充足した深い眠りから覚めると見知らぬ部屋だった。  
不思議なこともあるものだ、一体どうしたというのだろうか。  
年不相応に落ち着いた顔に不審の表情を浮かべ、辺りを見回す。  
湿り気を帯びたベッドと脱ぎ捨てられた服。  
不意に自らが何も纏っていないことに気が付く。  
……隣に男が眠っていることも。指し示す事実は一つしかないだろう。  
とりあえず服を身に付け、髪を一つに束ねると、なぜか揺れる頭で必死に考える。  
どうしてこんなことになってしまったのか。  
昨晩の記憶が蘇ったとき、彼女の思考回路は停止した。  
 
――八月某日、都内某所――  
一本の糸のように緊迫した空気の中、運命を左右する一戦が行われている。  
高校女子なぎなた選手権大会・関東Cブロック。  
鳩鳴館女子と浜崎学園との決勝戦。二人の選手の勝者が地区大会を制覇する。  
先ほどから続く一進一退の攻防は大学レベルと言って差し支えないほどのものだ。  
一方が巻き上げのタイミングをずらし、引き面による一本とすれば、  
もう一方が脛柄払いからの一本を与える。次で勝者が決まる。  
 
無音。面は白く沈み、内心の動静は伝わってこない。  
呼吸の荒さが疲労を表すのか、精神の乱れを表すのかはわからない。  
相手が間合いを詰め寄り、鮮烈な一太刀を浴びせてくる。  
流れるように迫る切っ先を左下方へ外し、反撃の態勢を整える。  
側面を打ってくる瞬間に左足を後方へ引き、柄部物打ちで受ける。  
仕切り直し、とばかりに距離をとった。  
 
互いの隙を狙いながら行う打ち合いは非常に強い精神力を必要とする。  
長く続く攻防に相手の気迫が弱まった一瞬、好機を逃さずに攻勢に出る。  
即座に柄で刀筋を封じられるが、勢いを殺さず無理に打ち込んでいく。  
この一手で決着だろう。防御を考えずに飛び込み、自分にできる限界の速さで突く。  
飛び込み突きと呼ばれるものだ。相手の反撃を受けて判定へと雪崩込む。  
非常に判定が厳しい一手だった。見物人が固唾を呑んで見守る。  
白。その瞬間、藤原雅の勝利が告げられた。  
 
――同日、女子部員の輪にて――  
鷺沢一蹴は心底参りきっていた。  
というのも、なぎなた部女子部員に囲まれたハーレム状態なのである。  
羨ましいと感じる男もいるだろうが、実際問題そんな良いものではないのだから困る。  
初体験は? とか、陵さんとは別れたの? とか、答えにくい質問ばかりをされてしまう。  
さよりんの口車に乗せられて、祝勝パーティーに参加しようと考えたのが間違いだった。  
まさか男が自分一人きりなどとは思いもしなかったのだ。  
 
食べ放題飲み放題との言葉も魅力であったが、参加を決定づけたのは、  
最近少し気になっている少女の優勝祝いだというところが一番の決め手だった。  
冷たく拒絶されてしまうのだが、どこか抜けている彼女を放っておけないのである。  
恋心か? と問われれば、否と答えるだろう。そんな気分にはまだなれない。  
主役である彼女は、輪から外れたところにひっそり佇んでいる。  
こういった場は得意でないのだろう。意気揚々と参加している姿も想像できないが。  
いったん席を外そうかと考えていると、飲み物の追加が運ばれてきてタイミングを逃した。  
どうやらそう簡単には逃げられないらしい。  
 
何とか追求の魔の手を逃れていると、唐突に藤原さんが隣へやってきた。  
「鷺沢? 鷺沢ですね? 見ていましたか? 私が相手に天誅を下した瞬間をっ!」  
明るい。底抜けに明るい。勝利の余韻に浸っているのだろうか、頬が仄かに染まっている。  
「やはり薙刀というものはこう、しなやかな動きでですね」  
身体を密着されてしまい、どうしたらいいかわからない。  
「捻ってこうです!」  
裏拳が顔面を強打する。痛い。かなり痛い。  
「痛っ! ちょっ、痛いって!」  
 
「そのようなことではいけません。殿方は誰しも武道を志すものなのですよ!」  
顔を近づけ力説する。どう考えても行動がおかしい。それにどうも酒臭い。  
「まさか……」  
瞬間的に閃くものがあった。先ほどのジュース。元のビンを調べてみる。  
驚いたことに葡萄ジュースと思われたものは、かなり高い純度のアルコールを含んでいた。  
「……やっぱりこれか」  
なぜ誰も気がつかなかったかが不思議だ。これが俗にいうお約束というものだろうか。  
つまり、藤原さんは完全に酔っ払っていることになる。  
これ以上絡まれてはたまらない。触らぬ神に祟り無しとばかりに席を移動した。  
 
隅の席に腰を落ち着け、ため息を溢す。まったく難儀な一日だ。  
「ん? 鷺沢君?」  
突然話しかけられドキリとする。また詰問だろうかと恐る恐る振り向く。  
見慣れない顔だ。誰かは知らないが、向こうは自分を知っているらしい。  
「どうも」  
挨拶だけは交わす。しかし、気を良くしたのだろうか、彼女は話を続ける。  
「藤原さんから逃げてきよったん? 災難やったな」  
関西弁。珍しいと表情に出ていたのだろう、苦笑される。  
「私のこと知らんみたいやね。木瀬歩、いちおう同級生なんやけど」  
浜崎学園は人数も多く、互いに名前を知らないこともよくある。正直、記憶にない。  
「ごめん、あんまり人の顔覚えるの得意じゃなくって」  
こういった時の常套句。世の中というのは上手くできている。  
 
