しく捻られる。  
「いでっ!!」  
セイジが奇声をあげる。  
「あぁっ!セイジくんっ!大丈夫ですかっ!?」  
「な、な、な、何だ!?何があったんだっ!?・・って姉貴!?」  
目を見開いて辺りを見回すセイジ。  
セイジの頭にも少々のネグセができている。  
「よぉ、リトルブラザー。暇だからきてやったぞ」  
「な・・・なぁ!?」  
いきなり痛みで起こされたので状況がつかみきれていないセイジ。  
視線も凛から少しズレた所に向いている。  
美鳥もポカーンと口を開けて硬直してしまっている。  
「おーい!どこ見てんだ!?はやくしねーとガッコー遅刻すっぞ?」  
目をゴシゴシ手で拭い、壁にかかった時計を見るセイジ。  
あと十分ほどで7時になろうとしている。  
「まだ大丈夫だよ・・・ってか姉貴・・・なんでここに・・」  
眠気に潰されそうな重い声でセイジが話す。  
凛は腕を組み、にやつきながらセイジを見下している。  
「だから、暇だからっつってんだろーが?」  
セイジのネグセになっている部分を右手で撫で回す凛。  
「あぁーもう!触んなよ!」  
凛から酒の匂いはしなかった。どうやら酔っ払ってココに来たワケではないらしい。  
「でもお姉さん・・なんでこの部屋に?」  
美鳥の口ぶりは、もうスッキリ目覚めきったものになっていた。  
やっぱりこの娘はしっかりしている・・凛はそう思った。  
「ん?それはなぁ・・・ちょぉっとこのアホに話したいことがあって・・っていうかできてな」  
「・・・・?」  
 
「・・・・?」  
セイジの眉がピクリと反応する。美鳥は少し困惑したような顔で凛を見ている。  
「なぁ?セイジ・・・心あたりあるんじゃねーか?」  
「セイジくん・・?」  
美鳥がセイジの方に振り返る。  
(まさか姉貴の奴・・綾瀬と会ったのか?っていうか綾瀬はまだこの家ん中にいんのか?)  
「どーした?答えろよ」  
ズイッとニタついた顔をセイジに近づける。セイジの視界には嫌でも凛の顔が入ってくる。  
「な、なんにもねぇよ!ワケわかんねーこと言いやがって・・」  
ケッと顔を背け、布団から出るセイジ。そのまま凛の身体を押しのけ部屋を出ようとする。  
「ほー・・・ワケわかんねーってか・・・」  
セイジが部屋を出ると共に、凛も部屋を出る。  
「ついてくんなよ!」  
階段に差し掛かったところでセイジが怒鳴る。  
「・・・」  
ピタッと凛が歩を止める。やたら素直で逆に不気味だ。  
「なんなんだ姉貴の奴・・・」  
ブツブツ言いながら階段を降りるセイジ。次第に一階に到着し、綾瀬がいるはずの居間へ向かおうとした。  
「あの娘ははじめてだったのかー!?」  
突然、凛が声を張り上げる。セイジの足がピタリと止まる。  
「なぁー!?どうなんだー?やったんだろーが!どうやって美鳥ちゃん黙らせたかしんねーけどな!」  
「な、何言ってやがんだテメェ!」  
すぐさま折り返し、階段へ向かうセイジ。まだまだ凛の声は鳴り止まない。  
「気持ちよかったか!?よかったろーなー!お前だって初めてだもんな!」  
「くっ・・!」  
ドタドタと大きな音を立てて階段を駆け上る。凛は例の行いがあった部屋の扉にもたれかかって立っている。  
「セ、セイジくん、お姉さんはさっきから何を・・・」  
心配する美鳥の声も、セイジの耳には入っていない。  
「セイジくん・・・」  
「おい姉貴!!」  
階段を上りきるなり左手で豪快に凛の胸倉をつかむセイジ。凛は相変わらずニタついている。  
 
