メダロット本社、66階のある研究室。  
 
機械油のにおいが立ち込めるその部屋の一角に、彼はいた。  
 
薄暗い部屋の中で、ひたすら机の上のコンピュータに向かい、何かを打ち込んでいる。目の前のモニターに映し出されるのは、まるで見たこともないような英単語が並ぶ表と、小数点以下の数が両手では数え切れないほどに並ぶ数列の数々。  
 
彼は手元に置かれた、研究資料のような分厚い書類の束を見やりながら、ただ打ち込む作業を繰り返していた。  
 
部屋の中にはモニター以外に一切の採光はなく、彼が触っているコンピュータ以外は、何があるのかさえまるで分からない。そんな暗闇の中で、ひたすらにキーボードを叩き続ける彼の様子は、少し狂気じみているようにも見受けられた。  
 
「ヒカルくん!終わったかのー?」  
 
陽気な声と共に、その部屋のドアが勢いよく開かれる。  
 
部屋の光で、その人物の影が長く落ちる。しかし逆光のせいで、その顔を伺うことは出来ない。  
 
声の主は初めその暗さに戸惑ったが、すぐに入り口脇の蛍光灯のスイッチを見つけ、それを適当にバチバチと点けていく。  
 
天井に設置された蛍光灯が、パチパチとまばらに点いていく。  
 
「……博士。これ、まだやるんですか…」  
 
部屋の中がようやく明るくなって、開口一番に彼はそういった。  
その目には生気が宿っておらず、目の下はクマで青ざめていた。  
 
「バッカモン!このくらいで音を上げてどうする!男だったら根性じゃあ!!」  
 
拳をぎゅっと握り締めて、その老紳士はそう力説した。  
 
白衣にサングラスという風体がただでさえ浮世離れした雰囲気をかもし出していて、更に見た目の年齢と釣り合わぬ覇気が、いっそうその雰囲気を強める。…この手の技術職にありがちな、典型的な研究員という感じだ。  
 
「今日で3日連続カンヅメですよ…博士〜、勘弁してくださいよ〜…」  
 
対して、パソコンに向かう男は、いかにも優柔不断という感じの顔立ちの、青年。その顔立ちは優男と表現しても申し分ない整い具合だが、むしろそう呼ぶには疲労感が漂いすぎている。  
 
「まあったく。最近の若いモンは気合がないのお。」  
「って、博士の時代と一緒にしないで下さいよ!」  
「なぁにをいっちょるか。…いいか、男とはすべからく“魂”じゃあ!」  
「……はぁ…」  
 
どこか、腐れ縁のような雰囲気をにおわせる彼らの会話は、聞くものがあったならきっと、思わず笑い出してしまうに違いない。  
 
「…とは言っても、さすがにその様子じゃあのお…まったく、情けない。」  
「…もう何でもいいですから、とにかく外の空気を吸わせてくださいよ……」  
 
そう言い残して、その青年はふらふらとその部屋を出て行った。  
 
バタン、と閉められたドアを前に、いかにも博士という風体のその老紳士はやれやれとため息をつき、はなはだ呆れた様子だった。  
 
「…まったく、あれで日本メダロッターランキング第1位じゃと言うんじゃから……人は見かけによらんのお。」  
 
 
 
 
メダロット社の広大な敷地の中に設けられた社内カフェ。純喫茶という雰囲気の店内の一角にある、向かう一面がガラス張りになったカウンター席に、女性がひとり、座っていた。  
 
カウンターに置かれた書類を手に取ってその端を揃えると、かけていた眼鏡を外して、コーヒーを飲む。  
 
「(……ふう。…これでOKね。)」  
 
彼女がかちゃりとコーヒーカップを置くと、チリンチリンと入り口のドアが開く音がした。  
 
今は勤務時間。一般の人はパスがなければ入れないところだけど、それでも時折抜け出してコーヒーの一杯、タバコの一本でも吸いに来る人はいる。  
だから、この昼下がりの時間帯に、カフェに人が入ってくるのは別に珍しいことじゃない。  
 
彼女はそちらを向くそぶりもなく、デスクワーク漬けだった書類の下に置かれた雑誌を手に取る。  
 
「あら、キララさん!」  
 
自分の名前を呼ばれて、彼女は反射的にその方向を振り返る。  
そこには、開襟シャツの上に白衣を羽織った女性。  
 
「……あー!ナエちゃん!」  
立ち上がり、手を振るキララ。ナエもそれに答え、ささやかに手を振る。  
「久しぶりですね。今日もアルバイトですか?」  
「そうそう。夏休みだからねー、ほとんど毎日よ。」  
「あはは。ヒカルさんも一緒に?」  
「んー、まあね。ま、たぶん博士にこき使われてるんだろうけど。」  
ナエはくすくすと笑った。  
「おじいさん、あれでかなりヒカルさんのこと気に入ってるんですよ。」  
「あはは。そうかもね。」  
 