「気にせんでええよ。それよりなんでこんなけったいなトコ来たん?」  
質問攻めからは逃れられない星の元に生まれたらしい。  
「ああ、ちょっと食べ物に釣られて……」  
怪訝な表情。嘘やろって目をしている。  
「ふ〜ん。なかなかおもろいこと言うんやね。で、質問攻めにあって割に合わへんと?」  
「はは……敵わないなぁ」  
苦笑いで返す。そこそこスムーズなやり取りができることに驚く。関西弁効果だろうか?  
「んー。ほな私の相手してもらおうかな」  
「へ?」  
思わず口を出てしまった。不満そうな答えが返ってくる。  
「つれへんなぁ。まあええわ」  
 
「それで陵さんとは……冗談や、そないに嫌そうな顔せんでもええやん」  
「そのネタは勘弁」  
「ほんなら……ああ、可愛い妹いてへん? 確かウチの学校に」  
どうやら話相手を仰せつかってしまったらしい。貧乏くじは続く。  
「縁のこと?」  
「ああ、やっぱりいるん? 私も妹や弟いるんやけどな、しかも複数」  
縁が4、5人いる光景が浮かんできた。  
「……大人数は大変そうだなあ」  
「全くやね。疲れることも多いんよ。いやー、お姉さんも大変やわ」  
「うん」  
茶化して話しているが、目が笑っていない。悩みでもあるのだろうか。  
 
こちらが真面目に聞こうとしているのに気がついたのか、目を見据えて話始める。  
「変な話なんやけど、時々、兄さんなのか自分なのかわからなくなることとかない?」  
「自分が?」  
そのまま返す。いつか同じような展開があった気がする。デジャヴというやつだろうか。  
デジャヴではっと気がついたのは、彼女の手に握られたグラスだった。  
――案の定、葡萄ジュースがなみなみと注がれていたのは、もはや天命だろう。  
 
「そう。なんていうんかな……弟たちが可愛くないわけやない。それは確か。  
守ってあげんとって気になるし、自分を含めた他の誰よりも大切やけれど、  
一緒にいると不意に、わたしが何処にいるのかわからなくなる。そないなことない?  
姉としての私は妹たちの面倒をきちんと見る良いお姉ちゃん。でも、そこにいるのは私。  
わたしは何処にいると思う? わたしは消えてくのかもしれへんな」  
自分に言い聞かせるような調子へと変わっていった言葉は唐突に終わりを告げた。  
 
返す言葉がなかった。思索に耽っているのだろうと思ったけれど、どうも違うらしい。  
「木瀬さん?」  
小さな寝息。どうやら寝入ってしまったようだ。酒が入ると眠るタイプなのだろうか。  
揺すっても目を覚ます気配さえない。これは他の人に家まで送ってもらうべきだろう。  
ふと周りを見渡してみると、皆すでに帰宅してしまっていたらしく、誰ひとりいない。  
シリアスな空気を感じとったのか、誤解されてしまったのかはわからないが、  
木瀬さんと二人きりにされてしまったらしい。憂鬱だ、つらい。  
後者の線が色濃いのがやるせなさに拍車をかける。  
 
冷静に考えるまでもなく、一蹴はなぎなた部員の連絡先を誰一人知らない。  
健全な男子学生としてはむしろ当然だが、この場合それは悪いほうにしか働かない。  
さらに状況は悪いことに、なぜか木瀬さんは携帯を持っていなかった。  
これでは彼女の家はもちろんのこと、他の女子部員たちのアドレスさえわからない。  
万策尽きた。――さて、どうしたものか。  
 
歩はビジネスホテルの一室、それもベッドの上で寝息をたてている。  
誤解をされて仕方のない状況だが、一蹴の苦肉の策であって邪な気持ちからではない。  
家に歩を連れ帰るなどしようものなら、縁が機嫌を損ねることは想像に難くない。  
これはこれで内密にすべき状況ではあるのだが仕方ない。他に思いつかなかったのだ。  
何はともあれ、彼女の目が覚めるのを待つのが一番だろう。  
 
ベッドに横たえて様子を見ていると、多少の反応を見せた。  
「う……んっ」  
右から左へ身体を反転させる。衣服が乱れて肌があらわになってしまう。  
無防備にも限度というものがあるだろうと思う。  
目を逸らそうとしても言うことを聞かないほどに、彼女の肢体は女らしく扇情的だ。  
これ以上は精神衛生上よろしくないので、聴きたくもない音楽を聴いて気をそらす。  
感情とは裏腹に、心音は掻き消せないほど大きくなっていた。  
 
二時間ほど経っただろうか。ようやく彼女が目を覚ました。  
「目、覚めた? 家まで送っていくよ」  
そう言っても反応がない。まだ酔いが抜けていないのだろう。  
寝起きのぽーっとした顔を切なげに歪め、消え入りそうなか細い声で。  
「……ぎゅってしてくれへん?」  
 

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