「ちょっと、ここも忘れてるわけー?」  
「えぇっと……そんなのやったっけ?」  
「……はぁ、もういいわ。次。」  
 
西日が差し込む部屋の中で、二人は卓を挟んで向かい合いながら座っていた。  
元々が大して広くもない室内は、テーブルを出してさらに人が二人ともなると、割と手狭に感じられる空間だった。  
 
「…ねえ、アリカ。」  
ぽつりと、呟くようにイッキが呼んだ。  
「なに?またわかんないところがあったわけ?」  
アリカは少し不機嫌そうに眉をしかめる。  
「違うよ! ていうかさ、新聞書くんじゃなかったの?」  
「さっき書いたじゃない」  
アリカは事も無げに、告げるような口調で言った。  
「…見出しだけじゃんか」  
にわかに怒気を含んだような物言い。  
「…アンタが新聞書かないなんて聞くなんて、珍しいわねー?」  
アリカが意地悪そうな笑みを浮かべながら、まるで問い詰めるようにそう訊いた。  
イッキは急に顔色を悪くして、目を泳がせる。  
「そそ、そんなことないって………うん」  
「…サボろうとしても、ムダだからね。」  
目を三角にして、アリカはそうイッキをたしなめた。  
「い、いや、サボろうだなんて…」  
「ホラ、ごちゃごちゃ言ってないでさっさと次の問題やる!」  
イッキは渋面を浮かべつつも、大人しく問題集に向かった。  
 
暫くして、イッキは困ったようなびくつく様な、そういう表情でアリカを見た。  
その視線に気付き、アリカもふっと顔を上げる。  
 
「……また、わかんないの?」  
「…ごめん。」  
アリカは、深々と溜息をついた。  
 
「いーい? ここは、この公式を使うのよ。」  
教科書を逆向きにしてイッキに示し、ペンで問題を指しながら言った。  
イッキはそれを覗き込むように見て、納得したような装いの面持ちを浮かべたが、  
理解しているかどうかは甚だ怪しいものだった。  
「…あぁ〜、なるほどー…。」  
「……アンタ、人の言ってることちゃんと理解してる?」  
アリカは眉をしかめ、かねてから疑問だったことを訊いた。  
 
イッキは昔から、理解はしていないがとりあえず曖昧に返事を返すクセがある。  
そのせいで苦労したことも、少なくない。  
 
「えーっと……つまり、これをここに入れればいいんだよね?」  
「………的外れもいいとこね。全っ然理解してないじゃない!」  
アリカは少し声を荒げて叱る。  
「ご、ごめん……」  
思いのほか神妙なイッキの態度に、少し言い過ぎたかとアリカはふっと表情を緩ませる。  
「…まったく。しょーがない、こーなったら理解するまで徹底的に説明してあげるわ!」  
そうアリカが意気込むように言ったところで、コンとドアがノックされる音が響いた。  
 
「イッキ、入るわよ?」  
そう言ってドアの向こうから現れたのは、イッキの母親、チドリだった。  
見ればその手には盆を持っていて、そこにはガラスコップに注がれたジュースやスナック菓子類がある。  
それを見て嬉しそうにはしゃぐイッキを、アリカが呆れたように横目で見た。  
 
「アリカちゃん、ごめんなさいね。うちのイッキのお勉強なんて見てもらっちゃって」  
いつもの如く、眠くなるような優しい口調。  
「いえ、私も復習になりますから!」  
アリカがそう言うと、チドリは薄く微笑んだ。  
「イッキ? ちゃんとアリカちゃんにお勉強教えてもらわないと、ダメよ?」  
口調は優しかったが、そこには相手に有無を言わせぬ迫力にも似たものがあった。  
イッキも、無意識のうちにそれを察しているのか、少し肩をすくめている。  
「……わ、わかってるって。」  
イッキの返事を訊いて、チドリは満足そうな笑顔を浮かべた。  
 