小一時間ほどだろうか、二人はしばらくの間立ち話にふけり、積もる話を消化していった。  
 
「…何か飲まない?私がおごるよ?」  
「あ、ごちそうになります。」  
頷いたナエに、キララは自分の隣の席を進め、カウンターに置いてあった雑誌をどけようと  
キララがその雑誌を手にとった時に、ナエがその雑誌の表紙を見て言った。  
 
「あれ? その雑誌、週間メダロットですか?」  
ナエは不思議そうな表情をした。  
 
「うん。あはは、ほら、メダロット社のアルバイトっていっても幅広いでしょ?子供とかにも対応できるようにしておかないとさ。」  
「あいかわらず、キララさんは真面目ですね。」  
ナエは関心したような笑顔を浮かべ、キララは少し照れたように笑った。  
 
「あ、そういえば」  
ナエが両手をぽんと叩いた。  
 
「今日、イッキくんとアリカちゃんが本社に見学に来るそうですよ」  
「へー! あの二人が来るんだあ!」  
キララは本当に楽しみに感じているのか、満面の笑みだった。  
ナエは相変わらず落ち着いた表情だったが、それでもやはり楽しみであるらしく、とても明るい表情だった。  
 
 
 
 
「…しかしながら、メダロットの市場は相変わらず本社の独占だね。」  
 
革張りの高級そうなソファーに深く座り込んだ青年は、  
机に据付けられたのディスプレイを眺めて、そう呟いた。  
 
そこには円グラフや某グラフ、株のチャートのようなものなど、  
一見しただけでもそれなりの量の情報がまとめられているらしかった。  
 
「……一寸先は闇ですよ、ユウキちゃん。」  
 
ソファーの横に置かれた丸椅子に座った、どこかおっとりとした雰囲気の女性が、たしなめるような口調で言った。  
 
「はっはっは。ハニー……パティはやっぱり賢明だね。」  
 
ユウキと呼ばれたその青年は、決して安物でない光沢を放つ机の上に置かれた、派手な装飾の施されたカップの取っ手を持ち、まだ湯気の立ち上るコーヒーを優雅な仕草で飲んだ。  
 
黒いスラックスに赤いワイシャツという出で立ちからか、全体的にどこか気障な雰囲気のその青年。しかしその表情は凛々しく、目鼻立ちはかなり整っている。  
 
「…パティ、そういえば。例のレトルトくんは元気にやってるのかな。」  
「……博士にいじめられていないか心配だわ。」  
「はっはっは。それについては僕も同感だ。」  
 
そう言いながら、ユウキはまた一口、コーヒーを飲んだ。  
 
そして丁度その頃合で、机の上に置かれた古風な電話のベルが鳴り響いた。  
 
「もしもし?」  
「ニモウサク副社長。天領イッキ様と甘酒アリカ様が中央ロビーにお見えです。」  
「あぁ、来たのかい。わかった。すぐ行くから、そこで待たせておいてくれたまえ。」  
「かしこまりました」  
電話の相手は恭しい返事を返し、ユウキは受話器を置いた。  
 
「お客さん?」  
「とびっきりのゲストさ。今日は楽しい一日になりそうだ。」  
 
そう言い残すと、ユウキは軽やかな足取りでその部屋を後にした。  
 
 
メダロット本社、正面ロビー。  
 
全面ガラス張りの構造、優美な雰囲気を醸し出すオブジェ、  
そしていかにも高級そうな誂えのソファーなどは、世界を股にかける大企業の羽振りを表しているかのようだ。  
 
「…ちょっとイッキ。あんまりキョロキョロしないでよ?」  
たしなめるような口調で、アリカが言った。  
 
「そんなこと言われても、あぁ!凄いよアリカ、あれ見て見てー!」  
イッキは、アリカの的確な忠言などまるで無視するかの如く、あちらこちらを指差しては大げさに騒ぐ。  
そんな様子を見て、アリカは呆れたように深く溜息をついた。  
 
