母の仕事現場は今日もせわしない。
善吉が積木で遊んでいる間も瞳があちらこちらへと走る姿が目に映る。
普段も十分忙しそうにしているが今日は格段に忙しそうである。
彼女がここまで忙しそうにしているのはたいてい、現在治療を担当している『あの子』が来るからだ。
『あの子』と善吉は会った事が無いものの、瞳からは「『あの子』とは合わない方が良い」「『あの子』が来ると忙しい」などと教えられている。
だが、こうして託児室にいる限り、『あの子』と顔を合わせることはない。
今までもそうだったし、瞳も『あの子』を託児室には近付けないように細心の注意を払っているからだ。
「む、何だ善吉。 今日は積木をやっているのか」
不意に善吉の後ろから凛とした、しかしどこか可愛いげのある声がした。
「あれ? めだかちゃんも今日お母さんのとこ?」
「私……『も』……?」
「あ、うん。 お母さんが今日忙しそうにしていたから……多分お母さんがよく言う『あの子』が来たんだと思うんだ」
「ふむ。 以前貴様が話してくれた『あの子』か」
『あの子』という言葉を聞くとめだかの顔が曇る。
一時期自分をどん底にたたき落とした『くまがわみそぎ』という少年とどことなく通ずるものを、善吉の話から彼女は感じていたからだ。
「ふむ、そうか。 それで人吉先生はあのように忙しくしているのだな?」
「うん。 めだかちゃん、そんなことより凄いの作ってよ」
「よし、良いだろう。 全て私に任せるが良い!」
善吉とめだかが託児室で遊んでいる間、瞳は問題の『あの子』の診断を調度終え、一息ついていた。
(「死んだほうが良いんでしょうか」……ねぇ。 よっぽど愛されていないのがわかる。 いや、私が実の親でも彼女は愛せるかわからないわね)
紅茶を啜りながら、先程まで診ていた少女を思い出す。
触れたものを腐らせてしまうという特異体質、腐らせると言えど人体に影響を及ぼすものではない。
しかし、あの体質は彼女の心持ちによって質を著しく上げている。 否、下げているというべきか。
いずれにしても放置できるものではない。 だが、どうしようもない。
そんな彼女に瞳は頭を悩ませるが、解決方法は浮かばない。
……コンコン。
診察室のドアが叩かれるのと瞳は思考をやめ、同時に重大な忘れごとに気付く。
『あの子』のことを悩んでいる場合ではない、それ以上に重大な患者がいる。
「……どうぞ、球磨川くん?」
「『失礼します。 今日もお願いしますね、人吉先生?』」
先程から『あの子』と呼ばれていた少女は診察を終え、帰宅する前に診察代を渡すため、係りの人の元へと訪れていた。
彼女は体質上、自分で精算することが出来ない。
故に係りの人に頼み、財布を取り出してもらい、代理で精算してもらうしかない。
その係りの人の部屋へと向かっていた。
「よぉ、そこのお前」
ふと呼び止められた方を振り向くと、二人の少年少女がソファに座っていた。
一人は金髪の長い髪、もう一人はどことなく落ち着いた感じを見せる眼鏡の少年。
声をかけたのは少女の方らしく、こちらに手を振っている。
「お前、さっきあの部屋から出て来たよな? どうだった、あの部屋? 恐ろしい場所か?」
金髪の少女は震えた声で問い掛ける。 声は震えているが決して恐怖などではなく、むしろ歓喜すら潜んでいるのは何故だろうか。
少なくとも、自分とこの二人、それと部屋を出た時行き違った少年はどこか自分と似ていると感じた。
「少なくとも……怖い場所じゃありませんよ? 先生は優しい方ですし」
「ちぇっ、つまんねえの。 アタシとどっか似ているから何か恐ろしい目に遭わされたのかと思ってワクワクしたんだけどな」
「いい加減にしてはいかがですか志布志さん。 そこの子が困っていますよ? すみませんね、何分彼女はこういう人でして」
「い、いえ……」
「テメエ人のこと言えんのかよ?」