「ケ、ケンカはやめてくださいっ!」  
美鳥が甲高い声をあげる。  
「安心しろ美鳥ちゃん。あたしゃその気はねーよ。コイツはどーか知らねぇけどな」  
「なんのつもりか知らねぇが・・あんまりワケわかんねーことばっか言うとキレっぞ・・」  
学校のヤンキーや地元の人間たちを恐れさせる眼光。  
しかしこの恐ろしい眼も凛にだけは全く通じない。  
「まだいうかこのガキ。あたしゃ知ってんだよ・・・昨日この部屋で何があったかをな」  
そういってコンコンと例の部屋の扉を叩く。  
セイジの強い視線が一瞬揺らぐ。  
「何がって・・・セイジくん・・?やっぱり何かあったんですか?綾瀬さんと・・」  
「一番不思議なのはココだ。なんで美鳥ちゃんが何にも知らねーんだ?」  
「・・・・・」  
セイジはまだ凛を睨み続けているが、その眼に大した力は無く、凛の余裕もなくなるどころか増している。  
「ま、あたしがウダウダいうのもアレだし、今日はこの辺にしといてやるよ」  
胸倉を掴んでいたセイジの腕をあっさり解く凛。  
そして右手で軽く服を整え階段を降りはじめる。美鳥もセイジも何も言わなかった。いや、言えなかった。  
「・・・・・・・」  
廊下を降りた凛が歩を止める。そしてゆっくり顔を二階のセイジに向ける。  
「中途半端なことだけはすんなよ」  
「・・・!」  
凛からすれば軽く睨んだ程度だったが、セイジにとってその視線には、とてつもない威圧感が感じられた。  
セイジが唾を飲み、唖然としている間に凛は家内から出て行った。  
そして再び静寂が家を包む。  
「セイジくん・・・」  
セイジの顔を見上げる美鳥。セイジは唇をギュッと噛み厳しい表情で眼を瞑っている。  
美鳥はそれ以上セイジに言葉をかけることができなかった。  
 
 
いつもより十分ほど早く学校に着いた。  
ガラッ!  
いつもどおり右手を懐に隠しながら教室の扉を開くセイジ。  
ザワザワと騒がしかった教室が一瞬固まる。未だ校内を覆う、沢村セイジの黒い噂は晴れていない。  
冷たい嫌な視線がセイジの身体を突き刺す。  
そんな中セイジは黙って窓際の自分の椅子へと歩いてゆく。  
途中、綾瀬の姿が眼に入り、綾瀬の席の後ろで一度立ち止まる。  
「朝飯・・・ありがとな。うまかったぜ」  
チラっとセイジの方を振り返り、またすぐに前に向き直る綾瀬。  
小さく「ありがと」と呟いた。  
自分の席につき、窓の外を眺めるセイジ。空は真っ青。昨日の雨が信じられないような完璧な快晴だ。  
ぼんやり肘をつきながら外を眺めていると、昨日のことや先ほどの凛の言葉が次々と脳を巡る。  
(クソ・・・姉貴の奴・・余計なことしやがって・・だが・・姉貴の言うことも・・一理ある・・・かもな)  
凛の言っていることは間違いではないとわかっている。  
ただ、沢村には二人を傷つけずに済む方法がわからなかった。  
いや、そんな方法ないのかもしれない。  
だが綾瀬とああいうことをしてしまった以上、後戻りできない部分ができてしまった事は事実。  
(あーもう!どうすりゃいいってんだ・・・俺は・・)  
四苦八苦の苦悩を続けながら、その日の授業は過ぎていった。  
そして昼休み。  
 
