夏休み前日、終業式の放課後。先を争うように教室を飛び出して行く他の生徒とは違い、止まることを余儀なくされた生徒が二人いた。
イッキとキクヒメ―この二人はあれから幾年過ぎた中三の今、そのまま進学した最寄りの公立中学で同じクラスに在籍していた。
クラス内でも一二を争う劣等生の二人だけあって、期末考査のやり直しを要求されるのも無理はなかった。
その二人が今、いつになく真剣さを漂わせ、間違えた回答のおびただしい回数の書き直しを行っていた。
「よっしゃ終わった!」
「嘘だろ?キクヒメ!ちょっと待てって!」
「じゃあなイッキ」
「終わった!最後に出すとあの先生説教長いんだからさ、頼むから同時に出させてよ」
「あんな点取るお前が悪い」
「キクヒメに言われたくないって…」
二人は住む方角が同じこともあってか、クラスが同じになってから自然と連れ立って下校するようになった。
かつての仲間は―同じ学校のアリカは部活動に追われ登下校の時間も合わず、姿を殆んど見掛けなかった。
メダロットという趣味と幼馴染みである事がかつてアリカとイッキを親密にしていたが―成長し、たまに校内で顔を合わせても親しげに話すのも恥ずかしく、
部の男の先輩と親しげに話し学校生活への充実感を匂わせているそんなアリカに、廊下ですれちがっても何と無く気後れするまま―気付けばアリカはイッキにとって以前より遠い存在になっていた。
一方キクヒメ率いるスクリューズは―イワノイ、カガミヤマはそれぞれ別の私立中学に進学したため―また子供の頃と異なり、性差が二人とキクヒメの間に見えない壁を作ったため―同じく疎遠になっていたのだった。
カリンとコウジ、二人に至っては言うまでもなく逢う機会に乏しかった故―いつの間にか、イッキとキクヒメの二人のみが、日常的に語り合えるかつての仲間なのだった。
「お前毎日あたしの後つけてくるけど、何か言いたいことでもあるのかい」
「何だよそれ。キクヒメがつけてくる時もあるだろ」
「それは単に方向が同じだけなんだよ」
「ただいちゃもんつけたいだけか…」
憎まれ口を叩き合いながらも、二人が同時に下校することはほぼ日課になっていたので、その会話は段々と打ち解けたものになっていった。
今日も、職員室に補講のプリントを出した二人は、いつものようにどちらからともなく下校を共にした。
「高校受験か…キクヒメどこ受けんの?」
「イッキには関係ねーだろ。お前こそどうせ勉強してないだろ?あたしはこう見えても万全なんだよ」
「イワノイかカガミヤマのとこ受けるのか?」
「カガミヤマのとこは男子校だけど」
「あ、そうだっけ…?そりゃ悪かった」
「お前…私を女扱いしてないね」
「そりゃ考えすぎだって」
二人には、汗ばむ季節に入った頃から、帰宅途中通学路のコンビニでアイスを購い、近くの公園で食べることもまた―自然に日課となっていた。
今日も罵り合いながらも、キクヒメはアイスを、イッキは炭酸飲料を購い、そのまま公園のブランコに二人はいついた。
彼等はこういう時、自然とあの頃の仲間のこと、そして自分達の将来の事に関する話題に終始する事が多かった。
しかし、この日は―少し違っていた。二人にとって、この日は少し道を踏み外した―それが善か悪か、誰にも判断することはできないが―忘れられないような、若き日の一日になるのである。
それぞれ隣り合ったブランコに座り、アイスに、飲料水に、涼を求める。そんな時はいつも無言だ。そして一時経つと、どちらかが話し始める。
「昔のこと考えると、結構笑えることってあるよなー」
ペットボトルを途中で蓋したので、今日はイッキが先ず喋り出した。
「老人くさいねえ」
イッキが自分語りをする時、キクヒメはいつもつまらなそうに無表情で答える。しかし、煩い、等と跳ね退けることもなく、話をよく聞いた。二人は、親密でもなく、一定の距離を保ちながらも、今や友情と呼べるもので結ばれていた。
「俺、カリンちゃん…好きだったけどさー、今考えると普通に無理だったよなーとかさ」
「お前…アリカはいいのか?」
「バッ…!アリカは幼馴染みで!あいつもそういうの嫌がるから!」
「そうかねえ―」
「そういうのマジでやな感じだろ!…てゆーか、あいつ部の先輩とかじゃないのかなー…そういうのあるとしたら。もう卒業したけど、よく一緒に歩いてた」