「……もう。勝手にやってなさい、バカ。」  
 
アリカは呆れ顔のまま、頬杖をつく。  
そして意味もなく辺りを見回した時に、見知った顔の男を視界に見つけた。  
 
「…あ。」  
アリカは思わず、そう声を出す。  
 
男もイッキたちの姿を見つけたらしく、小走りでそちらに駆けていった。  
 
「イッキ!ちょっと!」  
アリカは、いまだ興奮冷めやらぬ様子で騒ぐイッキの耳を引っ張り、少々乱暴に自分の方に向かせる。  
 
「いたた、いたいってアリカ!」  
「ほら、イッキ!」  
 
アリカに促されてイッキが見上げた先に立っていたのは、  
メダロット社副社長、ニモウサクユウキその人だった。  
 
 
「やあ、イッキくんにアリカちゃん。相変わらずだね。」  
そう言って、彼は前髪を手でサっと流した。  
 
「ユ、ユウキさん!?」  
あまりに唐突なその登場に、イッキは驚いた様子で声を上げた。  
アリカも、イッキほど極端ではないにしろ、十分に驚いている様だった。  
 
「まさか、わざわざユウキさんが迎えに来てくれるなんて…。」  
アリカはすっと立ち上がって、ユウキと目線を合わせた。  
 
「元々君たちとは、多少なり縁があったからね。このくらいは当然さ。」  
そう言って、ユウキは涼やかに微笑んでみせた。  
 
「なんだか、わざわざすみません」  
アリカは大人っぽく、丁寧な口調で礼を言った。  
ユウキはそれに、ニコっと笑って応える。  
 
「…ってあんたはいつまで座ってんのよ!」  
アリカはイッキの耳を引っ張って、無理矢理立ち上がらせる。  
 
「いたた、いた、いたいって!アリカ!」  
「あんたねー、もうちょっと礼儀ってものを覚えなさいよねー!」  
「ア、アリカだってそーゆーとこあるじゃんか!」  
「なによー、言ってみなさいよー。ほらほら、どうしたのー?」  
「う、うう…」  
 
いつもの調子で始まった二人の会話を前に、ユウキは自然と微笑を浮かべていた。  
 
 
(…僕が子供の頃、ちょうどヒカルくんとキララくんがこんな感じだったなあ……。)  
 
 
「だいたいあんたは昔っからねー!」  
「ううう…」  
イッキはすっかりアリカに言いくるめられ、完全に押されていた。  
 
(…これは将来、尻に敷かれるタイプだなあ)  
 
そんなことを考えると、ユウキの顔からまた笑みがこぼれた。  
 
「まあまあ。これだけ広いんだ、多少はしゃいでてもしょうがないさ。」  
ユウキが、いかにもな大人の意見で場をなだめにかかる。  
 
「イッキの場合はそれが多少じゃないから問題なんです。」  
アリカは眉をしかめた。  
「う、うるさいなあ…アリカだって昔はさあ。」  
イッキも一応反論はするが、それはもはや効果などない、形式的なものだった。  
 
(言われれば言い返す。言い返されればまた言い返す。  
…とるにたらないケンカだけど、見ていて飽きない。  
……だからこの二人は面白い。)  
 
 
「あっはっは。…君たちの将来が楽しみだよ。」  
 
 
この二人はきっと将来、お互いがかけがえのないパートナーとなる。  
そしてきっと、今よりももっと愉快なやり取りを見せてくれるに違いない。  
 
 
そんな思いを胸に、ユウキは、本当素直にそう言った。  
 
 
「「……はい?」」  
 
二人は、ユウキの言葉の真意をはかりかねたのか、  
ぽかんとした表情で顔を見合わせた。  
 
 
「ま、それはさておき。」  
ユウキはそこで言葉を区切り、腕時計を見た。  
 
「見学の前に、昼食でも食べるかい?そろそろそんな頃合だよ。」  
「どうする、イッキ?」  
「うーん……確かに、おなかは空いたかも。」  
イッキが腹部をさするような仕草をする。  
「それじゃあ、先にレストラン街にいこう。」  
「…メダロット社にレストラン街があるんですか?」  
「なあーんだ、知らないのー?イッキー。」  
アリカが茶化すような笑みを浮かべる。  
「…し、しらない。」  
「まあ、無理もないさ。…ここは確かにメダロット社の本社だけど、君たちみたいに見学に来る人も多くてね。」  
「やっぱり、たくさんいるんだなあ…」  
「それで、そんな人たちを社員食堂になんか案内したら、社員たちも困るだろう? 今日なんかは殆ど人数がいないけど、週末ともなると結構な数になるからね。」  
「それで、レストラン街を作ったってわけ。わかったー?」  
小馬鹿にするように、アリカはイッキの額をつっつく。  
「む、むう……なるほど。」  
「まあ、そんな堅苦しい話はさておいて。早速、行こうじゃないか。」  
「「は〜い!!」」  
 