「そうそう。これ、ちょっとしかないけど、息抜きに食べてね」  
チドリは手に持っていたそれを卓に置き、二人に奨めた。  
 
「ありがとうございます!」  
アリカがはきはきとした口調で礼を言うと、チドリは嬉しそうに笑い、  
頑張ってね、と励ましの言葉を残して部屋を後にした。  
 
「…相変わらずキレイねえ、イッキのお母さん。」  
部屋を出て行くチドリの後姿を見て、アリカは感嘆のため息を混じえながら言った。  
「えぇー…?そうかなぁ。」  
イッキはそれに応じつつも、懐疑的な返事を返した。  
アリカはその反応が少し不服なものらしく、眉を吊り上げ気味にする。  
「イッキはそうは思わないの?」  
「いや、思わないってわけじゃないんだけどさ…てゆうか、考えたことないし。」  
「………それもそうね。」  
納得したような面持ちで視線を卓に移し、先程チドリが運んできたばかりの菓子をひとつ取ってそれを口に含ん  
 
だ。  
「やっぱ、キレイなほうになるのかなぁ」  
「キレイなほうなんてレベルじゃないわよ。私の調査によると、ギンジョウ町内では屈指の美人人妻よ!」  
びっとイッキの眉間のあたりを指差し、アリカは得意げに言った。  
「へ、へぇー……そうなんだー…」  
「……何かあんまり嬉しくなさそうね?」  
アリカは不満そうに眉をしかめる。  
「え? …うーん……、だってさ、自分の母親だし、さ。キレイとかキレイじゃないとか…なんか、よく分かんないんだよね。」  
予想していた以上に淡白なイッキのその返答に、アリカは詰まらなさそうにため息を漏らした。  
「…なにそれー。つまんないのー。」  
「そんなこと言われても…」  
イッキは困ったように表情を歪め、頬を掻いた。  
「っていうか、イッキって、誰それがかわいいとかきれいとか、そういう話題にはいまいち反応が薄いわよねー。」  
「え? そ、そう?」  
「そうよ。…あ、やっぱりカリンちゃん以外には興味がないとか?」  
アリカが、にやりといやらしく笑いながら、上目遣いでイッキに訊いた。  
「そ、そんなことじゃないって!」  
「…ふーん?違うの?」  
顔は笑みを浮かべながらも、アリカはどこか複雑そうな面持ちだった。  
 
「違うよ! …それはさ、カリンちゃんは可愛いと思うし、確かに、その…一時、いいかなあ、とか思ったけどさ」  
「思ったけど…、何よ?」  
「その…よく考えたらさ、カリンちゃんのことは全然知らないし。それに、なんかさ、やっぱりコウジと…お似合い、っていうか。」  
イッキは、視線をあちらこちらに逸らしながら、躊躇いがちに続けた。  
「なんか…うまく言えないけど、今は…好きとか、そんなんじゃないよ。」  
「………ふーん、……そうなんだ」  
「それに、…………って、な、何言わせるのさ!」  
「なによー!アンタが勝手に喋ったんでしょー?! てゆーか、“それに”なんなのよー?」  
「いや、その、だからっ、っと…………あ、そ、そんなことより勉強!勉強しないとね!」  
イッキはわざとらしく問題集に向かい、ぶつぶつと呟きながら鉛筆を動かし始めた。  
 
 
(………なによ。言いたいことがあるなら、ハッキリ最後まで言いなさいよ。)  
 
 
アリカは、不満げな表情をそのままに、少し乱暴にその場から立ち上がった。  
「…ど、どうしたの?」  
イッキはおそるおそるといった口調で尋ねる。  
「……トイレ。」  
不機嫌さを何ら隠さない口調だった。  
 
イッキは、アリカが少なからず腹を立てていることを確信した。  
日頃から、イッキはアリカには常に頭が上がらない。  
でも、それは普段からの関係とアリカ生来の勝気な性格によるもので、  
それ自身が別段アリカとの間柄の良し悪しに関係しているものではない。  
 
だけど、長年一緒にいれば、何度かはお互いに気まずい空気になる時はある。  
そういう時は、いつもは捲くし立てるアリカが決まって無口になるのだ。  
 
イッキは何か言い繕おうと必死に言葉を探したが、何も言えぬまま  
アリカはズカズカと歩いてドアも閉めずに部屋を出てしまった。  
 
 
(…まずい。どうしよう………)  
 