この時間になると校内のあちこちで男女一組の俗に言うカップルが一緒に食事をとっている。  
これは桜田門高校内でとても有名な話で、一人狼を続ける男どもにとって、羨ましい限りであったことは言うまでもない。  
もちろん沢村も例外ではない。  
ただ沢村の場合、男女が「昼休みに一緒に食事をする」光景が羨ましいを通り越し、恨めしくなっていたのでその光景を見るたびにイラだち、その鬱憤を晴らすかのような行為を何かしら続けていた。  
そして美鳥が現れてからは昼休みに教室外にでることが、ほとんどなくなっていたので、その嫌な光景を見ることもなくなっていた。  
だが今日は朝のあの雰囲気もあり、美鳥が弁当を作っていない。  
仕方がないので学食にパンあたりを調達しに行くことになりそうだった。  
(あ〜腹減った・・しかし・・美鳥の奴・・静かだな・・)  
包帯に包まれた右手をほんの少し見てから、教室の扉を開く。  
 
 
 
「ねぇ今日はどこで食べる?」  
「早く行こうよ!」  
「体育館の裏なんてどう?」  
廊下に出るなり、あちらこちらから高低様々な男女の話し声が耳に入ってきた。  
(クソ、やなモン思い出したぜ・・・ったくどいつもこいつも・・メシなんて一人で食えばいいだろーが・・)  
早速イラだち始めた沢村は、足早にその場を去ろうとする。  
「ねぇ沢村!」  
唐突に女の声が沢村を呼び止める。  
一階に下りる階段にさしかかろうとした沢村がピタッと止まり、振り返る。  
 
「な、なんだよ・・・綾瀬・・」  
声の主は綾瀬だった。綾瀬は腕を後ろに組みながらニコニコ笑っている。  
「一緒に・・・食べない?」  
「なっ・・・」  
組んでいた腕を解く綾瀬。その手には弁当箱が握られていた。  
「天気もいいし・・・屋上でどう?」  
「・・・い、いや、わりぃ・・・俺、今日学食なんだわ・・」  
「あ・・そう・・・」  
綾瀬の表情が曇る。手に握られた弁当が余計に寂しさを煽る。  
心優しい?沢村にはその表情が辛すぎて耐え切れなかった。  
「・・・・ま、まぁパンとかでよかったら買ってきて一緒に食うこともできっけどよ」  
「ホント!?パンで充分よ!」  
「な、なら先行っててくれよ。ちゃんと後で行くからよ」  
沢村はそう言ってそそくさと階段を降りていった。  
「・・・・ふぅっ」  
大きく一つため息をつく綾瀬。その後喜びを噛みしめるように片手で小さくガッツポーズをとる。  
(やったぁ〜!そうよ・・沢村とこれがしたかったの!・・・・でも、何で話しかけるとき、緊張しちゃうんだろう・・もう付き合ってるも同然なんだから  
 極普通に話しかけても大丈夫なはずなのに・・・やっぱり慣れてないからかしら・・)  
「た〜か〜こっ!」  
「へっ?」  
突然話しかけてきたのは綾瀬が普段一緒に昼食をとっている友達だった。  
「見たわよ〜〜?や〜っぱりそうだったのね。もう貴子ったらぁ〜」  
「ちょ・・そんなんじゃ・・ち、違うってば!」  
「あ〜んな悲しそうな顔されたら、男は断れないって!」  
綾瀬の顔が紅潮する。言葉にならない声が口から漏れる。  
「アハハハハ!ま・・いいじゃない!おめでと、貴子!私らは邪魔しないから・・存分に楽しんでらっしゃい!」  
ポンと背中を叩いて教室に戻っていく友達。綾瀬は呆然と立ち尽くしている。  
「・・・・はっ!急がなきゃ・・場所がなくなっちゃう・・・」  
足早に歩き出し、屋上へ向かって綾瀬は階段を上っていった。  
 