イッキとアリカは、仲良く手を上げて、元気に返事をした。  
 
 
(…君たちは、本当に面白いよ。)  
 
 
ユウキは、心のなかでそう呟き、微笑んだ。  
 
 
廊下を歩いているだけで、二人には彼がどれほど凄い人物かということが理解できた。  
 
新入社員らしいかなり若い社員たちは畏敬たっぷりのまなざしを彼に向け、  
どう考えてもユウキよりも一回りは年上であろう壮年の社員たちは、すれ違うたびに笑顔で深々とお辞儀をする。  
 
年功序列という、二人の頭の片隅にある常識で考えるならば、それは全く持って度し難いものだった。  
 
「……ユウキさんって、本当に凄いのね。」  
アリカが、イッキだけに聞こえるような小声でそう囁く。  
 
「…本っ当だよね。副社長、っていうから、まあ、当たり前なんだけどさ……」  
イッキは感嘆の溜息まじりに言った。  
「……なんだか、とんでもない人にとんでもないことさせてるみたいね…」  
アリカは珍しく狼狽した様子だった。  
 
そこそこに身近な人物の、余りある威光。  
それをこうまで見せ付けられてしまっては、それは無理のないことだった。  
 
「…二人とも?どうしたんだい。」  
 
そんな二人の心中を知ってか知らずか、ユウキがふっと後ろを振り向いて歩みを止めた。  
 
「あぁ、いやあ………ユウキさんって、すごいなあ、なんて…」  
 
イッキにそう言われたのが意外だったのか、ユウキは目を丸くした。  
 
「…そうかな。…僕は、僕よりももっと凄い人を知っているよ?」  
 
「え?」  
ユウキはそこで、意味深げな笑顔を浮かべた。  
 
「君たちのよく知る人、さ。」  
それだけを言うと、ユウキは再びすたすたと歩き出した。  
 
二人は暫くの間、ぽかんとしたまま、その後姿を眺めていた。  
 
「ほら、早く行こう。あんまり遅くなると、せっかくのランチメニューが終ってしまうよ?」  
 
ユウキに促され、二人は心の中のささいな引っ掛かりをそのままに、駆けていった。  
 
 
「…ごちそうさまでした。」  
 
しとやかさを感じさせる仕草で、ナエはフォークを皿の上に置いた。  
 
「どういたしまして。」  
「なんだかごめんなさい、飲み物だけじゃなくお昼ご飯まで…」  
「いーのいーの!昔っからの付き合いじゃない!」  
言いかけたナエを遮るように、キララは元気な口調で言った。  
 
「それにしても」  
キララは、ちょうどコンパスを刺すときのようにスプーンを皿に立てながら続けた。  
「相変わらずキレイよねー。ナエちゃん。」  
「そ、そうですか?」  
ナエは少し視線を下げて、やや俯き加減になる。  
もともとの長い黒髪とあいまって、その仕草はいっそうしとやかさを感じさせるものだった。  
 
「なんてゆーか。ヒカルの惚れそうなタイプみたいな感じ。…なぁんて。」  
キララはからかうような笑顔を浮かべながら言った。  
だが、ナエはその言葉を聞いた瞬間に視線をあげ、じっとキララの目を見つめた。  
「それを言うなら、キララさんじゃないですか?」  
いきなりそう返されて、キララは一瞬狼狽したような表情を見せた。  
 
それはその言葉についても無論だったが、それ以上にナエの表情だった。それは怒っているものとは少し違う。  
咎めるでもなければ、叱るわけでもない。  
でも、そこに余分な緩みはなく、ただ真剣に何かを伝えようとするような、そういう表情に。  
 
「え? 私が? ヒカルの? …あはは、それはないよー。」  
キララは、どこか他人事のような口調で空々しく言った。  
 
「そうでしょうか。…私も、割と昔からヒカルさんのことは知ってますけど。案外、ぞっこんだったりするかも知れませんよ?」  
「!! ぞ、ぞっこんって! べべ、別に私とヒカルはただの幼馴染で、えっとその、別にそういうような仲じゃ…!」  
慌てふためいた様子で、キララが懸命にフォローを入れようとする。  
だがナエは、そんなキララの心中などまるでお構い無しに話を続けた。  
 
「…キララさん。私、その内に伝えなくちゃいけない、って思ってたんです。」  
ナエはこれまで以上に真剣味のある表情を浮かべ、動揺の色を隠せないキララをじっと見据えた。  
 