 
長年の付き合いの中でも、ニ、三度あったかないかの、  
彼にとってみれば世紀末的な事態が、今目の前に生じている。  
 
心当たりは、あった。  
ただ、今回の場合はそうおいそれと出来るような事ではなかった。  
 
言いかけた言葉の先を続けるには、今の彼にはあまりにも勇気が足りなかったから。  
 
 
 
 
階段を降りながら、アリカは今更ながらに後悔していた。  
 
 
 
階下。  
トイレに行くと言ってイッキの部屋を出てきたアリカだったが、それは本当の理由ではなかった。  
 
単純に、相も変わらず煮え切らない優柔不断なイッキ自身の態度に、  
久々に本格的な鬱陶しさを感じ、同じ空間にいることを嫌った彼女が、口実として言ったことだった。  
 
だが、イッキの母親によろしくといわれている手前、  
勢いに任せて家を出ることも、彼女の良心が薄ら痛む。  
 
彼女は必然的に、普段イッキの母親が居るリビングへと足を運んでいた。  
 
「…あら? アリカちゃん。」  
なにか浮かない表情で現れたアリカに、どことなく気遣うような視線を向けるチドリ。  
アリカはその視線にそれとなく気付きながらも、何も言葉を発することなくソファーに腰掛けた。  
 
「どうしたの? …もしかして、うちのイッキがまた何か失礼しちゃった?」  
アリカはその問いかけに、ふるふると首を横に振って、やはり無言で答えた。  
 
まさか、イッキが優柔不断なので、それに苛付いてちょっと部屋を出てきました、などとは口が裂けても言えるわけがなかった。  
 
あるいは、チドリのように大人としての器量を十二分に兼ね備えたような人間なら、そう言っても取り立てて怒るようなことはしないかも知れない。  
むしろ、そこで自身の大人としての度量でイッキとの仲立ちをするようなことをして、状況を好転させてすらくれるかもわからなかった。  
 
イッキにとってはどうか知らないが、アリカにとってチドリというのはそれほどの存在なのだ。  
アリカは、彼女のことを心底尊敬している。単なる幼馴染の母親という枠に収まらない、彼女が目指す理想的な女性の形のひとつ、だからだ。  
 
そういう女性を心の奥底で目指しているからこそ、アリカは、「この程度」のことで腹を立てて部屋を出てきた自分が、心底情けなく思えてきていた。  
…「この程度」という認識は、裏を返せば、落ち度はむしろイッキではなく自分にあるということを自覚しつつある、ということだ。  
 
イッキが、海の物とも山の物ともつかないような、曖昧な態度をとるのは、よくあることだ。  
まして、幼馴染として物心がついた頃から一緒にいる彼女にとって、それはとうに既知の事実だった。  
 
普段は腹を立てるようなことをしないイッキの態度に、  
今日に限って苛立ちを覚えてしまったのは、あの質問のせいだったかも分からない。  
 
 
 
 
 
――うまく言えないけど、今は…好きとか、そんなんじゃないよ  
 
 
 
 
 
それが何故彼女の気分を不愉快なものにさせたかは、  
ここでは割愛するが、彼女がイッキに対して持っているある感情に所以する。  
 
 
「…アリカちゃん、何だか元気ないわね。 ひょっとして、風邪でも引いちゃった?」  
いつもの、裏表をまるで感じさせない優しい口調でそう言うと、チドリはすっとアリカの目の前にかがみ、自分の額をそっとアリカの額に付けた。  
 
五秒かその程度のごく短い時間だったが、チドリの体温と触れ合ったことが、自身を浅ましく思う少し気持ちにはやっていたアリカの精神を弛緩させた。  
 
 
「……少し、熱いかしら? そうだ、体温計でお熱をはかってみましょう。女の子は体を壊すとたいへんだから…。」  
そう言って、チドリはそっとアリカから額を離し、少し慌しげに体温計を探す。  
 