(お姉さんが言ってた・・「やった」っていうのは・・やっぱりセイジくんと綾瀬さんが・・・やっぱり・・・何もなかったなんてのは勘違いで  
 、昨日の夜・・セイジくんと綾瀬さんは・・)  
このような流れの文章が、何度も何度も美鳥の脳を駆け巡る。  
今朝、凛とセイジと一騒ぎがあった後、美鳥は一言もセイジと言葉を交わしていない。  
腕に包帯を巻くときすら、黙ったままだった。それに最近は全身グルグル巻きにすることはなかったのに、  
今日は完膚なきまでに巻きつけている。これでは自由に動くこともできない。  
(セイジくん・・・どうして・・・なんで・・・)  
昨日の夜、セイジと綾瀬が何をしていたか、それを想像するだけで涙が滲む。  
(私は・・どうすればいいんですか?セイジくん・・・)  
「おばちゃん!焼きそばパンひとつくれ!」  
「あいよっ」  
セイジは学食でパンを購入している最中だった。  
(セイジくん・・・私の想いは・・どうなるんでしょうか・・)  
腕のゆれが少し上下に激しくなる。階段を上っていってるようだ。  
(綾瀬さん・・・どうして綾瀬さんは、そんな風に・・どんどんアタックできるんですか・・?  
 元の身体の私はどうして・・綾瀬さんみたいになれなかったの・・?)  
綾瀬に対する羨望と自分に対する悔しさで辛酸を味わう美鳥。  
そうこうしているうちにセイジが屋上に到着したらしい。  
「うっわ、人だらけじゃねーか・・」  
広い屋上には様々なカップルがいるわいるわ、各々好みの場所をとって食事をしている。  
皆同じ服装をしているため、ちょっと不気味な光景にも見えた。  
「綾瀬はどこにいるんだ・・・?」  
目を細めながら辺りを見回すセイジ。だが見つからない。似たような格好の女ばかりで区別もつかない。  
「・・・・お〜い、綾瀬ぇ?」  
綾瀬の名を呼ぶ沢村の声も大勢の人の声でかき消される。これは綾瀬を見つけ出すのにも苦労しそうだ・・そう思った沢村だったが  
「ちょっと!どこ探してんの!こっちよ、こっち!」  
セイジの背後から綾瀬の声がかかる。  
そのまま綾瀬はセイジの左手の袖を掴み、グイッと引っ張る。  
「っと、引っ張るなよ!」  
「はやくしないと場所とられちゃうでしょ?」  
綾瀬に連れて行かれた場所はやや日陰になったところで、なぜかここには他の人間が一人もいなかった。  
 
「直射日光でもなくて暑くないし・・・丁度いいでしょ?」  
「・・・まぁな」  
ちょこんと三角座りをする綾瀬。対してセイジはどっかり胡坐をかいて座り込んだ。  
「じゃ、頂きます」  
「いただきまーす」  
弁当のフタを開き白飯とオカズを少しずつ交互に口に運ぶ綾瀬。  
セイジは買ってきた焼きそばパンに思いっきりかぶりついている。  
「・・・・・・・」  
「・・・・・・・」  
物凄い勢いで焼きそばパンを口に運ぶセイジ。  
そのまま一気に食べ終わってしまった。綾瀬はまだ1/3も食べ切れていない。  
「あ〜食った食った」  
「・・・早いわね」  
「パン一個だけだもんな」  
「・・・そうね」  
フーと息をはいて空を見上げるセイジ。空はやはり快晴。薄い雲が所々に点在している。  
「いい天気だなー・・昨日の雨が嘘みてーだ・・」  
視線を弁当箱に向けていた綾瀬も空を見上げる。  
「そうねー・・・気持ちいい晴れね・・・」  
「こーいう日は・・・屋上とかでのんびりすんのも悪くねーな・・・」  
「ここ、気に入ってくれた?」  
「まーな」  
綾瀬が微笑する。  
「あのね沢村・・・」  
まだ弁当を食べ終えていないが、箸を置く綾瀬。  
 