「……言えませんね」
やはりだ。
似ている。 どこか自分と。
親近感を覚え、もう少し話をしたいという思いが頭を駆けた、だが同時にこの二人と話をすると自分は更に駄目になる、もう戻れなくなるという恐怖も芽生えた。
話したいという誘惑を振り切り、少女は二人を後にする。
早く帰らないとまた何をされるかわからない、そんな恐怖も少女の背中を押した。
「め、めだかちゃん……」
善吉は恥ずかしそうにめだかの名前を呼ぶ。
トイレに行きたい、だが勝手に行くのは申し訳なく、自分に押し寄せてきた尿意をめだかに伝えてから行きたい。
そうは思うが異性にそんなことを言うのは恥ずかしく、結果弱々しく名前を呼んだ。
「あぁ、行ってくるが良いぞ善吉。 もう仕上げだ」
声の調子から善吉の真意を読み取り、めだかは振り向きもせずトイレへ行くことを促す。
その言葉で安心した善吉は託児室を飛び出し、トイレへと向かった。
少女がトイレの前へと差し掛かったとき、男子トイレから少年が姿を見せた。 その姿は先程の主治医と酷似している。 恐らく親子だろう。
「私、死んだほうが良いでしょうか?」
不意に、自分でも何故だかわからないがそう口走った。
突然そんな質問をされた少年は目を丸くして、驚いたような顔をする。 だがすぐに少年の目は元の大きさに戻り、顔は爛漫と輝いていく。
「そんなことないよ!」
少年は両手を広げてそう、堂々と言い放つ。
その少年の言葉に、少女の心は急に晴れやかになった気がした。
ただの有り触れた答えに過ぎないのに、少年の言葉は不思議と気持ちをラクにする力があった。
「だってそうでしょ? 死んだほうが良い人間なんていないもん」
泉のように、少年の口から溢れ出す言葉は少女の心の雲を次々と掃っていく。
「じゃあさ、僕とお友達になってよ。 そうしたら、僕は君のお陰で友達が増えるんだから、それは君が僕に良いことをしてくれたってことになるんだよ」
ニコニコと、何の疑いもないかのように言う少年の言葉に、少女はこの上なく救われた気持ちになる。
「僕は人吉善吉。 君は?」
自分の胸に手をあて、天真爛漫に少年は自己紹介をする。
「江迎……怒江です。 よろしくね?」
少女……、江迎も少年に笑顔で応える。
それは小さい笑顔だが、確かに自分の顔は綻んでいた。
その時、江迎は善吉の顔が近付いていることに気付く。 やがてその顔との距離が0になったかと思うと、唇に柔らかい感触が走った。
「……んっ!?」
ただ、そこに柔らかい感触があるだけで、江迎は呼吸を忘れ顔を赤く染めていく。
10秒か20秒か、はたまたもっと長いかもしれないし、実は一瞬だったかもしれないが……江迎の唇にあった感触はスッと消えた。
赤い顔で荒く、深い息を繰り返す。 足から力が抜け、ガクガクと震える。
「ゴ、ゴメン。 苦しかった?」
「い、今のは……何でしょうか?」
「えへへ、キスだよ、僕の友達が教えてくれた仲良しの証……って、あ!?」
善吉は何かに気が付いたかのような大きな声を上げるとどこかへ走り去っていく。
「ゴメン、その友達が待っているんだ。 じゃあね、怒江ちゃん! また明日」
善吉は走りながら振り返り手を振る。
力が完全に抜けた江迎はその場にペタンと座り込み、呆けた顔で、小さく手を振りながら少年を見送った。
「『でもさ、現実問題無理だよね?』」
座り込んだ江迎の後ろからかかる声。
どこか虚ろなこの声は、真後ろにいつの間にか立っていた行き違いの少年から発せられていた。
善吉とは真逆の暗く、深い闇のような声。
自分と似ているなんて馬鹿馬鹿しい、そんなレベルではない。
「『君の手は触れた物を腐らせるんでしょ? だったらあの子と友達になったら、あの子が腐って死んでしまう。 でも大丈夫。 それが君なんだから気にしなくても良いんだよ』」
少年の深く、暗い声に……江迎の心は再び雲で覆われた
fin