 
どこまでも自分のことを気遣うその優しさが、むしろ落差となり、アリカは自分自身に対する暗澹した気持ちが湧き出して来るのを抑えきれない。  
 
 
「あ、あの…私、平気ですから。」  
精一杯強がって絞りだした言葉は、余りにも淡白なセリフだった。  
チドリは、きょとんと不思議そうな目線を向ける。  
「…そう? なんだか、元気がないから……おばさん、ちょっと心配よ。」  
「大丈夫です、それに…そろそろ戻らないと、イッキのやつ、また悩んでる頃だと思いますし」  
そう言って、アリカは空元気を振りまく意味合いもあって、微笑んで見せた。  
当人にとっては空元気であっても、チドリはそれを見て少し安心したように表情を弛緩させた。  
「ちょっと変だと思ったら、すぐに言ってね。私のお部屋のベッドでよかったら、いつでも貸せるから。」  
アリカは、なおも自分を気遣い続けるチドリの器量に心底敬服しつつ、笑顔で謝辞を返して居間を出て行った。  
 
「(…大丈夫だよね。……うん。)」  
 
心の中で、そう自分に言い貸せるように呟き、アリカはイッキの部屋がある二階へと続く階段を上っていった。  
 
ドアを開けて部屋に入ると、イッキが恐る恐るといった感じで目線を上げてきた。  
アリカの機嫌をうかがうように、上目遣いで視線を合わせている。  
 
「…………」  
 
無言のアリカを前に、イッキは堪えかねたのか  
テーブルに両手をついて、がばっと頭を下げた。  
 
「ごめんっ、アリカ!さっきのは、その、ええっと…」  
「イッキ」  
 
むしろイッキが先に言い出してくれたことが、  
アリカにとってはかえって好都合なことだった。  
 
自分が悪かったということは、アリカ自身理解している。  
だが、いつもの関係の具合を考えると、どうしても自分から謝りだすことは躊躇われる。  
それに、もしもイッキも気を立てていたら、下手に謝れば逆効果になってしまうかも知れない。  
 
そんなことを心配していたからこそ、イッキの方から口を開いてくれたことは、この上なく有難かった。  
 
「さっきは、ごめんね。…ちょっと大人げなかった。」  
 
アリカ自身、まだ気恥ずかしさは拭い切れなかったが、確かにそう謝った。  
イッキは、まさか謝られるとは思っても見なかったのか、困惑したように眉の頭を吊り上げた。  
 
「…え? あ、いや、そんな……僕のほうこそ、その…ごめん。」  
 
イッキは今一つ合点がいかないような表情だったが、  
アリカはひとまず、蟠りを消化出来たことによる充実感と安息感に浸った。  
 
「……どう?問題、進んだ?」  
向かい合う位置ではなく、アリカはあえてイッキの隣に座った。  
「え、いや、えーっと、その……ご、ごめん。」  
しゅんとうなだれ、イッキはばつ悪そうに謝る。  
そんな様子に、アリカは薄く苦笑いを浮かべた。  
「……今日、これで終わりにしよっか。もう5時過ぎだし。」  
「え? あ、…う、うん。」  
予想外に柔らかいアリカの物腰に、イッキはやはりどこか合点がいかない様子だった。  
 