「おいおい残すのか?もったいねーな」  
「じゃあ食べる・・?」  
「おう!もらうもらう」  
綾瀬から残った弁当を受け取ると、またかなりの勢いでがっつくセイジ。  
間接キスだとかどうとか、その辺のデリカシーの無さは姉の凛ゆずりだろうか。  
「・・・それでね沢村」  
「・・・ん?なんだよ」  
綾瀬が沢村に背を向けて立ち上がる。  
「私の・・苦労自慢に聞こえるかもしれないけど・・・聞いてね」  
「・・・」  
「私があんたに惚れたのは、あの時・・不良に絡まれたときに助けてもらったときね・・」  
沢村の箸が止まる。  
「その後・・あんたがその辺の嫌な不良たちと違って・・筋の通った優しい奴なんだ・・って思えるようになる所を見ちゃってね・・  
 もうそれでゾッコンよ」  
「・・・」  
裾に隠れた美鳥が身体を起こす。  
綾瀬は言葉を続けていく。  
「映画に誘ったときあったじゃない?あの時・・私相当気合入ってたのよ。変にオシャレしたり・・抱きつくタイミングを測ったりね・・  
 でも全部失敗・・。しかもあんたは全く気付かない・・滑りっぱなしだったわ」  
「・・・わ、悪かったな鈍感で・・」  
フフッと綾瀬が鼻で笑う。綾瀬は身体の方向を変えて、高く張り巡らされた金網の方へゆっくりゆっくり歩き出す。  
「私の密かなアタックはまだまだ続くわ・・・第二弾はゆかりちゃんと一緒に行ったプールね・・・あの日のために身体鍛えて・・水着も買って・・ポーズも研究して・・なのにあんたは私じゃなくてゆかりちゃんばっかり・・正直少し恨んだわよ?」  
「・・・はは・・」  
「そういえば・・・カラオケで合コンしたでしょ?あんた。・・あの時の王様ゲームで、あんたとキスしたあの眼鏡の子・・あれ私よ?」  
「なっ!?マジかよ・・・」  
「あんたに軽い女と思われたくないから帰ろうと思ったんだけど・・他の女にとられてなるもんですか!って思って・・・変装してね・・」  
「・・・・・」  
「さらに言っちゃえば・・みるくボンバイエだっけ?あんたが落としたAV・・」  
ブハッとセイジが吹きだす。  
「そのAVを見て研究したりして・・・ある日は槙葉さんが妙なクスリをくれてね・・ホレ薬かと思ったんだけど睡眠薬だったとか・・」  
(むしろ研究の内容が気になるぜ・・・)  
 
しばし止めていた箸を再び動かし始めるセイジ。  
綾瀬は金網に身体を向けながら話し続ける。  
「家に呼んだこともあったわね・・。もうこれぞ言わんばかりに準備したし・・アピールもしたけど・・・意味なかったわね。火事まで起こすし」  
「あの火事は焦ったなー。あの後大丈夫だったんか?」  
食べ物を口に含みながら、セイジが問う。  
「後で親にこっぴどく叱られたわ・・・しばらく口もきいてくれなかったし・・・ショックだった・・落ち込んだわよ、あの時は」  
金網に掌をかける綾瀬。相変わらず沢村には背を向けている。  
「なんでこれだけやってるのに気付いてくれないんだろう・・・気付くどころか私を一人の女としても見てくれてない・・そう感じたわ」  
「・・・・・悪かったな・・」  
「スキー合宿のとき・・ラブホテルで二人きりになったわよね・・あの時も結局何も進展しなかったわよね・・・そのときもかなり落ち込んだんだけど・・・  
 家に呼んだときとは、ちょっと違う感じだったの・・どうして・・はっきりとキモチが伝えられないんだろうって・・悔やんでたわ。いつもいつも今度こそはって  
 考えてるんだけど・・・あんたを目の前にして・・話しかけようと思うと緊張して・・素直になれずに本心とは全然違うことばっかり言ってた」  
この綾瀬の言葉に、美鳥が深く鋭く反応した。  
 