「確かに、キララさんとヒカルさんはただの幼馴染かも知れません。」  
「……」  
キララは、軽く唇を食んで、ナエの話を聞いた。  
 
「…私も女性ですから。正直なところ、ヒカルさんに異性としての魅力を感じたことはあります。」  
「…。」  
「本気で告白をしようと考えたこともあります。…でも。私は、打ち明けませんでした。」  
そう言って、ナエは少し視線を落とした。  
 
「…どうして?」  
当たり前だが、最大の疑問がキララの口をついて出た。  
 
「あなたが、いたからですよ。」  
突然強められた語調に、ナエから視線を外していたキララははっとしてその顔を見た。  
 
キララは、自分の存在を理由に告白を諦めたのだというナエの言葉に、  
少なからず異性としての対抗心に似たようなものがあるのだと思っていた。  
 
だが、ナエは優しく、包容力を感じさせる笑顔を浮かべていた。  
 
「…こんなことを言うと、ロマンチシズムに浸るみたいですけど。」  
そう前置きして、ナエはすっと目を閉じた。  
 
「…ヒカルさんの中には、いつもあなたがいるんです。」  
「………わたし、が……?」  
「…はい。」  
ナエは膝の上に手を合わせ、続けた。  
 
「ヒカルさんと話している時に、キララさんのお話が出なかったことはありませんよ。」  
「…私の?」  
キララは少し驚き、目を瞬かせた。  
 
「……ええ。」  
ナエはゆっくりと頷いた。  
 
「あんなに素敵な笑顔であなたのことを話されたら……なんだか、妬ましいだなんてことも思えませんでした。」  
「……。」  
キララの表情が曇る。  
 
「…ごめんなさい。言葉を選びませんでした。……でも、本当に幸せそうな笑顔なんです。」  
「……そう、なんだ…。」  
「私は、…。…いえ。」  
ナエは何かを言いかけたが、そこで言葉を区切り、言い直す。  
 
「…キララさん。私は、あなたのことを、本当にいいお友達だと思ってます。」  
「………ありがとう。」  
「でも、…だからこそ。キララさんには、もっとしっかりして欲しいんです。」  
「…」  
俯き気味なキララと対照的に、背筋をぴんと伸ばしたままナエは言った。  
 
「私は、本当にヒカルさんの幸せを望みたいから。……だから、キララさんには、もっとしっかりして…欲しいんです。」  
ナエは寂しげな笑いを浮かべながら、そう言った。  
 
「……ごめんね。」  
ぽつりと、呟くようにキララは言った。  
 
「…わたし……、……、……でも、こわくて……っ……、…………、だから……っ、…」  
キララは肩を震わせて、両の目尻に涙をたたえていた。  
 
「……キララさん、……。」  
「っ……、……。」  
 
キララはしばらくの間、静かに咽びいていた。  
 
それは、ナエに対する悔恨と感謝の涙なのか。  
あるいは、自分自身に対する、不甲斐なさを嘆く涙なのか。  
 
「……ナエちゃん、…ありがとう。」  
 
しばらくそうした後に、キララは少し赤くなった目でそう言った。  
 
「………ごめんなさい、なんだか本当に…………、本当に、ごめんなさい。」  
「…謝らなきゃいけないのは私のほう。……私、結構ズルいよね。」  
そう言って、キララは少し自嘲気味に笑った。  
だが、その表情に曇りはなかった。  
 
「…ありがとう。それと、ごめん、ナエちゃん。……」  
「そんな……とんでもない、です…」  
 
そう礼を交し合い、二人は暫くの間じっと見詰めあった。  
 
その途中、ナエの携帯電話だろうか、聞きなれた流行歌のメロディーが流れた。  
 
「あ、すみません…………もしもし、私です。……はい、わかりました。すぐにそちらへ行きます。…はい、それでは失礼します。」  
ナエはパタンと携帯電話を閉じて、キララの方へ向き直った。  
 
「ごめんなさい、ちょっと商談の席に呼ばれちゃって…」  
「ううん、いいのいいの。私のことは気にしないで!」  
キララはまた気丈さを感じさせるいつもの表情に戻って、そう言った。  
 
「……ありがとう。……今度は、私が何かおごりますね。」  
「…うん。…楽しみにしてるね。」  
 
そう言って、二人して屈託のない笑顔を交わした。  
 
「じゃあ、また今度だね。」  
「今日の夜にでも、私のほうから電話します。いいお店、知ってますから。……じゃあ、さようなら!」  
そう言い残して、ナエはぱたぱたと慌しく店の外へと駆けていった。  
 
 
 
(……おじいさん、あれで良かったのかな………だいぶひどいことしちゃったような気が…)  
 
 
 
時刻は午後一時。  
食堂のランチタイムが終る頃だった。  
 

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