 
アリカがここまでいつもと違う様子になるのは、ひとえに先程の質問から始まったことだった。  
 
小学校も高学年と呼ばれる年齢に至ると、  
男女の分け隔てなく遊び回っていたそれまでとは一線を画し、  
それぞれがそれぞれなりに性差を意識し始める。  
 
アリカとて全くその例外ではなく、常に身近にいる存在である男子、  
ひいてはイッキのことをここ最近になって強く意識するようになっていた。  
 
しかしながら、そこで引っかかったのが、自分とイッキとの関係の調子だった。  
 
正直なところ、対等ではないと彼女は思っていた。  
どこかお姉さん気質のような自分と、少し気弱で弟のような気立てのイッキ。  
 
確かに小さい頃からイッキの世話を焼くことは多かったし、  
アリカ自身面倒見がいいタイプではあった。  
 
ただ、ここ最近になって、イッキは急激に変わってきている。  
 
非凡なメダロッターとしての資質、意外なまでの正義感、想像も出来ないような勇気。  
 
彼女がそれまで見たこともなかったイッキの一面が、次々に顔を出してきていた。  
だが、イッキとアリカとの関係の調子が変わることはなかった。  
 
…ないからこそアリカは、イッキよりも一枚上手に立って、  
いつまでも自分が姉のような存在でいることが、イッキにとって鬱陶しく感じるのではないかと思っていた。  
 
それでも、長年続いてきたイッキとの関係の調子をいきなり崩すことに、彼女は少なからず抵抗を感じていた。  
 
それは彼女の面倒見のよさがかえって災いしているのかも知れない。  
だが、理由はそれだけではなかった。  
 
イッキが、暫く前に好意を寄せていた、純米カリン。  
隣町の有名私立校花園学園の女子生徒で、見るからに麗しいその外見と、指折りの気立てのよさ。  
 
どこかチドリと似通うような雰囲気を持つ彼女に、イッキは好意を寄せていた。  
いや、今でも寄せているとアリカは思っていた。  
 
強く意識している男子が好意を寄せているのは、自分とはまるで正反対のしとやかな気質の、女の子。  
 
その事実は、彼女が以前から朧気にチドリに対して抱いていた尊敬の念をいっそう強めた。  
強めはしたが、アリカにとっておしとやかに振舞うというのは、どうにも肌に合わないことだった。  
 
それに、イッキもそれについては強烈な違和感を拭い去れない。  
その証拠に、先程、アリカがいつもとは違い、まったく怒ったようなそぶりも見せずにいた時、  
イッキは納得がいかないような表情を崩せなかった。  
 
 
 
…イッキの好きな子は、おしとやか。  
でも、おしとやかなんて、とても肌に合わない。  
…でも、…。  
 
 
 
そんな堂々巡りの気持ちを抱いて燻らせていた矢先に、  
あの質問が彼女の口をついて出た。  
彼女は今にして、よくあんな冷静なままに聞けたな、と自分自身に感心していた。  
 
当然アリカは、今も好きだというような答えが返ってくるものだと思っていた。  
本当に心の奥底ではその答えは望んでいなかったが、  
そう答えてくれれば、彼女自身諦めがつくのではないかとも思っていた。  
 
諦めがつけば、今みたいに悩むこともなくなる。  
イッキとはずっといい友達でいられる。  
この先もずっと。  
 
そう決心をしていたのに、イッキの口から出た答えは、まるで正反対のもの。  
 
そうして、アリカが内心穏やかでなく困惑している矢先に、  
イッキが言いかけた言葉。  
 
 
 
今は、好きとか…そんなんじゃないよ。それに―――  
 
 
 
いくら訊問しても答えないイッキに、アリカのある意味で理不尽な苛立ちは頂点に達し、そして…。  
 
 
 
「…アリカ?」  
「え?」  
アリカは暫くの間、そんな想いに浸っていたせいか、イッキの呼びかけを無視してしまっていた。  
「…どうかしたの?」  
「あ、…ううん。どうもしないよ。」  
そう言って、アリカは微笑んだ。  
 
しばらく表情を強張らせていた幼馴染が、ようやくその口元を緩ませたのを見て、  
イッキも何故だか笑いを浮かべてしまった。  
 
「…イッキこそ、どうしたの?」  
「え?」  
「笑ってるから」  
「………」  
 
 
 
二人は、お互いの中に芽生えていたささやかな猜疑心をかき消すように、暫し静かに笑い合った。  
 
 
 
 
その後、しばらくを二人は取り留めのない会話をして過ごしていた。  
 
学校の先生の悪口や、クラスメートのこと、あるいはそれまでの過去のよもやま話など、内容はごく平凡なものだ。  
初めのうちは、先だっての気まずい空気との落差からか、二人して口をつぐむこともなく延々と喋り続けていたのだが。  
 
ただ、余りにも当たり障りのない話ばかりをしていたせいか、いつしか場の空気はすっかり気だるいものに変わっていた。  
先程までのどこかきな臭く感じられる空気に比べてみれば、それは二人にとってはマシと呼べるものではあったのだが。  
 