(綾瀬さんも・・私と同じで・・やっぱり勇気がでなかったんだ・・・。・・・いえ違う・・違うわよ美鳥・・綾瀬さんは後で覚悟を決めて・・はっきりとその気持ちをセイジくんに伝えた。・・・私は・・・本当の私は・・)  
「でもね・・・ある日を境に・・・その日に何かがあったってワケじゃないんだけど、決心がついたの。やっぱり遠まわしにアタックしてたってダメ。はっきりと・・正々堂々と・・  
 素直に・・私の想いを伝えようってね」  
(そう、そこが綾瀬さんと私の違い・・。綾瀬さんは立派だから・・ふられる恐さを恐れずに・・真っ向からセイジくんに告白することができた・・。・・私は・・・)  
「・・・で、あんたを卒業生を送る会の実行委員に推薦して・・二人きりになったところで告白することにしたわ・・。・・まぁそのときも、なんか勢いで言っちゃって  
 一度は逃げ出しちゃったけど・・・でも、「好き」って言葉をはっきり言えた事で・・今、私たちはこういう関係になった・・。そう思うと、やっぱり素直になって勇気をだすっていうのは大事なことなんだなーって・・・」  
綾瀬が振り返る。セイジも口をモゴモゴさせながら綾瀬のほうを見つめている。  
「沢村・・・私、あなたが今まで何人の、どんな女達と付き合ってきたかは知らないけど・・その女の人たちの誰よりも・・あなたの事が・・好きよ」  
穏やかながら強くはっきりした表情で、沢村の眼をまっすぐに見て綾瀬が言う。  
セイジは照れくさそうに顔を反らす。  
「・・あ、あのなー!そういう恥ずかしいこと・・そんな顔して言うんじゃねーよ・・・」  
「ふふっ」  
綾瀬が軽く笑ってセイジが腰を落としている場所に戻ってくる。  
「なんだよ、ニヤニヤしやがって・・・」  
セイジの隣に座り込んだ綾瀬がポケットをガサゴソ漁っている。  
「・・・あったあった、これこれ」  
綾瀬がポケットから二枚の紙切れを取り出す。いや紙切れじゃない。何かのチケットのようだ。  
 
「今度の日曜・・空いてたら一緒に行きましょ!」  
重なっていた二枚のうち一枚をセイジに手渡す。  
「ミルキーランド・・・?なんだこりゃ」  
「あんたに告白する前から、ずぅっと渡そうと思ってたんだけど・・・いっつもチャンス逸してばっかりだったから今日こそはって・・ね。で、今週の日曜・・・どうなの?」  
少し悩んだような表情を見せるセイジ。  
「予定覚えてねぇからハッキリとは言えねぇけど・・・たぶん空いてたと思うぜ」  
「そう!なら決まりね!」  
「おいおいまだわかんねーって言ってるだろが・・・」  
いつになく調子のいい綾瀬にセイジもいささか困った様子だった。  
ただ、セイジが嫌な気分になる「困った」ではない。  
二人が話す光景は、そう見えた。  
 
 
 
 
「ただいまーっと」  
いつものように軽い足取りで帰宅するセイジ。  
「・・・・ん?」  
玄関の靴を見てみると、見覚えがあるような、ないような女モンの靴が一つ転がっていた。  
 
