「あ〜あ……バイトって損ねー、こんな時間までコキ使われて…。」  
 
誰にぼやくでもなく、彼女は愚痴をこぼした。  
 
周りを見渡すと、皆髪の毛を七三に分けた白衣の連中ばかり。  
キララの言葉など聞こえないかのように、ただ作業に没頭していた。  
 
返す言葉ひとつ言えないなんて、気の利かない奴らだ、と彼女は心の中で毒づく。  
 
「まったく、バイトはいいよなあ…」  
どこからか、そう愚痴る声が聞こえた。  
 
 
筆記用具やメガネなど、机の上に煩雑に置かれた小物を手際よくバッグにしまい込み、  
彼女は愛想笑いを浮かべながら、それではお先に、と軽やかな足取りで仕事場を出て行く。  
 
ドアを開けて外に出ようという時、ようやく「お疲れ様」と、定型句のような労いの言葉が返ってきた。  
特に返事をする気にもなれなかったので、彼女は歩を止めることもなく、く会釈をして部屋を出た。  
 
 
*  
 
 
エントランスを通り、社屋の外に出たところで、彼女は腕時計を見やる。  
 
「…いっけない!もうこんな時間!」  
彼女は用意していたコートを羽織り、バッグを大事そうに抱えると、  
自分の住むマンションへと一目散に駆けていった。  
 
そう、ひいては、ヒカルの所へと。  
 
 
「たっだいまー! ごめーん、ヒカル!」  
 
元気な声を響かせて、キララは特に遠慮する風もなくヒカルの部屋へ上がっていく。  
靴を玄関先に適当に脱ぎ散らかして足早に上がるその様子は、まるで自分の部屋のような振る舞い。  
 
「あれ、今日も来てくれたの?」  
 
そう言って上下スウェットスーツのパジャマ姿で出迎えたのはヒカル。  
キララのことを特に咎めることもないその様子から、もはや慣れっこであることが伺える。  
 
「ちょっとー、まだ動き回っちゃダメって言われてるでしょー? ほら、戻った戻ったー。」  
キララはまるで母親のようにヒカルをたしなめ、背中を押してベッドへ向かわせる。  
 
「もう平気だって……自由に歩けるんだよ?」  
「だからって調子に乗って歩き回らないのー。」  
キララは、肩をぐいぐい回したりして、  
身体の健全ぶりを示すヒカルのおでこをつんと指で突く。  
 
「いやほら、それにいつまでもキララに来てもらうのも悪いしさあ。」  
「あら、私に来てもらうのがそんなにイヤ?」  
顔をぐいっと近づけて詰め寄る。  
 
「い、いや、そういうわけじゃなくて…」  
「気にしないで。私としては電気代が節約できて嬉しい限りだから。」  
「うぇっ!?」  
満面の笑みでとんでもない事を言われ、ヒカルは狼狽した。  
「じょーだんよ。ほらほら、ジャマだからとっとと戻って!」  
「…ありがとう。じゃ、お言葉に甘えて。」  
そう言って、ヒカルは寝室へ消えていった。  
 
「…さて。今日も作ってやリますか。」  
誰に言うでもなく彼女はそう呟き、アルバイトの制服であるベストを脱ぎ、  
開襟ワイシャツの袖を捲り上げ、冷蔵庫の中を物色し始めた。  
 
「ん〜…っと…、あ! これ昨日は無かったのに…あいつ、買い物に出たな〜…?あとで問いただそーっと…」  
 
無駄なく、そしてすばやく目的の材料を選別してゆくその視線の動きは、  
仮にも部屋の主であるヒカルよりも、きっと俊敏なものに違いなかった。  
 
手際よく包丁とまな板をセットし、ワイシャツの上から椅子にかけてあったエプロンを羽織る。  
その姿は、ともすれば、まるで新婚の新妻のようだった。  
 
「えーっと、昨日は野菜炒めとしょうが焼きだったからー…」  
 
先日の献立を思い出す意味で復唱し、彼女はしばし黙考した後、  
今日の料理を決めたのか材料の下拵えに入っていった。  
 
皮むき器のひとつも使わずに、包丁だけでどんどんと調理を進めてゆく様から、  
彼女が少なくとも同年代のそれよりは格段に料理に精通していることが伺える。  
 
時計の長針が一周も回らないうちに、既に料理は形になっていた。  
 
肉じゃがに白身魚の焼き身、そして漬物という極めてシンプルなメニュー。  
しかしそこに至るまでのプロセスには眼を見張るものがあり、  
その味もまた十二分に期待できるものであることは間違いなかった。  
 
「ヒカルー、できたよー。」  
 
エプロンを外しながら、キララは寝室のヒカルを呼ぶ。  
 
「……ヒカルー?」  
 
だが返事が返って来ず、また寝入ってしまったのかとキララは寝室を覗きにいく。  
ゆっくり襖を開け、中を忍ぶように覗き込む。  
 
「…あ。」  
 
ヒカルは、ベッドにだらしない格好で横になり、布団もろくにかけずに眠っていた。  
キララはその様子をみて、思わず苦笑してしまった。  
 
「…ご飯は起きてから食べさせればいっか。」  
 
キララはそっと襖を閉めて、寝室を後にした。  
 
 

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