「……ねー…、イッキ。」  
アリカは、ベッドから足だけを投げ出して、天井を見上げていた。  
「何?」  
「ひま」  
返って来たのは、この上なく短く区切られた返答。  
「………えっと…ゲームでもする?」  
「…あんたねえ、バッカじゃないの?ふつう女の子にテレビゲームとか進める?」  
「え、えーっと……あ、じゃあ新聞でも」  
「昨日書き上げたばっかりじゃない」  
「ええっと……じゃあ…」  
「はー……もういいわ、アンタに期待した私がバカだった。」  
そう言われて、イッキは困ったように表情を歪める。  
「そんなこと言われても…」  
「ふつう、『じゃあ映画でも』とか『お茶でも飲みに』とか、そーゆーこと言うんだと思うけど?」  
「だって…お金ないし」  
弱弱しくそう言うイッキを見て、アリカは呆れながらも、どこか安心したような笑いを浮かべた。  
「…はー。アンタ、昔っから変わんないわねえ」  
「ええっと………ごめん」  
「………」  
あまりにも女々しいイッキの様子に、アリカはため息をついた。  
 
 
思えば、こんな関係もいつからのものだろうか。  
 
いつが始まりかは、よく覚えていない。  
気がつけば側にいて、ふと横をみればいつもそこにいる、イッキ。  
 
こんな関係がいつまで続くのだろうか。  
 
これまでにも、そんな事を考えたことが何度かあった。  
ただ、今日明日で崩れるわけがないと、あまり真剣に考えた試しは無かった。  
 
崩れないとは思う。  
イッキとの関係は、放っておけばこのまま続くと。  
 
ただ、…きっと、いつの日かは違うものに変わってしまうだろう、とも思う。  
 
 
そんな事を考えながらイッキの横顔を見ていると、何故だか無性に哀しい気持ちに駆られた。  
 
 
「…ねえ、イッキ。」  
 
瞳を少しばかり潤ませて、アリカはささやくように呼びかけた。  
 
少し声色の違うアリカに、イッキはやや戸惑い気味な表情。  
 
「……イッキ、さ」  
「…うん?」  
「私のこと好き?」  
「えっ!!?」  
唐突に訊かれた質問に、イッキは思わず咽てしまった。  
一気に高鳴った鼓動と襲い来る息苦しさをこらえつつ、イッキはアリカの方を見る。  
 
「ちょっと、勘違いしないでよ? 友達としてってことだからね?」  
眉間に縦皺を寄せて、アリカは言った。  
 
「と、友達として、ね」  
呼吸を整えながら、イッキは自分の心中の整理にもかかっていた。  
 
(友達として好きかどうかって…なんかおかしいような気がするんだけどなぁ)  
(友達だったら好きに決まってると思うんだけど……それとも、イヤイヤ付き合ってるのかどうかってことかなあ)  
(いきなり聞かれても……やっぱ好きって言ったほうがいいのかな)  
 
「ちょっと、何黙りこくってんのよ」  
「え! あ、ああ」  
 
イッキは、まだ決心をつけられずにいた。  
どう答えるべきか。一言好き、で済ませばいいのか、それとも何か付け加えて言うべきなのか。  
 
「…しょうがないわね。…じゃ、質問を変えてあげる。」  
 
力なく悩むイッキを見ているアリカの内には、先ほどとは違った感情が芽生えていた。  
 
年頃の異性を前に、様々な未知の情動に悩むような初々しいものではない。  
 
それは、支配欲にも似た、湿った暴力的な衝動。  
 
もう質問の答えなんかどうでもいい。  
もう、どうでも。  
 
「ごめんね、イッキ」  
「え?」  
イッキが何事かと顔をしかめたその時、  
アリカはその両肩をぐっと掴み、ベッドの上から組み伏せるようにして押し倒した。  
 
「っ?!」  
「……友達としてじゃなくって、…女の子としてなら、どう?」  
「えっ!?」  
艶やかな、薄紅色の唇を薄く歪ませ、アリカはぐっと一気に顔を近づける。  
まるで接吻を交わすかのように、ゆっくりと。  
 
鼻息がかかり、ともすれば唇が触れ合うのではないかというくらいの距離に来たところで、イッキが口を開いた。  
「ぼっ、僕は」  
「……ボクは?」  
「僕は……、…好き、だよ」  
 