「・・・姉貴か」  
カバンを廊下にポイッと投げ捨てて居間へと向かう。  
結局学校へ行ってる間も、一言も美鳥と話すことはなかった。  
少し躊躇したが、右腕に巻きつけた包帯をスルスルと解いていく。  
「おぉーう、セイジ・・・帰ってきたか」  
居間に入ると眠たそうな顔をした凛が、眼鏡もかけずに寝っ転がっていた。  
「なにやってんだよ・・・姉貴」  
「最近寝不足でな・・・ちょっと昼寝を」  
大きく伸びをして起き上がる凛。小テーブルに置いてある眼鏡を素早く掴み、顔に掛ける。  
まだ瞼を重たそうにしている。何が原因か知らないが相当寝不足のようだ。  
「じゃ、あたしゃ帰るわ・・・」  
ボリボリと頭を掻いて歩き出す凛。そのまま居間をでて、数秒後にガチャンと玄関の扉が閉まる音が聞こえた。  
「ったくなんなんだ・・?姉貴の奴・・」  
ぶっきらぼうに放り出された毛布を足で払いのけ、居間に腰掛ける。  
座った際の勢いで中途半端に解かれたいた右手の包帯がスルリと抜け落ちる。  
「ずーっと黙ってたな、美鳥」  
「・・・ごめんなさい、セイジくん・・」  
「別に謝んなくていーよ。確かに話しにくい雰囲気だったしな・・。それより晩メシ作ってくれよ!」  
「・・・はいっ!わかりました」  
いつもどおりニッコリ笑う美鳥。ただ、その笑顔の中には、ある覚悟を決めた、静かな決意が潜んでいた。  
セイジはそれに、まだ気付かない。  
 
「はいっ!できましたよ!」  
テーブルの上の食器から、湯気がもくもくと浮かぶ。  
見た目からして、とてもおいしそうな料理ばかりだ。  
「おぉ、毎度の事ながらうまそーな料理だな」  
「ありがとうございますっ!うれしいです!」  
「じゃ、いただきまーす!」  
言うなり昼と同じように、勢いよく料理にかぶりつく。  
その様子を美鳥はジッと見つめている。  
「なんだ?お前は食べないのか?」  
カチャカチャと音を立てていた箸がピタッと止まる。  
「・・・・・・・」  
静かに一度目を閉じ、ゆっくり開く美鳥。  
「セイジくん・・・・今までありがとうございました」  
「・・・・は?」  
セイジは箸をおくこともできず、カチーンと硬直している。  
「一旦・・・・お別れですっ」  
今まで何度も見た笑顔。両手を精一杯伸ばして、満面の笑みを浮かべている。  
「な、なに言ってんだよ・・・美鳥」  
「私・・やっぱり思ったんです・・・逃げてばっかりじゃいけないんだって!」  
「逃げるって・・・何からだよ・・?」  
伸ばしていた掌を胸の辺りで合わせる美鳥。  
「今も私の家で眠ってる・・本当の私からです」  
「本当の・・お前・・?」  
「はい。・・・今日の綾瀬さんの話を聞いていて思ったんです。私も・・勇気をださないとって」  
美鳥の顔から笑みが消える。そっと眼を瞑って再び語り始める。  
「綾瀬さんがセイジくんのこと好きなことに、私はずっと前から気付いてました・・。それで、綾瀬さんがセイジくんにアタックするたびに気付かないで気付かないでって思ってました。・・その時点で私はダメだったんです」  
少し暗い表情になる美鳥。セイジは何も言えず呆然としている。  
 
「正々堂々とする勇気・・・私にはコレが欠けていたんだって気付きました。今はこんな風にセイジくんの右手にいれて・・とても幸せです。  
 でも、この幸せを・・逃げながら守っちゃダメなんだって・・気付きました」  
暗い顔ながらも声ははっきりして、何か吹っ切れたような感じを受けた。  
恐らく美鳥の中での決意は、もう相当固いものになっているのだろう。  
「右手にいて、一日中一度も離れずにいるなんて卑怯ですよね・・。でも私がいることに気付かない綾瀬さんは何度も何度も諦めずアタックを繰り返して・・  
 ついには勇気を振り絞って告白もしました。・・・右手に来る前の私は・・それを何一つできてなかった。不安ばかりが先に立って、いつもいつも逃げてました  
 ・・普通の人なら誰でも綾瀬さんを応援しますよねっ・・」  
「そ、そんなことはっ・・!」  
「セイジくんは優しいから・・私の事を思って、そう感じるのかもしれませんけど、私自身がそう思ったんです・・綾瀬さんの方が・・立派でいい人だなって・・・」  
眼を開ける美鳥、ふとその瞬間、セイジの眼に映る美鳥の身体が一瞬透ける。  
「でも!私だってセイジくんを諦めるつもりはありません!このまま引き下がったら女がすたるってモンです!  
 あくまでセイジくんを最初に好きになったのは私なんですからっ!」  
「美鳥・・」  
「つまり・・・・私は私の身体に戻って、正々堂々と!綾瀬さんと同じ立場に立って!セイジくんの心を!射止めてみせますっ!」  
「・・・・」  
セイジは戸惑った。美鳥は知らない。美鳥が彼女の本当の身体に戻ると、右手にいた時の記憶を失ってしまうことを。それを伝えてよいものか・・。  
「だからセイジくん!落ち込まないで・・」  
「なぁ美鳥・・」  
「え・・?」  
はきはきと明るい言葉を続ける美鳥をセイジが遮る。  
「言・・っていいかわかんねぇんだけどよ・・美鳥・・お前は・・元の身体に戻ると・・右手にいたときの記憶を・・・なくしちまうんだ」  
ピクッと美鳥の眉が反応する。一瞬美鳥の表情に陰りが見えたが、すぐに明るい表情を取り戻す。  
 