動揺を圧し隠す如くイッキは再びペットボトルを開けた。
「少しは互いに近況報告しとけよ?今からでも遅くないよ」
「なっ―そういうキクヒメはそれならスクリューズのどっちかが好きだったんだな!」
イッキは頬を紅潮させ、キクヒメの方に向き直り、その拍子に―炭酸飲料が彼女の制服の白いブラウスを汚してしまった。
「―っ」
「!ごめんっ」
それから、キクヒメの油断した手元から落とされたアイスまでもが、ブラウスに落ちる。
「ごめん…!えっと、タオルは…」
その時、慌てふためくイッキの眼前には、キクヒメの白いブラウスから、透けた下着の露になった光景があった。
(!…駄目だ…見ないようにしなきゃ…)
ある種の罪を感じたイッキは、目を反らした。
(まるで、わざとかけたみたいに思われたら…)
「キクヒメ、本当にごめん。家まで送るから―」
「―気にしなくていいよ。これしきの事で送られてたらきりがないからね」
「でも、その格好じゃあ」
「――――」
キクヒメは漸くイッキの言わんとすることを知った。―と言うより、イッキがその事を気にかけていることに気付いた。
「…なめやがって」
キクヒメは立ち上がった。
「キクヒメ…。大丈夫?」
後ろ姿のキクヒメに弱気のイッキは問うた。
「―大丈夫も何も、あるわけないだろ」
キクヒメは少し振り返り、そう言うなり公園を走り去った。
残されたイッキの目には、彼女の顔が困惑し、紅潮し、瞳は多少うるんだのを圧し隠そうとしているかの如くに見えた―。
自宅でシャワーを浴び、私服に着替えたキクヒメは、自室の寝台に突っ伏して―そのまま数十分もの時が過ぎた。
彼女の胸中には、今だかつて味わったことのない羞恥と、言い知れぬイッキに対する沸き上がる思いとがあった。
思いとは、愛する異性へのものとは異なる、言うならば、イッキがこちらを異性として認識したことに対しての意外性、動揺、その他―それらをどうにか鎮めようと、四苦八苦しているのである。
(…イッキなんかにも、あんな気配りができるようになるとはね…)
そして、こちらを異性として見たイッキに、間接的にとはいえ、素肌、下着を見られてしまった事が、彼女をいつになく羞恥の渦から逃げられなくした。
(らしくもない…バカバカしい、大したことないじゃないか…)
寝台でごろごろと転がってみても、渦巻く思いはキクヒメを解放してはくれなかった。
それから暫く経って、玄関のチャイムが響いた。
キクヒメが階下へ降り玄関を開けると、そこにいたのはイッキだった。
「キクヒメ…まだ怒ってる?」
イッキがあまりにも弱腰なので、キクヒメは先程の事件をくよくよと思い悩む必要はないのだと再認識した。
「最初から怒っちゃいなかったよ」
「これ…母さんが御詫びに持っていきなさいって。お菓子。」
イッキの手にはそれなりに値段の張りそうな菓子の紙袋が下げられていた。
「…逆に悪いことさせちまったな。お茶煎れるから上がんな。」
本心では先程の事もあり早々に帰ってもらいたかったのだが―失礼なことはできない性分だった故、キクヒメはイッキを家へ上げたのだった。
小学生の時まで雇っていた家政婦は、中学へ入学する頃、キクヒメの母が彼女の自立心の向上を願い解雇した為、彼女は独りで家に居ることが多かった。今日も変わらず閑かな家に、キクヒメとイッキは二人きりだった。
キクヒメが二人分の紅茶を煎れ、イッキは菓子の箱を開け、中身をキクヒメの出した皿に適当な数並べた。暫く二人は無言で菓子の消費にいそしんだ。
「…キクヒメ、さっきの事、まだ気にしてる?」
「え」
先程の事があってからの、彼らしくない態度に、キクヒメは些か緊張する。
「…何だよ、急に、」
意外な程自分に気を遣うイッキにくすぐったさとほんの少しの煩わしさを感じつつ、直ぐには返事が出来なかった。
「だって…さっきキクヒメ、泣いてたから…」
「あたしは泣いてなんかないよ」
キクヒメは否定した。本当に泣いてなどいなかった。少し、動揺して、涙腺の緩んだことは、なきにしもあらずとは言えども。
「嘘。オレが感情的になって、大きい声出して、おまけにジュースまでかけたから、」
「誰もそこまで考えてないって―柄にも無い事ばっか言って、イッキ、あんた変だよ」
イッキは少し沈黙した。
「…キクヒメが女の子だって、ちゃんと考えてれば…」