アリカは薄く満足そうに笑い、少しだけ開かれたイッキの唇に、そっと自分の唇を重ねた。  
 
 
閉め切られたカーテンの、ほんの少しの間隙から差し込む光。  
空調の音だけが響くその部屋の中で、ひとつの臥所で身を寄せるふたりの少年と少女。  
 
イッキは、ただ目の前の体温にどうしていいか分からず、抱かれるままに彼女の胸へ顔をうずめるようにしている。  
アリカは、母親が息子を抱くように、イッキをしっかりと自分の胸の中へと抱き寄せていた。  
 
微熱があるかのような慣れない感覚。  
自分と同じ温もりを持つ人間を胸の中に抱くという初めての経験が、彼女の体温を心なしか高めていた。  
 
「…イッキ?」  
「な、何?」  
アリカの腕の中から、少し上目遣いに見上げるイッキ。  
「寝ちゃったかと思った」  
「寝れるわけないよ…そんな。」  
感慨深そうに言うイッキに、アリカはくすりと笑った。  
 
 
ほんの数分前。彼らは、生まれて初めて唇を重ねた。  
 
それは、今の彼らの生きてきた人生の中で初めての体験であり、  
また最初に漠然とそうなることを望んだ相手とのものだった。  
 
 
「別に、寝てもいいわよ。それとも興奮して寝れない?」  
「こ、興奮って……そんなんじゃないけどさ。」  
 
それは勿論、彼にとって精一杯の強がりだった。  
恐らくは最初に異性として意識したであろう相手と、こんなにも密着した距離で、  
一つのベッドで横になっているのだから、彼の精神が昂りを覚えないというのは無理がある話だった。  
 
「あら、強がっちゃって。」  
 
もちろん、イッキがそういう性格であることをアリカは知っている。  
 
奥手な癖に、妙なところが積極的で。  
強がる割には素直な性格で。  
顔を見れば、何を考えているかがすぐ分かるくらい単純で。  
 
狙っているわけではないと言うのは理解しているけど、  
それでも時たまそう疑ってしまうくらいに、アリカにとっては母性本能をくすぐられる存在。  
 
「強がってないって」  
「はいはい。」  
 
必死に言い訳をするイッキを軽く流すと、アリカはぎゅっとその頭を抱きしめ、髪の毛に顔をうずめる。  
 
まだ子供とはいえ、曲りなりにも男性であるにも関わらず、その髪の毛からは驚くほど柔らかい香り。  
あるいは、チドリの髪の毛もこんな香りがするのかも知れない、とアリカは思った。  
 
「…ね、ねえ、アリカ。」  
「何?まさか、ホントに眠くなってきた?」  
「そ、そうじゃなくてさ。」  
若干不満そうな声色。  
だが、それは同時に、どこか自信の無さそうな口調にも聞こえる。  
「何よ?言いたいことがあるなら、はっきり言いなさいよ。」  
いつもと同じセリフを、いつもよりずっと優しい口調で言うアリカ。  
イッキに対してさんざ寝ても良いなどと言ってきた彼女が、今は少しずつ微睡みの中へ沈み始めていた。  
「その………」  
体を動かして、イッキはアリカと同じ目線まで上がってくる。  
鼻が触れ合うくらいまでの位置に来たところで、イッキは唐突にアリカと唇を重ねた。今度は、少し唇を開いて。  
 
「…ん…っ……ふ……」  
先ほどよりも少し大胆なキスに、アリカは内心狐につままれたような気分だった。  
 
暫くの接吻のあと、イッキはゆっくりと唇を離した。  
まだ痺れたように唇に残る感触に浸りながら、アリカはイッキの瞳を見つめる。  
 
「僕もさ………い、一応、男だから。」  
「リードは奪われたくない、って?」  
アリカが、悪戯っぽい笑いを浮かべながらそう言うと、イッキは照れたように視線を泳がせた。  
 
「アンタらしいわね」  
嬉しそうに笑い、アリカは先ほどイッキが自分にしていた様に、その薄い胸板へ顔をうずめた。  
そして、細い腰へすっと手を回して、まるで抱き枕を抱くかのごとく、無邪気にイッキへしがみつく。  
 
「………ちゃんと、最後まで…………わかってる?」  
「………うん。」  
イッキは頷き、抱きしめる腕に力を込めた。  
 
 
最後まで、と言われて反射的に頷いてしまったのは失敗だったかも知れない。  
いや、それは紛れもなく失敗だった。  
 
そもそも何をどうすれば最後であるのかが全く分からない。  
それ以前に、今の状態から更に何をすると言うのだろうか。  
唇を重ねることが、最後の到達点ではないのか。  
 