「・・・大丈夫ですよセイジくん!具体的な内容は覚えてなくても・・・きっと私がこういう風に・・自ら自立しようって思いで元の身体に戻れば・・・きっと何かを掴んだ状態でいれると思います!」  
「そ、そんなこと・・・」  
反論を言おうとしたセイジが我が目を疑う。右手の美鳥が消えている。  
「み、美鳥っ!?」  
眼を拭い再び右手を見ると、そこには、いつものように美鳥がいた。  
「どうかしたんですか・・?セイジくん・・・」  
「い、いや・・」  
「とにかく!今のままで綾瀬さんとセイジくんの取り合いをしようなんてオコガマシイことだったんです!  
 そんなことじゃ本当の意味でセイジくんの心を掴むことはできない・・だから戻るって決めたんです!  
 私がこう思ったところで元の身体に戻れるかはわかりません・・。でも私が右手に来たときもセイジくんと一緒にいたいって気持ちが、ああいう風になって表れたんだから・・逆に思えば離れるってことも考えられますっ!」  
美鳥は満面の笑みを浮かべながら話し続ける。セイジは対照的に暗い顔をしている。  
「・・・・・」  
スゥ〜っと美鳥が大きく息を吸う。  
「今まで・・・どうもありがとうございました・・・セイジくんっ」  
「・・・・!」  
美鳥の微笑。今まで覚えたことのないような感覚がセイジを包む。  
美鳥の身体が三度透けてゆく。  
「あ・・・言ったそばから・・」  
美鳥が細い自らの両手を眺めながら呟く。  
セイジは歯を食いしばって、その光景を見つめている。  
 
「・・元の身体に戻った私も・・・ちゃんと見てくださいねっ・・!なにも覚えて無くても・・嫌わないでくださいねっ!」  
突然、美鳥の瞳から涙がこぼれ始める。  
「あ、あれ何で泣いてるんだろ・・?えへへ・・や、やっぱり怖いのかな・・?こんなことじゃ・・元の身体に戻ったときが思いやられますね・・・しっかりしなきゃ・・・!」  
グスッと鼻をすする美鳥。涙はこぼれ続ける。身体はすでにほとんど透けて見えなくなってしまっている。  
「美鳥・・・美鳥っ!」  
ほとんど見えなくなっている、美鳥の身体に左手を添えるセイジ。  
「・・・私が元の身体に戻って・・セイジくんに告白したときに・・初めて私と綾瀬さんを天秤にかけてくださいっ!」  
「・・・・わかった・・・!」  
美鳥につられ、セイジまで涙声になっていた。そして─  
「じゃあ・・また会いましょう!セイ・・」  
最後の一言を言い終える前に、天使のような右手は元の悪魔の右手に戻った。  
そしてその右手に、彼女が戻ってくることは、彼の一生でもう二度と無かった。  
 

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