普段では信じられない台詞に、キクヒメは心臓の高鳴るのを隠す術もなく―
「私を女とも思わないくせに、わけのわからない同情なんかしなくてもいいんだよ」
イッキの脳裏には、先の情景が浮かんだ。わざとでないにしても、彼女を水浸しにしてしまった―あの時の彼女の姿。しかしそれよりも印象深かった、彼女の赤面した顔、震えた声、濡れた瞳。罪悪感、不思議な愛しさ、ある種の興奮―が彼を支配した。
「…じゃなくって、」
突然の抱擁に―キクヒメは為す術もなく、為されるがままに―
「キクヒメが女の子だって、ちゃんと分かってたし、それは当たり前なんだけど、あんな顔されたら―やっぱオレの態度が大人げなかったから、子供の頃から成長してないから、本当に、ごめん」
「…」
「キクヒメは、やっぱり、オレなんかにこうされるの嫌なの?」
「‥イッキ」
少し間を置きとっさに首を横に振るも、それより少し早く、より深くキクヒメは抱き寄せられた。
「‥‥お前には、アリカが、」
「何でオレがアリカを好きだと思うの?」
「アリカはきっと、お前のことが―」
「―だとしても、」
「イッキ」
「キクヒメが可愛くて―好きなんだよ、好きになったんだ」
めまぐるしい状況の変化に、キクヒメは直ぐには追い付けなかった。少しして、ようやく口を開いた。
「‥一時の感情に振り回されて軽々しく言うことじゃないね、なしだよこれは―」
「なしなら何で逃げないの?」
「‥‥」
イッキはいつからこんなに優しくなったんだろう…キクヒメはぼうっとして回らない頭で考えた。十分、成長してるじゃないか。昔のままなのは、あたしの方で―。
イッキはあたしを好きだと言ってる、アリカより、このあたしの方を。あたしは、イッキを―?
あたしが今ここから逃げないのは、腕をふりほどかないのは―。嗚呼、あたしはイッキの事を…。恥ずかしくて、認めたくない‥‥
「キクヒメ、キスしたら駄目かな…」
「イッキ、」
キクヒメの言葉を最後まで聞き終わらずに、イッキはキクヒメの今まで誰も触れる事のなかった唇を塞いでしまった。
「…お前、人の意見は最後まで…」
「困ってる顔が可愛くて、待てなかった、」
こういった台詞に免疫のない彼女は、赤面せざるを得ない。それについてはイッキも同様である。思わず口を突いて出た台詞に、自分自身が困惑している。
「あたしが可愛いわけ…ないだろ」
キクヒメは余り恥ずかしくて、うつむくより他なかった。
「…そういうとこが、だよ」
イッキはまたも口づけをし、今度は舌同士を絡めあうようにして、キクヒメの反応を窺いつつ、それを深めていこうとした―。
「ん‥‥イッキ…」
―まさにその時、キクヒメの携帯のメール着信音が短く鳴り響いた。
「!」
彼女は今までで最も動揺していた。何故なら、普段彼女にメールを寄越す者と言えば、母と、スクリューズの二人より他に考えられなかったので。
―母にしろ、二人にしろ、自分を信頼している人達―の呼び掛けをよそに、自分は、イッキとこんなことを―――
「…メール見なくていいの?」
イッキが少しキクヒメから離れて問う。二人の体の隙間から、着信ありを示すランプの点灯する携帯が目に入る。
「―別に、大体誰からか分かってるから」
それを聞き、おおよその見当のついたイッキは、キクヒメからそっと手を離した。
「―いいのかな、キクヒメとこんな事して―?あいつら、キクヒメの事を、好きなのかな」
キクヒメは、それはともかくとして―二人がこれを知ったら、どう思うかは―考えたくもなかった。
そして、動揺の内に於いても、目の前の出来事で頭が一杯の現在の彼女には、今このときの事しか考えられないのだった―。
「あいつらは、あたしをそんな目で見ちゃいないさ」
躊躇いながらも、彼女は自らイッキの唇を求める仕草をした。
無論、彼は止まる事もなく―。
あまりに若い二人が、本当の意味で愛し合ってこうなったのか―それは誰にもわからない。
或いは、若さ故の幼い好奇心のせいであったかも知れない―。
しかし、将来別の者と深い愛に陥ったとして、その時にも、そして永久に、この日の事が事実としてあり続ける―という考えまでは、若過ぎる二人の心には到底存在し得なかったので―
西日差す茜色に染まった部屋の中、この後の二人を書き残すことは敢えてしないでおく―。