 
イッキは、深く考えずも肯いてしまった自分の惰性を内心恨めしく思いながら、  
次にまずどうすれば良いかを思案していた。  
 
 
イッキはとりあえず、抱いた腕にもう少しだけ力を入れてみる。  
どれだけ強く抱きしめるかが、一種のパラメータになるのではないかと彼は考えたのだ。  
 
少し強くなった腕の力を、アリカは無論敏感に感じ取る。  
益々甘えるようにして、深く深くイッキの胸へ顔を埋めた。  
 
しかし、それまで。  
 
イッキにとってはそれが知恵を振り絞った結果であり。  
またそれ以上どうするべきかなど到底予想だに出来ないだろうものだった。  
 
「……………」  
 
ただ無言で、お互いの体温を温存するように、密着したままの二人。  
 
アリカは心中、いつ「それ」が始まるのかと、不安さを感じながらも胸をときめかせていた。  
自分を抱く男が、「それ」についてイロハさえ知らないとは知らないままに。  
 
イッキは、少し体を動かしたり、アリカの髪を撫でたり、少し強く抱きしめたり、  
出来うる限り変化をつけようと彼なりに努力をした。  
 
だが悲しいかな、それは「それ」に及ぶ前の橋渡しのようなものでしかなく、いまやアリカがいつ切り出すかも時間  
 
の問題と言えた。  
 
「……ちょっと、…苦しいんだけど」  
イッキの腕のなかで、そう呻くようにアリカが言った。  
思案に暮れるあまり、イッキは自然とその腕に力を込めてしまっていた。  
 
「あ、ご、ごめん」  
そう謝り、イッキはふっと腕を放す。  
 
「どうしたワケ?なんかさっきから止まってるけど」  
まさか、これからどうすれば良いかが分かりません、等と彼が言える筈も無かった。  
「い、いや、別に…」  
少しうろたえ気味に答えるイッキに、アリカは訝しげな顔を浮かべる。  
「ふーん…。ま、いいけど。」  
特に納得したわけではなかったが、さして追求する気もないらしく、アリカはぞんざいな返事を返す。  
 
そして、ふいにイッキの頬を触った。  
 
柔らかく、男子のそれとは思えない程肌理の細かい頬を、撫でるように。  
 
「柔らかいわね」  
「そ、そうかなぁ」  
「私の胸もこんな感じかも」  
「えっ!?」  
「じょーだんよ、じょーだん」  
 
アリカはほんの軽口のつもりでそう言った。  
だが、当のイッキにとっては、それは単なる軽口では有り得なかった。  
 
支配欲にも似た感情が、イッキの中を駆け巡る。  
彼女の全てを、自分という存在で満たしたいという欲望。  
―といえば格好がつくが、それは今の彼にとっては、単に抱きしめるという行動へ昇華されるだけの欲求だった。  
 
「…一言くらい、言ってよね」  
体を擦り付けるようにイッキを抱きしめ、そう呟く。  
 
「わかんないけど………僕、アリカのこと、」  
少しばかり声を震わせながら、その先を言おうするイッキ。  
しかしその先を言う前に、唐突にアリカが遮る。  
「ちょっと待って」  
「え?」  
どういう意図かが理解できず、困惑するイッキ。  
「そっから先は言わないで」  
「な、なんで?」  
「…………」  
アリカは答えず、イッキの肩に頬を寄せる。  
「恥ずかしいからに決まってんでしょ」  
「……」  
そう言われて、寧ろ顔を赤らめたのはイッキのほうだった。  
 
何かにつけても開けっ広げな筈の幼馴染が、  
そんな可愛らしい事を言うとは夢にも思っていなかったのだ。  
 
「えっと……じゃあ、その内言うね」  
「………」  
アリカは何も言わずで、イッキの首に回した両腕にきゅっと力を込めた。  
 

テレワークならECナビ Yahoo 楽天 LINEがデータ消費ゼロで月額500円〜!
無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 海外旅行保険が無料! 海外ホテル